第百八十回 サロン中山「歴史講座」
令和八年1月12日
瀧 義隆
令和八年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の時代を探る
メインテーマ「天下を取った」について
今回のテーマ「豊臣兄弟の幼年期」について
はじめに
過去、NHK大河ドラマで人気を博した作品の多くは、視聴者が学校で学んだ歴史の中に登場する人物である。鎌倉時代の源頼朝・義経・平清盛に始り、室町時代の足利尊氏や楠正成、戦国時代の毛利元就・織田信長・徳川家康等と、今回の主人公となる豊臣秀吉や秀長等、どの武将を取り上げても面白味のある物語である。
そこで、今年の大河ドラマは「豊臣兄弟」であり、豊臣秀吉については、過去にも何度か題材となっているが、それでも人気のある人物である。その理由には、秀吉が極貧の農民の出身であって、それが立身出世し、最後には「天下人」となる痛快そのものの、歴史事実を基とする物語にあるが故と考えられる。視聴者にとって、主人公が生れながらの名門の子ではなく、苦労に苦労を重ねた上で成功を成し遂げる、そこに身近なものを感じ、魅力を持つのではなかろうか?。今年の「豊臣兄弟」には、大きな期待を持ちたい。
1.「豊臣兄弟の経歴」
秀吉・秀長の二人共に、出身が「百姓」であることから、出生について正確な史料は何一つとして存在しない。
今日、比較的確実とされる、豊臣秀吉の生涯についての史料としては、土屋知貞が著した『太閤素生記』が寛永二年(1625)、小瀬甫庵が著した『太閤記』は寛永三年(1626)、竹中重門が著した『豊鏡(とよかがみ)』も寛永八年(1631)の成立であり、江戸時代初期の文献である。
①「豊臣秀吉の出自」について
天文六年(1537)二月六日生れか?(不明確)
慶長三年(1598)八月十八日死去(死因については、結核説・胃癌説・消化器官癌説等があるが、全く不明)
- 父・・・木下弥右衛門か?(竹阿弥昌吉の説もある。)
- 母・・・仲・なか(木下弥右衛門が合戦で負傷し、それが元で死去した為、竹阿久弥昌吉と再婚した、とする説もある。)
- 兄弟・・弟の「小一郎(後の秀長)」、姉の「とも・智」、妹の「旭姫(実の名前は不明)
- 正室・・ねね(寧々)
- 側室・・茶々(後の淀君)・京極竜子・三の丸(名前不明)・加賀殿(名前不明)・寿芳院(名前不明)・千々石ミレー・妙心院(名前不明)・大正院(名前不明)・円成院(名前不明)・おふく等、全部で16名いた、とするが、一説では、300人程度いた、とされている。・・・・・・・・・・資料①参照
- 幼名・・日吉丸(本当かどうか不確定)→藤吉郎
- 子供・・石松丸・女子(名前不明)・鶴丸(早世)・拾(後の秀頼)
※ルイス・フロイスが著した『日本史』によれば、豊臣秀吉は、右手の親指が2本あった、とする説があり、これは、「先天性多指症」であったことを示している。
ルイス・フロイスの『日本史』には、
「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のような鬚が少なかった。(中略)彼は本心を明さず偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。(後略)」
完訳 フロイス日本史4豊臣秀吉扁Ⅰ ルイス・フロイス著「秀吉の天下統一と高山右近の追放」訳者 松田毅一・川崎桃太 中央公論社 2000年 203~204P
※秀吉の右手の親指が2本あったことについては、前田利家家が書き残した『国祖遺言』にも明記されている。秀吉の幼年期の「あだ名」が、その面相から「さる」と呼ばれていたばかりではなく、手の指が六本あったことから、「六ッツ」と言われていた、とする説もあるが、その根拠は明確ではない。
