第百二十四回 中山ふれあいサロン「歴史講座」

平成30年2月19日
瀧 義隆

平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設について」「西郷隆盛の周囲の人々」について

はじめに

NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の時代考証の一人である、歴史学者で国際日本文化研究センター准教授の磯田道史氏が、讀賣新聞の1月17日朝刊、「古今をちこち」のコラムの中で、西郷隆盛について、「生来、共感性が強い」人物でもあった半面、「一度『謀略』をはじめると、暗殺、口封じ、欺瞞(ぎまん)、なんでもやった、恐ろしく暗い闇を抱えた男でもあった。」と紹介している。更に、「西郷(せご)どん」の視聴率から、「東北日本には、『アンチ薩長』の地域対立が現在も存在している」と指摘してもおり、山形県で成育した者としては、この指摘は充分理解し得るものである。そこで、今回の「歴史講座」では、このような性格を持する、西郷隆盛と関わりをもった人々に焦点をあててみることとしたい。

「西郷隆盛の仕えた薩摩の殿様等」について

島津家の系譜(概略)
島津家の系譜をみると、島津家の初代は「島津忠久」となっており、この「島津忠久」について調べてみると、「島津忠久(ただひさ)」?~安貞元年(1227)六月十八日

父は、惟宗広言(これむねひろとき)か?惟宗忠康か?定かではない。

母は、丹後内侍(比企氏)?忠久は元々摂関家に仕える武士であったが、源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁から頼朝に重用されるようになった。

文治元年(1185)八月十七日に、源頼朝から摂関家領島津荘下司職に任命される。
建久八年(1197)十二月、大隅国・薩摩国の守護に任じられる。
建久九年(1198)に、左衛門尉に任官されて島津荘を本領とし、以後、島津(嶋津)左衛門尉と称するようになった。

この「島津忠久」についての史料をみると、「清和源氏 為義流嶋津今の呈譜に、寛永にたてまつれる系譜は、(中略)忠久 三郎 左兵衛少尉 大夫判官 豊後守 従五位下頼朝将軍の落胤なり。母は比企判官能員が妹、丹後局と称す。

かつて頼朝につかへ、寵をえて姙めることあり。嫡室政子これを害せんとするにより、治承三年兄能員に命じ、ひそかに鎌倉を去て京師にゆかしむ。摂津國住吉にいたり、日すでに暮、民家にいり旅宿をこふといへどもゆるさず。局つかるヽのあまり、社のかたはらなる石にいこふ。にはかにして産にのぞみ男子をうむ。忠久これなり。(後略)」
『新訂 寛政重修諸家譜 第二』続群書類従完成会
昭和五十五年 327P
「頼朝」・・・・・・鎌倉に幕府を開いた「源頼朝」のこと。
「比企判官能員(よしかず)」
・・・・「源頼朝」に仕えていた武将だが、謀叛の嫌疑を受けて北條時政によって殺害された。
「嫡室政子」・・・・「源頼朝」の正室となった「北條政子」のことで、非常に嫉妬心の強い女性だったと伝えられている。
以上の史料をみると、「島津忠久」は「源頼朝」の御落胤と位置付けしているが、『姓氏家系大辞典 第二巻』をみると、

「7 藤原朝臣説 島津家は初め惟宗姓を称すれど、その後藤姓を称す。(但し嫡流は室町時代、既に源姓を称せり)。その原因については、種々の説ありて明かならざれど、多くは近衛家より許されし也と云へり。但し忠久は近衛基通の子也との説もありしと見え、(後略)」
太田 亮著『姓氏家系大辞典 第二巻』角川書店
昭和五十一年 2861P

「8 島津稲荷 此の忠久を、島津系図等に頼朝の庶子となすは採るに足らざる事、先輩既に説ありて、(後略)」太田 亮著『姓氏家系大辞典 第二巻』角川書店
昭和五十一年 2861P
「惟宗(これむね)」
・・・古代において、讃岐国に住していた一族で、代々法律を専門とする家柄であった。

「近衛基通(このえけもとみち)」
・・・鎌倉時代初期の公卿で、摂政関白にも昇進している。
このように、島津家初代の「島津忠久」の出自については多くの不明な点があって、現時点では、確実なものは見当たらない。

