明智光秀の生涯

第百四十二回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
令和二年1月13日
瀧  義 隆

令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」についての歴史的考察
歴史講座のメインテーマ「明智光秀の合戦絵巻」今回のテーマ「明智光秀の生涯(概略)」について

はじめに

タイトルにある「麒麟(きりん)」とは、そもそも中国の神話の中に出てくる架空の霊獣で、聖人がこの世に生れる前に現れる想像上の動物のことで、諸動物の「長」とされている。このことから、人間に例えると、「麒麟」とは「最も傑出した人物」を指す語彙ともなっていて、「麒麟がくる」とはこの日本に特に優れた人物が現れ出た、ということを示しているのである。

しかし、この「麒麟」である大河ドラマの主人公の明智光秀は、実に謎の多い人物で、生れた年も誕生地も、また、幼年期から中年期にかけても全くその実像が判らなく、様々な史料を駆使して諸説が論じられているが、どれを読んでもこれといった確実な論証を得られていない現状である。

従って、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀を歴史的に考察して「歴史講座」を進展していくには、明智光秀の中半生から晩年までの合戦を中心に、比較的信憑性のある史料を元に論考しながら、出来るだけ明智光秀の実像に迫っていく以外にその方法はなさそうである。

1.「明智光秀の生誕地と出生」について

まず、この項では、明智光秀の「生誕地」や「出生年月日」等について調べるみると、

1 「生誕地」等についての史料には、
「明智日向守光秀(反臣)
初名十兵衛尉。元、濃州明智の人なり。朝倉義景が家臣黒坂備中守が所につかえ、後、細川藤孝に仕う。(後略)」
山鹿素行著『武家事紀』延宝元年(1673)刊
新人物往来社 昭和四十四年 478P

「朝倉義景(あさくらよしかげ)」・・・・・越前国(現在の福井県大野市)朝倉氏の十一代の当主で、天正元年(1573)の一乗谷合戦で織田信長に敗れて自刃した。
「黒坂備中守(くろさかびっちゅうのかみ)」・・・・・黒坂景久(かげひさ)のことで、朝倉義景の家臣である。船寄城を守っていたが、元亀二年(1572)七月の織田信長に攻められて討ち死にした。
「細川藤孝(ほそかわうじたか)」・・・・・初め、室町幕府の足利義輝に仕えていたが、足利義昭の京都追放後は織田信長に仕え名字を「長岡」と名乗り、丹後宮津十一万石の大名となる。

次に、もう一つの史料には、
「明智日向守光秀は美濃国土岐郡明知と云ふ里に生れ、昔は土岐の一門とかやいひしも貧しくなりはて、下部の一人をも持ず、越前国などさすらへありき、思ひがけず信長に宮仕心に叶ひても、(後略)」
太田 亮著『姓氏家系大辞典 第一巻』
角川書店 昭和三十八年 61P

また、続郡書類従の「明智系図」の項には、
「光秀明智光秀十兵衛、後号惟任日向守、童名彦太郎、後有謂世人呼 悪太郎、享禄元歳戌子三月十日、于濃州多羅城誕生、母武田義統妹、彦太郎幼稚時、斎藤山城入道道三見之、可為萬人将稱有人相、世人共云爾、成長後不違、常学文道、得射術剣術妙、鎗薙刀之達人也、雖有多文載誉畧、」
塙 保己一編纂『続 群書類従 第五輯下 系図部』
続群書類従完成会 昭和五十二年 193P

「享禄元」・・・・・・・享禄元年は、西暦の1528年。
「武田義統(たけだよしずみ・よしむね)」・・・・・足利幕府の大名で、若狭国を支配していたが、領内での混乱が頻発して、義統の死後は朝倉氏の保護下に置かれた。
「濃州多羅城」・・・・ 美濃国の多羅(現在の大垣市上石津町多良地区)にあった、と推定されている城である。
「斎藤山城入道道三」・・・・・美濃国を支配する戦国大名で、本来は諸国を巡って油を売り歩く行商人から大名までのし上がった人物と伝えられており、弘治二年(1556)に長子の斎藤義龍と長良川で戦い、討死した。

