第百三十九回 中山ふれあいサロン

第百三十九回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
令和元年9月9日

                      瀧  義 隆

令和元年(平成31年)NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺」に因んで
「歴史講座」のメインテーマ「日本古来のスポーツ」について
今回のテーマ「馬術の歴史・・・・Equestrian」について

はじめに

9月8日は「白露」、9日は「重陽の節句」、13日は「十五夜」、20日は「彼岸の入り」で、暦の上ではすっかり「秋」の到来である。「秋」と言えば一般的に「天高く、馬肥ゆる秋」と言われており、「秋」は季候が良いことから「馬」でさえも肥え太ると言うことである。

そこで、今回の「歴史講座」では、この「馬」に注目し、オリンピックの競技種目ともなっている「馬術」の歴史についてスポットをあててみたい。

1. 「日本への馬の伝来」について

「古来の馬」について

日本の「古来の馬」にはどのような種類があるのか?また、その「馬」達はどこから日本に来たのか?について調べてみると、「馬」の渡来についての史料には、

「武技部 十三 騎馬下 嵯峨野物語 馬は、むかし唐国よりわたりし時は、耳のけものといひて、すべてまれなりしかば、帝王の御気色よき、大臣公卿のほかは、のる事もなし、(後略)」
『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館昭和四十四年 735P
「嵯峨野物語」・・室町時代後期の享録二年(1529)に、公家で歌人である二条良基が著した著書である。

日本に初めて「馬」が伝来したのは何時代か?については、この史料を見ても、時代の限定は出来ないが、古代から「唐」、即ち「中国」から伝来してたことと、「馬」と言っていたのではなく、「耳のけもの」と言ってたことを知ることが出来る。そこで、次に、この伝来した「日本古来の馬」達の種類についてみると、

(a)「道産子(どさんこ)」
・・北海道を中心に飼育されている品種で、現在1.800頭、日本在来の馬の75%はこの「道産子」である。馬の体高は125~135㎝、体重は350~400㎏で、毛色は鹿毛・河原毛・月毛・佐目毛等がある。・・・・・・・・・資料①参照
(b)「木曽馬(きそうま)」
・・長野県の木曽地域や、岐阜県の飛騨地方に生息する種類で、体高は130㎝程度、体重は350~420㎏である。木曽馬は粗食で、草だけでも生きていくことが出来る品種である。
・・・・・・・・・資料②参照
(c)「野間馬(のまうま)」
・・愛知県今治地域に生息する種類で、体高は110~120㎝程度、体重は350㎏程度である。農耕用の馬としては非常に強靭な馬体をしていて重用されていたが、明治政府が小型馬の成育を禁止した為に、絶滅寸前までになったものの、保護活動の結果、現在は80頭まで頭数が増えている。
(d)「対州馬(たいしゅうば・たいしゅううま)」
・・長崎県対馬市を中心に飼育されている品種で、体高は110~130㎝程度、体重は300(?)㎏程度である。鎌倉時代のモンゴル軍団の襲来の時には武将を乗せて大活躍した品種である。おとなしい性格の馬で、飼育し易い馬であることから、農耕用や乗馬用に使用されている。現在、30頭程度しか生息しておらず、絶滅が危惧されている。
(e)「御崎馬(みさきうま)・岬馬」
・・宮崎県串間市地域に生息する種類で、体高は100~120㎝程度、体重は300㎏程度である。この「御崎馬」は、縄文式時代後期から弥生式時代初期にかけて、中国から導入されたと伝えられている。現在は100頭の自然繁殖集団として飼育されており、観光資源の一つとなっている。・・・・・・・・・資料③参照
(f)「トカラ馬」
・・鹿児島県十島村で飼育されている馬で、1952年に、鹿児島大学の林田重幸教授が、トカラ列島南端の宝島で発見、紹介した品種で、体高が100~120㎝程度の小柄な馬である。この品種は、奄美大島から喜界島でサトウキビ栽培用の農耕馬として使用されていた。・・・・・・・・・資料④参照
(g)「宮古馬(みやこうま)」
・・沖縄県宮古島で飼育されている種類で、体高が100~120㎝程度の小柄な馬である。この品種は、中国から伝わったものだとする説と、朝鮮半島から九州を経て宮古島に連れてこられたとする説とがある。この品種も現在、40頭程度しか生息しておらず、絶滅が危惧されている。
(h)「与那国馬(よなぐにうま)」
・・沖縄県の与那国島で飼育されている品種で、おとなしい性格の馬である。体高が110~120㎝程度で、琉球競馬等で使用されていた馬である。この品種はどこから導入されたものか全く判っていない。
※四国地方に生息していた「土佐駒」や「越智駒」の種類は絶滅してしまった。

