江戸時代中期の江戸社会

江戸時代中期の江戸社会
江戸時代中期の江戸社会

第百七十六回 サロン中山「歴史講座」
和七年7月14日

瀧 義隆

はじめに

大河ドラマ「べらぼう」の主人公である蔦屋重三郎は、 花の吉原 近辺で出版・販売等を手掛ける経営者である。江戸時代の中期頃に、 出版する本が、 売るのに価値があるかどうか?の読解力を持ち、更に、 その本が一般庶民に受け入られるかどうか?の営業判断力をも兼ね 備えた能力を有していなければ、 日本史上に名前が残るような人物 とはなっていないはずである。

蔦屋重三郎の前半生に関する史料的記述は全く存在しない為に、 蔦屋重三郎が何を学び、 何を修得していたか?も全く特定出来ない。 従って、今回の「歴史講座」 では、江戸時代の中期頃の一般的な庶 民達は、どのようにして教育を受けていたものか? について考察して みる事としたい。

「江戸の各階層の教育」について

周知の如く、江戸時代は厳格な身分制度が確立されていて、 農・工・商の四区分になっており、これに加えて、高貴な身分 の公家や僧侶等も特権階級として存在していた。
この項では、それぞれの身分でどのような教育がなされていた か?について列記してみる。

★「公家階級の教育」
公家の子弟には、 「家塾」 ・ 「私塾」 (知識人が自宅や塾を建て教育する場所)で教育が行われ、 「家督教育」と称する教育 が行われた。 内容としては、学問の他に、 公家の身分として の作法や礼儀及び朝廷に仕える為の基礎的な知識を教育し ていた。 これは、現在の「学習院大学」に受け継がれている。

★「僧侶達の教育」
僧侶の場合、その宗派によって、教育方法は大きく相違して いるが、ここでは、共通するものについてのみ提示してみた い。 日蓮宗や浄土宗では、 「檀林(だんりん)」と称する僧侶の 研究・修行の為の教育機関がある。 他の宗派に於いても、「談 所」「談処」・「法」 「義所」 ・ 「学寮」・「学林」 「林」等と称する教育機関があり、各宗派共に、 経典 教義・仏教
思想・哲学等を体系的に教育していた。

★「武士階級の教育」
本来は、寛永七年(1630)頃に設立された、 林家の家塾であっ た「聖堂学問所」を、 松平定信が、 「寛政の改革」によって 寛政九年(1797) に、 幕府直轄の学問所として制定し、名称も 「昌平坂学問所」と改めた。 この学問所には、旗本や御家人 等の幕臣の子弟達を対象としていて、 儒学 本草学・医学・ 兵学洋学書面等の学問を受けていた。 また、江戸市中に も、高名な蘭学者や儒学者がいて、私塾を設立して数学やオ ランダ語等の高度な教育もしていた。
地方の各藩には、 「藩校」 があって、 7・8歳には入学させて、 14・15歳頃に卒業となっていた。 「藩校」 では、剣術や 学 漢学等を教育しており、 入学試験として図書の漢文の日本語 訳を3回読み上げさせ、 間違ったり途中の部分を忘れた場合 には不合格となった。 その後3度試験があっても不合格の場 合には、 厳罰が課せられて、 嫡子ならば相続の時に減俸にな ったり、 罰金を取られたり、 役職制限の処分が下されたりし ていた。

「庶民の教育と寺子屋」について

この項では、庶民の子供達が通う「寺子屋」について、 史料を 元にその淵源等を調べてみると、

「東子三いにしへ児童の手習する者は、寺院へ行て学びし故、 今童蒙 の書家を寺と云、 寺屋と言、 南都にては、 アゼチと云て寺と はいはず アゼチは庵室の轉ぜし也、旧都にて寺とのみ云は、 興福寺をさして云、故に興福寺に封して、何某の寺も何がし の坊も、 庵室と稱し故也 、 」

