第百三四十回 中山ふれあいサロン

第百四十回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
令和元年10月21日
瀧  義 隆

令和元年(平成31年)NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」に因んで
歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツについて」
今回のテーマ「柔術(組手)の歴史・・・・・柔道」について

はじめに

大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」には、主人公の金栗四三や田畑政治の他に、「柔道」の祖である嘉納治五郎が重要な役割として登場してきている。大河ドラマの中の嘉納治五郎の存在は、「柔道家」としての役割よりも、日本の近代オリンピックの発展に貢献したその有り様を描いている。

そこで、今回の「歴史講座」では、嘉納治五郎が創設した「柔道」の元となる「柔術」の起原等について目を向けてみたい。

1.「柔術(組手)」について

「柔術」の「柔」の字について、白川静著『字通』(平凡社)2000年版で調べてみると、「神前に酒を酌み、手足をあげて歌舞し、神意を安んじ柔らげることをいうもので、(後略)」「しなやか、やわらか、おだやか」等の意味が書いてある。このことから「柔術」とは、「身体をしなやかに、やわらかに動かす術(即ち技)」であると理解出来るのではなかろうか。

次に、「柔術」についての史料を見ると、「柔術 小具足柔術又體術ト云フ、又ヤハラノ稱アリ、徳川氏ノ初ニ既ニ此術アリ、或ハ云フ是レ漢土ノ拳法ニシテ、帰化ノ明人陳元贇ノ傳フル所ナリト、此術ハ古来名人ニ乏シカラズ、関口流、渋川流、起倒流等、最モ名アリ、又一種小具足ト稱スル術アリ、即チ柔術ノ類ニシテ、一ニ腰廻ト云フ、所謂取手是ナリ、」
『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館 昭和四十四年 1002P

「陳元贇(ちんげんいん・ちんげんぴん・ちんげんひん))」・・・・中国・明からの渡来人で、元和七年(1621)頃に日本に来て、中国の拳法や磁器の製造方法を教えた人物と伝えられている。
「関口(せきぐち)流」・・・・流祖は関口八郎衛門(弥六右衛門)氏心(うじむね)で駿河国今川氏の家臣であった人である。元禄年間の頃に関口流柔術を開いた。・・・・・資料①参照
「渋川(しぶかわ)流」・・・・江戸時代初期に渋川伴五郎義方が開いた柔術の流派である。
「起倒(きとう)流」・・・・流祖については諸説があって、確定的なものは見当たらない。四国や九州地方に広がった柔術流派である。
「小具足(こぐそく)」・・・・本来、「小具足」とは、甲冑の籠手(こて)や脛当(すねあて)のことであり、鎧や兜等を身に付けた上で敵と闘う技のこと。
「腰廻(こしのまわり)」・・・・「小具足」と同様の武術で、相手を捕縛する為のものである。
「取手(とりて)」・・・・「捕手」とも書き、「小具足」と同様に、素手で人を捕える術である。※柔術は、日本古来の武術の一つで、江戸時代後期までは、上記の流派以外に、123もの柔術流派が存在していた。この多くの流派の一例としては、
「小栗(おぐり)流」・・・・江戸初期の寛永の頃に、小栗仁右衛門正信が起こした柔術流派で、高知藩に伝わった。
「天神真揚(てんしんしんよう)流」・・・・幕末の文政の頃に、磯又右衛門正足が起こした流派である。・・・・・・・・・・・資料②参照

以上の史料によれば、江戸時代の初期に、中国から渡来した陳元贇が、「拳法」を伝えた事から、後の「柔術」となった事を示しているものである。しかし、この陳元贇の「柔術」伝承説には、横山健堂著『日本武道史』の「第六篇 柔道篇 第一章 柔道の起源に関する諸説」の項の冒頭において、

「(一)陳元贇説日本の柔道が支那人陳元贇に起因するといふ説は、あまりにも不詮詮索も甚しいもので、お話にならぬ。(後略)」
横山健堂著『日本武道史』島津書房 平成三年 379Pと述べている。他の武道に関する専門書にも、「柔術」の起源を陳元贇に求める事に否定的なものが多い。結論的には、中国伝来の「拳法」と、日本古来の武術である「小具足」・「腰廻」等の格闘術が混入され、更に改革を重ねて日本独自の「柔術」へと発展したものだ、と考えるのが妥当であろう。

2.「柔道」について

「柔道」がオリンピックの競技種目となったのは、男子が昭和三十九年(1964)の東京大会からで、昭和四十三年(1968)のメキシコ大会では競技から外されたが、昭和四十七年(1972)のミュンヘン大会から競技種目に復活し、女子は昭和六十三年(1988)のソウル大会からオリンピックの公式種目となった。そこでこの項では、この「柔道」について述べてみたい。

