「織田信長」について

第百四十四回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
令和二年6月8日
瀧  義 隆

令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」についての歴史的考察
歴史講座のメインテーマ「明智光秀の合戦絵巻」
今回のテーマ「織田信長」について

はじめに

前回の「歴史講座」では、「明智光秀」の仕えたとされている、「足利義昭」について考究してみたが、今回の「歴史講座」では、「明智光秀」の人生において、最も重要な主君として仕えた「織田信長」について、史料的に信憑性の高いとされている、『信長公記』の記述を見ながら、論述してみたい。

1.「史料からみる織田信長の性格」について

「織田信長」についての史料としては、太田牛一(おおたぎゅういち)が著わした『信長公記』と、小瀬甫庵(こぜほあん)が著わした『信長記』とがあり、現在ではどちらも第一級の史料として位置付けされている。

「織田信長」についての史料

※太田牛一著『信長公記』

慶長五年(1600)頃に成立した著書と考えられている。著者の太田牛一は、最初は成願寺の僧侶をしていたが、還俗して斯波氏に仕えたり、柴田勝家に仕えたり、織田信長の近習の書記ともなり、更に、丹羽長秀の家臣となったりした。その後、豊臣秀吉に召し出されて秀吉に仕え、秀吉の没後は豊臣秀頼にも仕えた。

太田牛一は、戦国武将としては長命で、大永七年(1527)に生れて、慶長十八年(1613)に病没するまでの、87年の人生をおくっている。また、単なる武将だけだったのではなく、『関ヶ原合戦双書』、『安土記』、『安土日記』、『太田牛一雑記』、『高麗陣日記』等の多くの著書を著している。

※小瀬甫庵著『信長記』
元和元年(1622)に刊行されたものだとされている。
小瀬甫庵は、そもそも医学を修行する学者で、織田氏の家臣である池田恒興に仕えていたが、恒興が死去した後に、豊臣秀次に仕えた。しかし、秀次が豊臣秀吉の命によって、高野山で自害させられた後、堀尾吉晴に仕えた。堀尾吉晴が死去した後は、京都に移り、寛永元年(1624)には加賀藩の前田利常との縁により、知行二百石を貰って藩主の前田光高の兵学の師となった。

小瀬甫庵は、太田牛一の著わした『信長公記』を元に、慶長十六年(1611)頃に『信長記』を刊行し、その後、『太閤記』や『童蒙先習』・『太閤軍記』・『天正軍記』等を著し、寛永十七年(1640)に死去した。

「史料からみる織田信長の性格」について

次に、「織田信長」についての史料である、『信長公記』から、信長の性格について迫ってみると、「其比の御形儀、明衣の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多付けさせられ、御髪はちゃせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざやをさヽせられ、(中略)町を御通りの時、人目をも御憚なく、くり・柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくひになされ、町中にて立ちながら餅をまいり、人により懸り、人の肩につらさがりてより外は御ありきなく候。(後略)」太田牛一著『信長公記』慶長五年(1600)頃?

角川書店 平成十四年 22P

「明衣(ゆかたびら)」・・・・・入浴後に着た、汗とり用の麻の単(ひとえ)物で、「ゆかたびら」と言われ、後に「ゆかた」となった。この記述に示されているように、通常の武士の子供の風体ではなく、「人目をも御憚なく」というような、傍若無人の恰好で町中を闊歩していたのである。・・・・・・・資料1参照

織田信長・初陣図
織田信長・初陣図
織田信長・想像図
織田信長・想像図

更に、父親の織田長秀の葬儀の時には、「信長御焼香に御出、其時信長公御仕立、長つかの太刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちゃせんに巻立、袴もめし候はで、仏前へ御出であって、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投懸け御帰り。」

太田牛一著『信長公記』慶長五年(1600)頃?
角川書店 平成十四年 24P

「ちゃせんに巻」・・・・茶道で抹茶を茶椀の中で混ぜる時に使用する竹製の道具のこと。
「抹香(まっこう)」・・・樒(しみき)の樹皮と葉を乾燥して、粉末にしたお香の種類。この「抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投懸け御帰り。」とあるように、その風体からも粗暴であり、感情を表に現す激情型でもあったことがみてとれるのである。ところが、常識的には考えれない、異端児としての「織田信長」ではあるが、天文二十二年(1553)四月頃における、信長の正室である「帰蝶(きちょう)・濃姫」の父親である美濃国の齋藤道三との対面の時の様子をみると、
「一、四月下旬の事に候。(中略)弓・鉄砲五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着候て、屏風引廻し、
一、御ぐし折曲に一世の始にゆわせられ、
一、何染め置かれ候を知る人なきかちんの長袴をめし、
一、ちいさ刀、是も人に知らせず拵をかせられ候をさヽせられ、御出立を御家中の衆見申候て、去ては此比たわけを態御作り候よと、肝を消し、各次第々々に斟酌仕候なり。(後略)」

