第百七十五回 サロン中山「歴史講座」
令和七年6月9日
瀧 義隆
令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る
メインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
今回のテーマ「江戸の治安維持と刑罰」について
はじめに
江戸時代初期頃の江戸市中の庶民の人口は15万人程度(武家の人口は不明)であったが、享保六年(1721)頃には、武家が約50万人、町人が50万人の合計100万人ぐらいではなかったかと想定されている。このように江戸の市中に大勢の人間達が様々な生活を過ごしていると、その中には善人もいれば悪人も同居する、複雑な生活空間を造り出すこととなる。
武士であろうと町人であろうと、善人は問題はないが、悪人とされる部類の者達が様々な犯罪を起こしてしまう。これは江戸時代に限らず、古代においても、そして現代においても、何ら変容するものではない。
犯罪者がいる限り、それを罰する法令と処罰が必ず存在する。現に、ドラマの中でも放映される事と予想されるが、後年になって蔦屋重三郎自身も重過料の「身上半減」という処罰を受けている。
そこで今回の「歴史講座」では、蔦屋重三郎が生きていた江戸時代中期頃の犯罪防止の法令と、違反者に対する処罰について目を向けてみたい。
1. 江戸時代の法令
一般的に、江戸時代の身分階級は士農工商の区分になっているが、実はこの4区分の他に、「禁裏」「公家」「僧侶」の身分が別建てとして存在する。それ故に江戸幕府は、それぞれの身分に対して、禁止事項を意味する「法度(はっと)」と称する法令によって統制を図ったのである。
そこでこの項では、それぞれの身分に課せられた「法度」について考察してみたい。
① 禁裏並公家諸法度について
「禁裏」とは、天皇をはじめとする親王や皇族達を意味するもので、江戸幕府は恐れ多くも天皇に対してもその行動範囲を制限するような法的束縛を与えたのである。なぜ天皇をも制限したかというと、誰かが天皇を担ぎ出して反幕府の天下転覆の暴動を起こしかねない危険性があったからである。
そこで江戸幕府は、幕府の力を固持するために「法度」を天皇に提示することによって、武士権力の安定化を目指した。
この「禁裏並公家諸法度」についての史料を見ると、以下のように記されている。
「古事類苑 法律部 三十二 下編 上 政書
公家諸法度、亦禁裏向御法式トモ云フ、條目凡テ十七條アリ、
慶長二十年七月、京師二條城ニ於テ定ムル所ニシテ、前将軍家康、将軍秀忠、関白二條昭實ソノ尾ニ連書ス。此法令啻ニ朝紳ノ行為ヲ箝制シタルニ止ラズ、親王以上尚ホソノ拘束ヲ受ク。武家ノ法令トシテ制ヲ皇室ニ加ヘタルモノ、實ニコレヲ以テ首トス。是ヨリ先、公家衆御條目ト稱スル五箇條ノ法令アリシカドモ、公家諸法度ニ比スレバ甚ダ峻嚴ナラズ。」
(『古事類苑 24 法律部 三』吉川弘文館 昭和四十四年 85P)
※用語補足:
- 政書(せいしょ):「まさふみ」とも読み、国や物事を治める事を意味する。
- 京師二條城:徳川家康が慶長六年(1601)に京都の二條通りに建てた城で、朝廷を見張る為のもの。
- 関白二條昭實(あきざね):徳川家康が幕府を開いた時の関白で、朝廷との交渉役。
- 啻(し):文語で「ただ…のみならず」。
- 朝紳(ちょうしん):朝廷に仕える身分の高い者。
- 箝制(かんせい):束縛すること。
- 峻嚴(しゅんげん):非常に厳しいこと。
この史料に示されている通り、「禁裏並公家諸法度」は十七ヶ条から成り、天皇や公家達の生活態度にも細かく厳しい制限を与える高圧的な法令であったことが明らかである。
② 僧家諸法度
徳川家康がまだ三河国の小領主であった頃、領民や家臣の中にも僧徒と一緒になって「一向一揆」を起こす騒動が多発し、領内の支配体制が不安定になることがしばしばあった。
その苦い経験から、江戸幕府の創設直後、家康は江戸庶民と物騒な僧侶達が結託して反幕府の暴動を起こすのを未然に防ぐため、公家達と同様に僧侶達にも「法度」を制定した。
「寛文五巳年七月十一日
諸宗寺院法度
一、諸宗法式不可相亂、若不行儀之輩於有之者、急度可及御沙汰事、
一、結徒黨企闘諍、不以合事業不可仕事、
右條々、諸宗共堅守之、此外先判之條數、彌不可相背之、若於違犯者、随科之軽重可沙汰之、猶載下知状者也。」
(『徳川禁令考 前集第五』創文社 昭和三十四年 20~21P)
※用語補足:
- 闘諍(とうそう):いさかいや争い。
- 猶(なお):それ故に、の意味。
この「諸宗寺院法度(または諸宗諸本山法度)」では、寺院の規模や運営、祭礼・仏事行事に関する統制が示されており、僧侶が徒党を組むことを厳重に禁じ、違反には厳罰をもって対処することが明示されている。
③ 武士階層
