「陰陽道」について

第百六十三回 サロン中山「歴史講座」
令和六年4月8日

瀧 義隆

令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「陰陽道」について

はじめに

国政を担う政治家は、古代の「帝(みかど)」や公卿達、そして現在の政治家達においても、多くの疑問や「迷い」を抱えて「どうすれば良いか?」と、色々迷ったり悩んだり、また自信喪失に陥ったりして、その不安から脱却する為に、「何か」に縋らざるを得ない事も多くあるのではないだろうか。

現在に於いては、多様な情報源があって、アドバイザーも人材豊富となっている事から、現在の真面目な政治家達は、問題となっている「政治資金」を活用して様々なアドバイザーから助力を得ているようでもある。しかし、そのようなメディアも存在しない古代から中世にかけての「帝(みかど)」や公卿達は、中国から伝来した「陰陽道」の学者に頼って、その秘術によって示される方向性を信頼し、政治に直結させようとしたのである。

ドラマ「光る君へ」で、紫式部の「恋人?」で、藤原兼家の後を継承して王朝政治の中心となった藤原道長も、政治的陰謀・術策を講ずる手段として、陰陽師の安倍晴明やその子孫にアドバイスを求めたのである。

今回の「歴史講座」では、この陰陽道と陰陽師の安倍晴明にスポットをあててみたい。

1.「陰陽道」とは?

「陰陽道」は、中国の「夏(か)」(紀元前2070~紀元前1600年)・「殷(いん)」(紀元前1600~紀元前1046年)の王朝時代に成立し、「周(しゅう)」(紀元前1046~紀元前256年)王朝時代に完成したのではないか?とされている「陰陽五行思想」で、天文学・暦学・易学・時計等を専門に探求する思想の一つである。
日本に伝来したのは、5世紀から6世紀にかけての飛鳥時代に、中国から直接か、または、百済(くだら)を経由してか、仏教や儒教と共に伝わり、その時に「五経(ごぎょう)博士」や「易博士」も来日して、「陰陽五行思想」を日本にもたらした、と考えられている。

伝来の当初は、渡来してきた僧侶達によって陰陽道が行われていたが、飛鳥時代(7世紀後半)の天武天皇によって「陰陽寮」が設置されようになった。この「陰陽寮」は政治機関の一つとして明治二年(1869)まで設けられていたのである。「陰陽寮」には「陰陽博士」がいて、「天文博士」が「占星術(せんせいじゅつ)」を行使し、また、「暦博士」が「暦」を編纂・作成しつつ教授も行い、また、「漏刻(るこく・ろうこく)(水時計)博士」が時報を司どっていた。

※『日本書紀』によると、「漏刻」は斉明天皇六年(660)5月に、皇太子であった中大兄皇子が「初めて漏剋(原文のまま)を造り、民に時をしらしむ」とあって、遣唐使によって中国から伝わったものと考えられている。