① 「柔道」について

明治十五年(1882)に、嘉納治五郎が創設した「柔道」は、嘉納治五郎自身が修行して体得した、「天神真揚流柔術」と「起倒流柔術」を基礎として編み出された武術である。この「柔道」と言う言語は、嘉納治五郎が初めて使用したかのように誤解されているが、「柔道」についての史料をみると、「退閑雑記 四乙卯○寛政七年十一月九日、柔道の本體の傳を得てけり、この柔道といふは、世にまれなるたつとき事にて、外にた
ぐひはあるまじ、かの鈴木氏の家に、むかしより日本神武の傳のこりたるが、おぼろげに、かいたるもの計りにて、たれも覚えしものもなかりしなり、(後略)」『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館昭和四十四年 1002P

「退閑雑記(たいかんざっき)」・・・・陸奥国白河藩の第三代の藩主で、後に幕府老中となった、松平定信が著した随筆である。
「鈴木氏」・・・・ 詳細不明
「日本神武(やまとじんむ)」・・・・日本伝承上の初代の天皇で、紀元前7世紀頃の人物と考えられている。

以上の史料によれば、寛政七年とあるから、江戸時代の後期にさしかかる、西暦1795頃に、既に「柔道の本體の傳」の言葉を使用していることからして、「柔道」という語彙が見られ、従って、初めて嘉納治五郎によって「柔道」という言葉が創造されたものではないことが明白である。

②「嘉納治五郎」について

万延元年(1860)十月二十八日~昭和十三年(1938)五月四日出生地・・摂津国莵原(うのはら)郡御影村(現在の、神戸市灘区御影町御影)で、五人兄姉の内の三男として誕生した。嘉納家は御影の屈指の名家で、酒造・廻船を営む家柄である。

両親・・・父、嘉納治郎作希芝(まれしば) 母、定子
学歴・・・明治十四年(1881)に、東京大学文学部政治学科及び理財学科を卒業し、翌年、哲学科も卒業した。
職歴・・・東京大学卒業後、学習院大学の講師・教授、第五
高等中学校校長、第一高等中学校校長、文部省普
通学務局長、東京師範学校校長等を歴任した。
政治家・・貴族院議員(勅選議員)として、大正十一年(1922)~昭和十三年(1938)迄、政治家としても活躍した。
武術・・・明治十二年(1879)頃に福田八之助に「天神真揚流」、更に、明治十四年(1781)頃には、飯久保恒年に「起倒流」の柔術を学んだ。明治十五年(1882)、「講道館」を開設し、「柔道」を教授し始めた。明治二十年(1887)頃になると、「柔道」が全国的に知れ渡るようになってくる。明治二十二年(1889) 頃から、海外での「柔道」布教にも力を入れ、以後、十二回の外遊を行っている。
オリンピック活動・・・明治四十二年(1910)、国際オリンピック委員明治四十四年(1912)、日本体育協会初代会長

明治四十五年(1913)、オリンピック・ストックホルム大会日本選手団長昭和十一年(1936)、ベルリンで開催された「国際オリンピック委員会」で、第十二回オリンピック大会を東京で開催する招致に成功する。昭和十三年(1939)、カイロで開催された「国際オリンピック委員会」の帰り道、「氷川丸」の船上において発病し、昭和十三年(1938)五月四日に死亡した。

まとめ

不評極まりない、令和元年(平成31年)のNHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」も、残り一ヶ月半、おそらく、あと5・6回で最終回となるものと思われる。日本の近代オリンピック発展の裏側には、金栗四三や田畑政治のようなオリンピッアンを目指したり、多くのオリンピッアンを育てた人物がおり、更に、オリンピックを日本で開催しようと、一生懸命努力した数多くの人材がいたことを、この大河ドラマで充分勉強させられたのではなかろうか。

しかし、脚本家の宮藤官九郎氏が、現代の若者達にも大河ドラマの面白さを判らせる、また、大河ドラマの人気を向上させる為に、ストーリに新旋風を起こそうと、登場人物を複雑化して「コリスギてしまった。」ように思われてならない。結果、「訳のわからない。」大河ドラマとなって終わってしまいそうであり、この大河ドラマに期待していたファンにとっては、本当に残念至極であるとしか言いようがないのである。

参考資料

第百三四十回 中山ふれあいサロン

第百三四十回 中山ふれあいサロン

参考文献

次回予告

令和元年11月11日(月)午前9時30分~
令和元年(平成31年)NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」に因んで
歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツについて」
次回のテーマ「蹴鞠の歴史・・・・サッカー」について

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