第百二十七回 中山ふれあいサロン「歴史講座」

第百二十七回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成30年6月11日
瀧  義 隆

平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設について」
「徳川幕府の末路」について

はじめに

「黒船」等の度重なる来航によって、徳川家を中心に政権維持をはかろうとする旧来の思想は、いち早く近代的国家形成の思想に目覚めた薩摩藩や長州藩に倒幕勢力の増大を招き、旧来の封建政治は崩壊していく。
そこで、今回の「歴史講座」では、幕末に向かって幕府政権の衰退していくその概略と、幕末三代の徳川将軍についても言及しつつ、「徳川幕府の末路」について述べてみたい。

1. 「幕末の外国船来航」について
産業革命以後、欧米の先進国は、急激な発展をみせ、外国との通商を拡大すると共に、諸国に侵略して植民地を拡大し、富国強兵を計る為に、東南アジアから、そして我国、日本にも来航してくるようになった。そこで、この状況を略記すると、
① 「外国船の到来と主な条約締結」等について
寛政四年(1792)九月
・・・ロシア使節ラクスマン、根室に来航してきて、通商を求めてきた。
文化五年(1808)九月
・・・ロシア使節レザノフ、根室に来航してきて、通商を求めてきた。
文政八年(1825)二月
・・・「異国船打払令」を発布(詳細後述)
文政十一年(1828)十月
・・・オランダ商館の医師であったシーボルトが、当時、厳禁とされていた日本の地図を国外に持ち出そうとしたシーボル事件が起きる。
天保八年(1837)六月
・・・日本人の漂流者七人を乗せて、アメリカの商船モリソン号が鹿児島沖と浦賀沖に到来した。この時に、幕府は砲撃して退却させるよう命令した。
天保十一年(1840)七月
・・・イギリスが中国(清王朝)を二年間にわたって攻撃した「アヘン戦争」が勃発し、幕府は外国に対して大きな危機感を強く懐くこととなったのである。
弘化元年(1844)七月
・・・オランダ国王、日本の開国を勧告してくる。
弘化二年(1845)六月
・・・幕府は、オランダの開国勧告を拒否する。
嘉永二年(1849)四月
・・・イギリス船が来航して、幕府に無断で江戸湾の測量を行う。
嘉永六年(1853)六月
・・・アメリカのペリーが、浦賀に来航する。
※この年、幕府は、度重なる外来船に対応する為に、江戸城の最終防備ラインとして「砲台(ほうだい)」を設置することを計画し、総建築予算が1,500万両(1兆5,000億円)となり、1,300人の富農からの寄付金を集めることとしたが、実際には、29万3,000両(293億円)しか集まらなかった。それでも、幕府は「砲台」を建築したが、大砲は一発も発射されることはなかった、のである。
・・・・・・資料①参照
安政元年(1854)一月
・・・ペリーが、軍艦七隻を率いて神奈川の沖に来航してくる。
同年三月・・・・・・幕府は、「日米和親条約」を締結する。
安政三年(1856)八月
・・・アメリカの総領事であるハリスが来航してきて、着任する。
安政五年(1858)六月
・・・幕府は、「日米修好通商条約」を締結する。
②徳川幕府の外国船への対応
徳川幕府の外国船への対応をどのようにしていたか?を史料でみると、
「文政八年酉二月十八日
この日異国船渡来の時、宜うち拂の事厳しく令せらるヽむねあり。国々の廻船漁船の海上にて異船にしたしむもとより制禁。いま浦々にあらためて異国船打拂の事命せらる。よて、船かた漁民らいよいよかたく守りて、異船に出會せざるやう心懸くべしと浦々へ建札をして達せらる。(後略)」
『新訂増補 国史大系 49 続徳川實紀 第二篇』吉川弘文館 120~121P

