江戸の病気と医者

江戸の病気と医者
江戸の病気と医者

第百七十九回 サロン中山「歴史講座」
令和七年11月10日

瀧 義隆

令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし―)」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
今回のテーマ「江戸の病気と医者」について

はじめに

寛政九年(1797)、蔦屋重三郎は、脚気を患い、48歳で死去してしまった。江戸時代中期頃の平均寿命が35~40歳ではないか?と推定されていることからすると、蔦屋重三郎は少しは長生きだったのかもしれない。
江戸時代の中期頃、それまで玄米を食べていた庶民達が、武士階級に習って「白米」を食べるようになり、それも、一膳だけではなく、「おかず」を少なくして、「白米」だけをドンブリで二杯も三杯も食べるようになったことから、ビタミンB1不足となり、結果、脚気で命を落とすことが多くなっていた。それ故、蔦屋重三郎もビタミンB1不足によって脚気が元となって、心不全か呼吸困難となって死去したものと考えられる。
もう一つ多かったのが「虫歯」である。歯磨き粉が流通していない江戸時代、長屋等に住む庶民達は、食前・食後に歯磨きをするような習慣はあまりなかった。起床後に共同の井戸で顔を洗い、口の中を「すすぐ」か、竹製の簡単なブラシで歯を磨く程度であった為に「虫歯」に悩む者が多く、歯医者もろくにない時代の為、「虫歯」が進行して「敗血症」になり、細菌・ウイルス・真菌が血液中に入って全身に回って臓器不全となって死亡するのである。
そこで、今回の「歴史講座」では、江戸時代の人々はどのような病気になり、どんな薬を服用し、医者はどんなだったか?に視点を当ててみることとしたい。

1.「江戸の病気」について

江戸時代中期の江戸市中の人口は、約100万ではなかったか、と考えられており、また、常に関東近辺の地方から若者を中心として流入・流出が激しくなり、それ故に、一旦、流行性の病気が発症すると、地方から江戸へ、逆に、江戸から地方へと病気の感染が拡大し、時には大勢の死者を出す大事件ともなっていた。 この項では、大流行となった江戸時代の感染症や通常の病気について述べてみたい。

① 江戸中期の「感染症」の流行

宝暦三年(1753)・・・4月~9月頃まで、「痲疹(ましん)(現在の「はしか」)が大流行し、多数の死者が出た。
明和六年(1769)・・・1月から3月頃まで、全国的に風邪が大流行となった。
明和八年(1771)・・・1月頃、「痘瘡(とうそう)(現在の天然痘)」が大流行する。
明和九年・安永元年(1772)・・・4月~5月ころまで、全国で疫病(天然痘・はしか・コレラ等)が流行する。幕府は、全国に「朝鮮人参」を配布した。
安永二年(1773)・・・春頃に全国的に疫病が流行し、幕府は江戸の各町内に「朝鮮人参」を配布した。
安永四年(1775)・・・奥州で疫病が流行する。
安永五年(1776)・・・2月頃、江戸で風邪が大流行となる。
安永九年(1780)・・・夏頃に、蝦夷で疫病が流行し、死者が647人となった。
天明四年(1784)・・・全国的に疫病が流行し、幕府は諸国に処方箋を配布した。また、夏には、諸国で大飢饉となり、疫病も流行して、死者が多数となった。
寛政八年(1796)・・・1月、幕府は白牛酪(はくぎゅうらく)(現在のバター)を薬種として販売を布告した。

笠原浩著『江戸時代の医療』幻冬舎 2022年

② 江戸中期の「感染症」の種類

次に、江戸中期頃にどのような「感染症」が流行したか?を調べると、
「痘瘡(とうそう)」・・・「天然痘」のことで、ウイルスによる感染症で死亡率も高かった。
「痲疹(はしか)」・・・高熱を発する感染症であり、特効薬もなく、「痲疹絵(ましんえ)」等と称する木版画が売られて、これを護符とした。
「水疱瘡(みずほうそう)」・・・特に怖れられた疫病であり、一生に一度の病と信じられていて、赤色の物が魔除けとなると信じ、「赤絵」・「疱瘡絵」を好んで護符とした。
「瘡毒(そどく)」・・・「梅毒」のことで、性感染症であり、色里の遊女を通じて広まり、「不治の病」とされていた。
「黒死病(こくしびょう)」・・・現在の「ペスト」のことで、人獣共通の病で、感染者の皮膚が内出血して紫黒色になることから、「黒死病」と言われるようになった。
「虎狼痢(ころり)」・・・「コレラ」や「赤痢」のことで、急激な脱水症状になり「コロリと死ぬ」ことから、この名が生れた病である。江戸で一端「赤痢」が出ると、水利事情がかなり悪い為、上水道を通して広く感染していた。
「瘧(おこり)」・・・マラリアのことで、マラリア原虫によって引き起こす病であり、蚊が媒体となって江戸で広く流行した。

