第百二十六回 中山ふれあいサロン「歴史講座」

第百二十六回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成30年4月9日
瀧  義 隆

平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設」について「薩摩藩と琉球(沖縄)」について

はじめに

江戸時代の末期は、薩摩藩のみならず、各地方の藩も激動の渦に飲み込まれ、「攘夷(じょうい)」だの「黒船」や「開国」だのと右往左往しながら、世情の変化に同調して行こうと必死でもがいていた
ものと考えられる。当時、時流に付いて行くにも、先ずは、財政の安定が必要不可欠であったが、幕府のみならず、各藩も借財に苦しんでいたのも事実である。

そこで今回の「歴史講座」では、「薩摩藩と琉球」について考究して、薩摩藩の幕末における財政基盤を、どのようにして確立したか?
その背景を明らかにしてみたい。

1.「薩摩藩と琉球」について
この項では、「薩摩藩の財政や琉球との関わり」について、その概要を述べることとしたい。

① 「薩摩藩の幕末における財政状況」
「薩摩藩」が二本の近代国家に導くその中心となりえたのは、莫大な財政的基盤があったからこそである。そこで、この項では、幕末期の薩摩藩の財政状況ついて調べてみることとしたい。

島津斉彬の曽祖父である島津重豪(しげひで)は、蘭学(オランダの学問)・蘭物(オランダの物産)を取り入れる為に、それまで200万両だった藩の借金を、文政年間(1818~1829)には、500万両(現在の5,000億円以上)と増大させてしまい、一年の利息だけでも60万両~80万両(600~800億円)であった。藩の年収が12~14万両(120~140億円)であったとされているから、とても借金を返済出来る状態ではなかったのである。

そこで、天保三年(1832)頃に薩摩藩の家老格に就任していた調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は、この膨大な借金を250年の分割返済として処理し、実質的には「借金の踏み倒し」のような財政処置を強行し、同時に、藩政改革をも断行したのである。これによって、八年後の天保十一年(1840)頃には、200万両(2,000億円)の貯蓄が出来るようになり、藩財政が急激に好転したのである。

島津斉彬や、これを継承した島津忠義が、「公武合体」や「倒幕派」の中心的存在となり得たのは、このような薩摩藩の財政上の背景があったからである。薩摩藩が、財政基盤を築きえたその主とするところは、薩摩藩と琉球との関係が大きく関わっており、その中心が「密貿易」であった。

調所広郷が薩摩藩の財政を好転させる為に行った中心は、琉球を拠点とした禁製品の中継貿易であった。この薩摩藩の「密貿易」の情報が幕府老中の阿部正弘の知るところとなり、幕府から糾問(きゅうもん)されることとなった。調所広郷は、藩主の島津斉興に罪が及ぶことを避ける為に、嘉永元年(1848)の十二月にその責任をとって服毒自殺をした、と伝えられている。

※薩摩藩の年収が17万両、また、天保十一年(1840)頃の蓄財は100万両とも、250万両等とする様々な説もあり、明確な史料を示すものはみつからない。

② 「薩摩藩」について
「薩摩藩」の「薩摩」について『古事類苑』で調べてみると、「倭訓栞 前編 十 左さつま 薩摩と書り、薩人の守島の義成るべし、古へ隼人の國ともいひし、(後略)」

『古事類苑 地部 二』吉川弘文館 昭和四十五年 1196P
『倭訓栞(わくんのしおり)』・・・・・江戸時代中期に、谷川士清(ことすが)が著した国語辞書である。

もう一つ「薩摩」についての史料をみると、
「諸国名義考 下 薩摩和名抄に、薩摩、散豆萬 名義は幸濱(サチハマ)ならむか、古事記に、(後略)」
『古事類苑 地部 二』吉川弘文館 昭和四十五年 1196P
『諸国名義考』・・・・斎藤彦麿が、文化六年(1809)に著した本で、内容は地誌である。
『和名抄(わみょうしょう)』・・・・正式には、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』で、承和年間(931~938)頃に源順(みなもとのしたごう)が著した国語事典である。

以上の史料にみられる通り、古代においては、「薩摩」は「隼人(はやと)の国」と称していた事や、「散豆萬」・「幸濵」等の文字で書かれていたことが示されている。この「薩摩」の土地を支配していたのは、鎌倉時代に薩摩・大隅・日向の三カ国の守護に任じられたのが最初の島津氏で、室町時代に入ってから、守護大名・戦国大名と進展し、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは島津義弘が石田三成の西軍に加担して敗北したが、徳川家康に本領を安堵された。慶長十四年(1609)には、徳川幕府の許可を受けて琉球に出兵し、これを服属させることに成功して、十二万石が新たに薩摩藩に加わった。

