第百三十四回 中山ふれあいサロン

第百三十四回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成31年2月11日
瀧  義 隆

平成31年NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」に因んで歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツについて」
今回のテーマ「剣道の歴史―(フェンシング)」について

はじめに

類人猿から進化した人類が地上で生活をするようになって、外敵からの防御と食料確保の為に、木製や石製による様々な器具が考えだされ、その一番とするのが、刀・弓・槍・庖丁等の武器や道具ではなかったか?、と考えられている。その武器や道具が、時代の進展と共に、木製や石製から銅製の物に、更に鉄製へと大変革して発展した。その武器や道具も対人の戦闘の為のものとなり、そこに武器や道具を使用した「武術」が発生することとなり、その「武術」も現在では、殺戮を目的とするものではなく、単なるスポーツへと改革さてきているのである。
そこで、今回の「歴史講座」では、中世時代頃から継承されている「刀・剣」について言及しながら、その「刀・剣」を使用する技術となった、日本の「剣術」と西洋の「フェンシング」について論考してみたい。

1.「剣術」について

日本において、西洋のフェンシングに類似するものは、「剣術」である。そこで、この項では日本の「剣術」に目を向けてみたい。

「剣術」について

「剣術」について調べてみると、古代においては「剣之術」・「多知加技(たちかぎ)」・「撃刀(たちかきす)」・「用刀(ようとう)」等と称しており、中世から近世においては、「太刀打(たちうち)」・「剣術」・「剣法」・「兵法」・「刺撃(しげき)」・「撃剣(げきけん)」等と称していた。「剣術」が「剣道」と言うようになったのは、大正時代に入ってからである。

「剣術」が一般的になったのは、室町時代に一部の剣術流派で「袋シナイ」を稽古の時に使用することが考案され、江戸時代の中期に、直心影流の長沼国郷が現在の竹刀や「面」等の防具を考案したことから、急激に「剣術」が発展した。これによって、町人や農民までもが、町・村の自衛の為にすすんで「剣術道場」に入門し、「剣術」の修行をしたのである。

次に、「剣術」ついての史料をみると、
「剣術 居合手裏剣剣術ハ、刀剣ヲ使用スル法ニシテ、太刀打、又ハ兵法ト云ヒ、後或ハ刺撃、撃剣トモ云へリ、此術ハ、夙ニ往古ヨリ開ケシト雖モ、其殊ニ精妙ヲ極ムルニ至リシハ、足利氏ノ末、群雄割拠ノ比ヨリナリトス、當時上泉伊勢守、塚原卜傳等、関東ニ在リテ名アリ、(後略)」
『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館 昭和四十四年 24P
「夙(つと)ニ」・・・はやく、昔からの意味がある。
「往古(おうこ)」・・昔からの意味である。
「精妙(せいみょう)」・・・くわしくて、すぐれていること。
「足利氏ノ末」・・・足利幕府時代の末期のことで、室町時代後期、戦国時代への移行でもある。
「群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)」・・・ 多くの英傑達が、それぞれの土地を守ってたてこもること。
「上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)」・・・ 上泉伊勢守秀綱(ひでつな)、後に「武蔵守信綱(のぶつな)」を名乗る。?~天正元年(1573)
上野箕輪城主の長野業盛(なりもり)に仕え、愛洲陰流刀槍を学び、神陰流を創始した。永禄六年(1563)二月に業盛の死後は、武田信玄に仕えたが、剣法修行の旅に出て、柳生宗厳等に神陰流を教授した。
「塚原卜傳(つかはらぼくでん)」・・・ 延徳元年(1489)~元亀二年(1571)二月十一日
朝孝(ともたか)→高幹(たかもと)→卜傳卜部覚賢(あきかた)の次男として常陸国鹿島(現在の鹿島市宮中)で誕生した。時期は不明だが、父の剣友の塚原安幹(やすもと)の養子となる。

