第百四十六回 サロン中山「歴史講座」
令和四年9月12日
瀧 義隆
令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代
メインテーマ「鎌倉時代初期の動乱」について
今回のテーマ「北条時政・義時父子と鎌倉殿の13人」について
はじめに
鎌倉幕府の創始者である源頼朝が、落馬が元となって急死した後、二代将軍となった源頼家は、言うなれば「おぼっちゃん育ち」の典型的な人物であったようで、とても将軍としての「器(うつわ)」ではなく、その為に源頼朝の御家人である「13人」による合議制での幕府政治運用を諮ろうとした。この体制は、一時、良好なように見えたものの、次第に「13人」に「バラつき」が生じ、北条父子や比企能員のように、幕政を独占しようとする勢力争いが生じてくる。そこで、まず、その最初の犠牲者となったのが、比企一族であり、更に、北条父子により抹殺される者も次々と現れてくるのである。
合議制による統治体制は、一見、理想的にも考えられるが、本来は、中世における利害関係を如実に平常の言動に現す、我欲の集合体でしかない御家人達の連合体である。常に荒くれた御家人達の混乱・殺戮が渦巻く時代であって、その結果、鎌倉幕府は、時流を上手に捉えた北条父子の企む「北条一族」の為の幕府へと変容していくのである。
1.「北条時政」について
保延四年(1138)~建保三年(1215)一月六日(77歳)別名を「北条四郎」を名乗っていた。
父親・・・・北条時方(又は、時兼)
母親・・・・伊豆掾伴為房の娘(名前は不明)
妻・・・・・伊東祐親の娘(牧の方)他多数
伊豆国の在地豪族で、「平治の乱」で敗死した源義朝の嫡男(実は三男)である源頼朝が、平清盛よって伊豆に配流された時、北条時政が頼朝の監視役となった。ところが、この源頼朝と北条時政の娘の「政子」とが恋仲となってしまい、北条時政と源頼朝との関係が、婿と舅との関係になってしまった。
治承元年(1177)四月の源頼朝の平家打倒の挙兵に従軍する。【正治元年(1199)正月、源頼朝の死後おける北条時政の動向】建仁三年(1203)九月・・・比企能員を北条家に誘い出して天野遠景と仁田忠常に命じて殺害する。
この比企能員の殺害について、史料とする『吾妻鏡』を見ると、「遠州、工藤五郎をもって使いとなし、能員が許に仰せ遣はされて云はく、宿願によって、佛像供養の儀あり。御来臨ありて聴聞せらるべきか。かつはまた、次をもって雑事を談ずべしてへれば、早く豫参すべきの由を申す。」 永原慶二監修・貴志正造訳注『新版 吾妻鏡 第三巻』新人物往来社 2011年 82P
「遠州(えんしゅう)」・・・北条時政のこと。
「工藤五郎」・・・・・・北条家の家臣。
「聴聞(ちょうもん)」・・法話等を聞くこと。
「豫参(よさん)」・・・・「お出で下さい。」の意味。
この史料に示すように、北条時政は「佛像を供養するから、我が家にお出で下さい。」と、比企能員を誘い出している。この誘いにのった比企能員は、
「惣門を入りて廊の沓脱に昇り、妻戸を通りて北面に参らんと擬す。時に蓮景・忠常等、造合の脇戸の砌に立ち向ひ、廷尉の左右の手を取りて、山本の竹中に引き伏せ、誅戮踵を廻らさず。遠州出居に出でてこれを見たまふと云々。(後略)」
「惣門(そうもん)」・・・・外構えの第一の門のこと。
「妻戸(つまど)」・・・・・家のはしにある両開き戸のこと。
「擬(ぎ)す」・・・・・・何かをしようとする事。
「蓮景(とうかげ)」・・・・天野遠景のことで、「遠」を「蓮」に改名した。源頼家に仕えた。
「忠常(ただつね)」・・・・仁田忠常のことで、源頼朝や頼家に仕えた。
「出居(いでい)」・・・・・主人の居間兼応接間としての部屋のこと。
「誅戮(ちゅうりく)」・・・罪のある者を殺すこと。
「踵(きびす)を廻らさず」・・・「短時間の内に」の意味である。
以上のようにして、北条時政は、比企能員を「だまし討ち」にして殺してしまったのである。
※「比企一族だまし討ち」についての見解本来、中世の武士の精神の中には、敵対する相手に対峙する場合、「正々堂々」と戦いを挑む中枢的精神が存在するはずである。それが、北条時政が比企能員を「だまし討ち」にして殺すことは、武士として最も「恥ずべき」行為でしかない。従って、この「だまし討ち」については、北条氏一族を記す正史としての『吾妻鏡』からは北条氏に不都合な部分を、記録から末梢すべき事項であったものと考えられる。しかし、上記の史料のように比企能員を殺害したのは、「だまし討ち」であったことを明確に書かれているのは、北条氏による「だまし討ち」が周知の事実として伝承されていたのではなかろうか、と考えられる。まさに、北条時政は、武士として恥ずべき手段をつかって、実権を手にいれたのである。
建仁三年(1203)九月・・・比企能員を殺害したその四日後、殺害を実行した仁田忠常をも殺害する。
元久元年(1204)六月・・・畠山重忠を殺害。
同年七月・・・・・・・・二代将軍源頼家を殺害した。但し、『吾妻鏡』には、頼家の殺害に関する記録は全く書かれていない。
元久二年(1205)六月・・・稲毛重成・榛谷(はんがや)重朝の兄弟を殺害。
同年閏七月・・・・・・・北条義時・政子によって追放され
る。
健保三年(1215)正月・・・77歳で死去。
2.「北条義時」について
長寛元年(1163)~元仁元年(1224)六月十三日(62歳で死去。)
父親・・・・北条時政
母親・・・・伊東入道の娘(名前は不明)
北条時政の次男として誕生し、元服後に「北条小四郎」と称したが、「江間」に移住してからは「江間小四郎」と称し「江間
殿」と言われていた。任官後は、「相州(そうしゅう)」・「右京兆
(うきょうちょう)」・「奥州(おうしゅう)」などの官名で呼ばれ
ていた。
治承四年(1180)四月の「石橋山の合戦」で、兄の北条宗時が戦死した為に、義時が北条家の嫡子となった。養和元年(1181)四月に源頼朝の「祇候衆(ぎこうしゅう)」となり、頼朝の最も信頼する御家人の一人となった。
※「祇候衆(ぎこうしゅう)」・・・源頼朝の御寝所の警護を担当する。
●【正治元年(1199)正月、源頼朝の死後おける北条義時の動向】
建仁三年(1203)九月・・・父の北条時政と共に、比企一族及び仁田忠常を殺害する。
元久元年(1204)七月・・・二代将軍の源頼家を殺害する。
元久二年(1205)六月・・・畠山重忠を武蔵国二俣川で、続いて稲毛重成・榛谷重朝を殺害する。
元久二年(1205)七月・・・父の北条時政を追放し、鎌倉幕府の二代目執権となる。
北条義時が、父の北条時政を追放した事実を『吾妻鏡』で確認すると、
「元久二年 閏七月小十九日 甲辰 晴る 牧の御方姧謀を廻らし、朝雅をもって関東の将軍となし、當将軍家 時に遠州の亭におわします。を謀りたてまつるべきの由、その聞えあり。よって尼御臺所、(中略)廿日 乙巳 晴る辰の尅、遠州禪室、伊豆北條郡に下向したまふ。今日相州執権の事を奉らしめたまふと云々。(後略)」 永原慶二監修・貴志正造訳注『新版 吾妻鏡 第三巻』 新人物往来社 2011年 116~117P
「牧の御方」・・・・・牧宗親の娘で、北条時政の継室となった。北条時政とはかなりの年齢差があったが、二人の仲は睦まじかった、と伝わっている。
「姧謀(かんぼう)」・・良くない事を企てること。悪だくみのこと。
「朝雅(ともまさ)」・・平賀右衛門權佐朝雅のことで、源氏の主流を継ぐもので、源頼朝の仕えた平賀義信の次男であり、頼朝の猶子となっていた。平賀朝雅の母は、比企尼の三女(名前は不明)である。
「謀(はか)り」・・・はかりごと。「くわだて」の意味。
