江戸の町内自治

江戸の町内自治
江戸の町内自治

第百七十七回 サロン中山「歴史講座」
令和七年八月十一日

瀧 義隆


令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」の時代を探る
メインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
今回のテーマ「江戸の町内自治」について


はじめに

歌舞伎の演目の一つに、「石川五右衛門」というものがある。「石川五右衛門」は、安土桃山時代後期の実在の大泥棒であり、捕縛された後、豊臣秀吉の命により、京都の三条河原で「釜ゆで」の刑により処刑された人物である。このような盗賊は、安土桃山時代に限らずその前後にも存在していて、江戸時代に入っても「悪だくみ」の若者集団によって、老人の家を襲って金品を強奪する凶悪な犯罪が行われ、極悪非道の事件が多く発生している。
そこで、今回の「歴史講座」では、蔦屋重三郎が活躍していた江戸の治安状況はどうであったかについて考察してみたい。


1. 「江戸時代中期の江戸」について

蔦屋重三郎が生きていた江戸時代中期頃の社会情勢を纏めてみると、

  • 安定した政治体制となり、町人文化も様々な形で発展するようになった時期である。
  • 商業が発展して、江戸や大坂等の大都市に人口が集中するようになり、都市の煉瓦建築に新しい繁栄を求める傾向もみられるようになる。
  • 儒学が尊重されるようになり、武力ではなく「法」を重んじた政治体制が確立した。
  • 農村自治が実行した「草案の改革」が浸透して養しされるようになったが、一方で、田沼政治のような賄賂政治が横行して、民衆の不満が充満していた。
  • 幕府の財政が逼迫するようになり、年貢の増徴となり、物価が高騰して庶民の暮らしが苦しい状態となった。
  • 天候不順や浅間山の噴火等によって作柄が悪化し、各地に飢饉が頻発し、庶民の生活苦が増大して犯罪が多発した。
  • 百姓の次男・三男等は「口減らし」の為に、長男以外の次男・三男は家を出され、口入れに出た者達は、仕事を求めるものの、生活は苦しく、若者の多くは悪事の道に走ってしまう。

現在の庶民の多くは、蓄財があれば、多少の現金を手元に置い ていて、他の現金は銀行に預け入れているのではなかろうか。し かし、 銀行が存在しなかった江戸時代 江戸の庶民達は、 大店(お おだな)と称される豪商の家では、 「金蔵土蔵」 と言う建物を別 建てして貯蓄に励んでいた。
庶民の一部には、 「両替屋」に「金」を預けて、小額の利息を 受け取る者もいたが、 長屋住い等の一般庶民達にはそのような余 裕があろうはずもなく、自宅の中で隠し保管するしか方法はなか った。 このような金銭の管理体制では、 江戸時代中期の強盗集団 にとっては、かっこうな「餌食 (えじき)」でしかなかったものと
考えられる。
戸沢行夫著「江戸町人の生活空間都市民の成長』 塙書房 2013年

2「江戸中期頃の強盗集団」について

江戸が地方からの若者達の集まり場所になった江戸中期頃、仕 事が見つからない者は、その日の食事や寝る場所も確保出来なく なる。 そのような若者達が、窃盗・スリ・ひったくり・強盗・散 火等、 「明日の暮らし」の為に、 短絡的な犯行に手を染めていくの は、現在の若者の犯罪と何ら変わりく、 悪業を尽くすのである。

その犯罪の代表的なものが盗賊である。 そこで、江戸中期頃の 「大泥棒」について列記すると、

日本左衛門・・・尾張藩の生れで、本来は飛脚の家の息子であった。本名を濱島庄兵衛と称し、生れながらの悪たれ小僧で、放蕩三昧を尽くして、200人ほどの手下を使い、東海道沿いの各地区を荒らし回り、延享四年(1747)一月に京都町奉行所に自首し、同年の三月に処刑された。

鼠小僧次郎吉・・・生れは、寛政七年(1795)頃か?歌舞伎の木戸番の定七・かん夫婦の長男として生れ、建具職人をしたり驚入逮等をしていたが、芸来、博打を好む性格で、親に勘当された後に盗人稼業に手を出すようになった、と推定されている。天保三年(1832)五月に捕縛され、八月に処刑された。

真刀(神道)徳次郎・・・東北から関東一円で犯罪を繰り返した盗賊で百姓屋・寺院・町屋等に押し入り、僧侶も百姓も殺害する凶悪犯であった。寛政元年(1789)三月に捕縛され、六月に処刑された。

葵小僧・・寛文三年(1791)頃の盗賊である。 生れた年月 は不明。 徳川の「葵の御紋」 を付けた提灯を 持ち歩く風変わりな大泥棒であった。 犯行は 極めて悪質で、 押し込み入った先で、金品を 盗むだけではなく、次々と人を殺し、女性を 犯す等、極めて悪質な盗賊であった。 長谷川 平蔵に捕縛され、 10日後には処刑されている。

雲霧仁左衛門・・享保年間(1716~1736)頃の盗賊とされている
が、明確な史料がなく、架空説もある人物で ある。 享保八年 (1772) に友右衛門と称する盗 賊が捕縛されており、 この人物が雲霧仁左衛 門と言われるようになったものか?とも考えられる。