②「外来馬」について

前項でみた古来の日本の馬以外に、西洋等から伝来した「馬」があり、その代表的なものとして、「アラブ馬」と「サラブレット馬」が有名である。そこで、この二種について調べると、

(a)「アラブ馬」
・・ 原産地は全く不明であるが、トルコのカッパドキァ地方からイエメンに、200頭の馬が贈られたとする古い記録があり、ソロモン王の所有馬が祖先である、とする説もある。また、モハマド(マホメット)も馬の生産を奨励していた、とする説もあり、モハマドは西暦570~632年頃まで生きた人物であるから、「アラブ馬」は西暦6~7世紀頃には存在していたものと考えられる。「アラブ」とは、アラビア半島の砂漠の諸国のことで、「アラブ馬」はこの地域に生息する馬種である。体高が145~150㎝で、体重は450㎏程度と比較的頑丈な馬体をしている。

日本に「アラブ馬」が伝来したのは、天正年間頃に伝来したと伝えられていることから、室町時代後期の天正元年(1573)~天正十九年(1591)頃にかけて日本に持ち込まれたものと考えられている。また、江戸幕府三代将軍徳川家光の頃(元和九年以降)に、盛岡藩は幕府の許可を得て、「ペルシャ馬」の牡馬を輸入し、馬の品種改良をおこなった、と伝えられている。この「ペルシャ」とは、現在のイラン国近辺のことで、「ぺルシャ湾」を挟んでアラブ半島となることから、盛岡藩が輸入した「ペルシャ馬」とは「アラブ馬」の一種であると考えられる。・・・・・・・・・資料⑤参照

(b)「サラブレット馬」
・・イギリス原産の馬で、体高は1.6~1.65m程度、体重は450~500㎏である。性質は鋭敏ではあるが持久性に乏しかったことから、イギリスにおいて17世紀頃から品種改良を繰り返すことによって持続性が保たれるようになってきた。日本には明治四十年(1907)にイギリスからオス1頭、メス2頭を岩手県雫石の小岩井農場に輸入し、繁殖を繰り返すことによって「サラブレット」も全国に広まった。現在では、「サラブレット」の生産頭数の80%が北海道産である。・・・・・・・・・資料⑥参照

2.「日本の馬術」について

「日本の馬術」について

次に、日本の馬術についての史料をみると、「馬ニ乗ルニ馬尻桃尻ノ称アリ、乗尻ハ乗馬ノ人ヲ云フ、桃尻ハ、尻ノ鞍上ニ安ンゼザルヲ云フ(中略)降テ應神天皇ノ十五年ニ、百済王、良馬ヲ貢ゼシカバ、阿直岐ヲシテ之ヲ飼養セシメ給ヒ、天智天皇ノ七年ニ、近江国ニ牧場ヲ置キテ馬ヲ放チ、天武天皇十三年ニハ、文武百官ヲシテ兵ヲ用ヰ馬ニ乗ルコトヲ練習セシメ給ヒシカバ、馬匹ノ繁殖ト共ニ、其騎術モ亦漸ク備リ、嵯峨天皇ノ朝ニハ、藤原内麻呂ノ如キ、騎法ニ熱セシモノアリ、清和天皇ノ朝ニハ、坂上貞守ノ如キ、相馬ニ巧ナルモノアリ、醍醐天皇ノ延喜ノ式ニハ、左右馬寮ニ騎士ヲ置キ給ヒ、殊ニ中世以後ハ、屢々競馬ノ挙アリシカバ、衛府ノ官人ニシテ騎術ニ精妙ナリシモノ少ナシカラズ、其後武家ノ盛ナルニ及ビテハ、専ラ弓馬ノ道ヲ奨励ヲ以テ、騎術ノ名家、前後相踵テ輩出シ、進退周旋ノ法、足利氏ニ至リテ大ニ備レリ、而シテ諸家各々、流派アリ、流派又支流アリ、大坪、八條、小笠原、内藤、上田、荒木、佐々木等ノ諸流アリ、(中略)徳川氏ノ時ハ、屢々馬術上覧ノ事アリ、殊ニ八代将軍吉宗ハ、其馬役ヲシテ和蘭人ニ就キテ、騎法及ビ療馬ノ術ヲ学バシメタリ、亦皆此術ヲ重ジ、其技ヲ奨励スル所以ナリ、」『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館 昭和四十四年 691~692P

