第百三四十一回 中山ふれあいサロン

第百四十一回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
令和元年11月11日

瀧  義 隆

令和元年(平成31年)NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺」に因んで
「歴史講座」のメインテーマ「日本古来のスポーツ」について
今回のテーマ「蹴鞠の歴史・・・・・サッカー」について

はじめに

今年は、スポーツ界での話題の一番は、何と言っても、ラグビー(漢字では蹴球と書く。)のワールドカップにおける日本チームの大活躍ではなかったろうか。

ラグビーの複雑なル―ルは全く判らなかったが、得点のシーンだけは素人でも理解出来て、爽快感を得られたのではなかろうか。しかし、残念ながら、ラグビー競技はオリンピックの種目とはなっていない。

ラグビーを漢字で書き表すと「蹴球」と書き、「サッカー」も全く同じく「蹴球」となっていて、その区別がない。

そこで、今回の「歴史講座」では、ボール(鞠)を蹴って遊ぶ「日本の古来のスポーツ」である「蹴鞠(けまり)」についてと、それと共通点のある西洋発祥の「サッカー」について、史的観点から述べてみたい。

1. 「蹴鞠の歴史」について

「蹴鞠の起源」について

「蹴鞠」の読み方は、史料をみると、「遊戯部 十五 蹴鞠蹴鞠ハ、古クハクエマリ、又ハマリコユト云ヒ、後ニハケマリト云ヒ、字音ヲ以テシウキクト云フ、」『古事類苑 30 遊戯部』吉川弘文館 昭和四十四年 1039P

以上を見ると、「蹴鞠」は「くえまり」・「まりこゆ」・「けまり」・「しゅうきく」と読んでいたのである。

この「蹴鞠」はどのようにして遊ぶものなのか?については、「遊戯部 十五 蹴鞠即チ鞠を蹴テ以テ戯トスルモノニシテ、人数ハ八人ヲ以テ限トシ、其之ヲ行フ場所ニハ砂ヲ敷キ、四方ニ柳、桜、松楓等ノ樹ヲ植ウ、之ヲ懸リト称ス」『古事類苑 30 遊戯部』吉川弘文館 昭和四十四年 1039P

以上の史料によれば、「蹴鞠」は8人を限度として遊ぶ球技で、場所も砂を敷いたり、周囲には柳、桜、松、楓等の植樹をしていたことがみてとれる。・・・・・・資料1参照

次に、「蹴鞠」が何時頃から始められたのか?その起原を探ると、「遊戯部 十五 蹴鞠此技ハ、我国ニテハ、皇極天皇ノ朝、皇太子中大兄天智天皇中臣鎌子藤原鎌足等ト行ヒ給ヒシ事アリ、蹴鞠始テ此ニ見ユ、或ハ云フ、用明天皇ノ朝ニ厩戸皇子蹴鞠ヲ為セリ、此技延喜以降、専ラ宮禁貴戚ノ間ニ行ハレ、名人亦随テ輩出ス、藤原成通アリ、技芸絶妙、著ス所口傳一巻アリ、此ニ至テ蹴鞠益々盛ンニ、法式亦大ニ備ハル、終ニ後世詠歌ト併セテ之ヲ両道ト称スルニ至レリ、」『古事類苑 30 遊戯部』吉川弘文館 昭和四十四年 1039P