※ルイス・フロイスは、ポルトガル人で、カトリック司祭の宣教師である。フランシスコ・ザビエルとの出会いがあって日本を知り、31歳の時、日本の永禄六年(1563)に肥前国彼杵郡(そのぎごうり)(現在の長崎県西海市北部)に上陸し、同僚のフェルナンデスから日本語を学んでいる。天正十一年(1583)に織田信長に謁見しており、天正十八年(1590)には豊臣秀吉と会見をしている。
※豊臣秀吉の「辞世の句」は、「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことも夢のまた夢」
意味は、「かつて栄華を極めた浪速での日々も、結局は夢のまた夢であった。」秀吉の自筆により書かれ「辞世の句」は、重要文化財として大坂城の天守閣に所蔵されている。
『国史大辞典 第十一巻』吉川弘文館 平成二年 458~460P
②「豊臣秀長の出自」について
天文九年(1540)三月三日生れか?(秀吉と同じく不明確)
天正十九年(1591)二月十五日死去(秀長の死因に関する史料がない為、糖尿病説・結核説・胃腸病説等があるが、それぞれ推測にすぎない。)
- 父・・・竹(筑)阿弥昌吉(木下弥右衛門が死去し、母の「仲・なか」が竹阿弥と再婚した?。)
- 母・・・仲・なか
- 兄弟・・兄「秀吉」(異父の子?)・姉の「とも・智」(異父の子?)、妹の「旭姫(実の名前は不明)
- 正室・・慈雲院(名前は不明)
- 側室・・光秀尼(名前は不明・秋篠伝左衛門の娘か?)
- 名前・・小一郎又は小竹(明確ではない。)→木下長秀→羽柴秀長→豊臣秀長
- 子供・・与一郎(早世)・豊臣秀保の室(おみや?)・大善院(おきく?・毛利秀元の室)
- 養子・・秀保・仙丸・岩(名古屋山三郎の妹?)・与一郎の室(後に森忠政の室)
豊臣秀長の出生に関する史料は非常に少なく、寛永二年(1625)に土屋知貞が著した『太閤素生記』に、次のような記述が見られる。
「一信秀織田備後守家ニ竹阿彌ト云同朋アリ(中略)其後男子一人女子一人秀吉ト種替リノ子ヲ持ツ兄男子秀利初名小竹後羽柴美濃守後大和大納言是也(後略)」
『史籍集覧 第十三冊』土屋知貞著『太閤素生記』寛永二年~延宝四年 480P
以上のように書いてあり、この史料によると、秀長の幼名は「秀利」となっているが、これは誤りであり、「小竹」か「小一郎」でなければならない。ただ、この史料で見られるのは、秀吉と秀長とは、「種替リノ子」と示しているように、確実に異父の兄弟であることを示している。
※豊臣秀長の辞世の句は、
「磯かげの、松のあらしや友ちどり、いきてなくねの、すみにしの浦」
意味は、「生きている間は、松の木陰にいるチドリのような、悲しいに思いを抱えているが、死んでしまえば、静かな海の入り江に安らかに横たわることになるだろう。」
このような辞世を残して、秀長はこの世を去っていった。
『国史大辞典 第十一巻』吉川弘文館 平成二年 535P
山鹿素行著『新編 武家事紀』延宝元年序 新人物往来社 昭和四十四年 562~563P・・・・・・・・・・・・・資料①参照
2.「史料で見る秀吉の出自」について
豊臣秀吉の生涯を知る上で、能作者の大村由己(ゆうこ)が著した『天正記』があるが、この著書は、秀吉の武功や攻略等の正当性を強調し、秀吉として不都合な部分を省略していることから、学術的見地からして疑問視されており、この講座では史料として取り扱わないこととしたい。
それでは、比較的信憑性のある他の史料として、江戸幕府の旗本であった土屋知貞が著した『太閤素生記』、そして安土桃山時代から江戸時代にかけての儒学者で医師でもあった、小瀬甫庵が著した『太閤記』、また、竹中半兵衛の嫡男で江戸幕府の旗本であった、竹中重門が著した『豊鑑』を見ることによって、秀吉の出自を明らかにしてみたい。