以上の史料に見られるように、明智光秀の「生誕地」や「出生年月日」については固定的な説はなく、また、上記の史料を裏付けする書籍や文書等も存在していないのが現状である。

2 明智光秀の「生誕地」や「出生年月日」・「父母」について諸説について
前項の諸説による明智光秀の「生誕地」・「出生年月日」と「父母」について更に調べてみると、次のような諸説があって、定説となるものは全く無く、今後の研究に委ねられているのである。
次に、その諸説を列記してみると、
(a)「美濃国可児(かに)郡長山(明智)城」説
・・・・現在の岐阜県可児市瀬田長山
・・・・他は全て不明。
(b)「美濃国恵那郡明智」説
・・・・現在の岐阜県恵那市明智
・・・・出生年月日と父親は不明、母は「お牧」
(c)「美濃国土岐郡鶴ケ城・一日市場」説
・・・・現在の岐阜県瑞浪(みずなみ)市土岐町鶴城
・・・・享禄元年(1528)の生れ。父親が「明智光隆」、母が「お牧の方」。
(d)「美濃国加茂郡堂洞城」説
・・・・現在の岐阜県富加(とみか)町
・・・・出生年月日は不明。父親が「岸 信周(のぶちか)」、母が「市の方(明智光綱の妹)」。
(e)「美濃国山県郡中洞」説
・・・・現在の岐阜県山県市中洞(なかほら)
・・・・全て不明。
(f)「美濃国石津郡多羅城」説
・・・・現在の岐阜県大垣市上石津町多良
・・・・享禄元年(1528)八月十七日の生れ。父親が「進士(しんじ)信周(のぶちか)」、母親が「土岐光綱の妹」。
(g)「美濃国可児郡顔戸(ごうど)城」説
・・・・現在の岐阜県可児市
・・・・全て不明。
(h)「美濃国方県郡福光(ふくみつ)」説
・・・・現在の岐阜県岐阜市福光近辺?
・・・・全て不明。
(i)「若狭国遠敷郡小浜」説
・・・・現在の福井県小浜市
・・・・享禄元年(1528)頃?。父親が刀鍛冶の冬広で、明智光秀は冬広の次男で、母親は武田義統(よしずみ・よしむね)の娘。
(j)「丹波国桑田郡明石」説
・・・・現在の京都市右京区
・・・・全て不明。
(k)「近江国犬上(いぬかみ)郡左目」説
・・・・現在の滋賀県犬上郡多賀町佐目
・・・・出生年月日は不明。父親が「明智光兼(みつかね)」、母は不明。

川口泰生著『明智光秀は生きていた―謎につつまれた生涯と最期―』2019年 64~84P

上記のように、明智光秀の誕生した年月日も、両親の存在すらも明らかな物はなく、謎の人物としか述べようがないのである。
・・・・・・資料1参照

第百三四十二回 中山ふれあいサロン 資料1

第百三四十二回 中山ふれあいサロン 資料1

2.「明智光秀の家族」について

この項では、明智光秀の家族等について目を向けてみると、

1 『明智軍記』を史料とする説。
『明智軍記』は、著者が誰かは不明で、元禄初~元禄十五年(1702)頃に書かれたのではないか?と推定されている著書である。この『明智軍記』を根拠とする説によれば、明智光秀は愛妻家で、「側室は一人も持たなかった。」とするものであり、その家族構成は、

