第百五十八回 サロン中山「歴史講座」
令和五年11月13日
瀧 義隆
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
今回のテーマ「晩年の家康」
はじめに
慶長十年(1605)四月十六日、家康は「征夷大将軍」の地位を、徳川秀忠に譲位して、自らは「大御所」となって、「江戸城」から「駿府城」に移住して隠居生活に入ったが、実際は徳川政権の実権を掌握したままで、勢力的に活動を維持していた。
人間、いかに貴人であっても、名も無い人間であっても、必ず人生の最後はやってくる。さしもの戦国時代の英雄「徳川家康」にも終焉の時が迫っていた。
1.「家康の側室」について
徳川家康の晩年について調べてみると、なんと、家康が49歳の時に、僅か13歳の少女を側室にしているのである。更に、67歳の老齢になっても、再度、13歳の少女を側室にしている。秀吉が多くの側室を設けたのも問題だが、家康も13歳の少女と男女関係を結んでいるのであり、少女趣味の変態老人である。これが現代だとすれば、大犯罪となり、幼児・少女の性虐待で牢獄入りは間違いないことであろう。
そこで、この項では、家康が生涯の内で、側室がどれぐらいいたのか?について調べてみたので、次に、その結果を列記してみたい。
①「小督局(こごうのつぼね)」
本名・・・・「お万」
天文十六年(1547)?~元和五年(1619)十二月六日
永見貞英の娘で、「於古茶(おこちゃ)」・「松」・「菊子」・「於故満」・「於万の方」等と称され、家康の正室である築山殿の侍女であったが、家康の側室となった。天正二年(1574)二月八日に「於義伊(おぎい)(後の結城秀康)を産んでいる。
②「西郡局(にしのこおりのつぼね)」
本名・・・・「お葉(よう)」
?~慶長十一年(1606)五月十四日
今川氏の人質となっていた、正室の築山殿・嫡子の松平信康・長女の亀姫と、鵜殿長照の子供の氏長・氏次の兄弟との人質交換の時、「お葉(よう)」も松平家康の所に人質となり、その結果、家康の側室となった。
③「西郷局(さいごうのつぼね)」
本名・・・・「お愛(あい)」
永禄五年(1562)?月?日~天正十七年(1589)五月十九日
戸塚忠春の娘で、「お愛」は美人で、実家筋の親戚と二度結婚しているが、未亡人となってしまった事から、天正六年(1578)に家康から側室に望まれ、西郷清員の養女となり、当時浜松城に居た家康の側室になった。天正七年(1579)四月七日に、「長丸(後の二代将軍、徳川秀忠)」を産んだ。天正十七年(1589)、28歳で死去してしまった。・・・・・・・・・資料①参照
④「阿茶局(あちゃのつぼね)」
本名・・・・名前は「お須和」である。天文二十四年(1555)二月十三日~寛文十四年(1637)一月二十二日
父は甲斐武田の家臣であった飯田筑後守直政で、絶世の美女であった、と伝えられている。天正元年(1573)、25歳で未亡人なっていたが、家康に請われて側室となった。天正十二年(1584)三月からの「小牧・長久手の戦」の時も戦場まで同行させるほど、家康は「阿茶局」を寵愛したが、この無理が原因か?「阿茶局」は流産してしまい、その後、子供を産む事が出来なくなってしまった。寛永十四年(1637)一月二十二日、83歳で死去した。・・・・・・・・・資料②参照
⑤「下山殿(しもやまどの)」
本名・・・・「お都摩(つま)」
永禄八年(1565)?月?日~天正十九年(1591)十月六日
甲斐武田の家臣であった、秋山越前守虎康の娘で、天正十年(1582)頃に家康の側室となり、天正十一年(1583)に、家康としては五番目となる「万千代(後の武田信吉)」を出産した。天正十九年(1591)十月六日に24歳で死去した。
⑥「お松(まつ)」
本名・・・・詳細不明。
出生も没年も全く不明。『源流綜貫』を出典とする説では、「お松」は家康の子の「松平民部」を出産したとされ、この子は、家康の厄年に生まれた為に、家康の次男の結城秀康の養子に出されており、35歳で病死した、とされている。
⑦「茶阿局(ちぁのつぼね)」
本名・・・・「お久(ひさ)」
天文十九年(1550)?月?日~元和七年(1621)六月十二日
