第百六十一回 サロン中山「歴史講座」
令和六年3月11日
瀧 義隆
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「平安京の暮らし」について
はじめに
大河ドラマ「光る君へ」で描かれる「平安京」は、男女の煌かな衣装や宮殿の装飾等を見ると、誠に美しい「平安」な絵巻物そのままの「京世界」を想像するが、現在、「平安京」に関する各種の研究書を調べてみると、「平安京」は必ずしも優美な都市社会ではなかった、とされている。そこで、今回の「歴史講座」では、「平安京の暮らし」に目を向けて、その実態に迫ってみたい。
1.「宮廷貴族(公卿)の生活」について
日々、宮廷に昇殿する貴族(公卿)達は、税をどのように集めるか?とか、地方の国を誰に治めさせるか?とか、色々な会議を行っている一方で、宮廷として一年を通じてやらなければならない様々な行事・儀式等があり、その行事・儀式を滞りなく実行するばかりではなく、その作法や役割を後世の子孫達に記録を書き残すことも重要な仕事であって、その役割をきちんとこなしているかどうかが評価の対象ともなっていたこともあり、日々大変な仕事をこなしていた。
①「宮廷貴族(公卿)の一日」について
公卿達は、病気でないかぎり毎日毎日、宮廷に出仕しており、与えられた職務をこなすのに精を出していた。その一日のサイクルを見ると、
起床・・日の出前に、陰陽寮(おんみょうりょう)が一日の始まりを知らせる太鼓を鳴らすので、その音を聞いてから起床する。現在の時計で、朝の4時半頃~6時半頃となる。「北斗信仰(ほくとしんこう)」に基づいて、自分の星の名前を7回連呼する。次に、この日の運勢を確認したり、日記を整理したりする。
朝食・・出仕前の朝食は、「お粥」等の軽い食事であった。
出仕・・二番目の太鼓の音を合図に、宮廷へと出仕する。
出仕確認・・「日給(にっきゅう)の簡(ふだ)」と称される、現在のタイムカードのような役目をする「放紙(はなちがみ)」を殿上の西北の壁に貼ってから仕事を開始する。
仕事・・国政に関する書類の決裁や、諸会議、年中行事の儀式を行ったり、その記録を書き残す作業をする。
昼食・・白米の「強飯(こわめし)」を主とし、煮物や酢の物等のおかずも食べる。
★昼食後は仕事をせずに、囲碁や双六等のゲームをして過ごす。
帰宅夕食・・午後4時頃に帰宅して、夕食をとる。原則、食事は昼と夕の一日二回である。
就寝・・現在の時間で、夏は午後7時頃、冬は午後6時頃に
就寝していた。
★宮廷で夜間の警護の為に、「宿直(とのい)」に当たる場合は寝所の近辺で不眠の警護にあたる。小山利彦著『源氏物語 宮廷行事の展開』おうふう 1991年
②「宮廷貴族(公卿)の一生」について
「誕生」・・女性の懐妊がわかると、加持祈祷(かじきとう)や読経(どきょう)によって、出産の無事が祈られる。 出産が近づくと、「産屋(うぶや)」が設けられ、出産に至る。
「湯殿(ゆどの)の儀式」・・・誕生して7日目に行われるもので、「産湯(うぶゆ)」を使わせる儀式である。
「産養(うぶやしない)」・・・誕生後の、3日目・5日目・7日目・9日目の晩に、子供の将来の幸せを願って催される祝宴である。
「五十日の祝」・・・誕生してから50日目に行われる「お食い初め」の儀式で、餅が50個用意される。
「百日祝(ももがいわい)」・・・誕生して100日目に行われる「お食い初め」の儀式で、餅を100個用意する。
「乳母(うば)の選定」・・・子供の養育をする乳母が選ばれる。誕生した直後に選定されることもある。
「髪置き(かみおき)」・・・3歳頃になると、幼児は髪を伸ばし始める。それまでは髪を剃っていた。これは、乳児の時期には髪を剃っていたほうが、後に健康な髪が生えてくると信じられていたからである。
「袴着(はかまぎ)」・・・3~5歳頃に行われ、幼児が初めて袴をつける儀式である。親族の内で、最も高位の者が袴の腰紐を結ぶのである。