「尼御臺所(あまみだいどころ)」・・源頼朝が死去したことから、その妻であった北条政子が出家して「尼(あま)」となったので、「尼御台所」または、「尼御台(あまみだい)」と称されていた。
以上の史料に見られるように、北条時政と、その妻の「牧の方」の二人共謀して、源頼朝の実子である三代将軍の「源実朝」を亡き者にして、同じ源頼朝の猶子であった、平賀朝雅を鎌倉幕府の将軍に押したてようと画はだてたが、この動きを察知した「尼御臺所」と称される北条政子と北条義時の姉弟は、北条時政とその妻の「牧の方」を鎌倉から追放してしまったのである。この後、北条時政が幕政に関与することはなくなった。
元久二年(1205)八月・・・平賀朝雅を殺害する
建保元年(1213)五月・・・和田義盛が北条家に対抗したので、これを討伐して殺害する。
建保七年(1219)二月・・・阿野時元(阿野全成の四男)を殺害する。
承久元年(1219)正月・・・三代将軍の源実朝を殺害する。
承久二年(1219)二月・・・禅暁(源頼家の四男)を77歳で死去。
※「得宋(とくそう・とくしゅう・)」とは、二代目の執権となった北条義時の頃から、北条の家を「得宋」家と称するようになった。「徳宋・徳崇」とも書くが、読み方は同じである。「得宋」とは鎌倉時代の北条氏の惣領(そうりょう)を意味するもので、北条時政を初代として、二代目となる北条義時から嫡流を正当化して、泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時までの北条氏九代の家柄を示す言葉となっている。
「得宋」とは、北条義時の別称なのか?、戒名なのか?、追号なのか?、研究者においても議論がなされていて、明確な説は未だ定まっていない。
3.「鎌倉殿の13人」について
建久十年(1199)一月十三日に、源頼朝が落馬が原因となったものか、突如この世を去り、二代将軍の源頼家を補佐する為に、以下の「13人」が合議制により幕政を推進することとなった。
①北条時政」
本貫地・・・・伊豆国(前述省略)
②北条義時」
本貫地・・・・伊豆国(前述省略)
③「大江広元(おおえひろもと)」・・・吏僚(朝廷に仕える役人)
久安四年(1148)~嘉禄元年(1225)六月十日 朝廷に仕える下級貴族(官人)の出身で、鎌倉に招かれて源頼朝の側近となった。
③三善康信(みよしのやすのぶ)」・・吏僚(朝廷に仕える役人)
入道後は、善信(ぜんしん)を名乗る。保延六年(1140)~承久三年(1221)八月九日 太政官の書記官役を務める下級貴族(官人)で、母が源頼朝の乳母の妹であった縁から、鎌倉に呼ばれて武家の政務を補佐することになった。
⑤「中原親能(なかはらのちかよし)」・・吏僚(朝廷に仕える役人)
康治二年(1143)~承元二年(1209)十二年十八日 朝廷に仕える下級貴族(官人)の出身で、鎌倉に招かれて源頼朝の側近となり、代官を務めていた。大江広元の実の兄とされている。承元二年(1209)に京都で死去した。
⑥「二階堂行政(にかいどうゆきまさ)」・・吏僚(朝廷に仕える役人)
誕も没年も全く不明。(1130年頃の生れ?)朝廷に仕える下級貴族(官人)の出身で、鎌倉に下向した人物と考えられており、公文所寄人等を務めている。
⑦「梶原景時(かじわらかげとき)」
保延六年(1140)~正治二年(1200)一月二十日
本貫地・・・・相模国
石橋山の合戦で源頼朝を救ったことから重用され、「侍所別当」・「厩別当」となった。源頼朝の死後は鎌倉を追放されて、その直後に殺害された。
⑧「八田知家(はったともいえ)」
康治元年(1142)~建保六年(1218)三月三日
本貫地・・・・常陸国
治承四年(1156)八月に源頼朝が挙兵した時から従軍しており、源頼朝の信頼も厚かった。