③ 「通常の病気」

「疝気(せんき)」・・・男性の下腹部の痛みを指す病気で、神経性腸炎・寄生虫症・筋肉痛・睾丸炎・脱腸(ヘルニア)等の病気。
「癪(しゃく)」・・・胆石のことである。
「血の道」・・・婦人病で、生理痛・お産後の症状・のぼせ等の症状。
「疳(かん)の虫」・・・寄生虫症
「労咳(ろうがい)」・・・肺結核のことで、「労」は働き過ぎにより「咳」が出る、と考えられていて、身体の衰弱が原因であると理解していた。
「腫病(しゅびょう)」・・・「腫瘍(しゅよう)」等の細胞の塊のことで、「癌(がん)」等であった。
「江戸患い」・・・「脚気(かっけ)」のことで、江戸から地方に戻ると治ってしまうことから、「江戸患い」と称されるようになり、ビタミンB1不足が原因であった。
「消渇(しょうかつ)」・・・糖尿病のことである。口の中が何時も渇いているような状態で、多量の水を飲むことから、このような名前の病となった。 ※江戸時代には、「肺がん」や「胃がん」等はなかった、とする説もあるが、戦国時代の武田信玄の死因は「胃がん」ではなかったか?とする説もある。また、タバコの普及等を考慮すると、「肺がん」や「胃がん」等もあったものと考えられるが、当時の医学では、症状を正確に把握することが出来ず、不明のままで処理していたものと考えられる。

④「庶民の薬は?」

江戸のみならず、地方の多くの庶民達にとって、医者にかかって治療を受けることは、金銭的に大きな負担となっていた。従って、古来から親から子へと伝わる、どこにでも自生している「薬草」の利用しかなかった。 庶民の身近な「薬草」を調べてみると、
「吾亦紅(われもこう)」・・・徳川八代将軍吉宗は、従来、中国からの輸入に頼っていた薬草を国内産にするよう奨励し、特に、富士山麓の忍野八海での「吾亦紅」栽培に力を入れた。「吾亦紅」は、血止メ・下痢止メ・痔の出血止メ・火傷・湿疹・皮膚病等の改善。
「モグサ」・・・血行促進・鎮痛・消炎効果・胃腸改善・殺菌止血効果・冷え性、肩こり改善等。
「ゲンノショウコ」・・・整腸改善・下痢止め・慢性胃腸病治療・扁桃腺炎改善。
「梅」・・・疲労回復・食欲増進・消化促進・整腸作用・血流改善・高血圧予防。
「アカザ」・・・歯痛緩和・虫刺され治療・強壮作用・湿疹痒みの改善。
「薄荷(はっか)」・・・消化促進・抗菌効果・虫よけ・肩こり改善・鼻づまり改善・胃もたれ改善。
「センブリ」・・・唾液胃液分泌促進・育毛作用・下痢止め。
「生姜(しょうが)」・・・血行改善・消化促進・吐気防止。
「煎茶」・・・風邪予防・便秘解消・生活習慣病。
「ドクダミ」・・・解毒・高血圧改善・皮膚病治療・利尿促進・殺菌作用・肌荒れ改善・虫よけ・腫れ物改善。※ドクダミは、乾燥した物は効果がなく、生のままで使用すると、効果がある。
「イチヂク」・・・便秘解消・止血薬・血圧降下・喉痛改善。
「オオバコ」・・・咳止め・整腸薬・利尿作用。
「露草(ツユクサ)」・・・解熱作用・消炎作用・下痢止め・虫刺され・腫れ物改善・あせも防止。
「ヌルデ」・・・「五倍子(ごばいし)」とも言い、下痢止め・止血・咳止め。
「フジバカマ」・・・むくみ改善・糖尿病・皮膚の痒み改善・神経痛改善。
「ヤマモモ」・・・「山桃」の樹皮を用いて、下痢止め・解毒作用・打撲捻挫等の治療・疲労回復・腸内改善・便秘薬。
「竹瀝(ちくれき)」・・・竹を炙って出た油を冷たくして、解熱剤・咳止め剤とした。 実践漢薬学、

