藤原氏の栄枯盛衰

第百六十四回 サロン中山「歴史講座」
令和六年5月13日

瀧 義隆

令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「藤原氏の栄枯盛衰」について

はじめに

大河ドラマ「光る君へ」では、「まひろ(紫式部)」の恋人であった「藤原道長」は、紫式部の創作する『源氏物語』の主人公である「光源氏」のモデルとなっており、無類のプレイボーイで、次々と女性
を渡り歩く「とんでもない男」である。(一説には、光源氏のモデルは、平安初期の公卿で歌人の在原業平である、とする。)

今回の「歴史講座」では、後年、「摂政・関白」にもなるような政治家として有能な人物でもある、このプレイボーイの「藤原道長」に代表される、「藤原氏」について主軸を置いて検証してみたい。

1.「藤原氏の始まり」について

「藤原道長」は、平安時代の最大名家である「藤原北家」の直系の子孫であり、その「藤原氏」のルーツを『日本書記』で探ってみると、

「天智天皇 八年十月十五日、天皇は東宮太皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を授けられた。姓を賜わって藤原氏とされた。これ以後、通称藤原内大臣といった。十六日、藤原内大臣(鎌足)は死んだ。(後略)」

宇治谷 孟著『日本書紀(下) 全現代語訳』講談社 2002年 234P

「天智天皇 八年」・・・西暦の669年のこと。
「大海人皇子(おおあまのおうじ)」・・・・後の天武天皇である。舒明天皇の第2皇子か?(詳細不明)
「大織の冠(たいしょっかん・たいしょかん)(だいしき)・・・・天武天皇十四年まで用いられていた最高の冠位とされていた。

藤原とは、現在の奈良県橿原市高殿町あたりの地名で、中臣氏(なかとみうじ)の祖先である「賊津(いかつ)」が仕えた允恭(いんぎょう)天皇の妃の宮があった場所との伝えがあり、大化改新で功績のあった中臣鎌足の生れた土地であった、とされている。中臣鎌足は、「藤原」の姓を賜った翌日に死去してしまった。鎌足の死去した後、これを継いだ「不比等(ふひと)」が正式に「藤原不比等」と名乗るようになった。更に、「不比等」に四人の子供がいて、

藤原武智麻呂(むちまろ)(長男)・・・藤原南家(なんけ)の祖となる。武智麻呂の邸宅が弟の房前の家の南に位置していたことから「南家」となった。
藤原房前(ふささき)(次男)・・・藤原北家(ほっけ)の祖となる。房前の家が武智麻呂の邸宅の北に位置していたことから北家となった。
藤原宇合(うまかい)(三男)・・・藤原式家(しきけ)の祖となる。宇合が式部卿を兼ねていたので「式家」となった。
藤原麻呂(まろ)(四男)・・・藤原京家(きょうけ)の祖となる。藤原麻呂が左京大夫を兼ねていたことから京家となった。

以上の「南家」・「北家」・「式家」・「京家」の藤原四家について、更に史料で調べてみると、

「今昔物語 二二今昔淡海公と申す大臣御しましけり、實の御名ハ不比等と申す、(中略)太郎の大臣ハ祖の御家よりハ南に住し給ひけれバ南家と名づけたり、二郎の大臣ハ祖の家よりハ北に住し給ひけれバ北家名付けたり、三郎の式部卿ハ官式部卿なれバ、式家と名付けたり、四郎の左京大夫ハ官の左京の大夫なれバ、京家と名付けたり、(後略)」物見高見・物見高量著『廣文庫 第十七冊』

昭和五十二年 名著普及会 567~568P

この史料によれば、藤原不比等の子供達は、「太郎」・「二郎」・「三郎」・「四郎」となっているが、これは四人の兄弟を単純に表現しただけの事と考えられる。以上のように四家に分割した「藤原氏」は、奈良時代の後期頃に一族の争いが生じ、平安時代に入ると、「南家」・「式家」・「京家」の三家が衰退してしまい、「北家」のみが残って隆盛を極める事となった。