薩摩藩の実高の推移をみると、
文禄年間(1592~1595)・・・五十六万九千石
慶長年間(1596~1613)・・・七十三万二千石
寛永十六年(1639)・・・・・六十九万九千石
万治年間(1658~1660)・・・七十四万七千石
享保年間(1716~1735)・・・八十六万七千石
文政九年(1826)・・・・・・八十九万九千石
※表高 天保年間(1830~1843)頃、七十二万九千石

③「琉球」について
次に、「琉球(現在の沖縄県)」についての史料をみると、「倭訓栞 前編 三十八 利りゅうきゅう 琉球 瑠球、流求、龍宮など書り、(後略)」
『古事類苑 地部 二』吉川弘文館 昭和四十五年 1354P

同じく、もう一つの史料として、「中山聘使略 國号 琉球随書、流鬼新唐書、是琉球の下音の約りたるなるべし、瑠求元史、流球粤志、留仇続文章正宗、留求性霊集、流梂三善清行が智證大師の傳、流虬中山世鑑、琉球同上、明の洪武琉球と改むといへり、(後略)」
『古事類苑 地部 二』吉川弘文館 昭和四十五年 1354P
『中山聘使略(ちゅざんへいしりゃく)』・・・・・天保三年(1832)に刊行されたもので、著者は坂 本純である。内容としては、江戸上りの行列を見学する様子を書いたもの。
『随書(ずいしょ)』・・・・・・中国の顕慶元年(656)頃に、長孫無忌が著した歴史書である。
『新唐書(しんとうしょ)』・・・・・中国唐代の歴史書で、欧陽脩等が編纂したものである。
『元史(げんし)』・・・・・洪武三年(1369)頃に、高哲等が編纂した中国の元王朝時代を書いた歴史書である。
『粤志(えつし)』・・・・中国の広東地方の地誌・記録書である。著者・成立不明。
『続文章正宗(そくぶんしょうしょうしゅう)』・・・・・中国の宋時代(西暦960~1279頃)に、真徳秀が著した百科事典である。
『性霊集(しょうりょうしゅう)』・・・・・空海が書いた詩や願文等を、弟子の真済が編集したもので、天長五年(828)頃に成立した、とされている。
『三善清行が智證大師の傳』・・・・・三善清行は、昌泰三年(900)に朝廷の「文章博士」になった人で、『智證大師伝』や『藤原保則伝』等の著書がある。
『中山世鑑(ちゅざんせいかん)』・・・・・慶安三年(1650)に、琉球の王の命令で羽地朝秀が著した、正史である。

以上の史料に示されているように、「琉球」は中国の古史にも記述されていて、本来「琉球」とは、古代の日本が名付けたものではなく、古代中国が名付けたものであることが明確となる。それでは、何時頃から「琉球」に人類が存在していたものか?を調べると、日本最古の人骨が、那覇市で発見されていて、これを分析した結果、3万2千年前の人間であろうと推定されている。更に、2012年には2万3千年前の「釣り針」も発見されていることから、琉球には、日本本土に人間が存在する以前から存在していたことが明らかとなっている

次に、『続日本紀』をみると、文武天皇の時代である西暦698年の記事には、この時期以降に、南の屋久島・石垣島・久米島等に盛んに使者が派遣されていることがみてとれる。中世になると、神代から琉球を支配していた「天孫(てんそん)氏」が、およそ12世紀の末頃になって琉球の豪族が反乱を起こして混乱したことから滅亡し、13世紀の中頃から「英祖(えいそ)氏」が以後五代にわたって支配した。その後も琉球は混乱を繰り返しし、西暦1429年になって、首里城を王都とする尚思紹(しょうししょう)が中山(ちゅざん)王となって、「第一尚氏王統」の礎(いしずえ)を築いたのである。また、15世紀の中頃に入って「第二尚氏王統」と称されるような繁栄をみることとなった。慶長十四年(1609)に、徳川幕府の許可を得た薩摩藩の島津氏は、約3,000人の軍隊を琉球に派遣してこれを征服したことから、琉球は薩摩藩に従属することとなり、徳川幕府には間接的に支配を受ける独自な存在となった。琉球の尚氏は、琉球王の代替わりの時に「謝恩使(しゃおんし)」を、徳川幕府将軍の代替わりの時に「慶賀使(けいがし)」を派遣する一方、中国にも「朝貢(ちょうけん)」として使者を派遣するという、徳川幕府の大名支配の中でも特異な存在となったのである。

