第百七十七回 サロン中山「歴史講座」
令和七年9月8日
瀧 義隆
令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る
メインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
今回のテーマ「江戸庶民の娯楽」について
はじめに
江戸庶民の中で、蔦屋重三郎のように江戸で生れて江戸で育った所謂「生粋の江戸っ子」達が好んだ娯楽には、「芝居見物」・「相撲見物」等もあったが、その内で特に好んだものが、「祭」であったり、「縁日」であったり、また、江戸から出て小旅行となる「講(こう)」による遠出等があった。そこで、今回の「歴史講座」では、この「江戸っ子」達が最も身近なものとして好んだ様々な遊びの内、「祭」と「縁日」や、「講」に焦点をあてて論及してみたい。
1.「娯楽の色々」
①「祭」について
「祭」の語源については様々な説があるが、その一つとして、「祭」とは「祀(まつ)る」という動詞で、神様をお迎えして「供え物」を捧げて、神様に従うという意味を含むものだ、とする説である。また、「祭」とは「『日本書紀 神代 天孫降臨 第二 一書』に、「祭祀」を「マツリ」と訓(よ)ませているから、古くからの用語である、とする説もある。更に、「祭」とは
・神様のお出ましを「待つ」という意味である。
・神様に供え物等を「献(たてまつる)」こと。
・神様に心から「服(まつろう)」という意味で、「従う」・「服従する」という意味の古い言葉である。
以上のように、定説となるものは見当たらない。次に、「祭」が何時頃から始められたものか?を調べると、日本最古の「祭」は、文武天皇の大宝元年(701)に制定された「大宝令」には、国家の「祭祀」として「三枝祭(ゆりまつり)」が奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社で行われていて、これが「祭」の最初である、とする説である。
「国史大辞典 13」吉川弘文館 平成四年 184~186P
江戸の「祭」として、有名なものとしては、「三王祭」・・徳川三代将軍の徳川家光が、江戸城で生れた時に、「我誕生之霊神」として「日枝(ひえ)神社」を崇敬したことから、「三王祭」が盛大になった。
「神田祭」・・「神田明神」の起原は明確ではないが、平安時代からか?と想定されている。「祭」は、江戸時代に徳川家康が関ケ原の合戦の勝利を祈願した事が始まりではないか?と考えられている。
「三社祭」・・浅草の「三社祭」の「三社」とは、飛鳥時代の正和元年(1312)頃にあっ「三社」の神話を基とするもので、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・檜前武成(ひのしまのたけなり)の兄弟二人が、隅田川で漁をしていた時に、網に観音像がかかり、その像を当時の文化人であった土師真仲知(はじのなかとも)と共に浅草寺に納めた、という古事に由来し、この三人を「三社」として祀った事が浅草寺の起源であり、鎌倉時代に墨田川での「船祭」で御輿を渡御するのが「三社祭」の起源ともなっている。
「愛宕山出世の石段祭」・・愛宕山神社は、慶長八年(1603)に、徳川家康が、江戸の防火の神様として祀った神社で、「庚戌(きのえね)本社」・「末社仁王門」・「坂下総門」・「別当所」等が、徳川将軍家の寄進により建立された。明暦三年(1657)の大火災や、それ以後の大火災の時にも、祭は行われた。特に、神社への石段は、曲垣平九郎の古事により、「出世石段」として、出世を願う江戸の人々に人気があった。毎年9月に行われる「出世の石段祭」では、急勾配の石段を神輿が上り下りする。
「深川八幡祭」・・「富岡八幡宮」のことで、創建当初は、「永代嶋八幡宮」と称していた。寛永四年(1627)に、長盛法印という僧侶が、夢のお告げを受けて、現在の地に八幡宮を祀ったことが始まりとされている。寛永十九年(1642)に、徳川家綱の世継ぎを祝って始められた祭である。「水かけ祭」との異名もある。