明智光秀と煕子(ひろこ)の子供

  • 長女(名前不詳)・・・明智光春の妻となる。
  • 次女(名前不詳)・・・明智光忠の妻となる。
  • 三女(玉)(キリスト教に入信して、ガラシャを名乗る。細川忠興の妻となる。)
  • 四女(名前不詳)・・・津田信澄の妻となる。
  • 長男(光慶)・・・・通称は十五郎、天正十年(1582)六月十五日に死去。(異説が多い。)
  • 次男(光泰)・・・・幼名を「自然」と称した。山崎の合戦後に自害したとされている。(異説が多い。)筒井順慶の養子となる。
  • 三男(乙寿丸)

二木謙一監修『明智軍記』新人物往来社 1995年 343P

以上のように、明智光秀には、四人の娘達と三人の息子の七人の子供達がいた、とする説である。・・・・・・資料2参照

第百三四十二回 中山ふれあいサロン 資料2

第百三四十二回 中山ふれあいサロン 資料2

2 『明智系図』(続群書類従)を史料とする説。

『群書類従』は、塙保己一が、安永八年(1778)に古書を集めて編纂することを考え始め、寛政五年(1793)~文政二年(1819)にかけて木版によって刊行された叢書である。その『続 群書類従』の中に、『明智系図』が載せられており、これを史料根拠とする説では、明智光秀は正妻の煕子の他に数人の側室がいた、とする説である。その説によると、

明智光秀と煕子(ひろこ)の子供

  • 長女(養女?)・・・・菅沼定盈の妻となる。
  • 次女(養女?)・・・・桜井家次の妻となる。
  • 三女(名前不詳)・・・織田信澄の妻となる
  • 四女(名前不詳)・・・細川忠興の妻となる。
  • 五女(名前不詳)・・筒井定次の妻となる。
  • 六女(名前不詳)・・川勝丹波守の妻となる。
  • 長男(玄琳)・・・・妙心寺の僧となる。
  • 次男(安古丸)・・・山崎の合戦で戦死。
  • 三男(不立)・・・・天龍寺の僧となる。
  • 七女(名前不詳)・・ 井戸三十郎の妻となる。
  • 四男(十内)・・・・坂本城落城の時に戦死。
  • 五男(自然)・・・・坂本城落城の時に戦死。
  • 六男(喜多村保之)・・・・江戸町の年寄となる。

塙 保己一編纂『続 群書類従 第五輯下 系図部』
続群書類従完成会 昭和五十二年 193~194P

以上のように、七人の娘と六人の息子達となっており、全部で十三人(内、二人は養女)の子沢山となっている。明智光秀の正室である煕子は、天正四年(1576)に、48歳で死去しているが、いかに戦国時代の女性であったとしても、一人の女性が実質十一人の子供を産み続けたとは、考えにくいのではなかろうか?従って、ここに明智光秀には何人かの側室が存在していたのではないか?とする説も成り立つのかもしれない。・・・・・・資料3参照

中山ふれあいサロン 資料3

中山ふれあいサロン 資料3

以上のように、明智光秀については、その生涯の大半が謎につつまれていて、戦国史の研究家の中でも様々な説があって、確定的なものは一つもないのである。

まとめ

昨年の大河ドラマ「いだてん」では、俳優の「ピエール瀧」が薬物事件を起こして早々に不評をかい、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、ドラマが始まる以前に、女優の「沢尻エリカ」が薬物事件で逮捕される事態となり、NHK大河ドラマは不祥事件の連続である。
それでなくとも、今年の大河ドラマの主人公は、大悪人・謀叛人とのイメージが定着している「明智光秀」である。「明智光秀」の「祟(たた)り」から、今年の大河ドラマが、出演の俳優達の問題続発とならないよう、そして、一年間、「麒麟がくる」が従来の大河ドラマ以上に面白く、高い視聴率となることを願うのみしかない。

参考文献

次回予告

令和二年2月10日(月)午前9時30分~
令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」についての歴史的考察
歴史講座のメインテーマ「明智光秀の合戦絵巻」
次回のテーマ「明智光秀と足利義昭」について

明智光秀と足利義昭

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