全国に散らばる多くの武士階層に対しても、その危険な集団行動を未然に防止するための法令が示された。
徳川家康は戦乱を統一して江戸幕府を開いたものの、地方に散在する有力武士団は、再び反徳川の暴動を起こす可能性があった。そこで二代将軍・徳川秀忠は、全国の外様大名に対し、幕府の威厳を示しつつ武士の行動を制限する「武士向けの法度」を強要した。
「武家諸法度ハ、徳川十五代中、初代家康、七代家継、十五代慶喜ノ三代ヲ除キ、代々此法度アラザルハナク、皆慶長二十年七月、二代将軍秀忠ノ時制定スル所ヲ以テ本ト為シ、将軍襲職ノ始ニ於テ、毎ニ時勢ヲ察シテ之ヲ増減修飾スルヲ例トセリ。
八代将軍吉宗ノ時、天和令ノ文ヲ用ヰ、加損ヲ加ヘザリシカバ、(中略)
武家諸法度ト云ヒ、諸士御條目云ヒ、皆士分以上ニ限レルモノニシテ、一般人民ニ及ブモノニアラズ。」
(『古事類苑 24 法律部 三』吉川弘文館 昭和四十四年 86P)
※用語補足:
- 襲職(しゅうしょく):前任者の職を継承すること。
この史料に示されている通り、初代家康・七代家継・十五代慶喜の時を除き、「武家諸法度」はその時代に応じて改訂を重ねつつ、武士達の日常行動を規制していたのである。
2. 江戸庶民への法令
1. 法令の伝達方法:成文法ではなく「触書」や「高札」
江戸時代、庶民に向けた法令は、武士や公家に対するような形式的な法律(法度)とは異なり、通知文の形式で出されました。これらは「御触書(おふれがき)」と呼ばれ、市中の目立つ場所に掲示されました。
- 御触書(おふれがき):幕府が庶民に命令や取り決めを伝える通知文。
- 高札(こうさつ/たかふだ):法令などを板に書き、町の掲示板として人目につく場所に設置。類似のものに「制札」もありました。
このようにして幕府は、庶民に対して命令を伝えました。
2. 「御触書」の具体例
寛政4年(1792年)のある触書では、町内の年寄役(町のリーダー)が、幕府の命令を家主や借家人など末端の住民にまできちんと伝え、守らせることが強く求められています。
- 触書を軽視し、町年寄の職務を正しく理解しない者が多くなってきたことを幕府は問題視。
- 住民が命令に従わない場合は、今後、厳しい処罰(厳科)が科される可能性があると警告。
- 穏やかな説得(温潤な教諭)だけで従わない場合には、強制的な対応も辞さないという厳しさが見られます。
3. 法令伝達の町内組織
幕府から庶民に命令が伝わる仕組みは、組織的に整えられていました。
命令の伝達経路:
町奉行所
↓
町年寄(三家:樽屋・奈良屋・喜多村)
↓
町名主(23組合)
↓
各町(1600〜1700町)
↓
町名主
↓
月行事・五人組
↓
家守(大家)
↓
店子(住民)
町名主は、以下のような多くの役割を担っていました:
- 「町触(まちぶれ)」の伝達
- 人別調査(戸口調査。性別・年齢・宗教なども記録)
- 訴訟の取次ぎ、喧嘩の仲裁
- 捨て子の保護や自殺者の処理
- 落とし物の管理
- 勘当(親族関係を断絶する手続き。「札付きの悪者」の語源)
当時の庶民の識字率は50%以上、中期には70〜80%という説もあり、町触を通じた情報の伝達と理解は十分に行き届いていたと考えられています。
なお、町名主は商売が禁止されており、生活費は店子から集める「町入用(まちいりよう)」から支給されていました。
4. 商人への命令:「地本問屋」への規制
浮世絵などを出版・販売していた「地本問屋」に対しても、幕府は厳しい命令を出していました。
寛政2年(1790年)の例:
- 出版物が徐々に「猥雑(わいざつ)」になっていると幕府は非難。
- 内容が風紀を乱す恐れがあるものは禁止。
- 一枚絵であっても、**言葉書(絵に添えられた説明文)**がある場合は厳しくチェック。
- どのような作品であれ、板木印刷(板行)する際には十分に内容を精査することを命じられた。
- 違反があれば、問屋の代表者たちが責任を問われる。
このように、幕府は出版物に対しても細かく目を光らせ、風俗の乱れを防ごうとしていました。
まとめ
江戸時代の庶民に対する法令は、成文化された法律よりも「触書」や「高札」といった形で町中に掲示され、町内の組織を通じて伝達されました。町名主や月行事といった町の役職がその中心的役割を担っており、住民の高い識字率も相まって、法令の周知はかなり徹底されていました。
また、商人や出版業者に対しても、幕府は風紀を重んじる厳格な姿勢を保ち、庶民の生活全体を規律あるものに保とうとしていたことが読み取れます。
3.「江戸時代の刑罰(けいばつ)」
江戸時代には、身分(みぶん)によって受ける罰がちがっていました。身分とは、たとえば「お公家さん(くげ)」「お坊さん」「武士(ぶし)」「町人(ちょうにん)や農民(のうみん)」などのことです。それぞれに合わせて、ルールをやぶったときの罰も変わっていました。
① 公家(くげ)への罰