三浦於菟著『薬草辞典』東洋学術出版社 2012年

2.「江戸時代の医者」について

「医師」について、その歴史を探ると、律令時代には、天皇や皇族達に仕える「侍医」なる者がいて、診療や投薬を行っており、「典薬寮」に所属して天皇や皇族達の健康管理をしていた。奈良時代頃から鎌倉時代には、仏教僧が医療を担うことが多く、「看病禅師」や「看病僧」とも言われ、病人の看病だけではなく、「祈祷(きとう)」等も行っていた。室町時代に入り、合戦が続くようになると、戦場での負傷者の治療や、戦死者の弔い等も行い、「金創医(きんそうい)(現在の外科医師)」として活躍していた。 江戸時代に入ると、地方での村々には「村医師」がいて、村人の病気の治療だけではなく、村の運営や教育等にも携わり、「医者殿」とか「医者どん」等と呼ばれて尊敬されていた。

① 江戸の「医者」について

江戸の「医者」について『古事類苑』で確認すると、 「醫師 醫師ニハ、典薬頭、奥醫師、番醫師、寄合醫師、小普請醫師、養生所醫師等アリ、 典薬頭ハ、諸醫師ノ上席ニ位シ、半井、今大路二氏ノ世職ナリ、若年寄ノ支配ニシテ、従五位下ニ叙シ、半井ハ千五百石高、今大路ハ千二百石高ナリ、 奥醫師ハ御近習醫師トモ云ヒ、數人アリ、毎日登城シテ、将軍及ビ奥向の人々ヲ診察ス、若年寄ノ支配ニ屬シ、二百俵高ニシテ、番料二百俵ヲ給ス、西丸ニモ亦奥醫師アリ、 番醫師ハ、表御番醫師トモ稱シ、殿中表方ニ病人アル時之ヲ診ス、若年寄ノ支配ニ屬シ、祿高二百俵以下ノ者ニハ、番料百俵給ス、 小普請醫師ハ、武士町人ノ病ヲ治療シテ、其技ヲ練修スルナリ、小普請組ノ支配ニ屬シ、三十人扶持ヲ給ス、 養生所醫師ハ、小石川養生所ニ常勤スル醫師ニテ、其肝煎ハ小川氏ノ世職ナリ、肝煎ノ外ニ本道二人、外科二人、眼科一人アリ、多クハ寄合小普請等ノ醫師ヨリ出役シ、其役料モ各〃等差アリ、其他奥詰醫師、目見醫師等アリ、」 『古事類苑 17 官位部 三』

吉川弘文館 昭和四十三年 864P

「典薬頭(てんやくのかみ)」・・・本来は、律令時代の典薬寮の長官のことで、江戸幕府においては、医官制度の最高位の役職である。
「奥醫師(おくいし)」・・・江戸城において、将軍や奥向の人々の診療にあたる医者である。
「番醫師(ばんいし)」・・・江戸城内の病人の診療をする医者で、「表番医師」・「御番医師」とも言われていた。
「寄合醫師(よりあいいし)」・・・特に医術に優れた市中の医師で、通常は登城せず、不時の時には江戸城に入り診療する医師のこと。
「小普請醫師(こぶしんいし)」・・・江戸幕府の旗本や御家人を診療する医師のことで、幕府から直接奉禄をもらうのではなく、小普請組に所属していた。
「養生所醫師」・・・ 医学館で学んでいる医師のことで、幕府のみならず、各藩にもこの類の医師がいた。
「半井(なからい)」・・古来からの「和気(わき)」氏の流れをくむ一族で、室町時代後期に半井明親が半井氏の家名を隆盛にした。江戸幕府になり、典薬頭を務める家柄となった。
「今大路(いまおおじ)」・・・・曲直瀬(まなせ)道三の流れを汲む一族で、代々医師の宗家として江戸幕府の典薬頭を務めていた。

以上の史料に見られるように、江戸幕府内における医師の位置も高く、高禄で優遇されていたことが見てとれる。その裏には、江戸城内に於いても、身分の上下に関わらず、様々な病人がいたのではないか、と推慮出来るのではなかろうか。笠原 浩著『江戸時代の医療』幻冬舎 2022年