まず、『太閤素生記』では、
「一尾州愛知郡ノ内ニ上中村中々村ト云在所アリ秀吉ハ中々村ニテ出生一天文五丙中年正月朔日丁巳日出均ク誕生幼名猿改テ藤吉郎(中略)父ハ木下弥右衛門ト云中々村ノ人信長公の親父信秀織田備後守鐡鉋足輕也爰カシコニテ働アリ就夫手ヲ負五體不叶中々村へ引込百姓ト成太閤ト瑞龍院ヲ子ニ持チ其後秀吉八歳ノ時父弥右衛門死去(後略)」
『史籍集覧 第十三冊』土屋知貞著『太閤素生記』寛永二年~延宝四年 479P
次に、小瀬甫庵の著した『太閤記』では、「爰に後陽成院の御宇に當て、(中略)父ハ尾張国愛智郡中村の住人、筑阿弥とぞ申しける、或時母懐中に日輪入給ふと夢み、巳にして懐妊し、誕生しけるにより、童名を日吉丸と云しなり、出於襁褓之中より類ひ稀なる稚立にして、尋常の嬰児にハかはり、利根聡明なりしかは、出家させ禅派の末流をも續せ、松林の五葉を昌んにせはやとて、八歳の比同国光明寺の門弟となりしけるに、沙門の作法には疎く、世間の取沙汰等にハ、十を悟れる才智世に勝れ、(後略)」
『史籍集覧 第二十三冊 戦記編十一』小瀬甫庵著『太閤記 巻一』臨海書店 昭和四十二年 18P
※小瀬甫庵は、江戸前期の儒学者で、医師でもある。
「出於襁褓之中(しゅつじょうのほうほのちゅう)」・・・・襁褓とは、赤ちゃんがくるまれる「おむつ」のことで、「幼い頃から」の意味である。
「稚立(ちりゅう・わかだち)」・・・・幼い子供が立ちあがる「勢い」を意味する。
「光明寺(こうみょうじ)」・・・・秀吉が預けられたとする「光明寺」はと複数あった、と考えられており、どの寺か?は不明である。
「沙門(しゃもん)」・・出家して修行する人のこと。語源はサンスクリット語の「シュラマナ」から変化したもの。
「才智(さいち)」・・・かしこいこと。才能に優れていること。
また、竹中重門が著した『豊鑑(ほうかん)』を見ると、
「豊鑑巻一長濱羽柴筑前守秀吉。天文六年丁酉に生れ。のちには関白になり給ふは。尾張國愛智郡中村とかやとて。あつ田の宮よりは五十町計乾にて。萱ぶきの民の屋わずか五六十ばかりやあらん。郷のあやしの民の子なれば。父母のなもたれかはしらん。一族などもしかなり。(後略)」
竹中重門著『豊鑑』群書類従 第二十輯 合戦部 塙 保己一編 続群書類完成会 昭和三十四年 517P
以上の三つの史料を整理してみると、
『太閤素生記』 『太閤記』 『豊鑑』
出生地・・中中村 中村 中村
誕生・・・天文五年 ? 天文六年
父・・・・木下弥右衛門 筑阿阿弥 ?
母・・・・? ? ?
幼名・・・猿(後に藤吉郎) 日吉丸 ?
以上のように、3つの史料はそれぞれ違いがあって、どれが正しいものなのか?残念ながら現時点では判然としていない。
※参考までに、尾張国清須朝日村の住人であった、人柿屋喜左衛門が慶長年間に著した『祖父物語』には、
「太閤御父ハ、尾州ハザマ村ノ生レ、竹アミト申テ、信長公ノ同朋ナリ、太閤ハ申ノ年六月十五日、清須ミズノヽガウ戸ト申所ニテ出生シ玉フ、幼名ヲコチクトゾ申ケル、(後略)」 『古事類苑 37 禮式部一』吉川弘文館 昭和四十四年 1248P
「同朋(どうぼう)」・・・主君に近侍して、雑務をこなしたり、諸芸能も司り、僧体をしていた。このように記載されていて、父は「竹アミ」で『太閤記』の「筑阿弥」と同じで、また、生誕の「申ノ年」は「天文五年」と共通しているが、生れた場所が「清須ミズノヽガウ戸」とあり、また、秀吉の幼名が「コチク」とあって、他の史料とは全く相異している。
3.「織豊(おりとみ・しょくほう)時代の誕生」について
この項では、織田信長と豊臣秀吉が活躍した戦国時代後期の「織豊時代」について考察してみたい。
①「織豊(おりとみ・しょくほう)時代」とは?