②「縁日」について
「縁日」の「縁」について調べてみると、・「縁」とは、「物事のめぐりあわせ」や「つながり」を意味し、親子や夫婦など、婚姻によって生じる関係をも意味する。・「縁側」等での「縁」は、本来、「縁(へり・ふち)」の部分を指す言葉で、和室の外側に設けられた板張りの通路を示す言葉である。・仏教用語としての「縁」は、物事が生じたり、変化する際の「条件」・「きっかけ」を意味するもので、物事には必ず原因があって、「因」が直接的な原因となる事象を示し、「縁」がそれを助ける間接的な事象である、と定義付けている。
『広辞苑 第二版』岩波書店 昭和四十五年249P
『国史大辞典 第二巻』吉川弘文館 昭和六十一年 417~418P
次に、何故に「縁日」と言うか?を調べると、「縁日」は本来、「有縁(うえん)の日」又は、「結縁(けちえん)の日」・「因縁日」とも言うもので、神や仏と「縁」がある日のこと、神仏の霊験があらたかになり、普段の日よりも「ご利益」が得られる、と信じられていた。特に、江戸時代には、「縁日」は寺社のだけではなく、民間の一行事として広まり、地蔵盆等の行事とも結びつき、むしろ、宗教的な色彩が薄れてしまって、娯楽的な要素が強くなった。
「江戸の代表的な縁日」
「四万六千日」・・・浅草寺境内で行われる「縁日」で、別名を「ほうずき市」とも言われている。例年の七月十日に開かれ、この日に参拝すると、46,000日分、約126年間の御利益がある、ということからこの「四万六千日」と称されるようになった。
「入谷朝顔市」・・・入谷で朝顔が盛んに栽培されるようになったのは幕末頃であるが、入谷鬼子母神として江戸っ子達には人気の「市」でもあった。
「閻魔賽日(えんまさいじつ)」・・・毎月の十六日に開く縁日で、新宿の太宗寺・深川の法乗寺・北千住の赤門勝専寺、源覚寺等である。
「べったら市」・・江戸時代中期頃から始まったと伝えられているが、明確ではない。宝田恵比寿神社の恵比寿講の前夜に開かれる市である。本来、恵比寿講とは、商家で恵比寿神を祀り、親類縁者を招いて祝う行事であった。恵比寿講では神棚や鯛や野菜等を売っていたものが、何時の頃からか「べったら漬」が売られるようになり、それが「市」の由縁とする説である。
「鷽替え神事」・・・天満宮で行われる神事であり、菅原天神様に仕える鷽(うそ)という鳥は、前年にあった悪い出来事を吉事に取り替えてくれる、という信仰に基づくものである。この神事の時は、鷽をかたどった木彫りの人形を、参拝者同士が「替えましょう、替えましょう。」と声をかけあって、何度も取り換えして、悪い事や「嘘(うそ)」を無かった事に変える神事である。太宰府の天満宮のみならず、何時の時代からか不明ながら、全国の天満宮で行われるようになり、江戸では正月の二十四日とニ十五日に行われる亀戸天神社の「鷽替え神事」が有名となった。
柳田國男著『日本の祭』角川ソフィア文庫 1977年
森田玲著『日本の祭と神賑』創元社 2015年
2.「講」について
そもそも、「講」とは、仏教用語であり、寺院で仏典を講義・研究する僧侶の集団を指す言葉であったが、それが変化して、仏事や宗教行事を行う集団、または、相互扶助的な団体や会合を指すようになったのである。
江戸には、「八百八講」と称されるように、多くの「講」が存在していた。その「講」には、二種類があって、一つは、信仰とピクニックとを合わせたような、「講」があり、もう一つは、仲間同士が資金を持ち寄って融通し合う、金銭的結びつきの「講」である。
次に、上記の二種類の「講」を具体的に見ると、
①「信仰としての講」
伊勢講・・・伊勢神宮を信仰する「講」で、江戸から片道約15日かかり、旅費も多額となってしまう為、講のメンバーが積立てした資金を遣って、代表者が参拝していた。