上記の文政八年(1825)は、第十二代将軍徳川家慶(いえよし)の時代で、幕府としては特別な外国への対応策もない為に、とにかく何が何でも異国船を追っ払うしか方策がなかったことを如実に現している史料として見ることが出来よう。
次に、安政五年(1858)の頃になると更に頻繁に外国船が渡来してきて幕府に対して通商交渉を求めてくることとなり、幕府は対応に右往左往する日々となっていて、その混迷状態の一部を安政五年八月十七日の記事でみると、
「十七日 一 備後守殿 大 目 付江
今般佛蘭西使節應接中、愛宕下眞福寺江止宿致し候ニ付、通行道筋屋敷屋敷之立番等、差出候ニ不及、往来之者も平常之通通行可為致、尤往来混雑之儀も有之候ハヾ、取締出役之ものより、辻番所江申達、制し方為致可申、其餘先達而魯西亜使節等出府之節相達候通、可被心得候、右之通、向々江可被相觸候。」
『新訂増補 国史大系 第五十二巻 続徳川實紀 第五篇』吉川弘文館 531P

「備後守(びんごのかみ)」
・・・老中の太田資始(すけもと)のことで、井伊直弼とは対立する存在であった。
「大目付(おおめつけ)」
・・・当時の大目付は、遠山隼人正規訓(はやとのしょうのりみち?)である。
「佛蘭西」・・ フランスのこと。
「眞福寺(しんぷくじ)」
・・・現在も存在する、東京都港区愛宕の真言宗智山派総本山智績院の別院である。
「辻番所(つじばんしょ)」
・・・単に「辻番」とも言うが、幕府や諸大名・諸旗本が自警の為に設置した見張り番である。また、町人が設置としものは、「自身番」と称していた。
「魯西亜」・・ ロシアのこと。
以上の史料にみられる通り、安政五年にはアメリカのみならず、フランスやロシア等が開国と通商条約を求めて頻りに来日していることがみてとれる。また、江戸の町人達も外国人が街中を通行するのを見物するためか、混雑するであろうことを事前に予測して、その対応の仕方を「平常之通通行可為致」と命令していること等は面白い史料としてみることが出来よう。
② 「幕末の徳川将軍」について
外国船が来日して、世情を混乱に陥れる状況の中で、徳川幕府の中枢を担う将軍達はどのような人物であったか?、その一部を明記すると、

●第十三代将軍「徳川家定(いえさだ)」
文政七年(1824)四月八日~安政五年(1858)七月六日
父・・・第十二代将軍「徳川家慶(いえよし)」、家定は四男。
母・・・家慶の側室で、「美津か?堅子(かたこ)か?」不明で、落飾後は「本寿院(ほんじゅいん)」と称していた。家定は、生来、脳に障害(脳性麻痺?)があり、また、幼少期にかかった疱瘡(ほうそう)により顔に痣(あざ)が残り、その為に人前に出ることを極端に嫌っていた、とされている。
通常、将軍としての仕事はせず、カステラや饅頭、煮豆、ふかし芋等を作り、松平春嶽からは「イモ公方」と悪口を言われるような人物であった。家定の死因は、通説では脚気(かっけ)ではないか?とされているが、その頃に流行していたコレラではなかったか?とする説もある。遺骨を発掘して調査したところ、家定の身長は149~150cmぐらいであったと推測されており、小男であった、と考えられている。
・・・・・・資料②参照

※家定の正室は、一番目の正室
・・・鷹司任子(あつこ)(天親院)
天保二年(1831)九月に輿入れしたが、嘉永元年(1848)六月に疱瘡により死去する。

二番目の正室
・・・一条秀子(澄心院)
嘉永二年(1849)十一月に、二番目の正室として江戸城に入る。この人は、背丈が非常に小さな人だったようで、翌年(1850)の五月に発病し、六月二十四日に死去する。死因は、京都から江戸に向かう途中で、足を火傷した後遺症であるとする説もある。

三番目の正室
・・・島津忠剛の娘、篤姫・近衛敬子(天璋院)安政三年(1856)十一月、三番目の正室として江戸城に入る。家定の死後は、次の将軍となった家茂の正室である皇室出身の和宮と不仲の時期もあったが、後に和解し、江戸城無血開城の為に、共に苦労することとなる。

●第十四代将軍「徳川家茂(いえもち)」
弘化三年(1846)五月二十四日~慶應二年(1866)七月二十九日(亨年20歳)
父・・・・紀州藩徳川斉順(なりゆき)、家茂は次男。
母・・・・松平六太郎衛門の娘の「みさ」