「童殿上(わらわてんじょう)」・・・貴族の子が元服を前に宮廷に昇殿して、雑用などを行う。
「元服」・・・男子の成人の儀式で、年齢は特に決まっておらず、11~20歳の間に行われた。対象となる男の子は、角髪(みずら)に結っていた髪を髷に結って、冠を被る。冠を被せる役は、成人と繋がりの深い人物が行う。女子は、12~15歳の間に、成人女性の正装である「裳(も)」を身に着ける儀式を行う。結婚が決まった際に急遽行う場合もある。
「結婚」・・・現在と同じように、男女が恋愛関係になって結婚する場合や、政略結婚等、親が勝手に決めてしまう場合もあった。平安時代の結婚は、一夫多妻であり、夫が妻の家に通うものである。
「算賀(さんが)」・・・平安時代の平均年齢は40歳ぐらいと推定されていて、40歳以上になると老境とみなされ、10年ごとに長寿を祝う儀式を行った。40歳は「四十賀」、50歳には「五十賀」が行われた。「還暦」・「古希」・「喜寿」・「米寿」等の祝いは、室町時代頃からから定着したものと考えられている。
「死去」・・・不衛生で疫病の多かった平安時代には、天寿を全うすることも困難であった。『日本史広辞苑』山川出版 1997年
③「宮廷に仕える女性達」について
●帝(天皇)の妃(きさき)達
皇后(こうごう)・・・天皇の正妻
中宮(ちゅうぐう)・・皇后と同格となる。(女御の中から昇格する。)
女御(にょうご)・・・中宮の下に位置付けされ、皇族や大臣の娘が女御となる、天皇の愛人である。
更衣(こうい)・・・・女御の次の位の女性で、大納言以下の娘が選ばれた。
●後宮(こうぐう)に仕える女性達(後宮とは、天皇の私的な生活の場所のこと)
尚侍(ないしのかみ)・・・・「内侍司(ないしのつかさ)」とも称されていて、内侍司は長官であり、天皇の秘書官的な役割をしていた。後宮の全般的な役所であり、摂関家の娘達が就任した。
典侍(ないしのすけ)・・・内侍司の次官の地位である。
掌侍(ないしのじょう)・・・内侍司の三等官の地位にある女性である。以上の役目の他に、
上臈(じょうろう)・・・中宮の食事の世話をしたり、整髪や化粧もしてやる役目の女性で、中宮と直接会話もする事が出来て、中宮を楽しませたりもする重要な役目であった。
中臈(ちゅうろう)・・・・中宮の姫君達の身の回りの世話をする「女童(おんなわらべ)や下臈(げろう)達の仕事の監視をしたり、中宮の雑用をこなしているが、中宮とは直接会話をすることが出来ない身分の者達である。
下臈(げろう)・・摂関家に仕える身分の者の娘や、宮司の娘達がなる職位で、後宮十二司に勤務していて、中宮や上臈達と会話をすることは殆どなかった。
その他(雑用係の女性達)采女(うねめ)・刀自老女(とじろうじょ)・雑仕女(ぞうしめ)・女童(おんなわらべ)・女嬬(にょじゅ)・・内侍に属しており、清掃や照明を灯す等の
雑事をする下級の女官である。古代学協会・古代学研究所編『平安時代史事典 上・下』角川書店 1994年
2,「貴族(公卿)・庶民の生活」について
この項では、平安時代の貴族(公卿)達や庶民達はどのような生活をしていたか?その実態に迫ってみたい。
①「貴族(公卿)の衣・食・住」について
「衣」・・・男性は単(ひとえ)・下袴(したばかま)・袿(うちき)・雑袍(ざっぽう)を着て、指貫(さしぬき)という袴を穿いていた。女子は、唐衣(からぎぬ)・裳(も)・袿(うちき)・一番上に表着(うわぎ)等を着る、通常、十二単(じゅうにひとえ)と称する「女房装束(にょうぼうしょうぞく)を着ていた。・・・・・・・・・・・資料①参照
「食」・・飯や、粥・餅を主食として、煮物・吸い物・炙り物を食べて、塩・酢・醤(ひしお)・煎汁(いろり)・油等の調味料も使用していた。・・・・・・・・・・・資料②参照
「住」・・寝殿造の屋敷を構えているが、建物の中は、壁や板戸等での間仕切りもなく、几帳(きちょう)・屏風(びょうぶ)・簾(すだれ)で仕切るようになっていた。・・・・・・・・・・・資料③参照
