第百三十一回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成30年10月8日
瀧 義 隆
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んで、メインテーマ「明治という新時代の創設について」「近代の英傑達」について
はじめに
薩摩藩と長州藩を中心とする討幕の国家改革は、後進国の日本を急激に欧米並みの国家へと変革させるものであるが、その改革の過程では、多方面に有能な人物も排出し、政治的だけではなく経済界や文化界にも多くの逸材を世に出している。しかし、このような新国家体制創生の裏側には、旧態依然の国家体制に固執する人達がいて、その人達に引きづられ、悲惨極まりない犠牲者を産む結果ともなった事も決して忘れてはならない。
そこで、今回の「歴史講座」では、まず、「近代の英傑達」につい少し考察を加えながら、明治維新創生の為の犠牲者となったその事実にも目を向けることとしたい。
1. 「文明開化と近代の英傑達」について
明治維新という国家体制の大改革は、政治構造を欧米並みの近代化を図るものであったと共に、「文明開化」と称される思想によって、日本全国民の頭脳改革をも迫ることともなった。
「文明開化」について
明治維新の当初頃に、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。」と言われたように、先ずは明治四年(1871)八月九日に太政官から発布された、
「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム」中山泰昌編著『新聞集成 明治編年史 第一巻』財政経済学会 昭和五十年 393P
という、「断髪脱刀令」により、全国の一般庶民も、従来の「チョンマゲ」の頭髪を「散切り頭」と称する髷(まげ)を斬り落として後ろになでつける髪形で、現在の男性の頭髪姿よりも少し長めの髪形になったのである。「文明開化」という言葉は、明治八年(1875)に福沢諭吉が著した『文明論之概略』の中で、英語の「civilization」の訳語として「文明」を使ったことが始まりとされ、従って、「文明開化」という言葉は、「断髪脱刀令」の後に一般化した言葉となる。
「文明開化」とは、明治時代の人々にとって、「頭髪」や「服装」のみを指すものではなく、「食生活」・「信仰」・「学問」・「芸術」・「ジャーナリズム」等と広範囲にわたるもので、欧米の諸々の文化を直輸入しながらも、従来の日本文化と融合しながら欧米文化を取り入れていったのである。
「英傑達」について
「英傑」について、その言葉の意味を調べてみると、「才知のすぐれた人」岩波書店出版『広辞苑 第二版』昭和四十五年 227Pとあって、西郷隆盛や大久保利通達は、「稀代の英雄」であったとすれば、「英傑」とは「政治家」や「軍人」に限るものではなく、「実業家」や「教育者」等も「才知のすぐれた人」というこの範疇に入ることとなる。
そこで、この項では西郷隆盛等の「政治家」や「軍人」達の「英傑」ではなく、それ以外の「英傑」達のそのごく一部に目を向けてみたい。
●「岩崎弥太郎(いわさきやたろう)」
天保五年(1835)十二月十一日~明治十八年(1885)二月七日土佐国安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎と美和との長男として誕生した。安政二年(1855)に、父、弥次郎が庄屋と喧嘩して投獄され、それを批判した弥太郎も投獄された。この時、獄中で同房の商人から「算術」や「商法」を学び、これが後に商業に導く機会となった。
明治四年(1871)に「九十九(すくも)商会」の経営者となり、明治六年(1873)に、社名を「三菱蒸気船会社」に社名を変更し、岩崎弥太郎が三菱財閥の初代総師となった。この頃に三菱のマークの「スリーダイヤ」が作られたが、何故に三菱のマークが「スリーダイヤ」となったか?をみると、岩崎家は甲斐武田氏の当主である武田信光の五男である武田七郎が、甲斐国山梨東郡岩崎(現在の山梨県甲州市勝沼町)を本拠地としたことから岩崎姓を名乗ることとなった。岩崎氏は長曾我部氏に従って関ヶ原の合戦に加わったが敗北し、その後は山野に隠れて暮らし、江戸の中期になって四国高知藩の山内家に仕えることとなった。このことが、明治時代になって、岩崎氏の「重ね三階菱」と山内家の「丸に土佐柏」を参考にして図案化し、三菱のマークの「スリーダイヤ」となったものと考えられている。
