明智光秀と足利義昭

第百四十三回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
令和二年2月10日

瀧  義 隆

令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に因んで「歴史講座」のメインテーマ「明智光秀の合戦絵巻」について
今回のテーマ「明智光秀と足利義昭」について

はじめに

令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、「明智光秀」の二十歳代の頃を想定して開始されているが、前回の「歴史講座」で示したように、「明智光秀」については、その生れも、生れた土地さえも全く不明な人物であって、出生から三・四十歳代頃までは、その存在を証明する史料は全く見当たらない人物である。従って、大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれている二十歳代の頃から三・四十歳代頃までの「明智光秀」は、何の史料的な根拠もない、脚本家の池端俊策氏の全くの独創なのである。

そこで、今回の「歴史講座」では、前回の「歴史講座」に引き続いて、比較的信憑性の高い史料を見ることによって、「明智光秀」が歴史上に出現したその経緯をみながら、前回に続いて、「明智光秀」の略歴と、「明智光秀」が仕えたとされている、「足利義昭」について、を列記してみたい。

1. 「明智光秀の略歴」について

史料『武家事紀』に見る「明智光秀」について

史料的にそれらしい物として、山鹿素行の『武家事紀』には、

「明智日向守光秀(反臣)初名十兵衛尉。 元 濃州明智の人なり。朝倉義景が家臣黒坂備中守が所につかえ、後、細川藤孝に仕う。藤孝が処を出で、直ちに将軍家義昭に奉公の列たり。もっとも武勇に長ず。六条合戦の時、惣門の警固は明智十兵衛たるべしと十七枚迄入札あり。これに因って光秀御所をかためて三好を防ぐ。而して信長越前朝倉退治に付き、所の案内者を求む。義昭則ち光秀を案内者たらしむ。これより光秀、信長につかえ大いに戦功を励ます。(後略)」

山鹿素行著『武家事紀』延宝元年(1673)成立
新人物往来社 昭和四十四年478P

「朝倉義景(あさくらよしかげ)」・・・越前国朝倉氏の第十一代の当主で、室町幕府の大名の一人である。天正元年(1573)八月に、織田信長に攻撃され、自害した。
・・・・・・・・・・資料1参照

朝倉義景

朝倉義景

「黒坂備中守(くろさかびっちゅうのかみ)」・・・黒坂備中守景久のことで、越前国の称念寺の住職の紹介により、明智光秀が仕えることとなった。

「細川藤孝(ほそかわふじたか)」・・・室町幕府第十三代将軍の足利義輝に仕え、義輝が暗殺された後は、足利義昭の擁立に尽力した。藤孝は武士であると共に、歌人でもある文武両道の人物であった。
・・・・・・・・・・資料2参照

細川藤孝

細川藤孝

「将軍家義昭」・・・・・室町幕府第十五代将軍の足利義昭のことである。(詳細次項記載)・・・・・・・・・・資料3参照

将軍家義昭

将軍家義昭

「六条合戦」・・・・・・永禄十二年(1569)一月五日に勃発した、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭岩成友通)による、足利義昭を襲撃した事件で、別名、「本圀寺の変」とも言われている。「惣門(そうもん)」・・ 外構えの大門や、城などの外郭の正門のこと。また、禅寺の表門も惣門と言う。

この史料によると、明智光秀は最初に朝倉義景の家臣である黒坂備中守に仕え、次に、細川藤孝に仕えた後に、足利義昭に仕えたとされているが、『明智軍記』を精査しても、明智光秀が足利義昭に仕えた事実は記載されていない。更に、この史料によれば、「義昭則ち光秀を案内者たらしむ」とあって、足利義昭の命令を受けて明智光秀が、永禄十二年(1573)一月五日の織田信長が越前の朝倉氏を攻めた時に、足利義昭の指示により、道案内役をしているとされているが、『明智軍記』をみると、

「明智十兵衛光秀ハ、越前ニ在リテ、朝倉義景ニ出頭シタリシガ、永禄八年ノ冬ノ比ヨリ、(中略)織田上総介信長ヨリ、明智ガ許ヘ、窃ニ賜書簡。被招ケルハ、(中略)某ハ、山城守ノ好ナレバ、光秀旧里ニ帰リ、家ヲ起シ、世上ニ名ヲモ知ヨカシト、再三懇ニゾ被申遣ケル。(後略)」二木謙一監修『明智軍記』新人物往来社 1995年 70P

この史料によれば、永禄八年(1570)には、既に織田信長からヘッドハンティングのように、朝倉氏を見限って、織田信長の下に来るように、との誘いを受けているのである。更に、

