第百三十回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成30年9月10日
瀧 義 隆
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設」について「明治新政府の樹立と矛盾」について
はじめに
小さくは、一個人がこの世に生をうけ、成育するにつれて「将来はこうありたい。」「こんな生活をしてみたい。」等とする「夢」、即ち、「理想」を持つようになる。しかし、成人となって社会に揉まれ、家庭での生活に追われるようになると、「理想」はどこえやら、目の前の事に翻弄される現実に直面する。これは、大きくは、一国家にしても同様であり、革命や政変などによって新政治体制が誕生すると、必ず国民に対して国家形成の理想像として国政の基本方針を提示する。しかし、現実は、世界規模でみても、理想と現実との矛盾に陥ることが多く、ドイツ・ベルリンの壁崩壊、ロシアの政変やベトナムの修正共産制等、歴史上にも見られる事実でもある。今回の「歴史講座」では、西郷隆盛が江戸幕府に替って「新しい国家」をどのようにして、その理想描いたか?そして現実はどのようであったか?そこに矛盾が生じなかったか?等について論じてみたい。
「明治維新とは?」
「明治維新」とは?
「明治」の元号は、古代中国の「卜(うらない)」の書物である『易経』の中に、「聖人南面而聴天下、嚮明而治」を出典としており、慶應四年(1868)九月七日の夜、睦仁(むつひと)天皇が、宮中の賢所(かしこどころ)で、改元の為の元号候補から、くじ引きをして選び、「一世一元の制」の詔(みことのり)によって翌日の九月八日に「明治」の元号が発布されたのである。
また、「維新」とは、これも古代中国の『詩経』の、「周雖旧邦、其命維新」
また、『書経』にある、「旧染汚俗、与維新」からとったのではないか?とする説があるが、明確なところは判ってはいない。「維新」の言葉と同じように、「ご一新」があるが、これは長州藩の被差別部落民の隊名に、「一新組」や「維新団」等の語が見られ、これらは被差別部落民の願望が込められていたのでは、と考えられている。明治新政府は、この「一新」を意識して「御一新」と表現し、天皇による上からの「御一新」を強調することとなったのである。
「五箇条御誓文」について
「五箇条御誓文」は、慶應四年(1868)三月十四日、明治天皇が天地神明に誓約する形式で世に表明した、明治新政府の基本方針で、国家の理想像を示したものである。次にそれを示すと、
「御誓文之御写
一 廣ク会議ヲ興シ萬機公論ニ決スべシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經論ヲ行フベシ
一 官武一途庶民に至ル迄各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」
中山泰昌編著『新聞集成 明治編年史 第一巻』
財政経済学会 昭和五十年 21P
「萬機(ばんき)」・・政治上の多くの重要事項のこと。
「公論」 ・・・・ 世間一般の人々の意見、公平で偏らない議論等のこと。
「經論(けいろん・きょうろん)」・・・儒教的・仏教的な教えを守る考え方のことである。
「陋習(ろうしゅう)」・・・・俗悪な習わしのこと。
「皇基(こうき)」・・天皇が国家を統治する基礎のこと。
以上の「五箇条御誓文」は、国政を執行して行く上では、「国政には、一般庶民の意見を重視する。」「全て会議の議決を経ることが重要である。」としているものである。しかし、実際の明治新政府の初期の「三職(さんしき)の制」・「太政官制(だじょうかんせい)」の頃は、比較的この「五箇条御誓文」の一条を尊重し、多くの意見を取り入れる組織形態を形成しているものの、時の経過につれて、次第に旧薩摩藩・旧長州藩士等を中心とする、特定の旧藩出身の者達に政権が集中するようになってくるのである。これは、「明治維新」の「萬機公論」の精神とは大きく相違するもので、理想と現実の矛盾を示すものである、と言なければならない。