以上のように、江戸の中期頃は、世情も安定してきて、庶民の生活も比較的楽な状態になった、とされているが、しかし、江戸近郊の百姓達は、稲作が天候に大変左右された。実際、天明三年(1783)四月〜六月の浅間山の大噴火の時には、我妻川や利根川流域の多くの耕作物に被害を及ぼされれた。
この結果として、身内や知人等の縁者の求めに応じ、「口減らし」の為に家を出て大都市へ仕事を求めて行き、女の子は貸し替からを救う為に犠牲となって、吉原等の「遊郭」等に売られていくのである。

丹野 顯 著 『江戸の犯罪と仕置 歴史新書』 洋泉社 2017年

3.「江戸町人の自治」について

①「長屋住まいの江戸町人」について

江戸は、武家地が60%、町家地が20%、お寺が15%、神社が5%といった割合であったが、町人の住む地域は、現在の山ノ手線の内側に点在すると共に、下谷・浅草・本所・深川近辺にも住んでいた。
江戸の町人の7割が裏店(うらだな)と称される「長屋」に住んでおり、朝は日の出と共に起床して、ご飯・みそ汁・漬物・魚類等を食べ、共同の井戸と便所を使用し、仕事に出かけた。江戸時代中頃からは昼食をとる習慣が普及し始め、夕方に帰宅して朝と同じような献立の夕食を摂った。夕食が終わった頃には、蝋燭や「行燈(あんどん)」等で書簡面でのやりとりや娯楽を楽しむ頃には就寝していた。
町人の住む長屋は、板葺や杉皮葺の屋根と、壁の「塗ぐわん」は切りに粘土を塗りつけた壁があり、近所づき合いも簡抜け状態であり、プライベート保持とは全く無縁の貧乏暮らしが通常の住民であった。
決まった時刻頃に「棒手振り」と称される物売りが野菜や魚 類を「天秤棒」で担いで売りに来る。 多くの庶民の一日の稼ぎ は、350~410 文(現在の12,250~14,350円程度)であった、と 想定されている。

江戸に向かう百姓等の若者達が増加すると、 そのような単身 者を相手とする、現在の外食産業である「てんぷら屋」が出来 で、「てんぷら」が屋台で食べられるようになり、 文(現在の約100円)で売っていた。また、「寿し屋」も現れ、「立 ち食い寿し」 方式で、文化年間 (1804~1818)頃で、「寿し」- 個が 8 文 (現在の約200円)であった。ただ、この頃の「寿し」 は、 「鮒 (ふな)寿し」のような「なれ寿し」で、屋台で手早く食 べられるように、一口大の「握り寿し」になっていた。 現在のような「生寿し」が出てくるようになるのは明治時代になって からである。
・・・資料1参照

更に、この時期になると、長屋の住民も、一日の食事が三回 となり、それまで玄米を食べていた町人達も、武士達と同じよ うに「白米」を食べるようになった。生活習慣が少し贅沢な暮しへと移行し、 結果、江戸の庶民にも「ビタミンB1」の不足 から、「気」が急増し、「心不全」・「末梢神経障害」等の病人 が多発するようになった。

②「江戸庶民の治安」について

江戸の町々の出入り口には、「木戸(きど)」があって、朝、六 (午前 5~6時頃)に門を開けて長屋の一日が始まった。 夜四ツ
(午後9~10時頃)に木戸の門を閉鎖して通行を遮断した。 ただ、昼間でも、往来において喧嘩や騒動等が生じた場合には、急遽、木戸の門を閉鎖して、長屋への影響を阻止していた。
・・・資料2参照

この木戸の傍に、「自身番所(じしんばんしょ)」が設置されて いて、そこには地主や家主等が交代で詰めていて、常時5~6 人ぐらいの人数が駐在していた。これとは別に、「自身番所」 の辻向いには粗末な 「番小屋」が建っていて、この中には「番 「太郎」 と言われる北国出身の人が住んでおり、木戸の開閉を行 っていた。また、この「番小屋」では、食器・荒物・鼻紙・草 履・縄・駄菓子筆や墨壺等も売っていて、現在のコンビニの 役割も果たしていた。 更に、「番小屋」には、纏(まとい)や鳶口 (とびくち)・提灯等の消火の為の道具や、棒・「さす又」等の武 器となるものも備えていて、 万が一の為の自衛の備えも厳重にしていた。

4.「火付盗賊改方」について

5月30日〜31日にかけての、NHKラジオ深夜便の中で、「べらぼう〜」に出演していた俳優の中村隼人氏が、配役の「長谷川平蔵」について話していたが、「長谷川平蔵」は江戸時代中期の「火付盗賊改方」の第165・166代の長官となった人物である。
そこでこの項では、江戸町内の治安維持の為に活躍した、「火付盗賊改方」について述べてみたい。