室町時代末期は、郡雄割拠の時代と言われる、日本全国騒乱の時期で、北は最上氏や伊達氏、上杉氏等が勢力を持ち、関東には今川氏・北条氏等がおり、近畿地方にかけては斎藤氏・浅井氏・朝倉氏等が活躍し、四国には長宗我部氏、九州には大友氏・島津氏等が暴れ回っているような時代であった。 このような騒乱の時代を平定して、全国の戦国大名達を「我が手に納めてしまおう。」としたのが織田信長であり、それを継承したのが豊臣秀吉である。それ故、日本の歴史学者達は、この織田信長の「織(おり・しょく)」と、豊臣秀吉の「豊(とみ・ほう」を繋いで「織豊(おりとみ・しょくほう)時代」としたのである。
また、この「織豊時代」を「安土桃山時代」とも称されるが、この「安土」とは、織田信長が天正四年(1576)に、琵琶湖の東岸の近江国蒲生郡安土山に、天下人の住む城を建てた土地の名前である。「桃山」とは、豊臣秀吉が京の伏見に治政の中心として、また、秀吉の隠居所として建てた「伏見城」のあった場所で、「伏見城」が廃城となった後に、この地帯一面に桃の木が植えられて桃の花見の名所となったことから、後日、この地を「桃山」と称することが定着したのである。このことから、明治時代の歴史学者達が、織田信長と豊臣秀吉の時代を称するのに、政庁の場所を二つ継ぎ合わせて、「安土桃山時代」と称するようになり、それが現在にも受け継がれているのである。
②「戦国時代の世情」について
戦国時代の中期頃までの合戦は、鎌倉時代から続く戦法による武士団同士の戦いで、弓や槍、刀等の武器を携えて、騎馬に跨り、足軽達を統率して戦いに挑むものであった。その戦法には、「義経流」・「楠流」・「甲州流」等の多くの「兵法」が出来て、合戦をどのように勝利にむかわせるか?事前に軍隊の「構え」をどのようにするか?が重要な事であった。そこで「軍師」とか「軍配者」とか称される、合戦の方法を専門に考える武士も現れ、「車がかりの陣」・「魚鱗(ぎょりん)の陣」・「長蛇の陣」・「雁行の陣」・「鶴翼(かくよく)の陣」等の多数の陣体形が考え出されたのである。
武士達は、大将の命令により駆り出されると、「命(いのち)」を懸けて戦い、勝利すれば土地を貰い安堵される。これが「一所懸命」という言葉の語源でもある。敵地に入り、土地を奪うばかりではなく、「入取り」と称して、敵国の女性達を戦利品として奪い取り、暴行した上で人身売買して金品にしたり、「刈田(かった)」と称して敵国の田地・田畑を荒らし回り、稲田を刈り取ってしまい、戦利品としたのである。
一方、大将の命令で駆り出される足軽達は、平常は一般の農民で、兵員と農民とを兼ね備えた身分の人達である。この兵農が一つとなっていれば、田植え時期の春や、収穫時期の秋には、軍隊の要員として徴収することが出来なくなる。敵から急襲されても、武力を確保することが出来なければ、田地田畑ばかりか、一族郎党・家族全員の命も奪われてしまい、全てを失うこととなるのである。
③「織田信長の戦法改革」について
上の項で示したような家臣団の状況では、室町幕府の衰退による戦国末期の激変の世を生き続けていくことが困難となる。 そこで織田信長は、敵の急襲から自国を守る為に、最下級の足軽達を長期的に兵力として確保する為に、「兵」と「農」を完全に分離して、家臣団の中に足軽達を組み入れたのである。これにより、足軽達にも「直臣(じきしん)」としての意識が生れ、主君に対する忠誠心が堅くなり、戦況が不利な時にも、「逃亡者」や「寝返り者」を生むようなリスクを軽減することが出来るようになったのである。
また、家臣団が定着することによって、城下が拡大・整備されて城の周辺に武士達の屋敷が多数建設されて「城下町」の原型が出来上がっていくことにもなった。
信長は、家臣団の定着によって安定的な軍団形成が可能となると、その軍団を徹底的な「能力主義」・「実力主義」として、従来の家柄・家格・身分重視の方針を改革し、優秀な家臣を重用すると共に、鉄砲を中心とした革新的な軍備と戦略を考え出し、史上最強の組織を作り上げた。