更に、この「五箇条御誓文」の第一条、「一 廣ク会議ヲ興シ萬機公論ニ決スべシ」は、明治七年(1874)頃から始まったと考えられている「民選議員設立建白書」の提出以後に板垣退助が中心的となった「自由民権運動」の理論的根拠としたのである。
次に、本来、江戸幕府を倒す原因となったのは、幕府がかってに朝廷の「攘夷」という意向に反して、アメリカ等の外国と次々と通商条約を締結するような「ひ弱わ・弱腰」の幕府政治には、この国の政権維持を任しておれないし、外国の侵略を防御は成し得ない、とするものであった。
この朝廷の「攘夷」の方針を貫くには、この「ひ弱わ・弱腰」幕府を排除して薩摩藩や長州藩等の新しい勢力によって、外国の勢力を撃退出来る、朝廷を中心とする強力な「新しい政府」を造り出すしかない、として多くの犠牲を伴いながら「明治維新」という政治改革を断行したのである。
しかし、倒幕に成功し、「新しい政府」を樹立したものの、外国の経済力・産業・軍事力等との国勢の相違は甚だしいものがあり、国力を現状のままにすることは、諸外国に我国を植民地化させられてしまうことに「新しい政府」も気付かされたのである。
その結果、「五箇条御誓文」の第五条に「一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」とあるように、西欧諸国の新しい政治思想を導入して、近代的な国家形成を図ろうとするものである。この方針は、外国勢力を全面的に排斥しょうとする朝廷における従来の「攘夷」の方針とは、真っ向から対立する「開国」に方向転換をするもので、「明治維新」の大きな矛盾の一つであった、と指摘せざるを得ない。
「明治時代の庶民」
江戸時代末期までの農民は、自国の領主に対して、村を単位とする「年貢」を「米」による現物納付をしていた時代である。一俵(60㎏)は一俵としてそのまま納付すればそれで良かったが、明治維新政府となって、自国の領主にではなく、税金としてそれぞれの農民各自が国に金納(金銭による直接納付)する義務が生じてきた。これは、農民が納税をする為に、「米」を現金化しなければならず、この時に売買先に中間搾取を生み、「米」による農民の直接収入が少なくなってしまうのである。このことから、江戸時代末期までの農民の生活よりも、明治維新政府時代となっての農民達は、かえって苦しい生活となり、負担増を強いられることとなったのである。
江戸時代末期までの農民は、幕府が倒れ、「天皇の御代」となれば、苦しい「年貢」徴収から解放されるであろうことに期待し、農民の身分ながらも倒幕軍に加担する者が多く、金銭的に援助する者や、自ら軽卒(下級兵士)として直接戦闘要員となる者もあった。そのような大きな期待に反して、欧米の近代的軍備に追いつく為、また、高額の顧問料を支払って欧米の技術者・学者・政治家を招聘したことから、莫大な国家資金が必要となった「明治新政府」は、農民達への税金を急激に高くせざるを得なかったのである。倒幕すれば楽な生活が待っていると考えていた農民達は、以前よりも増して苦しくなる「明治新政府」に対して「裏切り」を受けたようなもので、「明治新政府」になっても、全国各地で「農民騒乱」が頻発する結果となった。これも、西郷隆盛が夢見た「民を少しでも楽にする新しい国造り」とはかけ離れた現実であって、「明治新政府の樹立」の矛盾の一つでもあったのではないだろうか。
「明治新政府の組織」について
島津斉彬が提唱していた、新たなる国家政治構想は、「衆議一決(しゅうぎいっけつ)」とする、民主的合議制による体制を創生することである。しかし、その理想国の創生を望みながら急死してしまったことから頓挫してしまった。その意思を継承した西郷隆盛も「民に優しい国家」形成を望んだが、倒幕によって成立した明治新政府の実体は、はたして島津斉彬や西郷隆盛が頭に描いた理想の新政府であったろうか?