『古事類苑 29 文学部 三』吉川弘文館 昭和四十三年 724P

「東子(とうゆうし)」享和元年(1801) の序文が書かれている作者の田宮仲宜 (たみやちゅうせん)の随筆である。
「南都(なんと)」…京都の南にある都の事で、奈良を意 味する。
「童(どうもう)」・・・・幼くて道理に暗い者の事で、幼稚な子供で、物事を良く理解出来ていない、少女のような人。
「庵室(あんしつ)」や世捨て人が住まう庵(いおり)の事である。
「旧都(きゅうと)」…古代における都があった場所を意味 し、上記の文面では、奈良を意味する。
「興福寺(こうふくじ)」・・奈良にある法相宗の寺院で、天智天 皇八年(669) に建立された。

以上の史料に示されているように、 本来、 「寺子屋」とは寺で子 供達が手習いする場所であり、それを「寺屋」と称し、 古代の奈 良では「アゼチ」と言っていたようである。これが語源となった、 と考えられる。
資料1参照 江戸庶民の子供達は、 近隣の「手習い塾」 「寺子屋」に行って 「読み・書き・算盤」等の教育を受けていた。 この子供達は、長 屋住まいの職人の子供や、表通りの「大店(おおだな)」と称され る大商店の子供達も一緒になって勉学をし、 幕末頃には、 武士の 子供達も 「寺子屋」に入る者も現れた。
子供達は、 6~7歳頃から 「寺子屋」 に通うようになり、男子 は 12歳頃、女子は14歳頃になると退塾し奉公先に行く事となっ ていた。 「寺子屋」 には、 午前 8 時頃に行って、 午後2時頃まで 勉強させられていた。 ただ、 午後になると、 家事の手伝いの為や、 遊び事の為に 「寺子屋」 には行かなかった者もいた。 また、 裕福 な商人の家では、三味線や琴等の習い事の稽古に行く者も多かっ
た。

「寺子屋」で習うには、「入門料」 を取る所もあり、 金一分 (15,000 円)を納めなければならない所もあった。 月謝は、江戸では年に5 回に分けて支払い、 一回に金一朱(約2万円)を納入していた。 ま た、地方では、月謝を物納する所もあって、 野菜や酒等で支払う 場合もあった。

「寺子屋」を営む先生を 「師匠」 とか 「手習い師匠」 とか呼ん でおり、庶民の中の知識人・武士・僧侶・神官・医者等が先生と なって、「寺子屋」 を経営していた。
高橋敏著『江戸の教育力』 筑摩書房 2007年

「江戸の教育内容」 について

1 「教育科目」について

教育の具体的な科目はどのようなものであったか?を見ると、
★公家社会
有職故実・・・公家や武家の儀式や行事、官職・制度・風俗習慣等。
古典『古今和歌集』 や 『万葉集等』。
漢詩漢文・・『五山文学』・『詩経』 『楚辞』 等。
儀式行事・・・『公家日記』を読み解き、公家社会維持の為の知識として、朝廷の年間行事の方式 作法 等。

★武士社会
読み書き・・・基本的には、詩文・漢詩や「四書五行」等の書き写しや読み上げがあった。
算術・・・・和算と称する、日本独特の数学で、 「行列式」 と言う高度な計算方式等を学んでいた。
儒学・・・・中国の学者である、孔子の教えを基盤とする 学問で、人格形成 社会秩序等、 倫理政治の 規範を示した学問である。
朱子学・・・・中国の学者である、 朱熹 (しゅき)の教えで、 儒学の中の、 特に上下関係を重視する考え方 を体系化した学問である。
本草学・・・中国古来の学問で、 動物・植物・鉱物等を医 薬品とする学問である。
蘭学・・・オランダ語の書物を読み解き、 西洋の学術を 研究する学問である。
国学・・・『古事記』・『万葉集』等の日本の古典を分析し て、 古代日本の思想を明確にしょうとする学 問である。