室町幕府の将軍の足利義輝や足利義昭、武田信玄の軍師であった山本勘介等にも「卜傳流」の奥義である「一之太刀」を伝授したと伝えられている。

「剣術の流派」について

前項で示したとおり、日本の「剣術」は、室町幕府が衰退して群雄割拠の戦国時代に入った頃に、合戦での勝利方法の一つとして、各種の武術が草創され、その一つが「剣術」であった。より強い者が生き残る時代にあって、優れた「剣術」をいち早く身につけて武功をたて、安楽な生活を確保することこそ武士の本願とするところであった。それ故、この戦国期に多数の「剣術」流派が生れているのである。次に、その流派名と流祖のほんのごく一部を示すと、
天眞正傳神道流・・飯篠長威齋家直下総国香取郡(現在の多古町飯笹)の人。
一羽流(一波流)・・ 諸岡一羽常陸国信太庄の人か?
有馬流・・・・・・有馬大和守乾信(けんしん)常陸国津賀の人と伝わる。
天流(天道流)・・・ 斎藤判官傳鬼(でんき)常陸国真壁郡新井手村の人。
富田流・・・・・・ 富田越後守勢源(せいげん)越前国(現在の福井県)の人で、目が不自由であった。
一放流・・・・・・ 富田一放(いっぽう)加賀国の人?
長谷川流・・・・・ 長谷川宗喜(むねのぶ)尾張国の人?
新陰流・・・・・・ 柳生但馬守宗厳(むねよし・むねとし)
大和国添上郡の人で、後に石舟斎を名乗る。
柳生流・・・・・・ 柳生十兵衛三厳(みつよし)
大和国柳生荘の人で、柳生石舟斎の孫である。
疋田陰流・・・・・ 疋田文五郎(豊五郎)景兼(かげとも)加賀国石川郡の人
小野流・・・・・・ 小野二郎右衛門忠常(父の小野忠明を流祖とする説もある。)安房国(現在の千葉県南房総市)の人。

この他に、史料とする『古事類苑 44 武技部』に記載されている流派だけでも、約32流派の名前とその流祖を見ることが出来る。また、横山健堂著『日本武道史』島津書房によれば、戦国時代から明治の初期までに、165の剣術流派とその流祖が掲載されている。

「刀の種類」について

打刀(うちがたな)・合戦の徒戦(かちいくさ)の時に使う太刀で、刀身の中央でもっとも反りがあり、腰に直接帯びた刀である。
陣刀(じんとう・じんがたな)・・・・武家において、儀礼用として用いられた刀のこと。
]糸巻太刀(いとまきだち)・・・・柄(つか)と腰にあたる部分の「渡(わたり)」と打紐(うちひも)で巻いた刀のことである。
大太刀(おおだち)・ 長い打刀の一種で、「背負い太刀」とも称するものである。
小太刀(こだち)・・ 刃の長さが、二尺あまりの刀を言う。
鞘巻(さやまき)・・ 刀の別名でもある。合口・匕首(あ
いくち)もこの類であり、腰物(腰刀)・妻手指(つまでさし)・さすが(差す刀の略語からきている。)・鎧通(よろいどおし)・チイサ刀・短刀(別名をクジリとも言う。)
守刀(まもりがたな)・・・ 脇差(「中刀」とも書いて、ワキザシと読む。)・懐剣(かいけん)・隠剣(いんけん)も同類のものである。
枕大刀(まくらだち)・・・寝る時に枕元に置く護身用の刀のこと。
作大刀(つくりだち)・・使大刀(つかいだち)とも称し、進物用・祝儀・礼式用の刀である。
陰陽剣(いんようけん)・・・古代の朝廷に仕える衛府(えふ)の武家が使用する太刀のこと。
小刀(こがたな)・・・紐小刀(ひもこがたな)とも言う。「比母賀多那」とも書き、下帯に差す刀のことである。
節刀(せっとう、せちとう)・・・古代の朝廷において、遣唐使に持たせたり、天皇の使いの者に与えられる刀で、使命が終了すれば天皇に返還した。
以上のように、日本における「剣術」にも多くの流派が存在し、戦国の世を生き抜く為にその技を必死で修得したに違いない。また、より殺傷力のある、そして使い勝手の良い各種の「刀・剣」を生みだしていったものでもあろう、と考えられる。
・・・・・・資料1参照

2.「フェンシング」について

古代から、ヨーロッパ大陸では、民族・宗教・人種の問題から人と人とが殺し合う紛争が絶えることがなく、その為に、「剣」や「槍」や「弓」等の武器と闘技が開発・発達してきた。そこで、この項ではヨーロッパで発達した闘技としての「剣(フェンシング)」の歴史につい、及び、その「剣(フェンシング)」が日本に伝来したその経緯をみることとしたい。

「西洋の刀の種類(一部)」について

まず、西洋ではどのような刀を使用していたものか?を見ると、
一般的に西洋の「刀・剣」といえば、「サーベル(sabre;saber)」という呼称が有名であるが、これはドイツ語の「sabre」と言う言葉が転じて、「サーベル」として日本に伝わったものである。6世紀頃
「ブロードソード(Broad sword)」・・・・両側に刃先があり、根元は5・6cm程度で、先に向かって細く尖っていた。11~16世紀頃
「ファルシオンソード(Falchion sword)」・・・・片手持ちの剣で、短く片刃で先に行くにしたがって幅広になっていた。実際は片刃をそのまま長くしたような刀で、十字軍に参加した中世の騎士達に人気のあった刀である。
「シミタ―ルソード(Scimtar sword)」・・・・「ファルシオンソード」と同じように、十字軍との戦いの時にサラセン人が使用していた刀で、「三日月刀」とも称していた。馬上から敵を斬りつける、攻撃用の刀である。14~17世紀頃
「イングリッシュ・タックソード(English tuck sword)」・・・・ヨーロッパで広く使われていた刀で、突き刺すタイプの剣で、鎧を貫通するような切っ先の鋭い剣である。比較的下級の雑兵用として普及した。

以上のようなヨーロッパでの剣の種類と、中世騎士達のその使用技術の中から「フェンシング」が考え出されたものである。

「ヨーロッパでのフェンシングの歴史」

石器時代から使用されていた武器としての「剣」が、金属の開発によって様々な「剣」が作り出されるようになり、騎士道の全盛期の十四世紀頃には、重装備の甲冑に対抗する為の攻撃力のある、両手で握り甲冑を叩き割って殺傷する「剣」であった。十五世紀頃に入り、火器が考案されてくると、厚くて重い「剣」は廃れてしまい、軽くてバランスのとれた細長い形の「剣」へと変化し、戦闘での武器よりも掠奪から身を守る為や決闘の為の武器として使用されるようになった。十六世紀頃になると、この護身用の武器を、より効果的に使用する方法が重要視されるようになり、専門剣士達がその理論と技術を研究した「解説書」が刊行され始めている。その結果、一方で両刃となっている刀を使い、片手に短い刀を持つ両刀使い等の技法が考え出された。十七世紀頃に入って、一本の「剣」のみで攻撃から防御も出来る「技」と「剣」が開発され、これが「近代フェンシング」の基礎となった。十八世紀頃になると、危険防止の為の練習用マスクも開発され、十九世紀頃からは網目の細かいマスクが開発されたことによって、従来よりも更にスポーツとしての「フェンシング」へと定着していったのである。
・・・・・・・資料2参照
「フェンシング」がオリンピック競技として採用されたのは、1896年にギリシャで行われた「第一回、近代オリンピック大会」の時からである。

「日本におけるフェンシングの歴史」

明治元年(1868)に陸軍戸山学校で、フランス人の教官(氏名は不詳)が指導したのが日本におけるフェンシングの始めてとされている。この時のフェンシングは、「片手軍刀術」と称された軍刀操法であって、軍人にとっては修得が困難な「刀術」であったようで、この「片手軍刀術」はすぐに姿を消してしまった。

スポーツとしてのフェンシングが日本に導入されたのは、昭和十年(1935)頃に、岩倉具視の曾孫にあたる岩倉具清が、フランス留学から帰国した後、同好の者を集めて「日本フェンシングクラブ」を設立して、主に慶應大学や法政大学と、YMCA(キリスト教青年会)等でこの競技を普及した。昭和十一年(1936)には「大日本フェンシング協会」が発足して、日本体育協会やFIE(国際フェンシング連盟)にも加入し、フェンシングの普及に努めた。

第二次世界大戦により殆どのスポーツ活動は中断されてしまったが、終戦とともに「フェンシン競技」も復興し、昭和二十二年(1947)には「日本フェンシン協会」が復興して、昭和二十六年(1951)に、FIEの復帰が決まった。以後、日本におけるフェンシング競技の発展はめざましく、近年におけるオリンピックでは、メダル獲得者を輩出する日本を代表するスポーツの一つへと定着してきている。

まとめ

原始時代から、洋の東西を問わず、人類がその生命を保持する為に、自然との戦いを含めて、必要に迫られるままに様々な道具を考案し、動物や人間に対して、より殺傷力のある道具を求め、その為の技術をも考案してきたのである。戦闘の無い平和な時期に入れば、殺傷力を求める技術も、人々を楽しませる為の「闘技」になったり、スポーツ化へと変身していって、その結果の一つが現在の「オリンピック」でもあろうと思われる。何にしても、世界全体が平和でなければ、このような「オリンピック」という「スポーツの祭典」を実施することは不可能なことなのである。

資料

第百三十四回 中山ふれあいサロンの資料

第百三十四回 中山ふれあいサロンの資料

参考文献

次回予告

平成31年3月11日(月)午前9時30分~
平成31年NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」に因んで
歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツについて」
次回のテーマ「槍術の歴史―(槍投げ)」について

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