①「火付盗賊改方」の歴史

盗賊を取り締まる「火付盗賊改方」は、何時頃から設置されたものか?を『古事類苑』で調べてみると、
「官役部 モチ火附盗賊改奉行増設ハ、江戸市中ノ巡廻トテ、火災予防防シ、盗賊方捕縛、職作ヲ為ス為メ職ナリ、寛文六年、始テ此職ヲ置キ、元禄十四年廃、特之頭職ヲ置ク、若干ノ組ノ下に若干ノ先手頭ヲ置キテ其属ノ頭ト為ス、若干ノ支配ニ属ス、共ニ五百石高ナリ、慶順ハ、先手頭ノ上ニ列ヲ置キ、後文中ノ支配ト為ス、役扶持ヲモ賜フ、其資格ヲ費セザル、慶應二年三月、遂ニ此職ヲ廃セリ」
『古事類苑 17 官位部 三』吉川弘文館 昭和四十三年 1184P

「持之頭(もちのかしら)」・・・江戸幕府で、鉄砲をあずかり、警備に当たる「持弓頭」と「持筒頭」のことで、平常は江戸城の本丸を守る役目をしている。
「先手頭(さきてがしら)」・・・「持之頭」と同様に、江戸城の各門の警備を担当し、市中の巡廻等も行っていた。
「役扶持(やくぶち)」・・・特定の職務に支給される俸禄のことで、職務を遂行する上で必要な経費を補う為に支給される場合もあった。

以上の史料に見られるように「火付盗賊改方」は、寛文六年(1666)に発足して以後、組織の編成を繰り返しながら、江戸の治安を守ってきていた事が示されている。
次に、「火付盗賊改方」の歴史を整理してみると、
寛文六年(1666)・・・・・・「盗賊改」が新設される。
天和三年(1683)・・・・・・「火付改」が設置される。決められて役所はなく、先手頭の役宅を役所としていた。
元禄十二年(1699)・・・・・様々な悪評により、「盗賊改」「火付改」は廃止となった。
元禄十五年(1702)・・・・・「盗賊改」が復活される。
宝永十六年(1703)・・・・・「火付改」が復活される。
享保三年(1718)・・・・・・「火付盗賊改」と改称され、一体化された。
文久二年(1862)・・・・・・先手頭兼任が廃止となり、専任制とされた。

以後、慶応二年(1866)迄、「火付盗賊改」は継続されていた。

初代の長官は、寛文五年に就任した「本郷守重」から始まり、第248代長官の戸田正意(まさおき)が最後となっている。

5.「江戸時代の牢獄内」について

この項では、町奉行所や火付盗賊改で捕縛された犯罪者達は、牢屋に入れられて、牢内ではどのように扱われていたか?について述べてみたい。

江戸時代の「牢獄」は、未決囚や刑の執行を待たせる場所としての施設であった。刑罰として、「懲役刑」や「禁固刑」のような刑罰がなかったので、現在の留置署や拘置署のような施設も必要ではなかった。
牢屋敷にも種類があって、旗本や神主等が罪を犯した場合は、「揚屋(あげやしき)」に収容されるが、一般庶民達は、入牢の前に

「鍵役(かぎやく)」と称する役人の身体検査を受け、金銭・刃物・書物・火道具等を所持していないか?検査され、更に、丸裸にされて、口・髪・足の裏まで調べられた後に牢獄に入れられた。
入牢すると、先に入っていた犯罪者から「命の蔓(つる)」を持ってきたか?を尋ねられ、新入りの犯罪者から金銭を巻き上げれらたのである。もし、無一文で入牢をすると、縄で縛り上げられ、板や棒で叩かれ、失神しても放置されたままにされて、死にいたる者も多かった。

牢内には、自治組織があって、12人の「牢内役人」なる者が存在して、その最上位者が「牢名主」と称される中心人物がおり、牢内の規律を維持しながら、牢内の生活を統制していた。被差別者が入牢する場合は「牢名主」の命令のもと「牢内役人」によって殺害される場合が多かった。また、囚人達の食事は、基本的には午前8時頃に朝となり、午後5時頃に夕食となる。月2回の魚類等を食べることができた。食事は飯と味噌汁、漬物が主体であった。家族や知人からの差し入れもあったが、殆どは「牢名主」や「牢内役人」に取り上げられてしまい、本人の口に入る事はなかった。また、牢の番人を買収して酒を手に入れて飲酒する事もあったり、牢内では博打が行われ、コロや丁半で博打を打ち、勝った者は奉行所の同じ監に賭銭を渡す事によって、博打が認められていたのである。

ちなみに囚人達の入浴は、月に数回程度あったが、劣悪な牢獄内の衛生環境であって、不潔そのものであった。

まとめ

鳶屋重三郎が活躍していた江戸の中期から後期にかけての時代に於いて、「長谷川平蔵」等著名な犯罪者の捕縛と出版業者逮捕が、従来よりも格段に正確な情報を江戸庶民達に提供している。この視点からすれば、鳶屋重三郎達の浅草吉原の出版業者逮捕は、江戸庶民の社会に対して、大いなる功績があった、と認めなければならないのかもしれない。

参考資料

参考資料
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参考文献

次回予告

令和七年9月8日
第4回NHK時代ドラマ「べらぼう—蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」の時代を探る
次回のテーマ「江戸庶民の娯楽」について

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