「初代、忠久からの島津領主の系図」について

次に、忠久からの島津家の領主の系図を列記すると、鎌倉・室町時代 島津忠久(ただひさ)→忠時(ただとき)→久経(ひさつね)→忠宗(ただむね)→貞久(ただひさ)→師久(もろひさ)→氏久(うじひさ)→伊久(これひさ)→元久(もとひさ)→久豊(ひさとよ)戦国時代 忠国(ただひさ)→立久(たつひさ)→忠昌(ただまさ)→忠治(ただはる)→忠隆(ただたか)→勝久(かつひさ)→貴久(たかひさ)→義久(よしひさ)→義弘(よしひろ)

※戦国時代後期から江戸初期にかけての、島津義久・義弘・家久・光久に関する史料をみると、「薩摩高三十一万五千二百石余鹿児島城 松平大隅守光久此の所、島津代々の居城なり。島津家久、義久に及んで、九州処々を押領し武威を振うの処、天正十五年秀吉公征西。島津退治に付いて、押領の地を返し奉って降参、義久剃髪して竜伯と号す。而して舎弟兵庫頭義弘、中務大輔義家相並んで軍事をつとむ。竜伯子無くして義弘相続。庚子役に逆徒に与すといえども、数十代の旧家たるを以て、乃ち厚免を蒙り、嫡子大隅守家久(元の名忠恒)相続。後権中納言に任じ、寛永五年卒して光久相続。」
山鹿素行著『武家事紀』延宝元年自序
新人物往来社 昭和四十四年 1402P
「秀吉公征西」・・・豊臣秀吉が、天正十四年(1586)七月~天正十五年(1587)四月にかけて、九州全土を平定しようとした島津義久を攻略した遠征のこと。
「中務大輔義家(なかつかさたいふよしいえ)」
・・・この時期、薩摩で「中務大輔」の受領名を称しているのは、島津家久だけである。
「庚子(かのえね・こうし)役」
・・・慶長五年(1600)九月十五日に石田三成等と徳川家康等が戦った「関ヶ原の合戦」のこと。
「厚免(こうめん)」
・・・罪を許されること。特赦(とくしゃ)と同じような意味である。

江戸時代
家久(いえひさ)→光久(みつひさ)→綱貴(つなたか)→吉貴(よしたか)→継豊(つぐとよ)→宗信(むねのぶ)→重年(しげとし)→重豪(しげひで)→斉宣(なりのぶ)→斉興(なりおき)→斉彬(なりあきら)→忠義(ただよし)以上のように、九州鹿児島藩の領主は継続されていったのである。

西郷隆盛の仕えた薩摩の殿様等

この項では、西郷隆盛が仕えた薩摩藩の殿様等についてみることとしたい。

●「島津斉彬(なりあきら)」
文化六年(1809)九月二十八日~安政五年(1858)七月十六日 父は、島津斉興。斉彬は斉興の長男。母は、因幡国主池田治道の娘で「弥姫(ひさひめ)」幼名を「邦丸(くにまる)」、元服して「三郎忠方(さぶろうただかた)」別名を「又三郎」、「惟敬(これたか)」
嘉永四年(1851)二月に斉興の跡を継承して藩主となり、「薩摩守」を称した。藩主に就任すると、藩政改革に着手し、洋式造船や反射炉・溶鉱炉等を建築し、地雷・水雷・ガラス・ガス灯等の事業を興しており、当時の我国としては最新式の外国の技術を幕府や他藩よりも先駆けて導入していた。
黒船来航以来、混迷する幕府政治にも積極的に関与し、公武合体と武備開国を主張しつつ、篤姫を徳川家定の正室に嫁がせたりして幕府政治内に権力の拡大を図った。家定の死去後の将軍継承問題で失敗し、幕府に抗議する為に薩摩から藩の兵士を率いる練兵の最中に発病し、死去してしまった。
島津斉彬は、下級の武士の出身でも、人物の才能を重視して西郷隆盛や大久保利通等の人材を育成した。

●「島津久光(ひさみつ)」
文化十四年(1817)十月二十四日~明治二十年(1878)十二月六日
父は、島津斉興、久光は斉興の五男。
母は、斉興の側室である「お由羅」
幼名を「普之進(かねのしん)」→「又次郎」→「山城」→「周防」→「和泉」→「三郎」と改名した。
諱は「忠教(ただゆき)」・「邦行(くにゆき)」→「久光」を名乗った。
号を「双松(そうしょう)」・「大簡(たいかん)」・「玩古道人(がんこどうじん)」・「無志翁(むしおう)」と称した。

