第百二十九回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成30年8月13日
瀧 義 隆
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んで
メインテーマ「明治という新時代の創設について」
「土佐藩(高知藩)・山内家」について
はじめに
明治という新時代を創設したのは、前回までのこの「歴史講座」で示した通り、その中心は薩摩藩と長州藩であったが、それを支えた土佐藩(高知藩)等も強烈に新時代の到来の為に邁進した一つである。そこで、今回の「歴史講座」では、四国土佐藩(高知藩)の幕末における動向の、そのごく一部について触れてみたい。
1. 「土佐藩・山内家」について
「土佐藩(高知藩)」について土佐国の中心は「高知」であるが、この「高知」という土地の名称について調べてみると、慶長六年(1601)一月、遠江国の掛川城主であった山内一豊が移封させられて、土佐国の「浦戸(うらと)城」に入城した。慶長八年(1603)八月、山内一豊は「浦戸城」から新たに「大高坂(おおたかさか)城」に転居し、城の名前を「河中(こうち)城」と改名した。更に、慶長十五年(1610)九月、二代目の藩主であった山内忠義は、「河中城」を「高智(こうち)城」と定めたが、その後、さらに「高知城」と「智」を「知」の字に改めて、これが定着することとなり、「高知藩」が成立したのである。次に、この「高知城」についての史料をみると、「土佐高二十万二千六百石余長曾我部元親以来、岡豊に在城。庚子役に宮内少輔盛親没倒。山内對馬守一豊に当国を賜りて、此の所に新城を築く。松平土佐守忠義(一豊子)同對馬守忠豊、同豊昌相続す。」
山鹿素行著 延宝元年(1673)序
『新編 武家事紀』新人物往来社 昭和四十四年 359P
「庚子役(こうしのえき・かのえねのえき)・・・・慶長二十年(1615)五月六日の「大坂夏の陣」のことである。
「宮内少輔盛親(くないしょうゆうもりちか)」・・・・長曾我部元親の子、盛親(もりちか)のことで、「大坂夏の陣」後の慶長二十年(1615)五月十五日、京都六条河原で処刑された。
「没倒(もっとう)」・・・・滅ぼし倒れること。
この史料のように、安土桃山時代まで、土佐の高知には、長曾我部家が領主として支配していたが、長曾我部盛親が慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」の際、西軍に味方して敗北してしまい、徳川家康の命により領地没収となり、流浪の身となった。その後、慶長十九年・二十年の「大坂冬・夏の陣」に再起をかけたが失敗し、長曾我部家は滅亡したことと、その後に、土佐の高知には山内一豊が領主として入り、忠義→忠豊→豊昌と相続されていったことを示すものである。
「土佐高知の山内家の系譜」について
「山内家」の祖先を調べると、そもそもは藤原北家秀郷流の分家で、山内宗俊の五男である山内俊家が祖である、としている説があるものの、明確な史料的裏付けがなされていない現状である。従って、「山内家」を述べるには、戦国時代からと土佐・高知に移ってからの「山内家」を示す以外にはないのである。慶長六年(1601)一月に、山内一豊が初代の土佐藩(高知藩)藩主として入城したが、この山内一豊の読み方を調べると、吉川弘文館『国史大辞典 14』108Pでは、「やまうちかずとよ」と読んでいるが、竹内 誠・深井雅海編集『日本近世人名辞典』2005年 1069Pでは、「やまのうちかずとよ」とあって、「やまうち」と「やまのうち」との読みの差がある。一説には、山内家の本家が「やまうち」で、各分家が「やまのうち」と「の」を付ける、とするものもある。また、「山内一豊」についても、一説には、『遠江国の掛川城主にいた時には「ヤマノウチカヅトヨ」と称されていたが、土佐に移ってからは、「ヤマウチカツトヨ」と言われるようになった。』とするものもあるが、この見解に対する史料的根拠は示されていない。更に、「一豊」についても、「かずとよ」なのか?