この漏刻と称する時計の仕組みは、階段状に並べた複数の水槽を、銅の細いパイプでつなぎ、それを通って最下段の水槽に溜まる水の量で、時を測る仕組みとなっていた。

「奈良時代の陰陽道」
7世紀後半から8世紀にかけての律令制の下にあって、陰陽の技術は宮廷組織の中務省(なかつかさしょう)に設置された陰陽寮となり、天文観測や暦の作成をしていた。
「平安時代の陰陽道」
「平安初期」
平安時代に入ると、「陰陽道」は藤原氏の台頭に伴い宮廷社会にも影響を及ぼす存在となり、天皇や公卿達の私生活にも影響するようになると共に、呪術的な要素が強調さるようになった。
「平安中期」
10世紀頃に入ると、賀茂忠行や賀茂保憲の父子が陰陽道の卓越した存在となり、そしてその才を受け継いだ安倍晴明が出現し、暦道を賀茂氏が、天文道を安倍氏が独占する二大宗家となり、朝廷や院政にも関与する立場となった。
「平安後期」
賀茂家も安倍家も、陰陽師の立場から政治に大きく影響を与える地位を得ることとなる一方で、賀茂氏も安倍氏も嫡流や陰陽寮の地位をめぐる内部抗争が多発し、対立が激化することとなった。
「鎌倉時代の陰陽道」
鎌倉初期には、賀茂在憲(ありのり)・賀茂在宣(ありのぶ)父子や、賀茂家栄(いえよし)、安倍泰親(やすちか)・安倍晴道(はるみち)・安倍広基(ひろもと)等が活躍し、関東陰陽道・鎌倉陰陽師が現れて鎌倉幕府に直接奉仕することとなった。
「室町時代の陰陽道」
安倍氏の一族は、公卿と同等となる身分に昇進し、陰陽頭を世襲するようになり、賀茂氏はその下風に立つこととなった。賀茂氏の本家の勘解由小路が断絶し、安倍氏嫡流の「土御門家」も衰退した。一方、陰陽道は民間に浸透し始め、「占い師」・「祈祷師」となって活躍するようになった。
「織豊時代の陰陽道」
豊臣秀吉は、陰陽師を地方に追放し、民間の陰陽師のみが増大していく。各武士集団からの迫害を受ける陰陽師筆頭の「土御門家」も相伝の法具や祭壇等も焼失したりして、衰退する一方となった。
「江戸時代の陰陽道」
幕府の許可を得て、陰陽道が「天社(てんしゃ)神道」と変化していく一方、「土御門家」や分家の「幸徳井家」を再興して陰陽師の管理をさせたが、江戸時代には陰陽道は全く政冶にかかわることはなかった。
「明治時代の陰陽道」
明治三年(1870)、明治新政府は「天社禁止令」を発布して、陰陽道を全て迷信である、として廃止させた。
「現在の陰陽道」
明治に廃止された「陰陽道」であったが、土御門範忠氏によって、昭和二十一年五月二十一日に「天社土御門神道」として復興されている。なお、令和五年に、全国の神社に対して「土御門神道」による「暦」が配布されている。

★現在に伝わる「陰陽道」の教えの一つとして、童話の『桃太郎』の話があるが、陰陽道では「桃」は「魔除け、厄除けの果物とされており、「厄除桃」を撫でると自分の「厄(やく)」を桃に移す事が出来、「健康で幸せになる。」という伝説が元となっている。また、「北枕(きたまくら)」は縁起が悪いとされている事や、「大安」とか「赤口」も陰陽道の伝えによるものである。 戸矢 学著『陰陽道とは何か―日本史を呪縛する神秘の原理―』PHP新書 2006年

2.「陰陽師」について

「陰陽師」とはどのようなものか?を史料によって確認してみると、

「諸家家業記 陰陽道 土御門陰陽道ハ、古来、賀茂、安倍、両家之職掌ニ候、賀茂家ハ幸徳井と稱し、地下之者ニ候、安倍家ハ、元祖安倍清明ニ而、當時之土御門家、則右清明之末孫ニ候、中古より、堂上ニ被相成候、乍去、陰陽道之事、今以賀安両家職掌ニ相成居候、尤堂上地下之差別有之、依而土御門家ハ陰陽頭ニ任ジ、幸徳井陰陽助ニ被任候、(後略)」

『古事類苑 13 方技部』吉川弘文館 昭和四十五年 22P

「賀茂(かも)」・・・古来、山城国に勢力をもった一族で、陰陽師の宗家としては、賀茂忠行に始まる。
「安倍(あべ)」・・・大化の改新の頃は、左大臣を務めている安倍内麻呂等を輩出する名家であるが、不明な点が多い。
「職掌(しょくしょう)」・・・職務を大まかに分類するもので、仕事内容により分別する。
「幸徳井(こうとくい)」・・・南奈良を本拠地とする家柄で、安倍氏の末裔である。初代が幸徳井友幸で、賀茂氏に養子となった。
「地下(じげ)」・・・清涼殿に昇殿が許されていない官人のことで、六位以下の身分の低い者をいう。
「土御門家(つちみかどけ)」・・・陰陽道を司る家柄で、姓は「安倍」を名乗り、室町時代の「有宣(ありのぶ)」の時から「土御門」を名乗った。
「中古(ちゅうこ)」・・・上古と近古との間の時代のことで、平安時代を意味する。
「堂上(どうじょう)」・・・昇殿を許された、四位以上の公卿のこと、「殿上人(でんじょうびと)」とも称される。
「陰陽頭(おんようのかみ)」・・・「陰陽寮」の長官のこと。
「陰陽助(おんようのすけ)」・・・「陰陽寮」の次官のこと。