文政元年(1818)に種子島領主久輔の養子となったが、後に本家に戻された。島津一門の重富島津家出雲守忠公の養子となり、天保十年(1839)に家督を継承した。
安政六年(1859)に、異母兄の斉彬の遺命により、久光の長男の忠徳(後の忠義)が薩摩藩主を継承したので、久光は本
家に戻って藩政の実権を握り、藩民からは「国父(こくふ)」の尊称を得ることとなった。

島津久光は、島津忠義の後見として藩政を握ると、異母兄の斉彬の意志を継承して、積極的に幕政にも関与し、公武合体を推進しようとするものの、「寺田屋事件」・「生麦事件」・「薩英戦争」等を経て、「長州処分問題」や「兵庫開港問題」等で徳川慶喜と大きく対立するようになり、最終的には薩摩藩は倒幕路線に舵をきり、「王政復古」・「戊辰戦争」へと時代を動かす大人物でもあった、と言えるのではなかろうか。
島津久光は、西郷隆盛とは性格的に相許すものがなく、隆盛を無視することが多かったようである。

●「島津忠義(ただよし)」
天保十一年(1840)四月二十一日~明治三十年(1897)十二月二十六日
父は、島津久光。忠義は久光の長男である。
母は、島津千百子(ちほこ)。
幼名を「壮之助」→「忠徳」→「茂久」→明治になってから「忠義」を名乗り、別名を「又次郎」とも称していた。島津斉彬の死後を受けて、遺言によって鹿児島藩を継承したが、藩政の実権は実父の島津久光が握り、実務は西郷隆盛や大久保利通が主体性を発揮していたので、忠義の出る幕はあまりなかった。
文久三年(1862)に、「天保通宝」と同型の「琉球通宝」を鋳造し、半年で三十万両を造りだした。
明治四年(1871)の廃藩置県後は公爵となり、政府の命令で東京に在住して、西郷隆盛が起こした「西南戦争」には何の関わりももつこともなかった。
明治二十三年(1888)の帝国議会の開設の時には、貴族院公爵となった。

●「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」
天保七年(1836)十二月十九日~明治十六年(1883)十一月十二日(中風を患って死去した。)
父は、今泉領主島津忠剛(ただたけ)。篤姫は忠剛の長女である。
母は、島津久丙(ひさあき?ひさあきら?)の娘の「お幸」である。
幼名は、「お一(かつ)」か?「お一(いち)」である。島津斉彬の養女となった時に、諱を「源篤子」と改名し、更に、島津斉彬の政治的策謀から、安政三年(1856)に近衛忠煕(ただひろ)の養女となった際には、藤原敬子(すみこ)となり、「篤君(あつぎみ)」と称されるようになった。同年の十二月に、徳川幕府十三代将軍、徳川家定の三人目の正室となった。

「西郷隆盛が関わった主な人々」

西郷隆盛が51年の生涯の中で、多くの人々と関わっているが、この項では隆盛とかかわった「公卿・公家」や「幕臣」・「薩摩藩士」達のそのごく一部について述べてみたい。

「公卿・公家の人々」

朝臣の中でも「公卿」とは朝廷で昇殿が許されている人達のことで、「公家」は昇殿が許されていない人達である。

●「岩倉具視(ともみ)」
文政八年(1825)十月二十六日~明治十六年(1883)七月二十日
公卿である堀河康親(やすちか)の次男として誕生。
天保九年(1838)八月、岩倉具慶(ともやす)の養子となる。公武合体派として和宮の徳川家茂への降嫁を推進した人物で、尊王攘夷派から非難されて幽閉されるものの、薩摩藩の大久保利通とクーデターを画策して討幕の密勅を起草する大役を果たしている人物である。維新後は、新政府の首班となって日本の近代政治樹立に貢献した人物である。

●「三条実美(さねみ)」
天保八年(1837)二月七日~明治二十四年(1891)二月十八日
藤原氏北家閑院流の嫡流で、尊王攘夷派の公家として活躍したが、公武合体派の「公卿」と連携した会津・薩摩の政変によって京都を追われて長州に落ちた人物である。慶應三年(1867)の「王政復古」で政治の表舞台に復帰し、明治新政府では「議定(ぎじょう)」に就任し、更に「右大臣」や「太政大臣」等も歴任した。伊藤博文が「内閣総理大臣」就任後は、明治天皇の側近として仕えていた。