富士講・・・富士山を信仰する「講」で、先達(せんだつ)・講元(こうもと)・世話人等が中心となって富士山の登拝をしていた。また、江戸市中に富士山まで行けない人の為に人工の「富士塚」を造って参拝していた。
大山講・・・相模国伊勢原にある大山を信仰する「講」で、「大山参り」と称して、滝で身を清めてから大きな木太刀を担いで大山に登っていた。
榛名講・・・上州(現在の群馬県)榛名山神社を参拝する「講」で、雹(ひょう)や嵐を除ける神として信仰されており、農村部を中心に広まり、「講」の代表者が参拝をしていた。
三峰講・・・武蔵国秩父郡の三峰神社を信仰する「講」で、盗難・火難除け、家内安全・五穀豊穣等を祈願する「講」である。
御獄講・・・鎌倉時代から、武士階層に信仰を集めていて、寛政四年(1792)からは一般庶民も登拝できるようになった。正式な名称は、「金峰山御獄蔵王権現」と言われている。御獄山は魂が還り死後の安住の地であると信じられていた。
観音講・・・観音菩薩を信仰する「講」である。
念仏講・・・念仏を唱えることを目的とする「講」である。
庚申講・・・庚申信仰に基づく「講」である。
金比羅講・・・金毘羅大権現を信仰する「講」である。
稲荷講・・・稲荷神社を信仰する「講」である。
天神講・・・天神(菅原道真)を信仰する「講」である。
薬師講・・・薬師如来を信仰する「講」である。
大師講・・・弘法大師(空海)を信仰する「講」である。
題目講・・・法華経の「南無妙法蓮華経」を唱える事を目的とする「講」である。
月待講・・・「日待講」という講もあり、満月や日の出を拝む事を目的とする「講」である。
報恩講・・・浄土真宗の宗祖である親鸞の恩に報いる為の「講」である。
②「経済的な講の種類」
頼母子講(たのもしこう)・・・近所隣りや、同じ職人仲間、同業者等が集まり、定期的に資金を集め、「くじ引き」の当選者に融資をする仕組みの「講」である。
「頼母子」の語源を調べると、「頼み申す」や「田の実」に由来する、という説があり、困窮している人が「よりどころ」とする意味があった、という考え方である。また、別の説では、「頼りになる人」等の世話人を指し、それが変化して「講」全体を現す言葉と変化した、とする説である。歴史的に見ると、「頼母子講」は鎌倉時代には始められていて、室町時代に「講」の形式が確立して江戸時代に普及するようになったのである。
無尽講(むじんこう)・・・頼母子講と類似しているが、お金を積み立てておいて、順番に資金を手にする「講」である。
「無尽」とは、本来、仏教用語であって、意味としては、「尽きることがない。」というもので、仏教の功徳は無限のものである事を示すものであった。従って、「無尽講」とは、尽きる事のなく、困った人を助ける相互扶助の「講」という意味を含んでいた。歴史的に見ると、「無尽講」は、鎌倉時代にはその存在が見られ、当初は物品や労力の提供を目的とするものであったが、地域や時代と共に変化して、江戸時代になって金融化したり、賭博的なものに形態が変化するようになった。
以上の「講」の他に、女性だけの「尼講」や、「女房講」等と称する「講」などがあり、その活動も地域や時代によって「講」も様々な変化があった。
『国史大辞典 5』吉川弘文館 昭和六十年 274~275P
3.「観音巡りと千社札」について
「講」と同じように、江戸の庶民達は、霊場を巡り歩く「巡礼」の旅を行っていた。
①「観音巡り」について
「坂東三十三観音霊場巡り」があり、「江戸っ子」でも観音信仰の篤い者が、「坂東」に散在する観音菩薩を参拝し巡る宗教行事である。
「坂東」とは、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の事で、「坂東」の言葉の由来は、足柄峠・碓氷峠等の山を「坂」と見立て、以東の諸国を「坂の東=坂東」とした事から始まる、とする説がある。