太田牛一著『信長公記』慶長五年(1600)頃?
角川書店 平成十四年 26P

このように、信長の近臣の者にしか知らせない、秘密保持・緻密な精神も兼ね備えていて、家臣達をも驚愕させるような性格でもあったことが判明する。また、「鉄砲五百挺」も取り揃えているような、最先端の武器をも携える、時代の変化にも敏感に対応する適応性に富む性格でもあった、と言えよう。

更に、永禄元年(1558)十一月には、「上総介信長の御舎弟勘十郎殿、上総介殿へ又御謀叛思食立の由申上げられ候。是より信長作病を御構へ候て、一切面へ御出でなし。御兄弟の儀に候
間、勘十郎殿御見舞然るべしと、御袋様並柴田権六異見申すに付て、清州に御見舞に御出で、清州北矢蔵天主次の間にて、弘治四年戌午霜月二日、河尻・青貝に仰付けられ、御生害なされ候。(後略)」

太田牛一著『信長公記』慶長五年(1600)頃?
角川書店 平成十四年 59~60P

「御舎弟勘十郎殿」・・・実弟の織田信行のこと。
「御袋」・・・・・・・・実の母である土田御前のこと。
「柴田権六」・・・・・・後の柴田勝家のこと。
「弘治四年戌午霜月二日、」・・・・・・これは太田牛一の間違いで、正しくは、弘治三(永禄元)年戌午霜月二日である。
「河尻・青貝」・・・・・「河尻」とは河尻秀隆のことであるが、「青貝」については不明である。

この史料にみられるように、「織田信長」とは、実の弟である「織田信行」を、仮病を語って清州城に呼び寄せて殺害してしまうような、冷酷な面もある人物であったのである。・・・・・・・資料2参照

織田信長像
織田信長像

しかし、このように、実の弟を殺すようなことは、信長だけではなく、後代の伊達正宗も実の弟を殺害しており、武田信玄や徳川家康も、嫡子を殺害しなければならない状態に追い込まれている。このように、非情な社会であったのが戦国時代なのかもしれない。

2.「織田信長の略歴」について

大河ドラマ「麒麟がくる」を見続ける為には、「明智光秀」の主君として直接的に関わる「織田信長」の一生について、その概略をとらえておく必要があるので、次にそれを示すと、

「織田信長の出生と兄弟・子供達等」について

天文三年(1534)五月十二日(異説では、五月二十八日)生れ。
天正十年(1582)六月二日、明智光秀の謀叛により、京都本能寺において自害した。

父親・・・・尾張国の大名、織田信秀
母親・・・・土田御前(とだごぜん・つちだごぜん)
兄弟・・・・信広(のぶひろ)、信長(のぶなが)、信勝(のぶかつ、信行・達成とも名乗る)、信包(のぶかね)、信治(のぶはる)、信時(のぶとき)、信興(のぶおき)、秀孝(ひでたか)、秀成(ひでなり)、信照(のぶてる)、信益(のぶます)、長利(ながとし)、お市の方、犬(いおぬ)の方
妻(正室)・・鷺山(さぎやま)殿(帰蝶又は濃姫とも言う。)
(側室)・・生駒吉乃(生駒家宗の娘)
・・坂氏の娘
・・於鍋の方(高畑源十郎の娘)
・・養観院(詳細不明)
・・稲葉氏?
・・慈徳院(滝川一益の親族?)
・・土方氏(青山氏の娘?)
・・あここの方(三条西実枝の娘)
・・原田直子(原田直政の娘)
・・御ツマキ殿(明智光秀の妹)

子供(息子)
長男・・織田信忠(嫡男)
次男・・北畠信雄(北畠具房の養子となる。)
三男・・神戸信孝(神戸具盛の養子となる。)
四男・・羽柴秀勝(羽柴秀吉の養子となる。)
五男・・織田勝長(武田信玄の養子ともなったが、後に離縁となる。)
六男・・織田信秀(後に羽柴信秀と名乗る。)
七男・・織田信高(後に羽柴藤十郎と名乗る。)
八男・・織田信吉(後に羽柴武蔵守と名乗る。)
九男・・織田信貞(豊臣秀吉に仕えた後に、徳川家康にも仕えた。)
十男・・織田信好(豊臣秀吉に茶人として仕えた。)
十一男・・織田信次(関ヶ原の合戦では、大谷吉継の隊に所属して討死した。)

庶長子(しょちょうし)(正室以外の子供)
・・ 織田信正(詳細不明で、存在も疑問視されている。)
子供(娘)
長女・・相応院(蒲生氏郷の室)
次女・・徳姫(五徳)(見星院)(松平信康の室)
? ・・秀子(藤)(中川秀政の?)(詳細不明)
? ・・玉泉院(前田利長の室)(詳細不明)
? ・・報恩院(丹羽長重の室)(詳細不明)
? ・・振(水野忠胤の室)(詳細不明)
? ・・名前も不明(万里小路充房の室)(詳細不明)
? ・・三の丸殿(豊臣秀吉の側室) (詳細不明)
? ・・月明院(徳大寺院実久の室)(詳細不明)
? ・・名前も不明(足利義昭の側室)(詳細不明)
※以上の外に、養女が4人と、猶子(他人の子供を預かり養育する。)が1人いた、とする説がある。
※信長の正室である帰蝶(濃姫)との間には、子供は一人も授かっていない。従って、上記の信長の子供達は、全て、多くの側室が産んだものである。