嘉永二年(1849)に、紀州藩の第十二代藩主であった、叔父の徳川斉彊(なりかつ)が死去したことから、慶福(よしとみ、後の家茂)が、わずか4歳にして紀州藩を継承し、藩主となった。安政五年(1858)七月に、徳川家定が急死した為に、幕府内の将軍継承騒動に呑まれながら、わずか13歳にして同年十月に第十四代の将軍に就任したのである。文久二年(1862)二月に「公武合体」の代表のような形で、仁孝天皇の皇女で、孝明天皇の妹の「和宮(がずのみや)」と結婚する。慶應元年(1865)一月に、「第二次長州征伐」の為に大坂城に滞在するが、翌年の七月に脚気衝心で死去してしまった。

遺骨の発掘調査によると、徳川家茂は身長が156.6cmで、血液型はA型、生来、コンペイトウやカステラ・懐中もなか等の甘いものを好んでいたことから、遺骨にあった31本の歯の内、30本が虫歯であったようである。また、性質が心やさしい人柄であったようで、時々「和宮」にプレゼントを贈るなど、間柄も大変良かった、と伝えられている。
・・・・・・資料③参照

●第十五代将軍「徳川慶喜(よしのぶ)」
天保八年(1837)九月二十九日~大正二年(1913)十一月二十二日
父・・・水戸藩主徳川斉昭、慶喜は七男として誕生。
母・・・斉昭の正室である、有栖川宮織親王の娘である登美宮吉子弘化四年(1847)八月一日、第十二代将軍の徳川家慶の意思として、老中の阿部正弘から、御三卿の一橋家の養子となることを命じられる。慶喜が十一歳の時である。

慶應三年(1867)八月、徳川宗家を相続して、十月五日に征夷大将軍に任じられて、第十五代将軍に就任した。幼くして水戸で厳しく教育された慶喜ではあるが、大河ドラマ「西郷(せご)どん」では品川の遊郭では「ひー様」と呼ばれる「遊び人」に設定されており、才能的にも非常に優秀な人物として描かれてはいるものの、幕末の政治混乱期の慶喜の動向を詳細に調べると、必ずしもそうとは言い切れない「どこかいい加減」な部分のある人物であった、と言わなければならない。その一例が、慶應三年(1867)十月に、徳川慶喜は突如「大政奉還」を断行して討幕派をだしぬき、幕府に政権が温存されると勝手に思い込んでいたようである。また、明治元年(1868)正月三日に、「鳥羽・伏見の戦」の時に、形勢が不利となるや、突如、幕府軍を京都に置いたまま、側近のみを連れて大坂城へと戻ると、幕府の軍艦で江戸へと脱出してしまったのである。この慶喜の行動は、幕府軍の士気を激減させたばかりではなく、その無責任さに幕臣からも呆れ果てられる結果となった。
・・・・・・資料④参照

以上のように、幕末期の三代の徳川将軍達は、人間的・政治的に、その能力を保持していたか?大きな疑問があった、と言わなければならない。それに対して、討幕派には、外国の諸事情に精通する、有能な藩主や下級武士ながらも優秀な人材が台頭してきて、軍事的にも政治的にも優位であった。このようにして、時流は人材・頭脳的資源に富む、倒幕派の諸藩が主流となって、日本の近代国家への改革が進められていったのである。