②「江戸時代中期頃の著名な医師」について

江戸時代中期頃の著名な医師を列記すると、
「安藤昌益(あんどうしょうえき)」・・・元禄十六年(1703)?月~宝暦十二年(1762)十一月二十九日出羽国秋田郡二井田村生れ、豪農の家の利発な子で、元服後に京都に出て仏門で修行後、医師の味岡三伯に弟子入りし、修行の後に八戸に帰り医師として開業した。
「杉田玄白(すぎたげんぱく)」・・ 享保十八年(1733)九月十三日~文化十四年(1817)四月十七日江戸の牛込の小浜藩酒井家の下屋敷で、小浜藩医の杉田甫仙の三男として誕生した。小浜藩の藩医でありながら、江戸日本橋で町医者もしていた。
「華岡青州(はなおかせいしゅう)」・・ 宝暦十年(1760)十月二十三日~天保六年(1835)十月二日紀伊国那賀郡の生れで、華岡直道の長男である。22歳の時に京都に出て、吉益南涯や大和見水等に医学を教わり、天明五年(1785)に帰郷して父の跡を継いで開業する。後に、日本で初めて麻酔薬を使用しての乳ガン等の手術を行った。
「箕作阮甫(みつくりげんぽ)」・・寛政十一年(1799)九月七日~文久三年(1863)六月十七日美作国(現在の岡山県北東部)津山藩の町医者である箕作貞固(ていほ)の第三子として生れ、文化十三年(1816)には京都に出て竹中文輔から医学を三年間かけて学び、文政二年(1819)には帰郷して開業した。蘭学者でもあり、後の東京大学の前身ともなる江戸幕府の「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」の首席教授ともなった人物である。

小野真孝著『新潮新書 江戸の町医者』新潮社 1997年

3.「江戸時代の医療機関」について

江戸時代には、医師についての資格試験があったわけでもなく、勝手に自己申告によって「医師」を名乗っていた。身分的には高く名字帯刀が許され、剃髪して僧侶のような身なりをしていた。
医者には、世襲の者の他に、地方から豪農の子供が、江戸に在住する医者の下に弟子入りし、10~20年かけて修業を重ね、医療の技術を習得した後に、独立開業を目指すのである。幕府に仕える医者は、幕府が設置して「医学館」で学んだり、
長崎に行って西洋医学を身に付けて幕府の医師となったり、開業する者もいた。

次に、江戸の医療機関に目を向けると、
「医学館(いがくかん)」・・・「小石川養生所(こいしかわようせいじょ)」・・・江戸幕府が、町医者の小川笙船(しょうせん)の提案を受けて享保七年(1722)に設立した、江戸庶民を相手とするむりょう無料の医療施設である。「内科」・「外科」・「眼科」等の診療をしていた。
「町医者」・・・・江戸や京・大坂等の大都会には、庶民を相手とする医者がいて、病気やケガ等の治療の他に健康相談や薬の調合も行い、庶民の生活と密着した存在であった。多くは世襲制であり、後継ぎがいない場合のみ、弟子をとって養成していた。町医者には、徒歩で患者の家を回る「徒歩医者」や駕籠に乗って往診をする「乗物医者」等もいた。
「巫医(ふい)」・・「巫女(みこ)」と医者の両方の役割をする者のことで、古来、中国から伝わった「呪薬(じゅやく)」や「呪具(じゅぐ)」等を使い、巫術をもって治療する方法である。

笠原 浩著『江戸時代の医療』幻冬舎 2022年

まとめ

今年の大河ドラマ「べらぼう」も、悪評の中、最終回を迎えるが、過去における大河ドラマを振りかえっても、一般向けしない人物を中心にする物語は、どうしても不人気となってしまう。「わかる人にはわかる。」、そんなドラマでは、多くの大河ドラマファンを無視した考え方としか言いようがない。大河ドラマは、やはり誰でも理解し得るものでなければならない。それ故、我々大衆は高額な「受信料」をNHKに払っているのである。
来年の「豊臣兄弟」が面白いものであることを期待したい。

参考文献

次回予告

令和八年1月12日(月)午前9時30分~
令和八年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の時代考証。
歴史講座のメインテーマ「天下を取った」について
次回のテーマ「豊臣兄弟の幼年期」について

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