「藤原氏の隆盛の始まり」

そもそも、「藤原氏」は、「藤原不比等」に見られるように、宮廷に仕える公卿達の内でも、上位の地位を占める家柄であり、代々「帝(みかど)・天皇」の近臣であり、かつ重臣であった。その子孫達が、より「藤原氏」の隆盛を築くのである。

①「藤原氏摂関政治」の始まり

藤原良房(よしふさ)・・・藤原冬嗣(ふゆつぐ)の次男である。嵯峨天皇に気に入られて、皇族以外の人臣として初めて摂政の地位に就いた人で、藤原北家全盛の礎を築いた人である。
摂政・・・貞観八年(866)八月十九日~貞観十四年(872)九月二日
藤原基経(もとつね)・・・藤原長良(ながよし)の三男である。藤原良房の養子となり、良房の死後に実権を手にした。清和天皇・陽成天皇・光考天皇・宇多天皇の四代にわたり政務を任されていた。日本史上、初めての関白に任じられている。
摂政・・・貞観十八年(876)十一月二十九日~元慶八年(884)二月四日
関白・・仁和三年(887)十一月二十一日~寛平二年(891)十二月十四日
藤原忠平(ただひら)藤原基経の四男である。兄の藤原時政(ときまさ)が早世した為に、政務の中心を担う事となり、朱雀天皇の時に摂政となり、続いて関白となり、村上天皇の初期まで長く政権を維持していた。
摂政・・・延長八年(930)九月二十二日~天慶四年(941)十一月八日
関白・・・天慶四年(941)十一月八日~天暦三年(949)八月十四日
藤原実頼(さねより)・・・藤原忠平の長男である。村上天皇の重臣として支え、有職故実に詳しく『小野宮故実旧例』を執筆している。また、和歌にも秀でている人物で、『後撰和歌集』に掲載されており、「笙(しょう)」や「箏(こと)」の名手でもあった。
関白・・・康保四年(967)六月二十二日~安和二年(969)八月十三日
摂政・・・安和二年(969)八月十三日~天禄元年(970)五月十八日
藤原伊尹(これただ・これまさ)・・・藤原師輔の長男である。冷泉天皇及び円融天皇に仕えた。和歌に優れており、『後撰和歌集』の編纂にも積極的に関わった人物である。性格的には贅沢好みであった、とされており、糖尿病の為に49歳で死去した。
摂政・・・天禄元年(970)五月二十日~天禄三年(972)十月二十三日藤原兼通(かねみち)藤原師輔の次男である。この人は、非常に輝くような美男子であったと『大鏡』には記載されており、酒の肴に雉(きじ)の生肉を食べる事を好んだ人である。藤原伊尹の発病により、急遽、後継者を定める必要に迫られた時、円融天皇の御前で、後任を争って弟の藤原兼家と口論する有り様であった。
関白・・・天禄三年(972)十一月二十七日~貞元二年(977)十月十一日
藤原頼忠(よりただ)・・・藤原実頼の次男である。後に藤原保忠の養子として出されたが、長男の藤原敦敏(あつとし)が死去した為に嫡男として戻された。
関白・・・貞元二年(977)十月十一日~寛和二年(986)六月二十三日