「織田信長の略歴」

天文三年(1534)・・・織田信秀の正室の子(次男とする説と、三
男とする説がある。)として生れた。
天文五年(1536)・・・三歳で「那古野城」の城主となる。
天文二十年(1551)・・三月、父の織田信秀が病死した為に、信長が家督を継いだ。
天文二十二年(1553)・齋藤道三と正徳寺で対面する。
弘治元年(1555)・・・四月、「清州城」の守護代であった、織田信友を自害させ、「那古野城」から「清州城」に移った。
永禄元年(1558)・・・十一月、実弟の織田信行を「清州城」に誘い出して殺害する。
永禄二年(1559)・・・二月、上洛して室町幕府第十三代将軍の足利義輝に拝謁する。
永禄三年(1560)・・・五月、田楽狭間において、上洛中の今川義元を討ち取る。
永禄七年(1564)・・・木下藤吉郎に命じて、美濃国の土豪を懐柔して、尾張国を統一する。
永禄九年(1566)・・・九月、木下藤吉郎に墨俣城を築かせ、齋藤龍興を破り、「天下布武」の印を使用するようになった。
※この頃に、明智光秀は織田信長に仕えたものと考えられる。
永禄十年(1567)・・・八月、齋藤龍興を滅ぼし、美濃の稲葉山に移り、ここを「岐阜」と改称した。
永禄十一年(1568)・・七月、足利義昭を岐阜に迎え、九月に上洛し、十月、足利義昭を室町幕府第十五代将軍にした。
元亀元年(1570)・・・一月、足利義昭に「九ケ条の掟書き」を突き付ける。九月、石山本願寺と敵対し、石山合戦が開始される。
元亀二年(1571)・・・九月、比叡山延暦寺の堂塔を焼き払い、多数の僧侶を殺害した。
元亀三年(1572)・・・十月、足利義昭に「十七条」の意見書を送り、失政を諌める。
天正元年(1573)・・・八月、朝倉義景を攻めて自害させる。同じく、妹の「お市の方」の嫁ぎ先である小谷城を攻めて、浅井長政を自害させる。
天正三年(1575)・・・五月、徳川家康との連合軍で、設楽が原において武田軍を撃破する。
天正四年(1576)・・・二月、丹羽長秀に命じて、「安土城」の築城に着手する。
天正五年(1577)・・・十一月、朝廷から「右大臣」に任官される。
天正六年(1578)・・・四月、「右大臣・右大将」を辞任する。これは、朝廷・公卿達に衝撃を与えた。
天正七年(1579)・・・五月、「安土城」の天守閣が完成する。
天正九年(1581)・・・二月、皇居(京都)東門外で、「馬揃え(現在の軍事パレード)」を行い、正親町(おおぎまち)天皇にご覧にいただく。
天正十年(1582)・・・六月二日、明智光秀の謀叛により、本能寺において自害する。

谷口克広著『織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで』中央公論新社 2002年

※参考
織田信長の花押は、「麒麟」の「麒」の字を図案化したものが使用されている、とする説があるが、これは、織田信長という人物がこの世を平和にしてくれる稀なる人物で、その後に「麒麟」が現れるとする考え方から、このような説も考えられたものと思われる。・・・・・・・・・・・・資料3参照

織田信長の花押・印(天下布武)
織田信長の花押・印(天下布武)

しかし、織田信長の花押には、「信長」の字を図案化したものだ、とする説等もあって、不明確になっている。従って、今回の大河ドラマ「麒麟がくる」における、池端俊策氏の考え方は、「麒麟」を招く人物とは、上記で示した通り、冷酷・惨忍極まりない織田信長ではありえず、「麒麟がくる」ことを期待されているのは、むしろ、織田信長によって数々の合戦を強いられた、「明智光秀」を想定しているのではなかろうか?と考えられるのではなかろうか。

まとめ

今回の「歴史講座」では、織田信長について考察してみたが、織田信長という人物は、繊細な精神の持ち主であり、目的成就の為には手段を選ばない、冷酷無残な部分もある、人離れした天才肌の人物ではなかったか?と考えられている。これに対して、明智光秀という人物は、はたしてどのような人物であったのか?脚本家の池端俊策氏は、どのように明智光秀の性格造りしていくのか?今後の大河ドラマ「麒麟がくる」がどのように進展していくのか、大河ドラマフアンに大きな期待を持たせてくれそうである。

参考文献

次回予告

令和二年7月13日(月)午前9時30分~
令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」についての歴史的考察
歴史講座のメインテーマ「明智光秀の合戦絵巻」
次回のテーマ「金ヶ先の戦い・志賀の陣【元亀元年(1570年)】」「比叡山焼き討ち【元亀二年(1571年)】」「長篠の合戦【天正三年(1575年)】」

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