
第百七十三回 サロン中山「歴史講座」
令和七年4月14日
瀧 義隆
令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし―)」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期の江戸社会」について
今回のテーマ「江戸時代中期の政治体制」について
はじめに
蔦屋重三郎が生れたと推定されている寛延三年(1750)頃は、天候不順による稲作の不良が続き、年貢の徴収も順調には行かなくなり、従って、幕府の財政も安定しない状態にあった。
今回の「歴史講座」では、この江戸時代中期の政治体制の実態と武士社会の状況にも着目してみたい。
1.「江戸時代中期の政治体制」について
江戸幕府も、開幕以来百年以上になり、政治安定の時期を迎えつつあるものの、その実態はどうであったか?次に検証してみたい。
第八代将軍となった徳川吉宗は、本来は紀州藩の領主であったが、七代将軍の徳川家継に継承者がいなかった為に、吉宗が急遽将軍の座に就き、幕政を担う事となった。吉宗は、それまでの幕閣中心の政治から、親政(将軍自ら政治を行う。)を行い、「定免法」や「上米令」等を実施して、幕府財政の安定化を図り、更に、「公事方御定書」を制定して司法改革、また、大奥の整備や小石川養生所の設置等と、次々と改革を断行した。しかし、幕府の財政をより増大する為に、従来の年貢高の「四公六民」を改定して「五公五民」とした。この増税政策を実施した事に農民が反発し、各所で「百姓一揆」が頻発するようになり、吉宗の親政に陰りが見えるようになった。
次に将軍となった徳川家重(いえしげ)は、生まれつき「言語障害者」であった為に、幕政の中心は幕閣達に任せるしかなく、特筆すべき治政も行っていない。。
この家重の後を継いだ、第十代将軍の徳川家治(いえはる)の時代が、蔦屋重三郎が活躍する時期でもある。家治は田沼意次を重用して、従来の「重農(農業を重要視する政策。)主義」から「重商(商品の流通を盛んにして収入を増大する。)主義」に転換して、幕府収入の増加を図ったが、賄賂政治が増大して失敗した。更に、これに加えて、天明二年(1782)~天明八年(1788)迄の「天明の大飢謹」が発生したり、また、天明三年(1783)に浅間山が大噴火を起こして、利根川が大洪水となり、関東北部に飢謹が重なったりして、社会不安定・体制の危機の増大をまねいてしまった。
次の第十一代将軍の徳川家斉(いえなり)は、田沼意次を罷免してしまい、これまでの倹約政治を放棄して贅沢三昧な生活に転換した将軍である。幕府政治の建て直しとして松平定信を老中に採用して幕府安定を図ったが、この松平定信と対立して罷免してしまい、幕府財政を更に混乱させた将軍である。
以上のように、第八代から第十一代までの将軍の幕政は、常に財政困難との戦いだったにもかかわらず、吉宗以後の子や孫の将軍は有能な人物ではなかった為、幕閣の構成メンバーが一年毎に変わってしまうような、非常に不安定な政治体制ともなった。
以上のような、江戸中期の政治事情の中で、将軍の微力さを支えるのが老中を中心とする幕閣達であるが、四代にわたる将軍政治の中で、特に家重と家治の二代に仕えた田沼意次と、家斉に仕えた松平定信の二人は、「特筆すべき存在であった。」と言わなければならないと考え、この二人については次回の歴史講座のテーマとして設定し、その詳細を解説してみたい。上記のような、江戸中期の政治体制の中の武士社会において、高・中級クラスの武士達には、大きな変動はなかったものの、下級武士、特に、無役の御家人達にとっては、大凶作による物価高騰等に対応しきれず、日々の暮らしは非常に困難を極める時期であった、と言わなければならない。 村上 直著『江戸幕府の政治と人物』同成社 1997年
2.「下級幕臣達の生活」
幕府財政の基盤となる一つに、御家人達に対する「小普請金」の上納制度があり、御家人達には、その禄高によって幕府に金納しなければならない義務が課せられていた。御家人の内でも高禄の家柄は、「小普請金」の上納も日常生活を苦しめるものでもなかったが、下級幕臣で、特に無役の貧乏御家人にとっては、この「小普請金」の上納は更なる生活苦をもたらす制度でもあった。
貧乏御家人に幕府から「蔵米取」として与えられる「禄(ろく)」は、30石2人扶持で、米に換算すると40俵となり、お金にすれば14両で、現在のお金では約140万程度となる。支給方法は、支配頭の「裏書奥印」のある手形を御金蔵に持参してお金を受け取っていた。この「蔵米取」は、一度に支給されるのではなく、春・夏・冬の三回に分けて支給されていた。中・高級の御家人の多くは、この「蔵米取」の書きつけを自分自身で取りに行かず、「札差(ふださし)」と称する商人達に手数料を払って代行させていた。このように、年収が僅か14両程度の貧乏御家人に対しても、
次のような「小普請金」の上納が義務付けられていた。
家禄20俵以下の家は免除
家禄20~50俵・・・金4分(現在の約10万円)を上納する。
家禄50~99俵・・・金1両(現在の約10万円)を上納する。
家禄100~500俵・・100俵につき金2両(現在の約20万円)
を上納する。
※「小普請金」の制度は、本来、武士は主従関係から成り立っており、武士は主人に従って出陣し、功績をたてれば、その報酬として主人から金銀か土地等の報酬が与えられる。しかし、江戸時代という平和な時代となると、特に命をかけて戦う事もなく、ただ報酬としての「家禄」のみを貰うのでは主人に対して申し訳けが立たなくなる。それ故、主人への労力提供の代わに、「家禄」の一部を上納するのである。これが「小普請金」の元祖ともなるものである。
『国史大辞典 第五巻』昭和五十九年 974P
無役の30石2人扶の御家人と称される下級の家では、「小普請金」を納める余裕もなく、納める為には内職(本来、内職は禁止。)をして稼がざるを得なかった。内職の種類としては、植木の栽培や金魚等の養殖、寺子屋の講師、傘張り等があったが、それによる収入だけでは、日常生活を維持するのも楽ではなく、不足すれば借金によってどうにかしなければならなかったのである。
貧乏御家人達の「蔵米取」は、特に立身出世でもしない限り、父祖伝来、年収は無変化のままであって、途中の定期昇給もベースアップもなく、固定化されたままであった。従って、冷害等の自然災害によって農産物が不作になると、品不足による物価高騰となり、途端に武士の社会も生活苦に陥ってしまう。特に、下級の幕臣階層である無役の御家人達は、もろにこの影響を受け、質屋に駆け込む事になるのがしばしばであった。ただし、これも質屋に入れる「質草(しちぐさ)・(質屋いれる品物のこと。)」があれば、の事である。
それ故に、貧乏御家人達は、返却の可能性もないままに、止む無く「金貸し」から借金をせざるを得なかったものと考えられる。それが、借金が借金を生んで、返済出来ずに、貧乏旗本や御家人の家でさえ、娘を吉原に売るような事態も生ずる事となった。
この貧乏御家人達が頼りとした「金貸し」が、市中の「金貸し」であったり、「検校(けんぎょう)」と称される盲人達が営業する「金貸し」に走らざるを得なかったのである。この「検校」と称される盲人達で行う「金貸し」の客には、貧乏御家人達だけではなく、諸大名の江戸屋敷の家老達も多くいた。
困窮する貧乏御家人や諸大名に高利で「金貸し」を行い、「検校」達は莫大な蓄財を成す者が多かった。諸大名ですら「検校」から金を借りる状態では、「検校」達がどのような生活態度を示しても、誰も苦情を言える立場でもなく、幕府も「検校」達の悪業にも「目をつぶる」状態を続けていたが、安永七年(1778)になって、あまりにも悪辣な「検校」達が多発した為に、「検校」達を処罰を下す事となった。
北原 進著『江戸の高利貸し』吉川弘文館 2008年
3.「金貸し検校(けんぎょう)」について
この項では、大河ドラマ「べらぼう」にも登場してきた「検校」について述べてみたい。ドラマでは、遊女の「瀬川」を千四百両(現在の約1億4千万)で「鳥山検校」が身受けし、愛情のない「瀬川」の態度に嫉妬している様子が描かれていた。「検校」ともなれば、千四百両等はものの数ではなかったものと考えられる。
この「検校」について史料で調べてみると、
「古事類苑 人部三十四 盲人 盲人ハ、先天ト疫病トノ二種アリ、(中略)徳川幕府時代ニ至リテハ、幕府大ニ盲人ヲ保護シ、随テ其制度モ亦甚ダ整ヘリ、即チ座頭ノ等級ヲ分チテ数十階ト為シ極位ヲ検校、總録ナドト称シ、之ヲシテ座中一切ノ事ヲ支配セシム、(中略)盲人ハ斯ノ如ク優遇セラレタルヲ以テ、為ニ驕奢ニ流レ、且ツ高利ノ貸金ヲ為ス事ヲ許サレタレバ、之ヲ以テ良民ヲ苦ムルモノ亦甚ダ尠カラザリキ、(後略)」
『古事類苑 46 人部』吉川弘文館 昭和四十四年 939P
「極位(きょくい)」・・最上の地位のこと。最高位の官位のこと。
「總録(そうろく)」・・盲人の一族を統括する地位のこと。
以上のように、江戸幕府は、盲人達を保護して、「高利貸し」を公認として許したが、盲人達は贅沢三昧の生活に流れるばかりか、「高利」の為に庶民が苦しんでいる事を明確に示している史料である。また、江戸時代になって、盲人の最高位を「検校」として位置付けし、盲人の人事管理を任せていることが判明する。
次に、この「検校」の語源を探ると、古代中国の「点検典校」が日本に伝来して「検知校量」と変化し、更に短縮されて「検校」となったものである。この「検校」は、時代によってその意味が相違しており、平安時代や鎌倉時代における「検校」とは、荘園の監督をする役職を示したり、寺社の一切の事務を統括する監督者の事であった。
それが、第五十四代の仁明天皇の第四皇子である「人康(さねやす)親王が、若くして失明してしまい、出家して山科(現在の京都市山科)に隠遁して、その場所で盲人を集めて琵琶や管弦・詩歌等の指導を始めた。人康親王が死去すると、朝廷は、親王の側近であった盲人達に「検校」と「勾当(こうとう)」と言う官位を与えた事が「検校」の始めとされている。
室町時代に入り、「検校」の明石覚一が、『平家物語』をまとめ上げ事や、覚一自身が足利氏の一門出身であった事から、室町幕府の庇護を受けて「当道座(とうどうざ)」と言う盲人達の自治組織を形成するようになり、「検校」がその組織のトップとなった。
江戸時代に入り、幕府は盲人達が「当道座」に属する事を奨励し、寺社奉行の管轄下に置かれた。時代の推移と共に、「検校」の権限も増大し、更に、社会的地位をも増すようになり、十五万石程度の大名と同様の権威と格式を持つようになった。「当道座」に
は73の階級があって、職分に励み申請すれば順次上位に進昇する事も出来た。また、金銀を支払う事によっても高位を手にする事も出来た。上位の内、10人は「十老」と言って京都の「職屋敷」に入り、座の運営にあたっていた。
官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にする為に、元禄頃から、幕府は「高利の金貸し」を認めた。これを「座頭金」・「官金」と称し、特に、禄高の少ない御家人等が高利を承知の上で借金を
せざるを得ず、返済不能となって、娘を吉原に売る者も現れるようになった。
座頭による「高利の金貸し」の内、名護屋検校は十万数千両、瀬川を身受けした鳥山検校等も一萬五千両もの蓄財をなして、吉原で豪遊をしており、他の盲人達の中にも裕福な者は、吉原で遊び暮らす者も現れた。そこで幕府は、安永七年(1778)に、悪辣なこれ等の「検校」を捕縛し、全財産を没収した上で、「江戸払い」の厳罰を下した。
鳥山検校も、女郎の「瀬川」を身請けして3年ほど一緒に暮らしていたようで、その後離婚となって、「瀬川」は別の人物と再婚し、鳥山検校も幕府から全財産没収の処罰を受けた、とする説もあるが、史料的には確実性がない。
まとめ
今年の大河ドラマ「べらぼう」は、回を重ねる毎に視聴率が低下していて、前回の視聴率が9.7%と一ケタになってしまっている。「べらぼう」の舞台が、吉原とその周辺に限られていて、物語の広がりが感じられず、閉鎖的な業界の「争い事」を描いているに過ぎないように思われる。従って、次回のドラマへの期待を持つことが出来ず、喪失感のような感覚を懐いてしまうのである。
大河ドラマの本質は、主人公となる人物が、歴史上でも一般的に
知り渡っている大武将とか偉人ならば、我々視聴者にも予備知識が
ある故、ドラマの運びについて行けるのであるが、特殊な人物であると「何が何だか?」さっぱり判らないのが真実ではなかろうか?
大河ドラマ「べらぼう」を見続けていく為には、今後も、この「歴史講座」において、更なる歴史探求を深めていくしか方法はなさそうである。
参考文献
- 村上 直著『江戸幕府の政治と人物』同成社 1997年(amazon)
- 荒木 仁朗著『江戸の借―借りてから返すまで―』八木書店 2023年(amazon)
- 戸森 麻衣子著『江戸幕府の御家人』東京堂出版 2021年(amazon)
- 柴田 純著『江戸武士の日常生活』講談社 2000年(amazon)
- 明治大学公開講座ⅩⅩ『江戸文化の明暗』風間書房 平成十三年(amazon)
次回予告
令和七年5月12日(月)午前9時30分~
令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし―)」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期の江戸社会」について
次回のテーマ「田沼意次と松平定信」について
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