②「藤原氏摂関政治」の全盛期

藤原兼家(かねいえ)・・・藤原師輔の三男か?四男?である。兄の藤原兼通とは常に争いが絶えず、若くして策謀家であった。花山天皇を追い落して藤原北家の嫡流の地位を掌握した。
摂政・・・寛和二年(986)六月二十四日~永祚二年(990)五月五日
関白・・・永祚二年(990)五月五日~永祚二年(990)五月八日
藤原道隆(みちたか)・・・藤原兼家の長男である。『大鏡』や『枕草子』等によると、道隆は常に軽口をたたくよぅな朗らかな人物であった、と記している。
摂政・・・永祚二年(990)五月二十六日~正暦四年(993)四月二十二日
関白・・・正暦四年(993)四月二十二日~長徳元年(995)四月三日
藤原道兼(みちかね)・・・藤原兼家の三男である。『栄花物語』によれば、道兼の容姿は「常に顔色も悪く、毛深く醜かった。」・「非常に冷酷で人々から恐れられており、性格も面倒だった。」と記されている。
関白・・・長徳元年(995)四月二十七日~長徳二年(996)五月八日
藤原道長(みちなが)・・・藤原兼家の四男か?五男?である。(ドラマ大河では三男と設定している。)大河ドラマ「光る君へ」の主人公である、「まひろ(紫式部)」の初恋の人となっているが、その真実性は史料として明確に存在する物はない。また、兼家の三男と設定しているが、藤原氏の系譜を『新訂寛政重修諸家譜』で調べると、兼家には複数の「妻妾(さいしょう)」がいる為に、三男とは限定出来ず、四男か?五男の可能性もある。いずれにしても、道長は、藤原氏による摂関政治の全盛期の象徴でもある。
摂政・・・長和五年(1016)正月二十九日~長和六年(1017)三月十日★藤原道長が「摂政」の地位に就いて、政治の実権を握っていたのは、僅か一年半程度である。これは、父の藤原兼家に習って、早々の内に実権を息子に譲渡する事によって、藤原北家の者以外の介入を拒否し、一族での継承を防御する確実な方策を取った、と見ることが出来るのではなかろうか。

③「藤原氏摂関政治」の衰退期

藤原頼通(よりみち)・・・藤原道長の長男である。藤原氏による摂関政治の全盛期を、父の道長から受け継いだが、頼通の娘達を天皇の后にしたものの、娘達が男子を産まなかった為に、天皇との繋がりが薄れてしまった事や、「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」・「平忠常の乱」・「前九年の役」等の戦乱が相次ぎ政治不安定となった事から、急激に摂関家である藤原氏の権勢が衰退してしまった。
摂政・・・長和六年(1017)三月十六日~寛仁三年(1019)十二月二十二日
関白・・・ 寛仁三年(1019)十二月二十二日~治暦三年(1067)四月十六日
藤原教通(のりみち)・・・藤原道長の五男である。藤原教通の娘の「生子(せいし・なりこ)」と後朱雀天皇との間は仲睦まじいものであったが、男子を産む事が出来なかった。次の後冷泉天皇にも三女の「歓子(かんし)」を入内させ、待望の皇子を出産したものの、皇子は即日死去してしまった。以後、教通は不遇の時を過ごす事となった。
藤原師実(もろざね)・・・藤原頼通の六男である。叔父の教通及びその息子の信長と対立し、藤原氏の政治力が減退し、これに対して、後三条天皇の政治力拡大を継承した白河上皇が政治的に力を増し、応徳二年(1086)頃になると、白河上皇が政治的に実権を掌握し、「院政」が開始される事となった。なお、師実は、『京極関白記』と称する日記を書き残している。
関白 ・・・承保二年(1075)十月十五日~応徳三年(1087)十一月二十六日
神谷正昌著『皇位継承と藤原氏―摂政・関白はなぜ必要だったのか―』吉川弘文館 2022年

3.「平安以後の藤原氏」について

「この世をば、我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と傲慢な歌を読み、最盛期を迎えた藤原道長も、一族の中から次のように反抗する者も現れている。