2.「薩摩藩の琉球貿易」について
薩摩藩の財政の一大資金は、「琉球」の貿易で、「朝貢(ちょうこう)貿易」と称する「抜け荷(密貿易)」を行うことにあった。

「朝貢」とは、中国の周囲の国々が、中国の皇帝に対して「貢物(こうぶつ)」を捧げることを言い、「進貢(しんこう)」とか、「入貢(にゅうこう)」と言って、特に中国の皇帝に従属を示すものでもなかった。この「進貢(しんこう)」の時に、琉球の物質を中国に輸出し、中国からは高価な物質を輸入していた。これを、「琉球貿易」、または、「朝貢貿易」と言ったのである。

① 「抜け荷(密貿易)」について
江戸時代、薩摩藩が「抜け荷(密貿易)」をしていたことを示す史料をみると、「折たく紫の記 下前代 ○徳川家宣の御時、長崎奉行所に仰せて、(中略)我國の船共も、外國の中、こヽかこにゆきて商ひす、此餘對州より朝鮮に入りし所、薩州より琉球に入りし、所等は、悉くにその数をはかり知るべからず、(後略)」
『古事類苑 41 産業部 二』吉川弘文館 昭和四十六年 842P
「徳川家宣」・・宝永六年(1709)に、徳川幕府の第六代将軍になって人である。
「對州」・・・・對馬藩のことで、現在の長崎等を領有し、代々、宋(そう)氏が継続し、五万二千石を知行していた。
「薩州」・・・・薩摩藩のことである。以上の史料は『古事類苑 41 産業部 二』の「産業部 二十八 貿易 下」の項の「密貿易」の部分に記載されているものである。しかし、山脇悌次郎氏の著書『抜け荷 鎖国時代の密貿易』日経新書 2008年 を参考にしてみても、あくまでも「密貿易」は秘密事項であるが故に、明確な記録として現存するものは極めて限られたものでしかない、とするものであった。

② 「密貿易の商品」について
それでは次に、薩摩藩が「抜け荷(密貿易)」をしていたものは何か?、というと、判明している範囲では、
輸入品・・・サトウキビ、高麗人参、ギヤマンと称されるガラス製品、タイ米、絹、丁子(ちょうじ)、生糸、鮫皮等
輸出品・・・金、銀、刀剣、乾昆布、いりこ、干鮑、黒砂糖等

薩摩藩の「抜け荷(密貿易)」の利益の中心となったのは、琉球を通してサトウキビを大量に密輸入して砂糖を精製し、それを大坂の全ての薬種問屋を握中にして、高価な砂糖を市場での専売とすることにあった。このことに成功したことから、薩摩藩には莫大な収入をもたらしたのである。
次に、我国には何時頃に砂糖が伝来したか?、を調べてみると、一説には、中国から鑑真和上が持ってきたものだとするものや、遣唐使が持ち込んだとする説もあり、定説とはなっていない。
「正倉院」の『種々薬帳』に、「蔗糖二斤二両三分並椀」と記載されていることから、天長二年(825)頃には既に日本に「砂糖」が伝来していたのである。ただし、当時の「砂糖」は、甘味料としてのものはなく、あくまでも「薬」の一種であって、大変高価な物質であった、と考えられている。

天文十二年(1543)に、ポルトガル人が種子島に漂着した時に、「カステラ」や「コンペイトウ」等の南蛮菓子をもたらしている。江戸時代に入ると、元和九年(1623)、琉球の儀間真常(ぎましんじょう)という人が中国に使いを出して、砂糖の製造法を学ばせて帰国させ、「黒糖」の製造を開始し、奄美大島や喜界島・徳之島で砂糖製造の増産が行われた。そこで、砂糖についての史料をみると、
「沙糖 密 甘葛煎 併入沙糖ハ、サタウト云フ、甘蔗ノ汁ヲ以テ製シタルモノナリ、初メ外国ヨリ毎ニ船載シテ齋シ来リシガ、徳川幕府ノ時其法ヲ傳ヘ、我国ニ於テモ之ヲ製スルニ至レリ、(後略)」
『古事類苑 39 飲食部』吉川弘文館 v昭和四十六年 883P
「甘葛煎(あまづらせん)」・・・冬季にツタの樹液を煮詰てシロップにした甘味料である。糖度は集めた時は13度程度であるが、樹液を煮詰ることによって、76度までに濃度を増すのである。
「甘蔗(かんしょ)ノ汁」・・・「甘蔗」とは、サトウキビの中国名である。