・・・・・・・資料1参照
●「上野景範(うえのかげのり)」
天保十五年(1845)十二月一日~明治二十一年(1888)四月十一日薩摩藩の通訳の家柄にうまれ、13歳で長崎に行き、オランダ語と英語を習得した。20歳の時に上海に密航したが、翌年に捕縛されて長崎に送還された。幕末期において英語を理解する人材は重要であったので、薩摩藩の英語教師に登用され、明治新政府では対外交渉に活躍しつつ、明治六年(1873)には対朝鮮の「強硬意見書」を提出した。これが後に西郷隆盛達の「征韓論」に影響することともなった。
●「津田梅子(つだうめこ)」
元治元年(1864)十二月三十一日~昭和四年(1929)八月十六日旧幕臣、津田仙の次女として誕生、幼い時から手習いや踊等を学んでおり、父の農園の手伝もしていた。明治四年(1871)に父の津田仙が、明治新政府の北海道開拓使
の嘱託となり、この縁で梅子は、同年、開拓使次官の黒田清隆の推薦により女子海外留学に応募し、岩倉使節団に同行してアメリカに渡った。当時「津田梅子」は7歳で、明治十五年(1882)十一月まで英文学・ラテン語・フランス語・心理学・芸術等を学んだ後に帰国した。帰国後、「華族女学校」の英語教師となったが、この「華族女学校」の上流階級的気風に馴染めなかったようである。明治二十二年(1889)七月に、再度アメリカに留学し、生物学を専攻し、明治二十五年(1892)八月に帰国した。明治二十七年(1894)に「明治女学院」、明治三十一年(1898)に「女子高等師範学校」の教授等を歴任後、明治三十三年(1900)七月に「女子英学塾(現在の津田塾大学)」を創設した。
●「ゲルストマイエル」
生没年不明
明治六年(1873)三月十四日に、明治新政府は外国人との結婚を許可する法令を発表した。明治七年(1874)一月、宮崎県の士族の「三浦十郎」は、ドイツ人の女性、「ゲルストマイエル」と東京築地の教会で結婚式を挙げた。これが日本人男性と外国人女性の結婚第一号である。この女性は、5ケ国語をあやつる才女で、裁縫も上手であった。「三浦十郎」がドイツ留学の時に「ゲルストマイエル」と知り合い、「三浦十郎」が一人日本に帰国したところ、日本まで追いかけて来た「押しかけ女房」である。
2. 「明治維新の犠牲者達」について
西郷隆盛は、政治的に行動する倒幕から、武力よって幕府を倒す「討幕」に方向転換し、徳川慶喜に対して大きな「拳(こぶし)」を振り上げ、慶應四年(1868)一月三日に鳥羽・伏見の戦いが開始された。しかし、戦いの最中に徳川慶喜は戦線を離脱し、江戸に帰還すると、さっさと「上野寛永寺」に謹慎・蟄居してしまった。こうなると、西郷隆盛が振り上げた「拳」の降し所を失ってしまったので、「討幕」に高揚している薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍(官軍)の兵士達の「はけ口」として、東北の古い体質の思想を持つ各藩を「朝廷」に逆らう「賊軍」として攻撃目標に仕立て上げたのであった。
東北地方の各藩も、「奥羽越列藩同盟」を結んで新政府軍に対抗し、「戊辰戦争」に突入したが、仙台藩や米沢藩等は早々に降伏してしまったが、会津藩は新政府軍に徹頭徹尾抗戦し、その結果は惨憺たる犠牲者を産むこととなった。その中でも、会津の若い女性達は男子に負じと薙刀を持って敵の砲撃を受けながら奮戦し、討死する女性、捕縛されて丸裸にされて犯された後に自殺する女性も多数みられたのである。・・・・・・資料2参照
また、中には戦いの邪魔にならないようにと、自ら命を絶ってしまう悲惨な家族もあり、その様子を示す文献があるのでそれを示すと、「籠城と決し、藩士らは入城したが、城下の庶民は命によって城下から離れた村落に難を避けた。しかし藩士のうち、老年のため、また、病床に伏して戦い得ない人々は自刃し、また籠城して手足まといになることをおそれ節を守って国に殉じた婦女も二〇〇余人にものぼった。なかでも非劇中の非劇は、城に最も近い藩老西郷頼母邸における一族二十一人の殉節であった。頼母の母は婢僕を諭して難を避けしめ、頼母と孫(頼母の長子)の吉十郎(十一歳)を城に送って間もなく、一家は左の辞世をそれぞれ残して自刃した。」『福島県史 第2巻 通史編 2 近世 1』福島県 昭和四十六年 749P