「皇極(こうぎょく)天皇」・・・・・・西暦642年頃に即位した女性の天皇で、一度退位したが、西暦655年頃に再度即位し、斎明(さいめい)天皇とも称する人である。
「中大兄(なかのおおえの)皇子」・・・・・斎明天皇の皇太子であり、西暦668年頃に即位して、天智天皇となった。
「中臣鎌子(なかとみのかまこ)」・・・・・ 飛鳥時代の豪族で、欽明天皇の時代の連(むらじ)である。仏教の伝来の時には、これに強く反対していた。「連」とは、大和政権の時に行われていた「姓」の一つである。
「用明(ようめい)天皇」・・・・・欽明天皇の子供で、西暦585年頃に即位した人である。
「厩戸皇子(うまやどのみこ)」・・・・・用明天皇の子供で、別名を豊聡耳皇子(とよとみみのおおじ)・上宮王(かみつみやおう)とも称し、「聖徳太子」として有名な人であり、推古天皇の時に摂政として活躍した。
「延喜(えんぎ)」・・・・・元号の一つであり、醍醐天皇の頃で、西暦901年~923年までである。
「宮禁貴戚(きゅうきんきせき)」・・・・・「宮禁」とは皇居・宮廷・禁中の意味で、「貴戚」は、高貴な身分の人の親戚のことを意味する。
「藤原成通(ふじわらのなりみち)」・・・・・平安時代の公卿で、六人の天皇に仕え、官位は大納言となった。歌人であると共に蹴鞠の達人で、「蹴聖(しゅうせい)」とも称された人物であった。
「詠歌(えいか)」・・・・・通常、「ごえいか」と言っていて、五・七・五・七・七の和歌をよむこと。日本仏教において、平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の一つである。

以上の史料によると、日本における「蹴鞠」の起源は、皇極天皇の時代と明記されていることからすると、西暦642年頃には「蹴鞠」があったことになっている。この「蹴鞠」は、本来、日本独自の遊戯ではなく、「遣隋使」達が中国から伝承してきたものと考えられている。日本体育協会監修『スポーツ大事典』大修館書店 昭和六十二年 276~277P

中国から伝わった「蹴鞠」は御所を中心として、皇族や高級貴族である公卿の藤原家等が、盛んに「蹴鞠」を優雅に楽しんおり、「蹴鞠」を嗜むことは、公卿達にとっては歌道を学ぶのと同等の一般常識的な必須条件であった様子がみてとれる。

「蹴鞠の流派」について

「蹴鞠の流派」について、史料をみると、「賀茂成平、其弟子成通卿、弟子頼輔、その弟子宗長、雅長、此人也、宗長は兄也、飛鳥井の雅經は弟也、自是難波流、飛鳥井流と道を立られけり、頼輔までは賀茂流なり、御子左の流、是も後鳥羽院の御説をあづかり給ふゆへに、賀茂流と同意也、」『古事類苑 30 遊戯部』吉川弘文館 昭和四十四年 1104P

「賀茂成平(かものなりひら)」・・・・・平安時代後期の神職で、蹴鞠の名手だった、とされていた人物である。
「成通(なりみち)」・・・・・藤原成通のことで、平安時代後期の公卿であって、この人も蹴鞠の名手とさている。長く蹴鞠の手本とされている人物である。
「頼輔(よりすけ)」・・・・・難波頼輔とも言い、藤原頼輔とも言う。平安時代の後期から末期にかけての人物で、公卿であり歌人であって蹴鞠の達人でもあった。難波・飛鳥井、二大流派の祖とされている。
「宗長(むねなが)」・・・・・難波宗長のことで、父の難波頼經は、源義経に党して伊豆に流されたが、その子、宗長は蹴鞠の達人として難波流蹴鞠の祖となった。
「雅長(まさなが)」・・・・・藤原雅長のことで、平安時代後期から鎌倉初期の人である。
「雅經(まさつね)」・・・・・飛鳥井雅經のことで、平安時代後期から鎌倉前期の人である。飛鳥井家の祖とされている。
「御子左(みこひだり)」・・・・・藤原北家嫡流藤原道長の六男、藤原長家を祖とする、歌道の家である。
「後鳥羽院(ごとばいん)」・・・・・後鳥羽天皇のことで、日本の第82代目の天皇である。高倉天皇の第四子であり、文武両道の秀才とされ、『新古今和歌集』の編纂でも有名な人物である。