お公家さんは、ふつうは京都(きょうと)に住んでいて、京都の役人「京都所司代(きょうとしょしだい)」が見はっていました。大きな問題があったときは、幕府(ばくふ)に相談して、罰を決めました。
- 死罪(しざい):めったにありませんでしたが、「猪熊事件(いのくまじけん)」という特別なときには首を切られました。
- 配流(はいる):遠くの島(伊豆・硫黄島・松前など)に流されて、住まわせることです。
- むち打ち:50~100回たたかれることもありました。ただし、背骨(せぼね)など大事なところは避けました。
- 追放(ついほう):江戸の町から出されて、入ってはいけない決まりです。
- 財産没収(ざいさんぼっしゅう):持っている家やお金をとられてしまいます。
- 蟄居(ちっきょ):家の中に閉じこもり、外に出られなくなる罰です。ずっと続くこともありました。
② 神主(かんぬし)やお坊さんへの罰
お寺や神社の人たちもルールを守らなければなりませんでした。悪いことをした場合、それぞれの宗派(しゅうは)で罰を与えることもありましたが、幕府が決めることもありました。
- 重い罰(重戒じゅうけい):ルールを大きくやぶったときは、お坊さんをやめさせられる「追院(ついいん)」という罰になります。
- 軽い罰(軽戒きょうかい):お寺から出されるけど、お坊さんの身分は残る「退院(たいいん)」という罰です。
- 謹慎(きんしん):しばらく外に出ず、おとなしくしている罰です。
- 罷職(ひしょく):お坊さんの仕事をやめさせられ、法衣(ほうえ)という服も着られなくなります。
③ 武士への罰
武士はルールをやぶると、名誉(めいよ)を大切にした特別な罰を受けました。
- 死罪:切腹(せっぷく)や斬首(ざんしゅ)など、命を取られる罰です。
- 阿房払(あほうばらい):刀を取り上げられ、服をぬがされて追い出されます。
- 遠慮(えんりょ)・閉門(へいもん):家から出ないように、自分からおとなしくします。
- 逼塞(ひっそく):閉門よりも少し軽く、30日や50日など決まった日数おとなしくします。
- 預かり:悪いことをした人を、別の大名にあずけて、家の中に閉じこめておきます。
- 改易(かいえき):武士の身分をうばわれ、家や土地もなくなります。
- 遠島(えんとう):島に流されて住まわされます。
④ 庶民(ちょみん)への罰
町人(商人など)や農民も、ルールをやぶれば、いろいろな罰を受けました。
たとえば、**蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)**は、きれいすぎる絵や内容の本を売って怒られ、「身上半減(しんじょうはんげん)」という、財産を半分にされる罰を受けました。
また、作家の**山東京伝(さんとうきょうでん)**は「手鎖(てぐさり)50日」といって、鎖につながれて50日すごしました。
庶民の罰の種類はたくさんありました:
- 死罪:のこぎりびき、磔(はりつけ)、火あぶり、首を切るなど。
- 遠島:遠くの島に流される重い罰です。ゆるされて帰れることもありました。
- 鞭(むち)打ち:背中やおしりなどを50~100回たたかれます。
- 身分刑:その人の身分をなくして、重い差別のある「非人(ひにん)」になることも。
- 財産刑:家や土地をとられます。
- 墨縄(すみなわ):縄でしばられます。
- 手鎖(てぐさり):三十日・五十日・百日など決まった日数、鎖でつながれます。油をぬってはずす人もいました。
- 腰払(こしばらい):江戸の町から追い出される罰です。
こうして見ると、蔦屋重三郎が受けた罰は、他の重い罰とくらべると、まだ軽いほうだったのかもしれません。
まとめ
今の世界では、戦争がたくさん起きていて、人が人を傷つけたり殺したりすることがあります。昔の戦(いくさ)はまだしも、今のように文明が進んだ時代にそんなことがあるのは、おかしいことです。
「自分さえよければ他人はどうでもいい」という考えで国を動かす人がいて、それを止められないのも大きな問題です。世界を守るはずの「国連(こくれん)」も、本当に役に立っているのか、考える必要があります。
昔も今も、悪いことをした人は、正しく法律にしたがって罰を受けるべきなのです。
参考にした本
- 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』(草思社)
- 楠木誠一郎『江戸の御触書』(グラフ社)
- 高木昭作『江戸幕府の制度と伝達文書』(角川書店)
- 国文学研究資料館編『江戸幕府と情報管理』(臨海書店)
参考画像
次回のテーマ(予告)
📚 次は「江戸の学問」について学びます!
2025年7月14日(月)午前9時30分からの講座もお楽しみに!
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