この項では、この明治新政府の組織形成の歴史的な経緯をみてみることとしたい。
「三職(さんしき)の制」
慶應三年(1867)十二月九日~明治元年(1868)四月二十一日
「三職」とは、「総裁(そうさい)」・「議定(ぎじょう)」・「参与(さんよ)」の三つの階職による政治体制のことである。
「総裁」・・・有栖川宮熾仁(ありかがわのみやたるひと)親王
「議定」・・・皇族4人、公家12人、旧藩主12人
「参与」・・・公家49人・・・ 旧藩士(52人)
内訳・・鹿児島8人、名古屋5人、広島3人、福井6人、高知3人、高徳1人、熊本6人、柳川1人、萩5人、大垣1人、岡山2人、宇和島2人、鳥取2人、高鍋1人、津和野1人、秋田1人、佐賀4人、岡1人
「議定」・「参与」の総計は、129人となる。
「太政官制(だじょうかんせい)」
★「八官(はっかん)の制」
明治元年(1868)四月二十一日~明治二年(1869)七月八日
「八官(はっかん)の制」とは、
「太政官」、
「議政官」・・・上局・下局
「行政官」・・・神祇官・会計官・軍務官・外国官・民部官
「刑務官」
★「二官六省の制」
明治二年(1869)七月八日~明治四年(1871)七月二十九日
「神祇官」
「太政官」・・・民部省・大蔵省・兵部省・刑務省・弾正
台・宮内省・外務省・工務省・文部省・開
拓省
★「三院八省の制」
明治四年(1871)七月二十九日~明治十八年(1885)十二月二
十二日
「太政官」
「三院」・・「正院」(後に元老院となる。)
(太政大臣・右大臣・参議)
「左院」(議長・副議長・議官)
「右院」(行政議省長官・次官)
「神祇官」―「教務省」
「外務省」
「大蔵省」
「兵部省」―「陸軍省・海軍省」
「文部省」
「工部省」
「司法省」
「宮内省」
「農商務省」
「開拓使」
この「三院八省の制」の時の構成メンバーを分析すると、公家4人、薩摩出身4人、長州出身4人、土佐出身4人、肥前出身3人
★「第一次伊藤博文内閣」
明治十八年(1885)十二月二十二日~明治二十一年(1888)四月三十日
内閣総理大臣・・・伊藤博文(長州出身)
外務大臣・・・・井上馨(長州出身)
内務大臣・・・・山縣有朋(長州出身)
大蔵大臣・・・・松方正義(薩摩出身)
陸軍大臣・・・・大山巌(薩摩出身)
海軍大臣・・・・西郷従道(薩摩出身)
司法大臣・・・・山田顕義(長州出身)
文部大臣・・・・森有礼(薩摩出身)
農商務大臣・・・谷干城(土佐出身)
逓信大臣・・・・榎本武揚(旧幕臣・江戸出身)
以上のように、「三職」によっての政治体制には、まがりなりにも公家や旧諸藩の藩主やその家臣等、色とりどりの構成員となっているが、この体制もたった一年しか保つことが出来ず、次に組織された「太政官制」は、我国の古代・中世の政治体制を持ち出した、新近代国家体制とはとても言い難いものでしかなかった。明治四年(1871)の「三院八省の制」の構成員を分析すると、「三職」の時よりも、薩摩出身・長州出身・土佐出身に偏り始め、明治十八年(1885)になっての、内閣制の政府には、完全に藩閥政治の確立がみてとれるようになってきて、段々と「衆議一決」とはとても言えない、特定の旧藩出身による藩閥による独裁的政治体制となってしまうのである。
このように、明治新政府の草創期には、まがりなりにも「衆議一決」・「萬機公論」の理想像に、少しは近似するものでもあったが、強固な近代国家政治の確立を達成する為に、次第に天皇絶対主義国家形成に同調する、偏った政治構想へと変容していったのである。
まとめ
我国に明治維新の大改革がなかったら、日本の近代化は大きく遅れてしまい、欧米列国の植民地となって、外国の資本家による「奴隷的」民族となっていたかもしれない。その意味では、薩摩藩・長州藩主導の倒幕実行と新政府の樹立は、今日の日本を築き上げる上では、途方もない歴史的貢献を果たしたことは万民の認めるところである。しかし、明治新政府は、西郷隆盛達が描いた日本の理想的国家「民に優しい国」であったろうか? むしろ日本の国家は、「絶対君主制(天皇集権制)」によって、欧米列強と対等に国交樹立をもくろむ、軍国主義国家形成へと変貌し、西郷隆盛達の理想像とは大きく相違する国家形成となって行ったのではないだろうか。
ともかくも、西郷隆盛達、幕末の志士達の決死の行動によって、日本は何とか列強に伍す近代国家を樹立し得たのである。
参考文献
- 田中 彰著『明治維新』岩波書店 2000年
- 羽仁五郎著『明治維新史研究』岩波書店 1968年
- 服部之総著『明治維新史』青木書店 1972年
- 佐々木 克著『幕末史』精興社 2014年
- 半藤一利著『幕末史』新潮社 2008年
次回予告
平成30年10月15日(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設について」「近代の英傑達」について
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