「永禄九年十月九日、越前ヨリ濃州岐阜ヘゾ参ケル。其比、光秀三十九トカヤ。(中略)信長、明智ガ滑稽ナル挙動ヲ御覧シテ、濃州安八州郡ニ四千二百貫ノ関所ノ在リケルヲ、十兵衛ニゾ下サレケル。」二木謙一監修『明智軍記』新人物往来社 1995年 70~71P

以上のように、永禄九年(1570)の十月には、明智光秀は織田信長に従属し、仕え始めたことがみてとれる。となると、山鹿素行の『武家事紀』に示された、永禄十二年(1573)一月五日「義昭則ち光秀を案内者たらしむ」とあるような、明智光秀が足利義昭の命令を受けることはありえず、この頃には、明智光秀は既に織田信長に従属する武将の一人であったから、山鹿素行の『武家事紀』の記載事項に疑義が生じ、その信憑性が薄らいでくるのである。明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、天正十年(1582)の六月のことであり、山鹿素行が生れたのが元和八年(1622)で、また、『武家事紀』が成立したとされているのが、延宝元年(1673)であることをみても、相互には、少なくとも40~90年の時間差があって、山鹿素行が明智光秀について書き著したのは、何を根拠としたものか?何の本を参考としたか?それさえも判らず、それ故に、『武家事紀』の不確実性が存在するのでは?とも考えられるのである。

『老人雑話』に見る「明智光秀」について

次に、江戸時代の初期に著されたとされる、儒医の江村専斎(せんさい)が語ったものを、友人の同じく儒医である伊藤担庵(たんあん)が記述した『老人雑話』を見ると、「老人雑話 上十八 明智、初め、細川幽齋の臣也、幽齋の家老、米田助左衛門など悪舗ありければ、明智、こらへず、信長に帰し、遂に、丹波一国五十萬石計近江にて、十一萬石を所領す、明智、常に云ふ、全く、米田が蔭なりと、(後略)」

物集高見・物集高量共著『廣文庫 第一冊』名著普及会 昭和五十一年 221P

「細川幽齋(ゆうさい)」・・・細川藤孝のことで、「幽齋」とは、歌人としての「雅号」である。
「米田助左衛門」・・・ 細川藤孝に仕えた、家老の米田助左衛門で、明智光秀に対してことごとく意地悪をする人物であった、と伝えられている。
「悪舗(あくほ)」・・・・いじめつづけること。しつように悪くいじめぬくこと。

以上の史料にみられる、「明智、こらへず、信長に帰し」
とあるように、細川藤孝の家臣である、米田助左衛門の「いじめ・そねみ」に耐えかねて、織田信長の下に走った、とするものであるが、明智光秀が織田信長に仕えたのは、直臣(子飼や歴代に仕える家臣)ではなく、「外様衆(とざましゅう)」と称される、外来の武将としての位置付けであり、直臣とは違って、主君とは一歩距離を置く存在の武士達のことである。この「外様衆」は、江戸時代の徳川幕府の「外様大名」とも相違するもので、織田信長の家臣団の中でも、その位置付けは微妙なものであったのである。・・・・・・・・資料4参照

織田家家臣団:明智光秀に位置付け

織田家家臣団:明智光秀に位置付け

この『老人雑話』の「老人」とは江村専斎であり、江村専斎が生れたのは、永禄八年(1565)であることが判っているので、明智光秀が本能寺の変を起こした時には、江村専斎は十七歳になっており、また、江村専斎が京都出身であることをも考慮に入れると、この『老人雑話』の信憑性は高いものといえよう。しかし、江村専斎自身、百歳以上生きていた人であって、伊藤担庵は江村専斎が何歳の時に聞き出して、その聞いた事を記述したか?不明であるから、江村専斎が如何に正確に記憶していたか?如何に正確に話したか?が問題となる。いづれにしても、『老人雑話』では、明智光秀が最初に仕えたのは、細川藤孝となっていて、『武家事紀』に示されている黒坂備中守景久については、何も記載されていない。どちらが正しいものなのか?現状では全く不明である。

2.「足利義昭」について

この項では、明智光秀が仕えたとされ、後に織田信長に利用され、ついには織田信長によって、京都を追放されて室町幕府を滅亡させてしまった、「足利義昭」について調べてみたい。

「足利義昭」の出自について

天文六年(1537)十一月十三日生
慶長二年(1597)八月二十八日没

父親・・・足利義晴(よしはる)(室町幕府第十二代将軍)
母親・・・日野永俊の娘?
兄弟・・・兄:足利義輝(よしてる)( 室町幕府第十三代将軍、三好三人衆によって殺害された。)
弟・・・足利周暠(しゅうこう)(幼い時から仏門に入っていたが、三好三人衆によって殺害された。)
正室・・・なし
側室・・・さこの方(宇野氏)
小宰相(こさいしょう)(大河氏)
一対局(いっつい?のつぼね)(出自不明)
春日局(かすがのつぼね)(出自不明)
大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(出自不明)
小少将局(こしょうしょうのつぼね) (出自不明)
子供・・・足利義尋(あしかがぎじん)(義昭の嫡子とされ、織田信長への人質として差し出された。一時仏門に入るも、後に還俗している。)
・・・一色義喬(いっしきよしたか)(義昭の家臣の一色氏に養育され、一色の姓を名乗った。)
・・・永山義在(ながやまよしあり)(義昭が京都を追放されてから生れた子供で、薩摩国の永山氏に婿入りした。)
・・・矢島秀行(やじまひでゆき)(滋賀県野州の矢島郷から矢島の姓を名乗った。詳細不明)
猶子・・・足利義演(?)