以上の史料に見られるように、蹴鞠の流派には、「賀茂(かも)流」と「飛鳥井(あすかい)流」・「御子左の流」等と称する流派があったことが判明する。

2.「サッカー」ついて

「サッカーの起源」について

ヨーロッパおけるサッカーの起源を探ると、次の三つの説があり、

(a)「中国説」
紀元前300年頃の中国で、コルクや毛髪で満たした皮製のボールを蹴る競技があり、これを「蹴鞠」(Tsu-chu)と呼んでいた、とする史料が残されている。この中国の「蹴鞠」がヨーロッパに伝わり、「サッカー」となった、とする説である。

(b)「イタリア説」
8世紀頃に、イタリアの宮廷で「カルチョ」と称するボールを蹴り合い、お金を賭ける遊びがあった。これが現在のサッカーで使われている、「トトカルチョ」の語源でもあるとする説である。

(c)「イングランド説」
中世のイングランドでは、戦争に勝利した際、敵国の敵将の首を蹴って遊ぶことが勝利の証とされていた。これが首ではなく、ボールで遊ぶことに変化したのだ、とする説である。

※イングランドとは、イギリス諸島にある、スコットランドとウェールズと国境を接する国で、主都はロンドンである。イギリスは、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの四つの国で構成されたもので、正式名称は、United Kingdom of Great Britaain and Northern Irelandである。

ヨーロッパでは、サッカー(Soccef)とも言うが、正式にはフットボール(Footboll)とも言うものである。イギリスのロンドンで1863年に行われたフットボール・アソシエーションを起源としている。日本体育協会監修『スポーツ大百科』 大百科刊行会 昭和五十七年 169P

以上の内、サッカーの起源を「中国」であるとする説に従
うと、日本の「蹴鞠」の起源も「中国」であることからして、
サッカーも「蹴鞠」も同一起源であることが判明する。

「オリンピックのサッカー競技」について

1900年の第2回オリンピック・パリ大会に非公式競技として行われ、1908年の第4回オリンピック・ロンドン大会から公式競技となった。1932年の第10回オリンピック・ロサンゼルス大会では競技種目から除外されたものの、以後は毎大会で実施されている。

女子のサッカー競技がオリンピックの正式種目に採用されたのは、1996年の第26回オリンピック・アトランタ大会で、以後は男子と同様に毎大会で実施されている。

次に、日本にサッカー競技が何時頃から導入されたものか?を調べると、明治六年(1873)に、日本海軍兵学寮に招聘された、アーチフォールド・ルシアス・ダグラス少佐とその部下達によって、東京・築地で初めてプレーされたものだ、とされている。その後、体操伝習所に招かれたG.A,リーランドと言う人によってサッカー競技が教授され、それが次第に全国へと広がっていった。昭和四年(1929)には、国際サッカー連盟(FiFA)にも加盟し、翌年の昭和五年(1930)に行われた極東大会では優勝するまでに発展していった。昭和十一年(1936)のオリンピック・ベルリン大会には、日本もサッカー選手を送り込んでいる。

第二次世界大戦中は、日本のサッカー競技も一時衰退してしまったが、昭和二十五年(1950)に国際サッカー連盟(FiFA)に復帰し、その後、日本のサッカー界もめざましい発展を続けており、現在では女子のサッカー界もワールドカップで優勝するまでに、大きく発展してきている。

まとめ

令和元年と言う、記念すべき年のNHK大河ドラマであったが、「オリンピック」に因むもので、且つ、「歴史講座」に相応しいテーマを設定するのは、実に困難なものだった。更に、スポーツという、どうしても限定的な範囲の中で歴史を語るのには、史料・資料にも限りがあり、充分な史料分析が出来ず、説明不足になってしまったのでは?とも危惧される。

いずれにしても、今年のNHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺」は、視聴率も評判も過去最低のもので、ストーリーもバラバラ、役者も演技オーバーな「クセの多い人物」ばかりとなり、結果、「大失敗作」だった、としか言いようのない状態ではなかっただろうか。その反動として、来年のNHK大河ドラマが爆発的な人気ドラマとなることを期待したいものである。

参考文

次回予告

令和二年1月13日(月)午前9時30分~
令和二年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に因んだ講義を年間を通じて行っていきます。

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