「坂東三十三観音霊場巡り」の起原を探ると、鎌倉幕府を創始した源頼朝が、観音信仰に篤く、このことから坂東観音霊場が開設され、鎌倉幕府の庇護を受けて、鎌倉を中心に相模や武蔵国に多くの観音堂が建立されることとなった。
江戸時代に入り、世情が安定してきたことから、旅の途中の危険度も少なくなり、江戸の庶民達も霊場巡りをするようになった。
この「霊場巡り」も、江戸の庶民達の信仰心の高さを示すものでもあるが、一方では、日常の様々な煩わしさから解放される行楽的な要素も大であった、と言えよう。
②「千社札」について
「千社札」が始められたのは、平安時代に遡ると考えられている。「千社札」は「納札(のうさつ・おさめふだ)」とも称し、「千社」とは多くの寺院や神社を意味するもので、そこに「札」を置いてくる行為である。
何の為の「札」か? を調べると、寺社への参拝の「証(あかし)」として、氏名や住所を記した「札」を納めるものである。江戸時代に庶民にこの風習が広まり、単なる参拝の記念としての意味よりも、「江戸っ子」としての「粋(いき)」や「洒落(しゃれ)心」、現在のファッション的感覚であった。
「千社札」には三種類があり、
単色刷りで、屋号・住所・氏名が記載されている。
「色札(いろふだ)」というもので、複数の色で刷られ、デザインも凝っていたり、特徴のある「札」を使用して、他の巡礼者との交換用に使われていた。
「連札(れんさつ)」と称する「札」で、二枚以上の札を繋げたもので、大きな「札」であった。「二丁札」・「三丁札」・「八丁札」等の種類があり、巡礼仲間同士で交換して自慢しあう為の「札」でしかなかった。
以上のように、江戸の多数の庶民達も、日々の暮らしに「あえぎ」ながらも、時より「生活苦を忘れる空間」を求めていたのである。
『国史大辞典 第十一巻』吉川弘文館 平成二年 369P
まとめ
今回の「歴史講座」で示したように、江戸の庶民達も日々の暮らしに縛られながらも、一方では「一時の息抜き」として、様々な娯楽を求めていた。
令和の現在を生きる我々にとって、毎週日曜日、午後8時から見る大河ドラマは、まさに「一時の息抜き」の一つ、と言えよう。
誠に残念ながら、今年の大河ドラマ「べらぼう」は、「内容が高尚で今までにない、稀にみる傑作である。」とする評価も一部にはあるが、大多数の我々庶民からすれば、「とっつきにくい、面白味のないドラマ」としか見ることが出来ないのではなかろうか。その証拠に、現在の「べらぼう」の視聴率は過去最低の8%台に陥ろうとしているのである。
この原因は、既に何度も指摘しているように、ドラマの舞台が「江戸吉原」という特殊な場所であり、内容的にも性描写があったり、女性の裸が出たりしており、更に、幕府政治を絡めている為に複雑化していて、子供と共に楽しめる内容とはなっていないのでは、と考えられる。また、演じている俳優達のオーバーな演技が、どうしても「鼻に付く」為に画面を見たくなくなってしまうのである。
我々庶民は、高い受信料を毎月払ってテレビを見ているのである。
一部の高尚な人間達が楽しむ為に「大河ドラマ」があるのではなかろう。庶民大衆を無視した「大河ドラマ」だったら、NHKに受信料を払う必要は全くなくなる。NHKに対して猛省を促したい。
参考文献
- 長谷部八郎著『「講」研究の可能性 3』慶友社 2016年
- 石井 明著『江戸の風俗事典』東京堂出帆版 2016年
- 阿部 泉著『史料が語る年中行事―伝承論・古い伝え説の虚構を衝く―』清水書院 2021年
- 柳田國男著『年中行事覚書』講談社学術文庫 1977年
次回予告
令和七年11月10日(月)午前9時30分~
令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
次回のテーマ「江戸時代の病気と医者」について





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