百姓の生れで、鋳物師の後妻となっていたが、「お久」が美人であったことから、この地の代官が横恋慕し、鋳物師を謀殺してしまった。これを恨んだ「お久」は、夫の仇討を家康に直訴したことから、家康にみそめられ、浜松城に召し出されて側室となった。天正二十年(1592)に、「辰千代(後の松平忠輝)」を出産し、文禄三年(1594)には「松千代」を出産したが、「松千代」は6歳で早世している。「茶阿局」は聡明な女性であったようで、奥向の事は全て任されていて、政治力も発揮する人物であったと伝えられている。元和七年(1621)六月に72歳?で病死した。
⑧「於竹(おたけ)」
本名・・・・「お竹(たけ)」
?~寛永十四年(1637)三月十二日
甲斐武田の家臣であった、市川十郎左衛門尉昌永の娘で、奥勤めをする侍女であったが、家康が側室とした。天正八年(1580)に家康の三女となる「振姫(ふりひめ)」を出産した、とされているが、不明な点が多い。寛永十四年(1637)に「お竹」は死去してしまい、江戸の「西福寺」に葬られた。
⑨「お仙(せん)」
本名・・・・「お仙(せん)」
?~元和五年(1619)十月二十五日
甲斐武田の家臣であった、宮崎筑後守泰景の娘で、天正年間に家康の側室となったが、詳細は不明の女性である。元和五年(1619)に駿府城で死去し、最初、藤枝の「浄念寺」に葬られたが、後に故郷の信濃国の「浄久寺」に改葬された。
⑩「お牟須(むす)」
本名・・・・「お牟須(むす)」。
?~天正二十年(1592)七月二十六日
甲斐武田の家臣であった、三井十郎左衛門吉正の娘で、最初、同族の三井弥一郎の妻となったが、弥一郎が戦死した為、天正十二年(1584)頃に家康の側室となった。家康が41歳の時である。駿府城に居住していて、家康のお気に入りの側室であった、と伝えられている。
家康が、天正二十年(1592)に秀吉の命令で朝鮮出兵の為に、肥前国の「名護屋城」に出兵した時に、「お牟須」を同行させたが、本陣で産気づき、難産の末に、母子共に死去してしまった。
⑪「お亀(かめ)」
本名・・・・「お亀」
天正元年(1573)?月?日~寛永十九年(1642)九月十六日
石清水八幡宮の祠官の志水宗清の娘で、竹腰正時に嫁ぎ、正時が病死すると、次に、石川光元の側室となったが、光元とは離縁となり、文禄三年(1594)、21歳の時に家康にみそめられて側室となった。文禄四年(1595)三月に、「仙千代」を出産するが、「仙千代」は6歳で死去してしまう。慶長五年(1600)十一月、「五郎太丸」を出産した。「五郎太丸」は、後に尾張徳川家の当主となる徳川義直のである。・・・・・・・・・資料③参照
⑫「お久(ひさ)」
本名・・・・「お久」?~元和三年(1617)二月十七日
後北条氏の家臣であった、間宮康俊の娘で、文禄元年(1592)頃に家康の側室となったか?。文禄四年(1595)に、家康の四女となる「松姫」を出産するが、「松姫」は慶長三年(1598)に、4歳で死去してしまった。「お久」は、元和三年(1617)二月十七日に、駿府城で死去した。
⑬「お梶(かじ)」
本名・・・・「お勝(かち)」か「お八」ではないか、と考えられている。
?~寛永十九年(1642)?月?日
江戸城を築いた太田道灌の孫娘にあたり、太田康資の娘である。秀吉から駿府から江戸に移封を命じられて、江戸城を築き、江戸を本拠地としたが、その際、名家の者を江戸城に集めたが、太田康資は京都にいた為に、代わりに娘の「お八」を江戸城に召し出した。家康は「お八」を気に入り側室としたが、「お八」が13歳で、家康とは36歳ほどの歳の差があった。「お八」は、「関ケ原の戦」の時も陣中に同行しており、実の娘のように可愛がった、とされている。「お八」は、「関ケ原の戦」後に、「お梶」か「お勝」に名前を改めさせられている。慶長十二年(1607)、「お梶」が30歳の時に、「市姫」を出産するが、「市姫」は4歳で死去してしまった。寛永十九年(1642)に死去してしまう。
⑭「お万(まん)」
本名・・・・本名が「お万」
天正八年?月?日~承応二年(1653)八月二十二日
正木左近大夫邦時の娘で、天正十八年(1590)頃に奥勤となった後に家康の側室となった。後に「蔭山殿(かげやまどの)」と称され、紀州徳川氏の当主となる、徳川頼宣と、常陸徳川氏の当主となる徳川頼房の母である。大変美人であって、他人に心配りの出来る優れた女性であったと伝えられている。承応二年(1653)八月二十二日に死去した。
⑮「お奈津(なつ)」
本名・・・・「お夏」か?