「かづとよ」なのか?「かつとよ」なのか?どれが正しい読み方なのか?各種の「人名辞典」を点検しても、それぞれ相違していて、統一したものでもなく、また、その読みに対する明確な史料・文献等も提示されていない。従って、現時点では、どれが正しいものかは、残念ながら判明しない。前述したように、「山内家」が「遠江国の掛川」時代の系譜は明確なものはなく、「土佐高知」に移封してからの「系譜」しか確実に示すことは出来ない。次にそれを列記すると、山内一豊(やまのうちかずとよ)→忠義(ただよし)→忠豊(ただとよ)→豊昌(とよまさ)→豊房(とよふさ)→豊常(とよつね)→豊敷(とよのぶ)→豊雍(とよちか)→豊策(とよかず)→豊興(とよおき)→豊資(とよすけ)→豊熙(とよてる)→豊惇(とよあつ)→豊信(とよしげ)→豊範(とよのり)→豊景(とよかげ)→豊秋(とよあき)→豊功(とよこと)
●幕末~明治期の「山内家」の有名な藩主
この「山内家」の中で、幕末~明治にかけての時期で有名な「土佐藩(高知藩)」の藩主としては、第十五代藩主の山内豊信(とよしげ)がいる。山内豊信・容堂(ようどう)嘉永元年(1848)十二月二十七日~明治五年(1872)六月二十一日
父は山内豊著(とよあき?)(十二代藩主、山内豊資の弟)、母は瀬代(せよ)で、豊信は豊著の長男である。十三代藩主の山内豊熙、続いて十四代藩主の山内豊惇が相継いで急死してしまった為に、分家の嫡子であった豊信が「山内家」を相続することとなり、十五代目の藩主となった。幕府の将軍継承問題の時に、水戸斉昭に同調して一橋慶喜を推挙していたが、井伊直弼の推す徳川家茂が将軍となることに決定した為に、安政六年(1859)に隠居し、水戸藩の藤田東湖の薦めにより、名前を「豊信」から「容堂」と改めた。山内容堂は、主として「公武合体」を力説しつつも、土佐藩内では勤皇の志士達を投獄して処刑したり、反面、朝廷には奉仕の精神をつくし、また、幕府にも良い顔をし続ける、二面性を持つ人物であった。それが故に、幕末期の土佐藩の藩政は混迷を極め、藩士達は大混乱となっていた。
坂本龍馬が発案した「船中八策」を、後藤象二郎の建策として山内容堂の下に進言され、それを徳川慶喜に建白されて、慶應三年(1867)十月十四日、「大政奉還」が実行された。その後、朝廷の「小御所会議」にも列席する身分でもあったが、朝廷の徳川慶喜に対する処遇について不満を示したものの、生来、酒乱の傾向があったのと、横暴な振る舞いがあったことから、しだいに相手にされなくなり、天皇を中心とする公議政体派(倒幕強行派)に権力を握られることとなり、山内容堂の出番はなくなってくる。
明治新政府では、「内国事務総裁」・「制度寮総裁」・「学校知事」等の要職に就任したものの、かつて家臣や領民であった者が同列となって職務にあることに我慢が出来ず、明治二年(1869)に職を辞し、酒と女と作詩にふける晩年を過ごした。
2.「幕末の土佐藩(高知藩)の偉人達」について
幕末の「土佐藩(高知藩)」にも、薩摩藩や長州藩に負けづ劣らずの英傑を輩出しているので、その一部を次に記載してみる。
●坂本龍馬
天保六年(1836)十一月十五日~慶應三年(1867) 十一月十五日
父は土佐藩の郷士(下級武士)である坂本八平の次男として誕生、母は幸(こう・さち)である。10歳の時に母が他界してしまい、継母の「伊与(いよ)」によって育てられた。漢学の「楠山塾」に入学したものの、いじめにあい、抜刀騒ぎを起こしたなどと伝わっているが、明確な史料はない。
嘉永元年(1848)に小栗流剣術の日根野弁治(べんじ)の道場に入門し、嘉永六年(1853)に「小栗流和兵法事目録」を得た。これにより同年に、藩から江戸に出ての自費遊学が許され、北辰一刀流の道場に入り剣術修行を務め、更に、若山勿堂(ぶつどう)の山鹿流の兵学を学んだ。また、短期間ではあったが、佐久間象山の私塾にも入学して、砲術・漢学・蘭学等を教授された。以後、土佐藩内においても幕府の政争や外政混乱等に様々と翻弄され、坂本龍馬は「土佐勤王党」結成にかかわったりしつつ、文久二年(1862)三月、土佐藩を脱藩して長州下関に入った。この後、京都に行ったり、江戸で勝海舟に入門したり、元治元年(1864)の八月一日に薩摩の西郷隆盛と面会し、慶應元年(1865)五月には「亀山社中(後の海援隊)」を設立している。翌年の慶應二年(1866)一月二十二日には「薩長同盟」成立へと繋がっていく。