●「正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)」
文政三年(1820)十月三十日~明治四十二年(1909)十月二十日 薩摩藩の主導する公武合体運動に熱心であったことから、朝廷内の尊王攘夷派と対立して失脚してしまったが、文久三年(1863)の政変で朝廷に復帰し、薩摩藩との接触を強め朝廷の政務をリードする存在となった。明治元年(1868)に明治新政府の「議定」、翌年には「刑部卿(ぎょうぶきょう)」、其の後も「内国事務総督(ないこくじむそうとく)」や「教部卿(きょうぶきょう)」等を歴任する人物である。

「幕臣の人々」

西郷隆盛が関わった幕臣の中でも、次にあげる三人は、「幕末の三舟(さんしゅう)」と称される人達で、一人が「勝海舟(かいしゅう)」、もう一人が「高橋泥舟(でいしゅう)」、三人目が「山岡鉄舟(てっしゅう)」である。

●「勝海舟」
文政六年(1823)三月十二日~明治三十二年(1899)一月十九日幕臣、旗本小普請組(四十一石・無役)の勝小吉の長男として誕生し、幼名(通称)を「麟太郎(りんたろう)」と称していた。幼少の時から剣術に優れていて、十代にして直心影流の免許皆伝となっている。安政の改革で才能を見いだされて、「長崎海軍伝習所」に入所して勉学し、万延元年(1860)には「咸臨丸」で渡米し、「戊辰戦争」では幕府軍の軍事総裁となり、江戸城無血開城の時には、幕府の代表として西郷隆盛との交渉役を務めた。明治維新後は、政府の「参議」となり、「海軍卿」や「枢密顧問官(すうみつこもんかん)」を歴任した人物である。

●「高橋泥舟」
天保六年(1835)三月十五日~明治三十六年(1903)二月十三日
幕臣、旗本の山岡正業(まさなり)の次男として誕生し、幼名を精三郎、後に精一郎を名乗り、諱を「政晃(まさあき)」と称した。生家の山岡家は槍術「自得院流(忍心流)」の名家で、兄の山岡静山に師事して修行し、神業に達する名人とも言われる人物となった。幼い時期に高橋包承(かねつぐ)の養子となり、安政三年(1856)に「講武所槍術教授方出役」となって出仕するようになり、以後、「槍術師範」を務めたり、徳川慶喜の警護役等を歴任し、更に、地方奉行等を務めていたが、廃藩置県後は引退し、書画・骨董の鑑定等をしながら暮しを支えていた。

●「山岡鉄舟」
天保七年(1836)七月二十三日~明治二十一年(1888)七月十九日
幼名は不明、諱は「高歩(たかゆき)」、号が「鉄舟」であるが、「一楽斎」とも称している。
幕臣で蔵奉行の小野朝右衛門高福(たかよし)の四男(或いは五男)として誕生し、九歳の時から神陰流(直心影流)の剣術を修行し、また、井上清虎から北辰一刀流を学んでいる。安政二年(1855)に「講武所」に入り千葉周作に剣術を、山岡静山に忍心流槍術を学び、静山の死後に高橋泥舟等に望まれて山岡家の婿養子となった。

安政三年(1856)に「講武所」の「世話役」となり、以後、幕府の「浪人組」の取締役に就任したり、徳川家茂(いえもち)に供奉する役目を果たしたりしている。慶應四年(1868)
の江戸城開城の時には、勝海舟の指名により、西郷隆盛との事前の交渉役を果たしている。明治新政府では、「静岡縣権大参事」や「茨城縣参事」・「伊万里縣権令」等を歴任している。

「薩摩藩の人々」

西郷隆盛が薩摩藩で関わった人物は、当然のことながら多数いて、とうてい全てを紹介し得るものではないので、本当に、そのごくごく一部の人々について列記してみたい。

●「小松帯刀(たてわき)」
天保六年(1835)十月十四日~明治三年(1870)七月二十日
喜入領主肝付兼善(五千五百石)の三男として誕生する。通称を「尚五郎」と名乗っており、安政二年(1855)に奥小姓・近習番勤に任命されている。安政三年(1856)には、吉利領
主(二千六百石)の小松清猶(きよもと)の養子となり、安政五年(1858)に小松帯刀清廉(きよかど)と改名した。この後、造士館掛等を歴任して、文久二年(1862)には家老に昇進し、薩摩藩の倒幕派として重要な役目を果たした。