②「平安京に生きる庶民達」
平安時代の庶民とは、どのような人々を指すものか?を調べてると、「僕(しもべ)」・「下部(しもべ)」・・貴族の館に仕える召使いで、僕婢(ぼくひ)・下僕(げぼく)・奴僕(ぬぼく)・公僕(こうぼく)・家僕(かぼく)・従僕(じゅうぼく)・忠僕(ちゅうぼく)等とも称されていた。
「市人(いちびと)」・「市女(いちめ)」・・京の街中で働く男達や女達のこと。
「商人(あきびと)」・・行商の人々達のこと。
「販女(ひさぎめ)」・・路上で物を売りながら、物の修理や品物の交換等もしていた。
「工(たくみ)」・・・建物の修理や構築、金物の製造等をする職人達。
「車借(くるまがし)」・・・牛車で荷車を運ぶ事を商売にする人々で、「車力(しゃりき)」とか、「車方(くるまかた)」とも称されていた。
「馬借(うまがし)」・・「ばしゃく」とも言われる者達のことで、馬の背に荷物を積んで運搬をしていた。
「借上(かしあげ)」・・米や金銭の高利貸しをする人々。
「巫女(かんなぎ)」・「神なぎ」・・神に仕える人々で、神楽を奏でたり、神降ろしの儀式を行う女のこと。・・・・・・・・・・資料④参照
★紫式部や藤原道長が活躍していた平安時代の中期頃には、市中に「お金」も流通していたが、日本独自の「銅銭」の発行は中止されて、「渡来銭(とらいせん)」と称される中国から輸入された「宋銭(そうせん)」や「明銭(みんせん)」が使用されていて、その他に庶民が勝手に鋳造した「私鋳銭(しちゅうせん)」が使われていた。
③「庶民の衣・食・住」について
「衣」・・女性は「小袖(こそで)」という短めの着物に「褶(しびら)」という物を羽織って、「腰布(こしぬの)」で縛っていた。髪の毛は鎖骨ぐらいまでの長さに整えて、一つに縛って後ろに垂らしていた。
男子は、上半身に「直垂(ひたたれ)」という前合せの部分に紐の付いた着物を着て、下半身には裾絞りの「小袴(こばかま)」を履いていた。頭には烏帽子を被っており、頭髪は髷を結んでいた。・・・・・・・・・・・資料⑤参照
「食」・・主食とするのが「麦類」で、「アワ」や「キビ」等の雑穀類も「お粥」のように増やして食べており、山菜や野菜を多く食べていた。一日に二食が中心で、力仕事を主とする工夫や農民達は間食(かんじき)もしていた。
「住」・・都に住む庶民達は、「長屋」(町屋)に住んでおり、持ち家の者はおらず、多くは間仕切りをした部屋に住み、半分は土間となっていて、半分が板敷であった。また、郊外に住む庶民達の家は、縄文式時代や弥生式時代のような「竪穴式住居」に住む者が多くいて、鎌倉時代になってから、庶民の住居が「掘立柱建物」と変化していくのである。・・・・・・・・資料⑥参照
3.「汚く死臭ただよう平安京」について
平安時代におけるトイレ事情を調べてみると、貴族(公卿)達の男子は御簾(みす)で仕切られた一画で、大便用の「樋箱(ひばこ)」とか、「清箱(しのはこ)」と称される箱で用をたし、小便用を「尿筒(しとづつ)」と呼ばれる移動式の便器を用いた。女子は大便用の「樋箱(ひばこ)」は同じであるが、小便用は「虎子(おおつぼ)」と称される箱の中に用をたしていた。大・小便が終わると、「樋洗(ひすまし)」と称される身分の低い女性達が片付けをして、排泄物を河川に投げ捨てていた。川下に住む貧しい庶民の中には、この河川の水を飲んでいたので、不潔この上ない状態だった言える。・・・・・・・・資料⑦参照
庶民達には、「樋箱(ひばこ)」のような便器も便所もなかったので、京の都の路上で排泄していて、また、犬猫や通りを往来する牛や馬の糞尿が放置したままとなっており、それが為に都の空気は排泄物の臭が満ち溢れていた。その状況を『宇治拾遺物語』の中では、次のように記述している。