以上に示されている通り、「陰陽師」とは賀茂氏と安倍氏の両家によって独占されていて、賀茂氏は身分の低い家柄となっており、これに対して安倍氏は「殿上人(でんじょうびと)」と称される身分となり、後に土御門家を輩出する「陰陽師頭」を務める名家となっている。しかし、平安時代の後期になってくると、「陰陽師」に対する信頼度が薄れてきて、「陰陽道」が衰退し始めるのである。

この「陰陽道」の衰退について、史料を見ると、

「風俗見聞録 二陰陽道の事、吉凶損益を告て、人を損し己を益さん事をはかるもの也、又家相、人相、方位、的殺、地祭、身固め、家固の事あり、これまた人身を惑し、未前を憶するもの也、陰陽道は、天下國家の事に御用ひあるは、格別の御事なれども、以下に廣く行はるべきものに非ず、すでに易の弊は賊也と云り、(後略)」

『古事類苑 13 方技部』吉川弘文館 昭和四十五年 9P

「家相(かそう)」・・・家の方角や便所の位置等の間取りを占い鑑定する。
「人相(にんそう)」・・顔の各部分の特徴を見て、人の性格や運勢を読み取る。
「方位(ほうい)」・・・各方向に、五行・十二支・八卦を配し吉凶を占う。
「的殺(てきさつ)」・・九星占いで、各人の生年の本命星と反対の方角のことで、これを犯すと「祟(たた)りがある。」とする考え。
「地祭(じまつり)」・・建物を建てる時に、工事の無事や土地の神を祝い鎮めて安泰を祈る。現在の「地鎮祭」である。
「身固(みがため)」・・身体が丈夫になることを加持・祈禱すること。
「家固(いえがため)」・・・建築儀礼の一つで、新築の家の大黒柱に御弊を付けて、家運の安寧をお祓いし祈ること。
「易の弊(へい)」・・・陰陽師が占う事の弊害。
「賊(ぞく)也」・・・・他人に危害を与えるもので、良くない事の意味である。

『風俗見聞録』は、江戸時代後期の文政九年(1826)に、武陽山人が著した「風俗書」で、上記に示す陰陽道の弊害を如実に物語っており、平安時代に隆盛を見た陰陽道も、衰退の時期を迎えた事を如実に物語っている。

医学も科学も無い古代・中世において、急激な病気の流行によって死者が多数生じてしまったり、落雷による大火の発生、豪雨による大洪水の発生等、自然災害の連続があった。これらは全て「悪霊(あくりょう)」によるものと考えられていて、この「悪霊」を払い退けなければ民心が安定せず、これは「帝(みかど)や公家達の政治の悪さからだ。」と批判が増大し、国家の安泰を保持出来なくなる恐れがある。この「悪霊」をこの世から取り除く事が政治の重大事項となり、その為に陰陽師による「お祓い」に頼る事となった。また、他の物事の判断も、陰陽師の「占い」に頼ったのである。しかし、平安時代の後期頃になると、陰陽師の「お祓い」や「占い」は、全く頼りにならい事が明確となると、急に陰陽師は政治の世界からとう避けられる事となったのである。 山下克明著『平安時代陰陽道史研究』思文閣出版 2015年

3.「安倍晴明」について

歴史上、数多くの陰陽師が存在し、色々と紹介されているが、その中でもテレビドラマでも特に有名になった「安倍晴明」について取り上げてみたい。

通常、テレビドラマや物語においても「安倍晴明」を「あべのせいめい」と読んでいるが、この「晴明」の読みを「はるあき」・「はるあきら」・「はれあきら」とする説もあり、どれが正しいのか?と疑問も生じるが、結論はどの読みも正しいのである。

「安倍晴明」
誕生・・・延喜二十一年(921)一月十一日?
没年・・・寛弘二年(1005)九月二十六日(84歳で死去?)
父・・・・安倍益材(ますき)「一説では、安倍春材(はるき)、または、安倍保名(やすな)とする説もある。」
母・・・・「葛(くず)の葉」?