⑨「三浦義澄(みうらよしずみ)」最年長大治二年(1127)~正治二年(1200)一月二十三日
本貫地・・・・相模国
源頼朝の挙兵後、房総半島に渡ってきた源頼朝に合流して武功を挙げ、千葉常胤や上総広常、土肥実平等と共に、頼朝の宿老ともなっている。正治二年(1200)に病没した。
⑩「和田義盛(わだよしもり)」
久安三年(1147)~建暦三年(1213)五月三日
本貫地・・・・相模国
源頼朝の挙兵に参戦し、以後、鎌倉幕府内にあって、「侍所別当」に任じられ、信頼が厚かった。後年、北条義時によって殺害される。
⑪「安達盛長(あだちもりなが)」・・・・北条時政と同年齢?保延元年(1135)~正治二年(1200)四月二十六日
本貫地・・・・相模国
源頼朝が伊豆に流人となっていた時から仕えており、比企尼の長女である、丹後内侍を妻としている。源頼朝に信頼されていて、朝廷との交渉等にも活躍している。正治二年(1200)に66歳で死去。
⑫「比企能員(ひきよしかず)」
生誕年不明~建仁三年(1203)九月二日
本貫地・・・・武蔵国
建仁三年(1203)に北条父子に騙されて殺害された。※前回の講座で詳細説明済み。
⑬「足立遠元(あだちとおもと)」・・・・北条時政と同年齢?
生誕も没年も全く不明。
本貫地・・・・武蔵国
武蔵国足立郡を本拠地とする一族で、平治の乱の時には源義朝に属して戦っており、源頼朝の鎌倉入りにも参上している。鎌倉幕府の五人の公文所寄人の一人として選ばれている。
以上の「13人」であるが、この「13人」による合議制も、「梶原景時」が正治二年(1200)一月二十日に鎌倉を追放直後に殺害され、次いで、「三浦義澄」が同年同月の二十三日に死去してしまい、また、同年の四月二十六日には「安達盛長」が死去しているから、建久十年(1199)に発足した「13人」による合議制は、僅か一年程度の期間でしかなかった。その後、建仁三年(1203)九月に「比企一族」を滅亡させると、その直後に鎌倉幕府は、執権となった「北条時政」の独裁政権となり、更に、元久二年(1205)七月に、父の「北条時政」を鎌倉から伊豆に追放した二代目執権となる「北条義時」の独裁政権を確立していくのである。このように、北条父子は、権力を手に入れる為には、実の孫ばかりではなく、近身の同僚をも殺害してしまうような、惨忍な父子であった、と言わなければならない。
まとめ
前回の「歴史講座」で説明したように、平安時代後期からの武士社会においては、その中心となっていたのが源氏と平氏である。平安末期の平氏を打倒して台頭したのが、源氏の正統を継承する源頼朝で、関東に散在していた源氏の一族が参集して、源氏による鎌倉幕府を創設したが、源頼朝の死後は、鎌倉幕府が崩壊するまで、平氏の流れをくむ、北条氏によって幕政は横取りされてしまったのである。これを見ると、源氏による天下統一は、源頼朝が建久三年(1192)に幕府を創設してから、建久十年(1199)に死去するまでの僅か七年間程度でしかなかった、と言わなければならない。
13人の御家人の生没年の早見表
参考文献
- 本郷和人著『鎌倉13人衆の真実―日本中世史 最大の謎!(Amazon)』 宝島社 2022年
- 本郷和人著『北条氏の時代(Amazon)』 文春新書 文芸春秋 2021年
- NHKシリーズ『鎌倉殿13人―北条義時とその時代(Amazon)』 NHK出版 2022年
- 野口 実編著『鎌倉北条氏―鎌倉幕府を主導した一族の全歴史(Amazon)』 戎光祥出版 2022年
次回予告
令和四年10月10日(月)午前9時30分~
メインテーマ「鎌倉時代初期の動乱」について
次回のテーマ「鎌倉時代の歴代将軍」について
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