「乗尻桃尻(のりじりももじり)」・・馬に乗る事と、馬に乗るのが下手で、馬の鞍にお尻が安定しない事。
「應神(おおじん)天皇ノ十五年」・・第十五代の天皇で、4世紀~5世紀初頭の天皇。
「阿直岐(あちき)」・・4世紀~5世紀頃に百済(くだら)から派遣された使節で、馬二頭を献上した。
「天智(てんち)天皇)ノ七年」・・第三十八代の天皇で、7世紀初頭~中期にかけての天皇である。
「天武(てんむ)天皇)十三年・・第四十代の天皇で、7世紀後半にかけての天皇としか判っていない。
「文武百官(ぶんぶひゃっかん)」・・役人官僚と武人の集団のこと。
「嵯峨(さが)天皇)」・・第五十二代の天皇で、9世紀前半の天皇としか判っていない。
「藤原内麻呂(うじわらのうちまろ)」・・天平勝宝八年(756)~弘仁三年(812)迄の人で、四代の天皇に仕え、左大臣になっている。
「清和(せいわ)天皇」・・第五十六代の天皇で、9世紀中期頃の天皇である。
「坂上貞守(さかのうえのさだもり)」・・平安時代初期の頃の貴族で、三代の天皇に仕えた人物である。
「相馬(そうま)」・・相馬地方(福島県相馬市)の古来馬の産地で、馬術に長けていた地域とされている。
「醍醐(だいご)天皇・・第六十代の天皇で、9世紀後半~10世紀前期までの天皇である。
「延喜(えんぎ)ノ式」・・平安時代中期(西暦905年)に編纂された律令の施行細則である。
「左右馬寮(うまのつかさ)」・・左馬寮(さまりょう)と右馬寮(うまりょう)のことで、馬寮(めりょう)とは朝廷の馬を管理する役所のことである。
「衛府(えふ)」・・平安時代に朝廷を警備する役所のこと。
「和蘭人(わらんじん)」・・オランダ人のこと。
「療馬(りょうば・りょうめ)ノ術」・・馬の病気・怪我等を治療する技術のこと。以上の史料によって、日本史上における馬の伝来と飼育、更に、馬術についての概略を把握することが出来るものと考える。

②「馬術の流派」について

日本において、馬術で有名なものとして、「犬追物(いぬおうもの)」や「笠懸(かさがけ)」・「流鏑馬(やぶさめ)」がある。その内、「流鏑馬」について調べると、「流鏑馬」は、寛平八年(896)に、宇多天皇が源能有に命令して制定した朝廷の大事な行事の一つとして制定したもので、この「流鏑馬」も、三度の衰退時期があって、途絶寸前の時期もあったが、第二次世界大戦後に全国的に「流鏑馬」が復活し、神事の一つであると共に、古来の馬術の技術を継承する行事でもある。現在では、北は青森県八戸市から、南は鹿児島県日置市等の約90カ所の各地で「流鏑馬」が実施されている。
そこで、馬術の流派をみると、

「大坪(おおつぼ)流」・・・室町時代に大坪慶秀(よしひで)が開いた馬術の流派である。
「八條(はちじょう)流」・・・戦国時代前期に八條近江守房繁(ふさしげ)が開いた馬術の流派である。
「小笠原流」・・・室町時代中期頃に京都の小笠原氏(名は不明)が開いた馬術の流派である。
「内藤流」・・・・詳細不明
「上田流」・・・・江戸時代前期に、上田但馬守重秀が開いた馬術の流派である。
「荒木流」・・・・安土桃山時代に、豊臣秀吉に仕えた荒木元清が開いた馬術の流派である。
「佐々木流」・・・「大坪流」の分派で、戦国時代に近江国の城主であった佐々木義賢(よしかた)が開いた馬術の流派である。

3.「ヨーロッパの馬術の歴史と日本の近代馬術」について

この項では、「ヨーロッパの馬術の歴史」はどうであったか?そしてその「ヨーロッパの馬術」が何時頃日本に伝来し、「日本の近代馬術」が誕生したか?についてみることとしたい。

「ヨーロッパの馬術(Equestrian)」について

英語では、馬術を「Equestrian」言うが、この語源はラテン語の「equites(equis)」が変化したものと考えられている。

「ヨーロッパの馬術」は、エジプトやペルシャの古代文明(紀元前8世紀頃)に遡るもので、古代ギリシャでも盛んに「馬術」が行われ、古代オリンピック(紀元前9世紀頃)では、「4頭立て」・「2頭立て」の戦車競争が行われており、古代に製造されたとされるステルス金貨に、この競争の様子がデザイン化されている。