このように、史料で見る限りでは、徳川幕府の時代になってから、砂糖の製法が伝来したことを示している。しかし、中国等から持ち込むサトウキビの代金が高額で、金・銀・銅が外国に流出することを幕府が危惧して輸入制限をするようになり、一方でサトウキビの栽培を奨励し、日本の西南地区でサトウキビの栽培が積極的に行われるようになった。正徳五年(1715)には、讃岐国に「和三盆(わさんぼん)」が登場し、大坂の中央市場に出荷されるようになったのである。

③ 「薩摩芋」について
薩摩芋の原産地は南アメリカ大陸とされており、1498年にイタリア人のコロンブスが大航海をしてベネゼーラに行った時に、この芋を持ちかえり、また、1519年にもポルトガル人のマゼランがマゼラン海峡を発見してから、16世紀にはスペイン・ポルトガル人が頻繁に東南アジアに来るようになってから、この芋も東南アジアに伝来された。更に、ルソン島(フィリピン)から中国を経て、慶長二年(1597)に宮古島へ伝わり、琉球・九州・八丈島・本州へと、もたらされたのである。
このような経緯のある薩摩芋であるが、伝来の当初が中国からであったので、「唐芋(からいも)」とか中国名の「甘藷芋(かんしょいも)」とも称されていた。江戸時代に頻繁に生じた大飢饉の時に、薩摩藩がこの「唐芋」を食べて餓死者を減少させていたことが全国にも伝わった。

徳川幕府の第八代将軍である徳川吉宗は、青木昆陽(こんよう)に、この「唐芋」を取り寄せさせて栽培することを命じ、江戸小石川薬園・下総国千葉郡・上総国山部郡で試作させた。この結果、「唐芋」は関東地方や離島にもひろめられた。更に、この事から全国の各藩もこの「唐芋」を薩摩藩から譲り受けて栽培したことから各藩では「唐芋」ではなく、薩摩から持ってきた「芋」、すなわち、「薩摩芋」として盛んに栽培したのである。しかし、東北地方等の寒冷地には、土壌の問題もあって、この「薩摩芋」は栽培に成功する藩は少なかった。むしろ、寒冷地においては、薩摩芋よりも、ジャワから伝来した「ジャガ芋・ジャガタラ芋(中国名では馬鈴薯)」の方が適していたようである。

以上のように、薩摩藩と琉球とは、密接な関係にあったが、薩摩藩はあくまでも琉球を隠れ蓑として「密貿易」を盛んにし、藩財政の立て直しをすると共に、その豊富な資金が頼りとなって、日本の近世の政治を押し広げる源となった、と言えよう。

まとめ

人が何かを起こすには、先ずは「お金」がなければ、どうすることも出来ない。しかし、「お金」さえあれば何んでも出来るか?というと決してそうではないことも事実である。歴史上の多くの英傑をみると、必ずその人には「人望」があった。先月、NHKの放送文化賞を受賞した、歴史家の小和田哲男氏は、その著書『「人望」の研究』(ちくま新書 2001年 147~148P)の中で、「西郷隆盛には大きな「人望」あったからこそ、多くの人々が付いていった。」と述べている。西郷隆盛のように、歴史に残るような人物には、「お金」の他にも、他の人にはない、とてつもなく大きな「人望」を持っていたのであろう、と考える。

参考文献

上原兼善著『鎖国と藩貿易』八重岳書房 1981年
中村 質著『鎖国と近代化』吉川弘文館 1997年
徳永和善著『薩摩藩対外交史の研究』九州大学出版会 2005年
松浦 章著『清代中国琉球貿易史の研究』榕樹書林 2003年
江原絢子・石川尚子・東四柳祥子共著『日本食物史』吉川弘文館 2009年
樋口幸子著『砂糖の歴史』河出書房新社 2011年

次回予告
平成30年6月11日(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んで
メインテーマ「明治という新時代の創設について」
「徳川幕府の末路」について

※5月は、健康診断の為、「歴史講座」はお休みです。

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