しかし、この「能力主義」・「実力主義」は、「無能力者の排除と追放」とする強引なやり方でもあり、これには不満を持つ家臣も少なくなかった。従って、信長の家臣団は、常に反対勢力をも内在している、危険性をもはらむ家臣団でもあった、とも言えるのである。
このような信長の家臣団の中にあって、「実力主義」を巧みに生き抜き、成果を挙げたのが豊臣秀吉であり、危険性をもはらむ家臣団の一人であって、結果、失敗したのが明智光秀である。
西股総生著『戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国の大勢―』㈱学研パブリッシング 2012年
④「鉄砲の伝来」について
前項で示したように、織田信長が戦国時代を制覇した最も重要な要因には、ポルトガルからの「鉄砲」の伝来がある。天文十二年(1543)、中国の船が種子島に漂着し、その船に乗っていたポルトガル人が持っていた「鉄砲」二丁を種子島の島主であった種子島時尭(ときたか)が、一丁銀千両(現在の値段で1億円?)で購入し、その内の一丁を刀鍛冶の八板金兵衛清定に命じて分解させた。分解した金兵衛清定は、銃身の「ネジ切り」の技術を習得して、翌年には国産第一号を完成させた。この技術が
泉州堺や根来衆に広まり、「鉄砲」が日本全国に広まっていき、各地方の武士団の注目する武器となっていった。
※ただこの「鉄砲」には、次のような欠点があった。
・一発撃つと、次の玉を込める為に、火薬を入れたり、玉を入れて堅く詰め込めたりし、更に、火種を準備したり、一発装填(そうてん)するのに約30秒以上の時間を要した。
・火種がむき出しの為に、雨天の時は使い物にならなかった。
・合戦に際しては、火薬や弾丸を運ばなければならず、運搬が困難であった。
※利点としては、
・熟練した射撃手となると、命中率が8~9割の確率で命中させ、射程距離も100mと長がく、50m以内であれば、甲冑も貫通するような威力があった。
・鉄砲の発射音が大きくて、敵を怯ませる心理的効果が大であった。
以上のように、欠点と利点とを持つ「鉄砲」ではあったが、織田信長は「鉄砲」の欠点を様々な工夫によって克服し、強大な織田鉄砲隊を形成し、戦国の舞台へと躍り出たのである。
門井慶喜著『信長、鉄砲で君臨する』祥伝社 2025年
まとめ
世の中には、運の強い人と、そうでない人とに分かれるように思われる。運の強い人には「運」のほうからやって来る、そのような人もいる傍ら、「運」とは全く縁遠い人もいるのも事実である。
豊臣秀吉は、幼少期から少年期にかけては不遇の中にあったようであるが、一端、織田信長という人物との出会いを得てからは、秀
吉にとって「好運」そのものであった、と言えよう。「好運」は秀吉自身の努力も重なって、「強運」へと更なる上昇へと転身していく。日本史上においても、実に、稀に見る「好運・強運」の持ち主だった、と言えよう。
今年の大河ドラマは、「豊臣兄弟」に見る「好運・強運」の持ち主の人生を楽しんで視聴してみたい。
参考資料
参考文献
- ルイス・フロイス著『日本史 キリシタン伝来のころ』平凡社 1978年
- 山路愛山著『豊臣秀吉:上・下』岩波文庫 1996年
- 松永義弘著『豊臣秀吉 嵐の中の日本人シリーズ:7』あかね書房1986年
- 柴田祐之編著『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』戎光祥出版 2024年
- 福永英樹著『志 豊臣秀長伝』幻冬舎ルネッサンス 2013年
次回予告
令和八年2月9日(月) 午前9時30分~
令和八年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の予備知識
次回のテーマ「秀吉の流浪期」について







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