中世期(西暦14世紀頃を中心に)には、モンゴル帝国の中央アジアへの騎馬軍団の侵出や、オスマントルコの台頭による騎馬戦力の増強、キリスト教民族の「十字軍」にみられる騎馬による軍事抗争等、ヨーロッパの周辺は戦乱続発の混乱極まる時代であった。しかし、西暦15世紀の初頭とされる頃に、「ポンパート砲」と称される「大砲」が発明され、更に、ルネサンスの末期にあたる15世紀末から16世紀前半頃に「鉄砲」が発明されると、ヨーロッパの戦闘の形態が、古来の「騎馬」中心のものから、「大砲」と「鉄砲」による戦いへと変容することとなり、「騎馬軍団」が消滅していくのである。しかし、「乗馬」としての「馬術」は、ヨーロッパの貴族達が「紳士のたしなみ」としてレクレーションがてら訓練しており、ルネサンス後期のイタリアのクセノボンが「馬術」を再評価し、更に、18世紀にフランスのド・ラ・ゲリニールが「近代馬術」を集大成し、19世紀に入って、ドイツのシュタインプレヒトが現在に繋ぐ「ドイツ馬術」の基盤を確立したのである。

近代オリンピックでは、1900年の第2回オリンピック・パリ大会から競技種目として実施され、その後中断もあったが、1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会から再開されて、現在に至っている。最初は、「障害馬術」だけであったが、第5回の再開からは、「馬場馬術」・「総合馬術」・「障害馬術」の三種目が行われている。

② 「日本近代馬術の誕生とオリンピックへの参加」について

日本においてヨーロッパの近代馬術を導入したのは、明治五年(1872)に日本陸軍は従来の和流馬術を捨てて、フランス式の馬術を採用したものの、技術の向上がみられなかった。為に、次にドイツ軍制の馬術に改革したが、これも成果が得られず、明治四十四年(1911)に初めて外国の馬術模倣を捨てて、日本独自の馬術教範を確立した。

大正期に入ると、馬の改良も進み、乗馬技術も発達して大正十一年(1922)には「日本乗馬協会」が設立され、馬術の普及をはかり、全国で馬術競技が開催されるようになった。昭和三年(1928)に、開かれた第九回オリンピック・アムステルダム大会には馬術競技の選手を派遣するまでになり、昭和七年(1932)の第十回オリンピック・ロスアンゼルス大会では、西竹一中尉が大障害で金メダルを獲得するまでになった。第二次世界大戦中は、他の競技と同様に、外来のスポーツ競技は殆ど衰退してしまったが、大戦の終了後には、馬術競技も復活し現在に至っている。

現在も「騎馬隊」は存在しており、交通整理を中心とする「警視庁騎馬隊」、外国の大使・公使が乗られる「儀装馬車」の護衛等を任務とする、「皇宮警察(護衛官) 騎馬隊」がある。

まとめ

遂に、今年のNHK大河ドラマの視聴率は、6%に没落してしまった。この視聴率低下の原因は、この「歴史講座」でも再三指摘してきたが、宮藤官九郎氏の脚本作成の手法の失敗にある。それは、
① ドラマの主人公が定まらず、また、時間が明治だったり、昭和になったり、また明治に戻ったり、と時間軸が混乱しているばがりである。
② 題材が近現代すぎて、大河ドラマとしての歴史的な重みが全
くない。
③ 大河ドラマの視聴者の中心が若者ではなく、主に高齢者達であることを宮藤官九郎氏は忘れている。
NHKの「大河ドラマ」のみならず、「朝ドラ」もマンネリ化してしまい、異色性が求められているのも事実である。しかし、視聴者が「大河ドラマ」に求めているものの第一は、「一時の安らぎ」であろう。もはや今年の「大河ドラマ」にこれを求めるのは、はっきり言って不可能である。長年の「大河ドラマ」の“名もない一フアン”としては、もはや、今年の「大河ドラマ」に見切りをつけて、来年に期待する以外になさそうである。本当に「失望」としか言いようがない。

参考文献

次回予告

令和元年10月26日(土)午前9時30分~
令和元年(平成31年)NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺」に因んで
歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツ」について
次回のテーマ「柔術(組手)の歴史・・・・柔道」について

参考資料

第百三十九回 中山ふれあいサロン(参考資料1)

第百三十九回 中山ふれあいサロン(参考資料1)

第百三十九回 中山ふれあいサロン(参考資料2)

第百三十九回 中山ふれあいサロン(参考資料2)

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