慶應三年(1867)の十一月十五日、越後から戻って、京都河原町の醤油商の近江屋新助宅の母屋の二階で、中岡慎太郎や岡本健三郎等といたところを、「十津川郷士」と名乗る男達数人に押し入られ、龍馬は額を深く斬られ、ほとんど即死状態であった、と伝えられている。
●岡田以蔵
天保九年(1838)一月二十日~慶應元年(1865)閏五月十一日土佐国香美郡岩村(現在の高知県南国市)の足軽(下級武士)である岡田義平の長男として生れた。この岡田以蔵は、「人斬り以蔵」の異名を持つ人物で、幕末の「四代人斬り(詳細後述)」の一人である。麻田勘七に師事して小野派一刀流の剣術を学び、安政三年(1856)には、江戸に出て、桃井春蔵の鏡心明智流の剣術を学んでいる。以後、参勤交代の時には土佐と江戸との往来を続けており、文久元年(1861)に「土佐勤王党」に加盟し、土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺、ついで、越後出身の本間精一郎、京都町奉行の多田帯刀等の暗殺に次々と加わり、この頃から「人斬り以蔵」・「天誅の名人」とも言われるようになった。
この後も数々の暗殺に参画したが、元治元年(1864)六月頃に商家への押し込み強盗の罪で幕府の役人に捕縛され、入墨の上で京都追放となって土佐藩に送られ、吉田東洋暗殺事件の犯人追及の拷問に耐えきれず、つぎつぎと自白してしまうような人物で、慶應元年(1865)閏五月十一日、打ち首、獄門となった。
★「幕末の四代人斬り」
岡田以蔵・・・・土佐藩出身、吉田東洋等を多数の人を暗殺し、捕縛後は打ち首獄門となった。
中村半次郎・・・薩摩藩出身、兵学者であり、自分の先生でもあった赤松小三郎等を暗殺し、以後、多くの人を殺害し、西南戦争の時に銃弾を受けて戦死した。
田中新兵衛・・・薩摩藩出身、今太閤と称されていた島田正辰等多数を暗殺し、捕縛後に取調べ中に突然自刃した。
河上彦齋(げんさい)
・・・肥後藩出身、兵学者の佐久間象山等多数を暗殺し、捕縛後に斬首の処刑となった。
●板垣退助
天保八年(1837)四月十七日~大正八年(1919)七月十六日土佐藩の上士で馬廻格三百石の家柄である、乾正成の長男として誕生。母は「幸(こう・さち)」である。安政三年(1856)頃に、家禄二百二十石に減じられたが、家
督を相続し、文久元年(1861)十月、「江戸留守居役兼軍備御用」に登用された。文久二年(1862)十月、山内容堂の御前で、寺村道成と対論して、「尊皇攘夷」を唱えている。慶應元年(1865)一月には、「洋式騎兵術修行」を命じられ、幕臣の倉橋長門守や深尾政五郎等から、オランダ式騎兵術を学んでいる。板垣退助は、一貫して武力による討幕を主張しており、慶應三年(1867)五月二十一日、京都において西郷隆盛と会見し、「戦となれば、藩論の如何に拘わらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する。」という、「薩土盟約」を結んだのである。
「戊辰戦争」では、「迅衝隊(じんしょうたい)総督」に就任して、近藤勇の率いる「新撰組」を撃破し、「東北戦争」では三春藩を無血開城させたり、多くの活躍を示した。明治維新後は、旧会津藩士の名誉恢復に尽力し、新政府の中では西郷隆盛等と共に「参与」に就任している。明治六年(1873)、朝鮮国の無礼に世論が激怒し、板垣退助も「征韓論」を唱えたが、岩倉具視等の穏健派によって反対され、西郷隆盛も板垣退助も政界を辞することとなった。
明治七年(1874)に「愛国公党」を結成し、明治八年(1875)には、一時、政界に復帰するものの、直ぐに辞退してしまい、「自由民権運動」に没頭することになった。明治二十九年(1896)の第二次伊藤内閣の時に「内務大臣」に、更に、明治三十一年(1898)の第一次大隈内閣でも「内務大臣」に就任したりしたが、明治三十三年(1900)の「立憲政友会」の創設とともに政界から身を退いた。板垣退助は、林益之丞の妹を正妻とした後、後妻を四回娶り、五男五女の子供をもうけている。