「節を守って」・・・・女子のみさお・貞操を守ること。
「藩老(はんろう)」・・ 藩の家老のこと。
「西郷頼母(さいごうたのも)」
・・・会津藩主松平容保に仕えた会津藩の重臣である。会津の西郷氏は、三河の国の系統で、全国に西郷の姓は散らばっており、西郷隆盛とは遠い祖先で繋がっているのでは?とも考えられている。
「殉節(じゅんせつ)」・・節義の為に死ぬことで、節義とは志を変えずに、人としての正しい道をかたく守ることである。
「婢僕(ひぼく)」・・・・召使いの下女と下男のこと。
「辞世(じせい)」・・・・死にぎわに詠んで、この世にのこす和歌・俳句のこと。
更に、以上の婦女子のみならず、幼い青少年も会津防衛の為に合戦にかり出された。その中でも壮烈な戦いの後に自刃した「白虎隊」については、『福島県史 第2巻 通史編2 近世1』にも、【白虎隊の奮戦と自刃】として項目を立て、たった十六・七歳の男子で編成された「白虎士中二番隊」の三十七名の内、二十人が飯盛山に逃れ、その地で自刃した様子を詳細に記載している。・・・・・・・・資料3参照
また、会津が新政府軍に降伏する様子を知らす当時の新聞では、「内外新聞 一七去る九月廿一日若松城降旗を建て降を乞ひ同廿二日に会津肥後父子熨斗目■(?字が不明)上下無刀徒跣にて陣前に降状を捧て罷出候。降伏之大意。
先年在京之砌重き天朝之御厚恩を蒙りながら今日之次第、何共可申上様無之不埒之至、此上如何體之厳科に被處候とも、一言之申分無御座候趣を申立候よし。(後略)」中山泰昌編著『新聞集成 明治編年史 第一巻』財政経済学会 昭和五十年 193P
「会津肥後父子」・・・会津藩主の松平容保とその養子の喜徳(のぶのり)のことである。容保の実子は明治二年(1869)六月三日に生れている。
「徒跣(とせん)」・・・履物をはかずに、裸足で歩くこと。
「厳科(げんか)」・・・厳しい処罰のこと。
以上の会津戦争の時には、新政府軍の兵数約75,000人に対して、会津藩の兵力は約9,400人(内訳 兵士3,500、その他5,900、女性兵数数十人)で、七分の一以下程度でしかない兵力で抵抗したのである。その結果は、惨憺たる敗北でしかなかった。
本来、会津藩の松平容保は、孝明天皇の信望も厚く、朝廷に対して常に恭順の姿勢を崩してはいなかった。ところが、徳川慶喜の鳥羽・伏見の戦の逃亡に同行した後から、慶喜と共に朝敵として新政府軍の「ターゲット」の一人となってしまったのである。
会津藩の内部でも、新政府軍との徹底抗戦論や和睦論等、混乱を極めたが、結局、主戦論に扇動されてしまい、最終的には新政府軍の餌食(えじき)とされ、非劇的な結末となってしまったのである。新政府軍にとっては、何が何でも会津藩を攻撃して、新政府軍の強さを国の内外に誇示し、更には、新時代の到来を全国民に知らせしめる、絶好の機会でもあったのである。
まとめ
どの世界でも、新しいものが誕生すると、その裏には、古い物が捨て去られてしまうのも世の常である。一般社会においても、昇進・昇格の裏側には、定年退職や辞任等が必ず存在し、新しいものと古いものが新陳代謝していくのは、自然の摂理なのかもしれない。「栄枯盛衰」は世の習いである。さしもの明治時代の英雄とされる西郷隆盛や大久保利通もその例外ではなく、最後は非劇的な終焉を迎えてしまうのである。(詳細は次回に説明予定)
参考文献
- 田中 彰著『明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか―』岩波新書 2003年
- 羽丹五郎著『明治維新史研究』岩波書店 1968年
- 木村直樹著『(通訳)たちの幕末維新』吉川弘文館 2012年
- 星 亮一著『会津戦争全史』講談社 2005年
- 星 亮一著『女たちの会津戦争』平凡社 2006年
次回予告
平成30年11月12日(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」に因んで、メインテーマ「明治という新時代の創設について」「西南戦争の原因と終焉」について
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