●「大久保利通(としみち)」
文政十三年(1830)九月二十六日~明治十一年(1878)五月十四日(49歳で暗殺された。)大久保利世(としよ)の次男として誕生。幼名を「正袈裟(しょうけさ)」で家格は西郷家と同じく御小姓与(組)で、下級武士である。生来病弱であったが、学問では抜群の才能を持っていた人物であった。天保十五年(1844)に元服して改名し、「正助(しょうすけ)」を名乗る。弘化三年(1846)から「記録所書役助」として出仕し、以後、西郷隆盛と同様、薩摩藩内の役職を右往左往しつつ昇進を重ねることとなる。文久元年(1862)十二月、島津久光から「一蔵(いちぞう)」の名前を賜る。慶應元年(1865)一月下旬頃から「利通」と改名している。

明治新政府では、「大蔵卿(おおくらきょう)」・「内務卿(ないむきょう)」等の重職に就任するも、明治十一年(1878)に政治的な怨みを受けて、紀尾井坂(現在の東京都千代田区紀尾井町)で暗殺された。

●「村田新八(しんぱち)」
天保七年(1836)十一月三日~明治十年九月二十四日
西郷隆盛と同じく、鹿児島城下の加冶屋町で生れ、幼少期から隆盛を慕っていて、行動を共にしていた。「寺田屋事件」では、その首謀者と疑われて喜界島に流罪となったりしつつも、後に、西郷隆盛と共に倒幕派として活躍するようになり、明治新政府では「宮内大丞(くないだいじょう)」や

岩倉具視の「欧米使節団」にも同行している。西南戦争の時には、二番大隊の指導長となって奮戦したが、隆盛の自決を見届けた後に、新八自身も自決して果てた。

●「税所 篤(さいしょあつし)」
文政十年(1827)十二月二十二日~明治四十三年(1919)六月二十一日
西郷隆盛や大久保利通達の友人で、安政五年(1858)に西郷隆盛が僧侶の「月照」と入水自殺をはかった時には、隆盛の枕元で看病にあたった人物である。
「禁門の変」では、「小松帯刀」の率いる薩摩軍の参謀として活躍しており、戊辰戦争の時には、大坂で財政を担当している。明治維新後は、河内・兵庫・堺・奈良等の知事を歴任した。

●「大山 巌(おおやまいわお)」
天保十三年(1842)十一月十二日~大正五年(1916)十二月十日
西郷隆盛の従兄弟にあたる人で、大山綱昌の次男として誕生した。薩摩藩の中では過激派に属する人物であったが、「薩英戦争」後は、幕臣の江川英龍の塾に入門して砲術を学んだ。「戊辰戦争」では各地を転戦して活躍し、明治維新の後にはスイスのジュネーブに留学もしている。「西南戦争」では新政府軍の「攻城砲隊司令官」として西郷隆盛と敵対し、このことを大山巌は生涯悔やんでいたと伝えられている。

以後、「日清戦争」では「陸軍大臣」、「日露戦争」の時には、「元帥陸軍大将」となって日本の勝利に貢献した人物である。

まとめ

西郷隆盛は、多くの魅力を持つ人物でもあったが故に、様々な人々とかかわりをもちつつ、日本の近代国家創設の為に「命を投げ捨てて奮闘した51年の生涯であった。」と言えよう。だだ、究極のところ、西郷隆盛が本来求めていた「新しい日本国家像」とはかけ離れ過ぎていたが為に、やむなく故郷の鹿児島に戻り、失意の内に人生の終焉を迎えてしまったものと考えられる。大河ドラマは、あくまでも「ドラマ」である。それが故に史実とは大きく相違する部分も生じてしまうのである。この「歴史講座」では、今後も出来る限り史実に忠実に従いつつ、大河ドラマ「西郷(せご)どん」の歴史的背景を明らかにしていくつもりである。

参考文献
南日本新聞社編『西郷隆盛―終わりなき命―』南日本新聞社 1978年
浜田尚友著『西郷隆盛のすべて―その思想と革命行動―』久保書店 1972年
真鍋元之著『西郷隆盛―その人と生涯―』金園社 1972年
坂元盛秋著『西郷隆盛』新人物往来社 1977年

次回予告

平成30年3月12日(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んで
メインテーマ「明治という新時代の創設について」
「薩摩藩の武士階級」について

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