★安倍晴明の母についても不明な点が多く、伝説として伝わるものの中には、「葛の葉伝説」がある。これは、安倍野に住む安倍保名(やすな)が、陰陽師の石川悪右衛門に殺されそうになった狐を助けてやると、その助けてもらった狐が、その後、女性と化けて保名の前に現れ二人は結ばれ、それで生れた子供が安倍晴明である。安倍晴明が7歳の時、母の正体が狐であることが判ってしまい、母は次の一首を残して信太(しのだ)の森の稲荷社に帰っていった。その時に母が残した歌と伝わるのが、
「恋しくば、尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」というものであった。
以上が安倍晴明の誕生に関わる伝説である。
幼少期における安倍晴明に関する記録は存在せず、全くの不明である。・・・・・・・・資料①参照

天徳四年(960)・・40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生)となる。
応和元年(961)・・陰陽師に任じられる。
天禄元年(970)・・陰陽少属(しょうぞく)に昇進する。
天禄二年(971)・・51歳で天文博士との兼任となる。
天元二年(979)・・59歳の頃から皇太子の師貞(もろさだ)親王(後の花山天皇)から信頼されるようになる。花山天皇退位後は一条天皇や藤原道長から信頼される。
正暦四年(993)・・一条天皇の病気を快復させたことにより、正五位上に任じられた。
以後、主計寮に異動して「主計権助」や「左京権大夫」「穀倉院(こくそういん)別当」等を歴任し、位階は従四位下に昇進している。

★この後、安倍氏は陰陽道の家として賀茂氏と肩を並べるようになった。
寛弘二年(1005)・・84歳?で死去する。死因は老衰ではないか、と考えられている。 豊嶋泰国著『安倍晴明読本』原書房 1999年『日本史大事典 第一巻』平凡社 1992年 1305~1306P

★「晴明紋(せいめいもん)」について
安倍晴明が署名に使ったり、家紋に使っていた「晴明紋」と称されるシンボルマークがある。これは、別名を「晴明九字(せいめいくじ)」又は「晴明桔梗(せいめいききょう)」とも称される紋様であり、五角形を一筆書きしたものである。この紋は、陰陽道の呪術で使う記号であり、魔除けの効力があると言われており、旧日本軍の階級紋にも使用されていた。
この五角形の紋様は、ペンタグラム(pentagram)(五芒星)といって西洋でも魔除けの為のシンボルとして使用されており、ユダヤの賢王ソロモンの印(別名ペンタクルPentacle)ともなっている。・・・・・・・・資料②参照

次に、安倍晴明と藤原道長とが直接会っている様子を藤原道長が著した『御堂関白記』で見てみると、

「寛弘二年二月十日 戌子 東三条第移徒夜分から雨が降った。(中略) 西門に着いた後、陰陽師(安倍)晴明が来るのが遅れた。隋身に晴明を召させた。その時剋の内に来た。新宅の作法を行なわせた。(後略)」

藤原道長著『御堂関白記』(上) 全現代語訳 倉本一宏 講談社 2009年 166P

「新宅の作法」・・・新築した事への神に対する感謝と、新しい家の台所や悪い物が溜まり易い所を全てお祓いして「家内安全」・「無病息災」・「子孫繁栄」等をお願いする神事である。

この安倍晴明と藤原道長の出会いの後、7ケ月後の寛弘二年(1005)九月二十六日に安倍晴明は84歳でこの世を去っていった。 『日本史大事典 第一巻』平凡社 1992年 1305~1306P

まとめ

洋の東西を問わず、また、「人」の貴賎に関わらず、様々な「迷い」や「悩み」を抱えて生きている。へいへい凡々とした我々庶民においても「何やかや」と思い悩み、病気や「死」への恐怖等、どうしても神や仏に縋り懇願するものである。また、科学が発展した現在でも、最先端を行く宇宙開発の分野で、構造物や建物の建設開始時には、神主に依頼して事業完遂の安全を祈願しているテレビ映像を見ると、「苦しい時の神頼み。」は、中世の平安時代も現代に於いても、人間のやる事には何ら変わるものではない、と教えられているような気がしてならない。

参考資料

『安倍晴明肖像』・『晴明紋』
『平安時代の怨霊』

参考文献

次回予告

令和六年5月13日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
次回のテーマ「藤原氏の栄枯盛衰」について

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