3.「徳川幕府の終焉」
①「徳川幕府の終焉」への経路
文久二年(1862)二月十一日
・・・徳川家茂と皇女和宮との婚儀が江戸城で行われる。
元治元年(1864)七月十八日
・・・長州軍と幕府軍が蛤門で交戦する。「蛤御門・禁門の変」が勃発する。
七月二十三日~十二月二十七日
・・・徳川家茂は、「禁門の変」を起こした長州を処分する為に、第一次長州征伐を起こす。
慶應二年(1866)一月二十一日
・・・坂元竜馬の斡旋で、倒幕の為の薩長同盟が成立する。
同   年  六月七日~八月三十日
・・・第一次長州征伐の結果が、幕府の思うように進展せず、第二次の長州征伐が開始されたが、幕府軍に統一性がなく、将軍の徳川家茂が大坂城で急死(七月二十日)したこともあって、幕府軍の敗北となる。
同   年  十二月二十五日
・・・「公武合体」に理解を示していた、孝明天皇が死去(37歳)
慶應三年(1867)十月十三日
・・・薩摩・長州藩に倒幕の密勅が下る。
同   年  十月十四日
第十五代将軍、徳川慶喜は朝廷に対して「大政奉還」を請う。翌日に許可される。
明治元年(1868)一月三日
・・・旧幕府軍が京都の鳥羽・伏見で、薩摩・長州軍と戦うも敗北となる。(戊辰戦争の開始)
同   年  四月十一日
・・・江戸城を開城し、二十一日に東征大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が正式入城する。
② 「大政奉還」について
徳川慶喜は、鎌倉時代以後に朝廷に替って長い間、武士が我国の政治の実権を握っていたが、外国からの強烈な開国要求と、日本の近代国家設立を目的とする倒幕勢力に抵抗出来ずに、遂に、慶應三年(1867) 十月二十一日、政権を返還する「大政奉還」の表明を行った。「大政」とは、「我国の政治の権限」を現すし、「奉還」とは、「返還し奉(たてまつ)る」ことである。この「大政奉還」についての記録文書が『続徳川實紀』にみることが出来るので、史料としてその部分を示すと、

「慶應三年十月二十一日 我 皇国時運の沿革を観ルニ、 昔 王網紐を解て、相家権を執り、保平之乱、政権武門ニ移てより、我祖宗ニ至り、(中略)朝権一途ニ不出候而者、綱紀難立候間、従来之旧習を改め、政権を朝廷ニ帰し、広く天下之公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共ニ、 皇国を保護せバ、必ず海外萬国と可並立、我国家ニ所尽不過之候、(後略)」

『新訂増補 国史大系 第五十二巻 続徳川實紀 第五篇』吉川弘文館 平成十一年 282P

「王網紐を解て(おうこうひもをといて)」
・・・・帝王の政治の規律が緩んでくること。
「相家(あいや・しょうけ)」
・・・・宰相の家を継承する「藤原氏」の異称である。
「保平之乱」・・・保元元年(1156)の「保元の乱」と、平治元年(1159)の「平治の乱」のこと。
「朝権(ちょうけん)」
・・・朝廷の権力・権威のこと。
「綱紀(こうき)」
・・・国を治める上での規律のこと。
「公議(こうぎ)」
・・・公衆の認める議論・世論のこと。
「聖断(せいだん)」
・・・天皇が下す裁断・決断のこと。
このように、幕府政治の行き詰まりを示しつつ、本来の政権を朝廷に返還すべき正当性をも文中にみてとれる。しかし、その裏側には、政権を朝廷に返還したとしても、実質的には朝廷には実権を維持する政治的能力はなく、当然ながら、従来通り政権を幕府に依頼せざるを得ないであろうとする、徳川慶喜の政治的な甘い判断、大きな誤算があって、結果的には政権を失ってしまう、という大失政であったと言わなければならないのである。

まとめ

今回の「歴史講座」をまとめると、徳川幕府には、あくまでも徳川家を中心する幕府政治に固執しつつ、開国・近代化の道を歩もうとしたが、幕府財政の欠乏、強いリーダー(将軍)の欠如、有能官僚の不在があった。これに対して、薩摩藩を中心とした討幕派の藩には、いち早く国家の近代化に目を向けた藩主の存在、また、莫大な藩財政基盤の確立、有能な人材の輩出や、藩政治をも大胆に改革する先見の目があったのである。これによって、討幕派の藩は、朝廷の勢力を巧みに利用しながら、徳川幕府の政治体制を終焉させた、と考えることが出来よう。

講義資料

第百二十七回 中山ふれあいサロン「歴史講座」

第百二十七回 中山ふれあいサロン「歴史講座」

参考文献

大塚武松著『幕末外交史の研究』宝文館出版 1967年
明治維新史学会編『幕末維新の政治と人物』有志舎 2016年
桐野作人著『孤高の将軍徳川慶喜』集英社 1998年
酒井麻雄著『江戸幕閣の興亡』展転社 2002年
大石 学著『時代劇の見方・楽しみ方』吉川弘文館 2013年

次回予告

平成30年7月9(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」に因んで
メインテーマ「明治という新時代の創設について」
「長州藩・毛利家」について

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