『聖そこを立ち去り、行くうち、西条の北にある小路まで来ると、糞(くそ)をたれた。実をいうと、この聖の後に続いていた者達が糞たれ散したのが、とにかく、墨のように黒い糞すきまもなく延々たれ散し、下人たち穢(きた)ながって、その小路、糞の小路と名付けてしまった。その事、時の帝(みかど)聞き知り、「では、その四条の南は何と呼んでいるのか」尋ね、「綾の小路と言ってます」と答えたところ、「それでは、かの小路を、錦(にしき)の小路と呼ぶがいい、今のままでは、あまりに下品な名だからな」と言ったことから、その後、錦の小路と呼ぶようになったとか。』
著者不明『日本の古典6 今昔物語 宇治拾遺物語』野坂昭如訳 1976年 104P・・・・・・・・・・資料⑧参照
「聖(ひじり)」・・徳が高く、あがめられる人のこと。
「西条(さいじょう)」・・現在の京都市中京区の「錦小路通り」のこと。
排便をした後、現在ではトイレットペーパー・ウォシュレットでお尻を綺麗にするが、平安時代には紙はとても高価な品で、お尻を拭く為に使う事は出来なかった。そこで、貴族達はお尻を拭く道具として、「貝殻(かいがら)」や「籌木(ちゅぎ)」と称する細い「へら」状の木片を用いて処理をしており、庶民達にはそのような風習もなく、排便したまま、何も処理しない状態であり、当然ながら体臭の一部となって「臭(におい)」を発していたのでは?と考えられている。
更に、藤原道長が著した『御堂関白記』を見ると、連日のように「犬穢(けんき)」と書いてあり、京の都には連日のように「犬の死骸」が転がっており、また、その犬の死骸を別の犬が食べている様子を書きとめている。藤原道長著『御堂関白記』講談社学術文庫 2009年
上流階級の身分の家でも、庶民の家においても病死したりすると、死骸を「化野(あだしの)」・「鳥部野(とりべの)」・「蓮台野(れんだいの)」と称される京都郊外の河原の一角にある死体置き場に捨て去ってしまい、火葬や埋葬もすることもなく、「野ざらし」の状態のままとなっている為に、都中に死臭が蔓延していて、不潔この上ない有り様であったのである。安田政彦著『平安京のニオイ』吉川弘文館 2007年
平安時代の日本全国の総人口は、一説では、推定、700万人ではなったか?と考えられており、明治時代の統計学者の坂本 敦氏の説によれば、平安京の人口は14万~17万人程度ではなかったか?と考えられている。内、貴族達の人口は、150~200人程度で、その家族の数を入れても500~700人程度と推定されている。
しかし、これらの人口も、人間や動物の死骸が散在する不潔極まりない平安京では、疫病が蔓延して貴族のみならず、栄養失調の庶民達はすぐに病気になってしまい、病死する者も多数生じたものと考えられ、死去してしまえば、多くの死体が更に河原に放置されてしまったのである。
まとめ
今回の「歴史講座」で明らかにしたのは、絵巻物からくる想像の世界では、「平安京」は清潔で煌びやかに着飾った女性達が多く往来する「美しい京の都」をイメージしているものの、「平安京」の本質を見極めてみると、その生活実態は実に不潔極まりない都市であった、としか見ることが出来ない歴史的事実である。このようなイメージで大河ドラマの「光る君へ」を見ると、楽しみが半減してしまうのでは?と危惧するものである。
参考資料
参考文献
- 古橋信孝著『歴史文化ライブラリー36 平安京の都市生活と郊外』吉川弘文館 1998年
- 安田政彦著『平安京のニオイ』吉川弘文館 2007年
- 繁田信一著『庶民たちの平安京』角川学芸出版 平成二十年
- 中公パックス『日本の歴史 4 平安京』中央公論社 1983年
- 倉本一宏監修『王朝時代の実像 1』臨川書店 2021年
次回予告
令和六年4月8日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「王朝文化の探求」
次回のテーマ「陰陽道」について
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