『「先日は、左府に落書が有った」と云うことだ。「民部大輔(藤原)為任が、陰陽師五人に命じて呪詛させたとのことだ」と云うことだ。(後略)』

倉本一宏編『現代語訳 小右記 5 紫式部との交流』 吉川弘文館 2013 77P

「左府(さふ)」・・・・「左大臣の」の別称である。本来は古代中国での官僚の呼び名である。
「落書(らくしょ)」・・・・平安時代、「らくがき」とは読まず、
「らくしょ」と言うのが正しい読み方である。これは、時事や人物を風刺した匿名の文書で、人目につきやすい所に貼り付けたり、わざと人に拾われるように書いた物を落としておく。
「民部大輔(みんぶだいぶ)」・・・・「民部省」の次官のことで、諸国の財政を管理して、国家財政の計画・立案を司っていた。
「為任(ためとう)」・・藤原為任の事で、藤原北家の一族ではあるが、藤原道長を快く思っていなかった人物である。
「呪詛(じゅそ)」・・・ある特定の人物を激しく憎み、神仏祈願してその人物を呪い殺そうとするもの。
「和泉(いずみ)国」・・現在の大阪府和泉市で、通常は「泉洲(せんしゅう)と称していた。
以上の史料に見られるように、不遇の地位にあった藤原為任が陰陽師に命じて道長を「呪い殺そうとした。」というものである。このように藤原氏同族の中からも不和が生じて、藤原氏の勢力が減退してしまうのである。
後三条天皇が即位すると、藤原氏との縁戚が薄れ、道長の息子の藤原頼通を政治から遠ざけ、政治の実権を天皇自ら手にするようになった。更に、次の白河天皇が応徳二年(1086)に「上皇(じょうこう)」となると、確実に政権を掌握して「院政(いんせい)」を開始したのである。
しかし、この上皇による院政時代も、平安時代の末期には、平清盛に代表されるように、武士による政権が台頭し始め、朝廷内の公卿達の騒乱の後に最終的には源氏が権力を手に入れ、鎌倉に幕府を開き、鎌倉時代へと移行するのである。
鎌倉時代以後になると、政治の中枢から完全に離れ、独自の公家社会の世界となり、「藤原氏」は「藤原」の姓を名乗らず、「近衛」・「鷹司」・「九条」・「二条」・「一条」等の家名を使用し江戸時代後期へと続いた。
なお、全国に散らばる「後藤」・「伊藤」・「斉藤」・「近藤」・「遠藤」等、何かに「藤」を付けて、京都の権門勢家の「藤原」の姓にかこつけさせようとしているが、これは本来の「藤原氏」とは全く関係のないものである。
『国史大事典 第十二巻』吉川弘文館 平成三年 183P

★「奥州藤原氏」は、長元元年(1028)に起きた「平忠常の乱」で平忠常側に味方した藤原頼遠(よりとう)が敗北して罪を得て、陸奥国(現在の福島・宮城・岩手・青森の4県となる。)に左遷された事に始まる、とする説が有力である。藤原頼遠は、藤原北家の初代である藤原房前の次男である。

★参考資料
『小右記』を読んでみると、紫式部と藤原道長とが直接会話したであろうと考えられるものが、唯一、見受けられた文面があったので、それを示すと、

『二十五 乙卯今朝、帰って来て云ったことには、「去る夕方、女房に逢いました<越後守(藤原)為時の女(紫式部)である。この女を介して、前々も雑事を啓上させただけである。>あの女(紫式部)が云ったことには、「東宮の御病悩は、重いわけではないとはいっても、やはり未だ尋常でいらっしゃらないうえに、熱気が未だ散じられません。また、左府も、いささか患う様子が有ります』ということでした」と。』

倉本一宏編『現代語訳 小右記 5 紫式部との交流』 吉川弘文館 2013 231P

以上のように、紫式部はと藤原道長とが、直接会話を交わしている様子を窺えるのはこの部分のみである。この文面によれば、道長の娘の中宮彰子(あきこ・しょうこ)に仕えた紫式部が彰子の産んだ後の敦成親王の体調を、彰子の伝言として道長に伝えているものである。従って、この史料を読む限りにおいては、紫式部と藤原道長とが、大河ドラマ「光る君へ」で見せた深い男女関係にあった、とは考え難いのでは?と思慮されるのである。

まとめ

人物の評価には、善悪の両面があって、「真面目で堅実な人」に対しては、「頭が硬くて融通が利かない人」とする反対評価もあったり、「誰にでも優しく、交際上手な人」に対しては、「誰にでもヘラヘラして、八方美人。信用できない人」などの陰口があったりする。これほど人間関係とは難しいものと考えられる。ましてや、虚実の渦巻く政治の世界においては、日々が「虚々実々」の連続、これは古代に於いても現代に於いても、政治の世界では同じ事なのでは?、と想像する。
人間の本来の「性(さが)」とは何なのであろうか?洋の東西を問わず、感情・思考の相違、加えて、言語・人種・宗教・政治体制の相違がからむと、これからも人間世界には「大きな争い」が渦巻いていくのであろうか?「悲しい事」としか言いようがないのである。

参考文献

次回予告

令和六年6月10日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「王朝文化の探求」
次回のテーマ「香道・花道の歴史」について

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