●ジョン萬次郎(中浜万次郎)
文政十年(1827)十月二十七日~明治三十一年(1898)十一月十二日土佐中浜の貧しい漁師の家の次男として生れ、九歳の時に父を病気で失い、母は生来の病弱であった為に、幼い内から漁に出て働いていた。天保十三年(1841)、萬次郎が十四歳の時に、漁に出た船が強風に流されて漂流していたところを、アメリカ合衆国の捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救助された。
天保十三年(1842)、船長のホイットフ―ルドは、頭の良い萬次郎を気に入り、ハワイ・ホノルルに連れて行き、ついで、アメリカ本土のマサチューセッツ州ニューペットフォードに連れて行って、オックスホード学校、更に、パーレット・アカデミーで、英語・数学・測量・航海術・造船技術等を学んだ。
萬次郎は、日本に帰国する為の資金を稼ぐ為に、サクラメントの鉱山で働き、その後、ホノルルを経由して、嘉永四年(1851)二月二日に琉球に到着した。薩摩藩の島津斉彬に厚遇されて、藩士や船大工達に西洋の知識を教授し、土佐に帰ってからは、後藤象二郎や岩崎弥太郎等に教育をした。嘉永六年(1853)に、幕府の要請により江戸に行き、直参の旗本の身分を与えられ、幕府の外国との条約締結の時の通訳や、「軍艦教授所」の教授にも任命されたりしている。明治新政府下では、「開成学校(現在の東京大学)」の英語教授となったりして、当時の政治家達との親交を深めながら、教育者としての生涯を貫いた。
まとめ
四国土佐の「坂本龍馬」は、「土佐いごっそ」の代表のように称され、また、龍馬の姉の「乙女(おとめ)」は、「八金(はちきん)」だったと伝えられている。この「いごっそ」とか「八金」とは、そも何なのか?というと、「いごっそ」は「頑固者」のことで、土佐にはなかなか頑固なところがある人々が多かったようである。更に、「土佐の八金」とは、男四人分の働きをするような、男勝りの女性を指す褒め言葉の一つでもあり、侮蔑するような言葉の一つでもある。
このように、四国土佐には、従来から下級武士層を中心として、頑固性のある強い精神力が根付いていたものか、その精神力が根底となって、幕末期の四国土佐に、薩摩藩や長州藩にも負けない多くの志士達を誕生させたのではないだろうか。
参考文献
半藤一利著『幕末史』精興社 2014年
近藤 勝著『土佐と明治維新』新人物往来社 1992年
宅間一之著『土佐藩』現代書館 2010年
平尾道雄編『土佐藩』吉川弘文館 1965年
次回予告
平成30年9月10(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設について」「明治新政府の樹立と矛盾」について
「参考意見」
大河ドラマ「西郷(せご)どん」における、岩倉具視役の笑福亭鶴瓶の頭髪について、どうしても指摘せざるを得ないので、それを示すと、明治四年(1871)十一月に横浜港から出発した「岩倉使節団」のメンバーの記念写真には、岩倉具視は間違いなく「髷(まげ)」を結っており、岩倉具視が断髪をしたのは、岩倉具視の子の岩倉具定の説得により、「岩倉使節団」がアメリカ・シカゴ滞在の時である。従って、西郷隆盛が、島津久光の許しにより、京都に向かった元治元年(1864)頃には、確実に岩倉具視の頭部には「髷」があったのである。
大河ドラマ「西郷(せご)どん」には、現在の歴史学会では超有名人、当代超一流とされている歴史学者が時代考証を担当している。それにもかかわらず、この岩倉具視役の笑福亭鶴瓶の頭髪を何で無視しているのか?何で鬘(かつら)でも「髷」の姿にしないのか?正確な時代考証をしているのか?全く理解出来ない。原作者への遠慮なのか?俳優への遠慮なのか?超有名人、当代超一流の学者の時代考証とは何なのか?。大のNHKの大河ドラマの時代考証担当者には、その誤りを誰も指摘出来ないのであろうか?「超有名人、当代超一流の学者には何も言えない。」という悪風習がいまだに通用しているのではなかろうか?学者世界では、小保方晴子氏の論文騒動で充分反省したはずではなかったか、と考える。
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