天正九年(1581)?月?日~万治三年(1660)九月二十日
家康が56歳の時の側室で、「お奈津」は17歳であった。父は伊勢北畠家の家臣であった長谷川藤直で、慶長二年(1597)に家康の側室となったが、子供は生まれなかった。家康が死去するまで約20年間、家康の元に仕え、万治三年(1660)、80歳で死去し、法名は「清雲院」である。
⑯「お梅(うめ)」
本名・・・・「お梅」そのまま、と考えられる。
天正十四年(1586)?月?日~正保四年(1647)九月十一日
父親は、豊臣氏一門の家臣で、青木紀伊守一矩である。慶長五年(1600)、「お梅」が15歳の時に家康の側室となり、家康は当時、59歳であった。後に、本多正純の継室となった女性である。正保四年(1647)に死去した。
⑰「於六(おろく)」
本名・・・・「お六」
慶長二年(1597)?月?日~寛永二年(1625)三月二十八日
今川家の家臣であった、黒田直陣(なおのぶ)の娘で、家康の側室の「於梶」に仕える侍女であったが、美貌であったことから家康にみそめられ、慶長十四年(1597)に13歳で家康の側室となった。家康は67歳の時である。慶長十九年(1614)の「大坂冬の陣」の時には、「お六」も家康に同行した。寛永二年(1625)に「日光東照宮」で行われた家康の法事に参詣した際、29歳で急死した。
⑱「於富(おとみ)」
本名・・・・「お富(とみ)」ではないか、とされているが、生没年の詳細は不明である。俗名が「山田富子」であることから、清和源氏の一族出身ではないか?と考えられている女性である。
寛永五年(1628)に死去したとされていて、「池上本門寺」に墓があり、「東照権現逑遇(とうしょうごんげんきゅうぐう)」と刻まれている。「逑(きゅう)」とは、夫婦を意味する言葉とされている。
太田 亮著『姓氏家系大辞典 第二巻』角川書店 昭和五十二年 3932P 『日本女性人名辞典(普及版)』日本図書センター 監修者 芳賀 登他 1998年
徳川家康が、一生の内で側室としたのは上記の18人とみられるが、一説では20人であるとするものもあるものの、確証が得られていない。
2.「家康の好物と趣味」について
●「好物の食べ物」
「茄子の味噌焼き」・・家康は特に「折戸茄子」の味噌焼きを好み、「折戸茄子」は親指ほどの大きさでしかなく、5個で一両(現在の10万円程度)もする高価な「茄子」であった。「折戸(おりど)」とは、現在の静岡市清水区三保近辺である。
「麦飯」・・・・・・・米だけの飯ではなく、必ず麦を混ぜたものを主食とし、良く噛んで食べていた、と記録されている。味噌汁に沢山の具を入れたものと共に麦飯を食した。
「山芋」・・・・・・・静岡の摩機沼産の山芋を、蓮根と共にすりつぶした物を麦飯にかけて食した。
「八丁味噌(はっちょうみそ)」・・・・静岡岡崎産の八丁味噌を好み、味噌を麦飯にのせて食した。
「天ぷら」・・・・・・・特に鯛の天ぷらを好んで食べた、と伝えられている。
「安倍茶(あべちゃ)」・・静岡の北部に位置する井川大日峠で秋まで熟成させた茶を楽しんでいた。 永山久夫著『戦国武将と食』河出文庫 1990年
●「武術」・・・・・・・・剣術・砲術・弓・馬術等に励んでいた。
●「日常の趣味」・・・・・漢方の薬草を調合して楽しんでいた。また、囲碁や将棋も嗜んでいた。
●「鷹狩り」・・・・・・猛禽類の「タカ」・「ハヤブサ」・「ワシ」等を使って、兎・狐・狼等を捕えて、食していた。
※「鷹狩り」については、「日本書紀」にも記載があり、日本の4世紀頃には「鷹狩り」はあった、とされている。家康は特に「鷹狩り」を好み、一説では、生涯の内で1,000回も行なった、と伝わっている。
この「鷹狩り」の目的は、単に小動物の捕獲をするだけではなく、足軽等の軽輩を「勢子(せこ)」として鳥獣を追い出させる役目をさせるが、この「勢子」達をすばやく動かす状況判断や指揮命令の方法が、軍事訓練に役立つ、とされていて、多くの武士達も好んで「鷹狩り」をしている。
3.「家康の最後」について
徳川家康も、慶長十九年(1615)十一月の「大坂冬の陣」、そして、翌年の慶長二十年(1616)五月の「大坂夏の陣」で、宿敵の豊臣氏を壊滅すると、宿願の徳川氏の「天下人」の地位が盤石となった、と家康は確信したものか?次の年の元和二年(1616)の正月頃から体調を崩し、病魔に襲われるのである。これを史料で見ると、
『元和二年丙辰之正月、田中へ御鷹野に御成成レける処に、俄に御煩いつかせられて、次第次第に重り給ひて、卯月十七日に御遠行成レける。御遺言の儀、誰知りたる人ハなけれ共、申習ハしたるハ、「我ガむなしく成ならバ、日本国の諸大名を三年ハ国へ帰さずして、江戸に詰めさせ給へ」と仰ラレける時、大将軍之御諚にハ、「御遺言之儀、一つとして違背申まじき。然とハ申せ共、此儀におひてハ、御許され成ルべく候。左様にも御座候らへバ、若御遠行成レ候らハヾ、是より日本の諸大名をバ国へ帰申て、敵をなさば国にて敵をさせ、押かけて一合戦して、踏潰し申べク候。何様、天下ハ一陣せずしてハ治り申間敷」と仰ラレ候らへバ、其時、御手を合られて、将軍様をおがませられて、「其儀を聞き申度ために申つる。さては天下ハ静りたり」と御喜び成レて、其儘御遠行成レ候と申たり。下々にて、「さてもさても、将軍様之仰サレ様ハ承ごとかな」と、舌を巻ひて褒め奉たり。』
大久保彦左衛門忠教著『三河物語』編訳者 百瀬明治 徳間書店 1992年 282P
「元和二年丙辰(ひのえたつ)之正月」・・・西暦の1616年一月である。
「田中(たなか)」・・・・家康は、駿府城の西の守りとして「田中城」を造り、鷹狩りの時はしばしばこの「田中城」に滞在した。「田中」は現在の静岡県藤枝市である。
「卯月(うづき)」・・・四月のこと。
「御遠行(ごえんこう)」・・・死んでしまうこと。「遠逝(えんせい)」とも言う。
「大将軍(だいしょうぐん)」・・・徳川二代目将軍の徳川秀忠のこと。
「下々(しもじも)」・・徳川氏の家臣達や庶民達のこと。
上記の史料によれば、家康は元和二年(1616)の一月十七日に、駿府の田中の地で、「鷹狩り」をした後、発病し重篤になったことから、将軍の徳川秀忠が駿府城に駆けつけた際、家康が死後の心配をするのに対して、秀忠は、「是より日本の諸大名をバ国へ帰申て、敵をなさば国にて敵をさせ、押かけて一合戦して、踏潰し申べク候」
このように、日本全国の諸大名統制の自信を示して家康を安心させている。家康の死因については、以下に示すような諸説がある。
●薬物(漢方薬)の調合ミスによる、「ヒ素」・「水銀」等による死亡説。
●「食欲不振」・「腹部のつかえ」・「体重の減少」・「吐血」等があったことから、「胃ガン」によって死去した、とする説。
●第三者による「毒殺」説。等があり、確定的な説は見当たらないのが現状である。
『現代語訳 徳川実紀 家康公伝 4 逸話編』 大石 学・佐藤宏之・小宮山敏和・野口明隆編 吉川弘文館 161~171P
家康の死因については、明確な史料も研究報告もないが、いずれにしても、上記の史料にも見られるように、家康としては、「徳川の天下」を徳川幕府二代将軍の徳川秀忠に託しつつ、元和二年(1616)四月十七日、この世を去っていったのである。
家康の遺言に従い、遺体は駿府の久能山に葬られ、葬儀は徳川家の菩提寺である江戸の増上寺で行われ、位牌は家康の故郷の三河にある大樹寺に納められた。また、家康の遺言には、「一周忌が過ぎたら、日光の山内に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。」とあることから、秀忠はこの遺言に従い、元和三年(1617)に「神体」を久能山から日光に移したのである。
まとめ
豊臣秀吉の300人以上の側室達を置いたのも、秀吉が単に「好色だった。」とだけ言い切るものではなく、どの側室も誰一人として子供を出産しておらず、世継となる子供がいなかった事が、秀吉を「焦らす。」ものではなかったか、と考えられる。
これに対して、徳川家康は、高齢になるまで、着々と「子造り」に励んでおり、徳川の世を形成する為の大きな基盤を作り上げ、74歳(満73歳)の生涯を閉じたのである。
参考資料
参考文献
- 小和田哲男著『徳川家康―知られざる実像―』静岡新聞社 2022年
- 本郷和人著『徳川家康という人』河出書房新社 2022年
- 藤井譲治著『人物叢書 新装版 通巻300 徳川家康』吉川弘文館 2020年
- 二木謙一著『ちくま新書 139 徳川家康』筑摩書房 1998年
次回予告
令和六年1月8日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
次回のテーマ「紫式部に迫る」について
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