★庶民一般社会
いろはの手習い・・・「かな文字」だけではなく、漢字の読みや、手本 に従っての「書き方」も行われていた。
算術・・・「そろばん」 を中心としていたが、「九九」の暗 記や、「和算」と称される数学も学んでいた。
礼儀作法・・・道徳や社会に溶け込む為の基礎知識を学んでい た。 日常における「しつけ」 は厳しく教えられていた。
教科書・・・「江戸方角」「商売往来」 「消息往来」・「庭訓(て いきん) 往来」等で「往来物」とは平安時代から伝えられている「手紙文」をテキストとして 使用していた。
小泉吉永著『江戸の子育て読本』 (株)小学館 2007年

2 「江戸幕府の教育方針」 について

江戸幕府は、五代将軍の徳川家綱の治政の時、 将軍の補佐役を務めた保科正之は、幕府の政治体制の安定化を図る為、武士 が学ぶべき学問を朱子学と定めた。
保科正之は、 二代将軍徳川秀忠の子ではあるが、秀忠の正室 の 「お江与」の子ではなく、 「お江与」 に仕える女中の「お」 に手を付けてしまい生ませた子である。 幼名を「幸松丸」と名 付けられ、 正室の 「お江与」 に遠慮して秀忠は、信州高速の 保科正光の養子として出し養育させた。成長後、三代将軍とな った徳川家光は、 異腹の弟となる保科正之を、徳川家の見 人に命じて、 幕政の中心人物に就任させた。
このような背景を持つ保科正之は、幕府の秩序維持を図る為 にも、武士の本分を決定付ける学問は、儒学の流れを汲む朱子学」と定め、これに反対する兵学者の山鹿素行を、 播州赤穂 に配流処分にして、幕府の武士教育の基盤を確立した。
この 「朱子学」について史料を見ると、

「間合早學 學閊宗派 朱學を朱子とも云ふ、宋の朱子といる人にて、名は字 は元晦といふ、 比翁の間もつはら性理の事を説たり、性 理とは、人々生れてよりそなはりたる性を明らめさとりて、 道をおこなふをいふ也、また朱子程子などを宋ともいる、 (後略)
『古事類苑 28 文学部 二』吉川弘文館 昭和四十二年 758P

「熹元晦(きげんかい)」・・中国南宋の儒学者である。
「性理(せいり)」… 人間の本質と、 宇宙の原理を指す言葉 で、人間が持っている「善」なるものの 本質を示し、 人の心を構成する根本的な 要素である、とする考え方である。
「朱子程子」・中国の宋の時代における儒学者で、 兄が 程顥(ていこう)で、弟が程頭(ていしん) と称する儒学の学者である。
「宋儒(そうじゅ)」中国の宋の学問の「儒学」のこと。 以上の史料に示されている通り、 「朱子学」は中国の宋から伝来 した学問であり、根底には「儒学」の理論があって、それを、程頤と称する兄弟が、根本的に人間の持つ「理性」による「善」 なるものの規範を定義付けしたものと説明している。

まとめ

既に何度も指摘している通り、大河ドラマの主人公である蔦屋重 三郎についての明確な史料が存在していない為に、この講座におい ても、史料を元にした解説を述べる事は不可能となっていて、江戸 時代についての研究図書から推測せざるを得ないのが実状である。

そもそも、「べらぼう」の物語事態、 脚本家の森下圭子氏の単なる 想像でしかなく、話の範囲も江戸吉原という狭いもので、更に、話 の内容も「江戸の出版業界」といった特定のものであるが為に、話 が小さくなってしまっている。それ故に、大河ドラマの根幹となる 主人公の一貫したストーリーが見え難くなっていて、場面場面の 一つ一つがバラバラな感じがして 「面白味が全くなくなっている。」 と思われる。

このような結果を生んでいるのは、 脚本家の森下圭子氏の問題で はなく、これを今年のNHK大河ドラマに選定した担当者の責任が 大である、 と言わなければならない。

参考文献

次回予告

令和七年8月11日(月) 午前9時30分~
令和七年 NHK大河ドラマ「べらぼう一蔦重栄華乃夢(つたじゅ うえいがのゆめばなしー)」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期の江戸社会」 について
次回のテーマ「江戸の町内自治」について

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください