江戸の出版業・浮世絵と喜多川歌麿

第百七十二回 サロン中山「歴史講座」
令和七年3月10日

瀧 義隆

令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
今回のテーマ「江戸の出版業・浮世絵と喜多川歌麿」について

はじめに

今年の大河ドラマ「べらぼう」は、江戸の吉原を中心とした書物問屋の世界を舞台とする物語である為か?一般的に聞き慣れない用語が出てきて、時折意味不明の時がある。「べらんめー言葉」もそうであるが、本屋同士の会話の中にも多くの「わからない物」が出てきていて、ドラマの面白味が全く薄れてしまっている。

それでは、どうすれば「べらぼう」の放映を楽しむ事が出来るようになるか?、と考えると、我々視聴者側が、「わからない物はわからない。」と諦めずに、もっともっと「べらぼう」の時代背景を勉強しなければならないのかもしれない。
それ故、今後もこの「歴史講座」では、蔦屋重三郎が生業とした江戸時代中期の出版業の実態を深堀りしていく事としたい。

1.「江戸の出版業」について

江戸時代の初期頃の出版業の中心は、京・大坂が中心で、江戸町内には出版業者はほとんどいなかった。
①「江戸の出版技術」について

江戸の初期頃には、朝鮮から伝来した活字による印刷を行うようになったが、日本の文字には「片仮名」・「平仮名」・「漢字」というように、文字の種類があって、活字の数が三倍も用意しなければならなかった事と、漢字に「ふりがな」をつけないと読みこなす事が出来ない者も多かった事から、本のスペースに合わせたりしながら「ふりがな」を付けるのに手間がかかり過ぎて、活字による印刷方法は流布しなかった。

活字を組み立てる手間よりも、木版に文字を彫りつける事によって、「ふりがな」も自由につけられるし、更に「絵」も挿入する事が出来ようになった。江戸の中期頃になると、木版による印刷技術が、原画を書く人と、それを元として色毎に分割した版木を作成し、刷り師が色合いによって刷り合わせるという、画期的な木版印刷方法も考案された。これ等の技術改新によって、江戸市中には挿絵入りの「瓦版(かわらばん)」も大流行するようにもなった。更に、製本技術も進歩を重ね、従来は糊付けした方法で製本をしていた「胡蝶本(こちょうぼん)」と称されるものであったが、糊を用いずに表紙の二ケ所を「糸綴じ」する和装本が出来るようになった。これが更に進歩して、「四目綴じ」・「康熙(こうき)綴じ」・「亀甲(きっこう)綴じ」等の綴じ方の方法が考え出されるようになったのである。洋式による製本方法が伝来するのは、安政三年(1856)に、オランダ人が日本の職人達に製法指導をしてからの事であった。・・・・・・・・・・資料①参照

②「江戸の出版業」について

江戸中期の出版業者達は、「株仲間」を組織しており、幕府に多額な「冥加金(みょうがきん)(上納金とも言う。)」を納めて、市場独占・競争防止・価格協定等の特権を得て、利益の安定を図った。「株仲間」内に規約を定め、行事・年寄・取締り等の役員を選出して、会所と称する場所で寄り合いをして統制を図っていた。

次に、「出版業者」の種類を見ると、
「書物問屋」・・幕府の許可を得て、出版から流通・販売の全工程をも行っていた。
「貸本屋」・・・当時は本一冊といえども高価な物であったので、庶民を相手に本を有料で貸し出す業者が現れるようになった。本の貸し出し料は、定価の6~10%程度で、「貸本」を背負って貸し歩く業者が多かった。
「地本問屋」・・江戸で出版された書物を扱う本屋で、「書物問屋」から分離した、大衆娯楽本の出版元である。「地本草子問屋」・「絵草紙屋」とも称していた。・・・・・・・・・・資料②参照

★「本の種類」
「赤本」・・・江戸で刊行された、子供向けの絵本で、お伽話や歌舞伎等の物語が書かれていた。
「青本」・・・江戸中期頃に流行した、表紙が青紙で出来ている事から青本と言われていて、軍記物が絵入りで描かれていた。赤本と黒本の中間に位置する存在であった。
「黒本」・・・江戸中期頃から後期にかけて流行した、英雄伝や戦記等を題材とした絵本である。特に女性に人気のあった本の種類である。
「絵草子(えぞうし)」・・・・簡単な物語が絵入りで書いてあり、10ページ程度の薄い本である。
「合巻(ごうかん)」・・・・絵草子を5・6冊合わせて作った厚さのある本で、挿絵が中心であった。
「人情本(にんじょうぼん)」・・・・恋愛小説が多く、庶民の日常が描かれ、生き生きとした絵も描かれていた。
「滑稽本(こっけいぼん)」・・・・「笑い本」とも称される本で、愉快な物語が書かれていて、春画(しゅんが)なども挿入されていた。
「狂歌本(きょうかぼん)」・・・・社会現象や時事を皮肉ったものが多く、俳諧形式の和歌を掲載していた。
「枕絵(まくらえ)本」・「わ印(わじるし)本」・・・・「春画」・「笑い絵」とも称するもので、エロを描いた絵である。高級な身分の家では、嫁入り道具の一つとして娘に持たせる事もあった。

★「摺り絵」の種類
「錦絵(にしきえ)」・・・・江戸中期頃に確立した絵版画で、色彩豊かに、最新のファッションや風俗情報・歌舞伎や相撲等も題材として描かれていた。
「錦絵」が流行するのは、第十代将軍の徳川家治(いえはる)の頃で、鈴木春信(はるのぶ)等が競って豪華な作品を制作した。・・・・・・・・・・・資料③参照
「墨摺絵(すみすりえ)」・・・初期の「草草子(くさぞうし)」はこの類で、墨一色で摺り込む手法である。
「丹絵(たんえ)」・・・鉛に硫黄と硝酸塩鉱物、更に硝石を加えて加熱すると、「丹(たん)」と称される朱色に似た絵具が出来上がる。その朱色を中心にして摺り込まれた絵である。
「紅絵(べにえ)」・・・「墨摺絵」に手作業で植物紅の色付けをする方法である。浮世絵の多色化の第一歩である。
「紅摺絵(べにすりえ)」・・・墨だけの色ではなく、赤や緑色を使い多色化させた画期的な物で、4色・5色等と色彩も多くなり、「錦絵(にしきえ)」と発展した。
「美人大首絵(びじんおおくびえ)」・・・美人画の一つで、女性の顔や上半身を大きく描いた絵である。美人の髪の毛一本一本まで、また、顔の表情も細部まで描かれている。
「当てなしぼかし」・・・雲や水面等の表現を不規則な色合いにし、版木を濡らし、その上に絵具を乗せて摺り込む方法である。
「雲母摺り(うんもずり)」・・・下地に色を付けて摺ってから、版木に糊を塗り、その上に雲母の粉と膠(にかわ)を混ぜ、刷毛で摺られた絵である。
「置き摺り雲母(おきずりうんも)」・・・摺り上がった絵に雲母を刷毛で直接摺る方法で、東洲斎写楽のデビュー作はこの方法である。
「撒(ま)き雲母」・・・膠を版木に塗り、乾く前に雲母を振りかけて、乾いたら雲母を払い落して作られた絵である。
「摺(す)り雲母」・・・絵具に最初から雲母を混ぜ込んで摺る方法で、さりげない光沢を楽しむ絵である。

鈴木英治著『ハルキ文庫 江戸の出版王』 角川春樹事務所 2017年

2.「浮世絵」について

この項では、「浮世絵」の「浮世」とは何か?についてと、「浮世絵」は誰が描き始めた「絵」なのか?等について述べてみたい。

①「浮世」について
「浮世絵」の「浮世」について調べてみると、「浮世」とは、平安時代の初期に見られる「苦しい」・「辛い」を意味する「憂(う)し」の連体系である「憂き」に、名詞の「世」を加えた「憂き世」が語源である、とする説がある。また、本来、「浮世」とは「憂き世」という仏教用語であるという説もあり、

『浮世とは、仏教的な生活感情から出た「憂き世」で、無情の世の事を示す。』

『広辞苑 第二版』岩波書店 昭和四十五年 178P

『広辞苑』ではこのような説明を示している。平安時代の中期頃からは、『古今和歌集』等にも「世のうき時」又は、「うき世の中」といった表現がなされており、更に平安時代後期になると、「定めない無情の世」という観念が付加されて、「浮き世」と表現されるようになった。これが、室町時代の後期から江戸時代になると、享楽的な観念に変化し、当代の流行や風俗をも内包する当世風としての「浮き世」が示されるようになった。このような当時の人々の観念について、次のような史料があり、

「百家説林続編 柳亭記 上一〇四 浮世といふに、二つあり、一ツハ、憂世の中、これハ誰々も知る如く、古き詞なり、一ツの浮世ハ、今様といふた通へり、浮世繒ハ今様繒なり、浮世人の人みな是なり、(中略)浮世狂といふハ、遊女藝子にもかぎらず、すべて女に戯れあそびありく事をいふ、(後略)」

物集高見・物集高量著『廣文庫』第三冊 ㈱名著普及会 昭和五十一年 307P

このように、「浮世」とは、「女と戯れ遊ぶ様を示すのだ」と述べられており、享楽を求める観念そのものなのである。

②「浮世絵」について

江戸時代初期の明暦三年(1657)一月に、江戸が大火に襲われて、江戸市中の大半が灰塵となったが、幕府の威信をかけての復興施策もあり、江戸の町がしだいに生れ変わる工事が進行し、その進行状況を絵画化することが流行し始め、これが「浮世絵」の初めであった。この「浮世絵」を書き始めた人物について、史料によって見ると、

「近世奇跡考 三 大津繒考浮世又兵衛は越前の産○中略 時の人浮世又兵衛と稱す、世にいはゆる浮世繒は、こヽにおこる歟」
『古事類苑 第二十九 文学部 三』 吉川弘文館 昭和四十三年 851P

「浮世又兵衛」・・・・本名は、「岩佐又兵衛」で、天正六年(1578)に生れ、慶安三年(1650)迄生きた人である。「洛中洛外図屏風」等の作品があり、狩野派等に影響を及ぼすような絵師である。
この史料である『近世奇跡考』は、山東京傳が著した考証随筆本であるが、何時頃に書いた著書かは不明で、文化元年(1804)に刊行された、風俗や人物の逸話等の詳細を良く調べぬいた著書である。
この史料によれば、「浮世絵」を書き始めた人物は「浮世又兵衛である」と断言している。
このような「浮世絵」は、西川祐信や菱川師信によって更なる発展が見られるようになるが、西川祐信や菱川師信による絵画は「浮世絵」ではなく「時世繒」とすべき、との指摘をする史料も見られ、

「傍廂 後篇 俗書むかしは西川祐信、菱川師信、ともに一家を起こしたり、(中略)これらの俗書をうき繒師といへるはいかなる故ならん、時世繒師とこそいふべけれ、何も憂事の故もなくては、うき世とはいふべからず、」

『古事類苑 第二十九 文学部 三』 吉川弘文館 昭和四十三年 849P

「西川祐信(にしかわすけのぶ)」・・・・寛文十一年(1671)?月~寛延三年(1750)八月二十日 京都出身の人で、初め狩野派を学んだが、後に土佐派の土佐光祐に師事する。「春画」等も描く多才な絵師であった。
「菱川師信(ひしかわもろのぶ)」・・・・元和四年(1618)?~元禄七年(1694)六月二十五日 安房国(現在の千葉県)の生れで、祖父も父親も絵師で、江戸に出て狩野派や土佐派、長谷川派も学んで、師信独自の技法を習得して、風俗画等を得意としていた。・・・・・・・・・・・資料④参照

上記史料の『傍廂(ぼうしょう)』とは、嘉永六年(1853)頃に国学者の斎藤彦麿が著した随筆本である。このように、江戸後期の学者の中には、西川祐信及び菱川師信の絵を「浮世絵」ではなく、世相や物価等の世相を描き表わす「時世繒」である、と主張する者もいたのである。
蔦屋重三郎が活躍していた江戸中期頃は「浮世絵」の全盛期であり、この世を非劇的に見るのではなく、「楽しさ一パイの世なのだ。」と描き出し、この世を肯定的にとらえようとする庶民のエンターティメント(娯楽・演芸等の楽しい事)であった。
「浮世絵」の画材としては、「吉原の遊女」・「歌舞伎役者」・「町内の美人」・「力士」・「火消し」等の人物画と共に、「風景画」や「物語」等も描かれていた。また、「浮世絵」には、「肉筆画」と「版画」とがあり、「肉筆画」は時間と手間がかかって、どうしても高価な物となってしまうが、版画による「浮世絵」は版画職人達の分業制が進み、多色刷りも可能となった事から、大量生産が可能となった。これにより、「浮世絵」は現在のポストカード的な感覚で庶民も手にする事が出来るようになり、爆発的な流行を生みだしたのである。それまでの絵画は、公家や将軍家・諸大名に好まれた、「狩野派」や「土佐派」による、豪華絢爛たる「襖絵」や「屏風絵」等であったが、「浮世絵」は多くの庶民から支持される「大衆絵画」となったのである。

『国史大辞典 第二巻』吉川弘文館 昭和五十五年 53P

3.「喜多川歌麿」等について

蔦屋重三郎が、吉原遊郭の入口で、「貸本屋」を営み、『吉原細見』のような書物を出版し大繁盛するのは、喜多川歌麿や他の絵師との出会いが大きく影響している。この項では、喜多川歌麿を中心に、他の絵師についても調べてみたい。

喜多川歌麿
出生地や生年月日も全く不明で、本名すらも判っていないが、幼名は「市太郎」と称し、次に「勇助」になり、更に「勇記」と改め、またまた「信美(のぶよし?しんみ?)」とし、号を「豊章(とよあき)」と称した。「歌麻呂」又は「歌麿」と称するようになったのは、天明期(1780年代)頃で、最初は「うたまる」と呼ばれていて、後に「うたまろ」となった。何時頃、蔦屋重三郎と知り合ったのかも不明で、突然、歌麿は蔦屋重三郎の食客(しょっかく・食客とは他人の家に寄宿して養ってもらう人のこと。)となり、喜多川の姓を名乗って、鳥山石燕に絵を学び天明三年(1783)頃から絵師となり、美人画等が大人気となり、江戸中に大流行するようになった。文化元年(1804)、豊臣秀吉の「醍醐の花見」を題材とした「太閤五妻洛東遊観之図」を描いた事が幕府に問題視され、捕縛されて「手鎖(てぐさり)」50日の刑罰を受ける事となった。その後、失意の内に、文化三年(1806)十月三十一日に死去した。

東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)」
生没年やどこの生れかも全く判らない人物で、寛政六年(1794)五月に、突然、蔦屋重三郎の前に現れ、わずか10ケ月の間しか滞在せずに突然として姿を消した人物である。この間に150点以上の作品を残している。東洲斎写楽について
は、現在も研究が進められているが、諸説が乱立していてどれが正確なのかも判らない実情である。
               ・・・・・・・・・・資料⑤参照
山東京傳(さんとうきょうでん)」
宝暦十一年(1761)八月十五日~文化十三年(1816)九月七日 江戸深川木場の質屋の長男として生れた。別名を北尾政演(きたおまさのぶ)とも名乗っている人で、天明二年(1782)頃に蔦屋重三郎と会い、吉原で遊び暮らし、その後に「山東京傳」と名乗るようになった。浮世絵師で戯作者であった。浮世絵師としては、北尾政演を名乗っていた。

磯田湖龍斎(いそだこりゅうさい)」
享保二十年(1735)~寛政二年(1790)?天明期に活躍した絵師で、浮世絵の一種である、柱の傷を隠す為に描く「柱絵(はしらえ)」を得意としていた。

鳥居清長(とりいきよなが)」
宝暦二年(1752)~文化十二年(1815)五月二十一日 浮世絵の鳥居派の四代目当主で、天明期に活躍した絵師の一人である。代表作としては、「濱屋川岸の涼み」等がある。

曲亭馬琴(きょくていばきん)」
明和四年(1767)六月九日~嘉永元年(1848)十二月一 日本名は、「滝沢興邦(たきざわおきくに)」で、読本作者である。代表作としては、「南総里見八犬伝」がある。

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)」
明和二年(1765)?月~天保二年(1831)八月七日駿河国府中(現在の静岡県静岡市葵区)の出身で、「黄表紙」・「滑稽本」を書き、代表作は「東海道中膝栗毛」である。

平賀源内(ひらがげんない)」
享保十三年(1728)?月~安永八年(1780)十二月十八日本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家ペンネームも使い、「鳩渓(きゅうけい)」・「風来山人(ふうらいさんじん)」と使い分けしていた。
もともとは、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の生れで、長崎や京・大坂等に居たとも推測されており、宝暦六年(1756)頃には江戸に出て、通称、田村元雄(たむらげんゆう)という医師に師事し、本草学等を学んでいる。源内は、老中の田沼意次とも親交があり、意次の援助を受けて長崎に遊学をしている。
更に、平賀源内は、秩父の山中で偶然にも石綿を発見した事から「山師」になり、資産家に出資依頼等でトラブルが出来て、「大山師」等と悪口を言われる、トラブルメーカーでもあった。

まとめ

蔦屋重三郎の生きていた江戸時代中期頃は、瓦版(読み売りとも言われていた。)や、本屋の販売する様々な書物がニュースソースとなっていた。江戸の庶民達は貧しい生活にあっても、様々な出版物を買い求めたり、貸本屋で本を貸りたり、瓦版を手に入れたりして、各種の情報を得ていたのである。この江戸庶民達の情報吸収力に乗じて各種の出版物を世に出し、「浮世絵」・「絵入り物語本」等に代表されされるように、後世に大きく影響する文化を築きあげた蔦屋重三郎等の功績は、確かに大なるものがあった、と言わなければならない。
ただ、残念な事に、大河ドラマの「べらぼー」は本当に「判りにくい」、主人公の横浜流星のオ―パァーな演技が何となく「鼻に付く」のは否めないのではないだろうか?

参考資料

江戸の出版業・浮世絵と喜多川歌麿

参考文献

次回予告

令和七年4月14日(月)午前9時30分~
令和七年NHK大河ドラマ「「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る。
次回のテーマ「江戸時代中期の政治体制」について

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