スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(一八八三─一九五五)による痛烈な時代批判の書。自らの使命を顧みず、みんなと同じであることに満足しきった「大衆」は、人間の生や世界をいかに変質させたのか。一九三〇年刊行の本文に加え、「フランス人のためのプロローグ」および「イギリス人のためのエピローグ」も収録。(解説=宇野重規)
非常に難解でも、発見もあるにはある書籍でした
まずは、あとがきから読んで頂きたいのですが、訳者である佐々木孝さんは、途中でお亡くなりになりました。息子さんが残りの翻訳を手掛けたみたいなのですが、翻訳者によって、意味合いが変わってくるのが洋書、特に哲学書の問題となっていて、佐々木孝さんは、オルテガの、これまでの大衆の反逆で訳されて出版をされている書籍に対して違和感を持っていて、精力的に翻訳を始めたくだりが紹介をされています。
本書のタイトルとなっている大衆と言うのは、一般人と言う意味ではなく、解説にも書かれているように、これは自己批判の書籍となります。自己批判の対象としては、もちろん、オルテガ自身にも、及んでいるかもしれませんが、タイトルから何となく連想をしてしまいがちな、知識層が、非知識層に対して、けなしている書籍ではありません。例えばですが、以下を引用したいと思います。
むしろ現代の特徴は、凡庸な魂が、自らを凡庸であることを認めながらも、その凡庸である事の権利を大胆に主張し、それを相手構わず押し付けることにある。
本書 74ページ目
統一教会と一体化の自民党を応援して、野党の揚げ足取りに終始をしていた自称普通の日本人にバチン!と当てはまる言葉に個人的には思いました。彼らのうち何割が、統一教会と一体である政党を応援していた事を恥じるのか?また野党がだらしない。と言いながら、過去の自分を否定、あるいは内省をして、別の政党に投票をする事が出来るのか?一番の厄介な点は、過去の自分を否定する事になるのかな?と思います。実際に、つぼじを応援していた方々のほとんどが、統一教会の問題には、ほぼ触れないで、わけのわからない信仰の自由とは別とか言い始めて、台湾有事!とか話をすり替えるのに懸命ですね。反省出来ない大人の好例となりますので、人の振りみて、我が身を直せ。と言う言葉通り、自分も気を付けていきたいと思います。
他にも気になった点が2点あります。まずは1点目の引用です。
進歩した文明は、まさに骨の折れる問題なのだ。従って進歩が大きければ大きいほど危険性も増す。確かに生活もますます良くなる。しかしますます複雑になることも事実である。
本書 174ページ目
本書の感想文となる、この記事を書いている時点では『22世紀の民主主義』と言う成田悠輔さんの書籍を読んでいますが、根底の部分において、インターネットとSNSの登場によって、民主主義がフェイクニュースによって破壊をされていて、それが経済停滞に繋がっている。と言う感覚の事が書かれているのですが、まだ全部を読み終わっておりませんので、私自身の誤解かもしれませんが、そう言えばオルテガも言ってたな。と読みながら思い、前述をさせて頂きました。
次に身をもって思う、本書の中で、多くの人に知って貰いたいのと、実体験として金言のように感じた文章の引用をさせて頂きます。
間違いをおかしたと言う実に否定的な敗北的な状況が、その間違いを認めたと言うだけで、その人にとっては魔法のように新たな勝利に変化をすると言う不思議である。
本書 334ページ目
これです!現代社会の多くの人が抱えている、間違えた事を頑なに認めない。統一教会政権が8年に渡って、噓をついても良い。反省なんてしなくて良い。立場のある人は悪い事をするのが当たり前。そうした意識を植え付けた結果、見事な位に統一教会政権で育った国税庁の職員が不正受給を申請していましたね。もちろん、全員ではありません。むしろ頑なに間違いを認める事が出来ない人は、少数派になるかもしれません。はっきりと書いてしまうと、世の中の大半は、特に何も考えていない方になると思いますので、反省も何もなく、統一教会政権を支えてきた自覚すら持っていない方がほとんどでしょう。
統一教会政権を直接的に、あるいは選挙に行かない事で支えてきた。でも、統一教会と一体だとは知らなかった。騙された。だから私は悪くない。騙されたんだから反省なんてする必要はない。それよりも岸田が悪い。とか、わけのわからない事をほざいてる人が悲しいかな現実です。
もう当サイト内でも紹介をさせて頂いている、伊丹万作さんの言葉になります。統一教会政権を応援していた方は、是非とも全文を一読して頂きたいのですが、重要箇所を以下に引用をしておきたいと思います。統一教会政権を間接的なり直接的に応援をした事で、霊感商法の被害者達を増やした事を、しっかりと自覚をしてください。それでも知った事じゃねー!とか、俺は関係ないよ。と言う方は因果応報が回る事を覚悟しておく必要があるでしょうね。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
戦争責任者の問題 伊丹万作
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
私自身は自分の仕事柄、基本的にはポケットマネーで人に仕事を依頼する立場になりますが、ポケットマネーとしては大きいぞ!と言う金額で、失敗もしました。それ以外にも、多々仕事での失敗をしましたが、失敗した!と言う事を認める事が出来たからこそ、どうにか今でも自分一人と手伝って頂いている方に、きちんとお支払いをさせて頂き、生活をする事が出来ています。
本書ですが、まず難しいです。これを当たり前のようにスラスラと全て理解できました。と言う方は圧倒的な少数派になると思います。あまりにも理解できる部分が少なかったので、オルテガの本書である『大衆の反逆』について解説をする単科講座とか、近くの大学であったら、申し込んで受講してやろうか?と言う気持ちになりました。
理解出来た部分は少ない。でも、少しでも理解をする事が出来た部分もある。それが残りの自分の人生の糧になる。そうした気持ちを持たなければならない、自分の器が試される書籍。と言うのが、個人的な感想のまとめとなります。
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