「足利義昭」の略歴について

天文十一年(1542)十一月二十日
・・・千歳丸(後の義昭)は、五歳になった時に、将軍家の跡目争いを避ける為に、出家させられて「覚慶(かくけい)」と名乗った。

永禄八年(1565)五月
・・・三好三人衆による「永禄の変」によって、室町幕府第十三代将軍の足利義輝と母の慶寿院、弟の足利周暠も暗殺されてしまった。一時、「覚慶」も捕えられたが、一色藤長等に助けられ、方々を逃げ廻り、甲賀郡矢島村等に隠れていた。ここを「矢島御所」と称した。

永禄九年(1566)二月十七日
・・・「矢島御所」において還俗(げんぞく)(僧侶から俗人に戻る事。)して、「足利義秋」と名乗り、この地から京都に戻り、将軍職に就任する機会を窺っていた。同年八月
・・・織田信長の上洛が失敗し、国内も戦乱が続いて混乱を極めていた為に、「足利義秋」も上洛する事が不可能となっていた。妹婿の武田義統(よしずみ・よしむね)を頼って若狭国に移動した。

永禄十一年(1568)四月十五日
・・・「足利義秋」は、「義秋」の「秋」の字が不吉であるとして、京都から前関白の二条晴良を越前国に招き、この地において元服式を行い、「義昭」と改名した。

同年九月
・・・越前国の朝倉義景を頼って、ここに移り住んだ。朝倉義景に上洛を要請したが消極的であった。浅井長政や織田信長の援護を受けて、ようやく上洛出来ることとなり、京都の「桑実寺」に遷座した。

同年十月十八日
・・・朝廷より将軍宣下を受けて、室町幕府第十五代将軍となった。

永禄十二年(1569)一月
・・・織田信長に命じて、兄の足利義輝も本拠とした烏丸中御門第(旧二条城)を整備させて、ここに室町幕府を復活することが出来た。

同年六月十四日
・・・織田信長は、「殿中御掟」という九カ条の「掟書」を将軍の足利義昭に承認させたことから、信長と義昭の間が不安定となった。元亀三年(1572)十月

・・・あからさまに織田信長に対立する義昭を封じ込める為に、信長は「十七条の意見書」を突きつけた。これに反発した義昭は、武田信玄に上洛を促し、信長打倒を試みた。

元亀四年(1573)四月
・・・足利義昭が頼みとしていた武田信玄が死去し、上洛中の武田軍が甲斐国に撤退してしまった為に、義昭は烏丸中御門第に籠る事とり、四月五日に信長との間に講和が成立した。

同年七月三日
・・・足利義昭は、烏丸中御門第を出て、槇島城に移って信長打倒の兵を挙げが、七月十八日になって、織田軍七万の攻撃を受けて、義昭はしぶしぶ信長に降伏、京都から追放された。
※以後、足利義昭は、河内若狭城に移り、また、紀伊国の興国寺に移り、更に、備後国の毛利輝元を頼ったり、山陽道の津之郷に移った後、天正十五年(1587)に、ようやく京都に帰還した。

天正十六年(1588)一月十三日
・・・ 豊臣秀吉と共に朝廷に参内して、将軍職を辞任し、受戒して名前を「昌山(道休)」と号した。慶長二年(1597)八月二十八日

・・・大坂で没した。

まとめ

今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は始まったばかりであるが、NHKとしては前年までの不祥事を挽回する為に、なりふり構わず視聴率向上の為の工作をしてくるはずである。民放も数多く「明智光秀」についてや、明智光秀の居城であった「坂本城」や「亀山城」・「福知山城」等の城探訪の番組を組んで、多角的に、より興味深く明智光秀を取り上げようとしている。

大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀も、その設定は、従来の悪人の明智光秀像とは相違する、善人としての明智光秀のようである。それに対して、主君となる織田信長の存在は、これからどうゆう位置付けになるのか?大いに想像をかきたてさせるものである。

参考文献

次回予告

令和二年3月9日(月)午前9時30分~
令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に因んで
歴史講座のメインテーマ「明智光秀の合戦絵巻」
次回のテーマ「織田信長」について

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