秀吉の流浪期

第百八十一回 サロン中山「歴史講座」

令和八年2月9日
瀧 義隆

令和八年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の予備知識
 メインテーマ「天下を取った」について
 今回のテーマ「秀吉の流浪期」について

はじめに

 1月4日から放映開始となった、令和八年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」は、秀吉・秀長の二人の年齢設定が、秀吉が二十歳頃で?、秀長は十八歳ぐらいの年頃と見受けられる。
 今回の「歴史講座」では、『太閤記』・『太閤素生記』・『豊鑑』を見ることで知り得たのは、秀吉の「流浪の時期」が秀吉の人間形成上、最も重要な時期ではなかったか?、ということである。そこで、秀吉が家を出て近隣をさまよい歩いていたことについて考察を加えつつ、上記の史料には弟の秀長の誕生についても記載されているので、その点についても迫ってみたい。

1.「秀吉の流浪生活の始まり」

秀吉の母「なか」は、秀吉が七歳(太閤記では八歳)の時に、秀吉の父である木下弥衛門(正確には、木下の姓かどうかも不明)が病死すると、その翌年に竹(筑)阿弥と再婚したとする説に従うと、秀吉はこの養父と折り合いが悪く、常に虐待を受けていたものと考えられる。

『太閤記』によれば、秀吉は八歳の時に、養父との折り合いが悪い為に寺に預けられたとされており、その様子を史料で見ると、

「八歳の比同國光明寺の門弟となしけるに、甚以すき給ひつヽ、沙門の作法には疎く、世間の取沙汰等にハ、十を悟れる才智世に勝れ、取分勇道の物語をハ甚以すき給ひつヽ、稚心にも、出家ハ乞■の徒を離れさる物をと思召、萬雅意に振廻給ひ、僧共いとはれはやの心なりしかハ、如案いやいや此幼兒の気分ハ、中々沙門とは成すして、還佛法の碍をなすへしと衆議一決し、父の方へそ送ける、(後略)」

新訂増補『史籍集覧 23 武家部 戦記編十一』小瀬甫庵著『太閤記 巻一』臨川書店 昭和四十二年 18P

「光明寺(こうみょうじ)」・・・天台真盛宗の「戎珠山光明寺」のことか?、浄土宗の「光明寺」なのか?
「才智(さいち)」・・・・才知と智恵のことで、心の働きを意味する。
「取分勇道(とりわけゆうどう?)」・・・・・著者名と考えられているが、詳細は不明である。
「稚心(ちしん)」・・・・・おさない心、子供っぽい心のこと。
「萬雅意(よろずがい)」・・すべての事を洗練された心で、優雅に振舞うこと。
「還佛法(げんぶっぽう)」・・・・・失われた仏法を再興すること。仏の教えの原点に立ち返ること。
★文中に、「尾張の国の光明寺に預けられた。」としているが、この時代の尾張の国には、多数の「光明寺」があった為に、どの寺だったか?特定は出来ない。

以上の史料によれば、秀吉は寺に預けられたものの、僧侶達との折り合いも悪く、寺から家に戻されている。しかし、継父の「竹(筑)阿弥」とは仲が悪いままで、秀吉が15?歳か16歳の時に家を出て「針売り」等をして尾張や遠州等を売り歩いていたものと考えられる。
これを『太閤素生記』で確認すると、

「十六歳天文二十年辛亥春中々村ヲ出ラレ父死去ノ節猿永楽一貫遺物トシテ置ク此銭ヲ少シ分ケ持テ清洲エ行下々ノ木綿スノコヲヌフ大キ成ル調へ懐ニ入先成る鳴海迄来テ此針ヲ興テ食ニ代ル又針ヲ以テ草鞋ニ代ル如此針ヲ路次ノ便トナシテ遠州濱松へ来ラル濱松ノ町ハヅレ牽馬ノ川ト云邊ニ白キ木綿ノ垢ツキタルヲ著テ立廻ラル(後略)」

史籍集覧 第13冊 武家部 戦記編 土屋知貞著『太閤素生記』臨川書店 昭和四十二年 482P

「天文二十年」・・西暦1551年
「永楽一貫(えいらくいっかん)」・・永楽通宝1,000枚のことで、現在の金額に換算するのは困難であるが、おおよそ、1万~1万2千円程度か?
「清洲(きよす)」・・・愛知県清洲市で、愛知県の西北部にある都市で織田信長の本拠地である。
「鳴海(なるみ)」・・現在の名古屋市緑区あたりで、宿場町であった。

このように、『太閤素生記』では、秀吉が家を出て流浪生活に入るのは、「天文二十年の十六歳の時」としており、永楽通宝1,000枚を「元手(もとで)」にして、遠州濱松等で「木綿針」を売り歩いていたようである。

次に、小瀬甫庵著の『太閤記』を見ると、

「太閤記第巻一 秀吉公素生 (中略) 十歳の比より人の奴婢たらむ事を要とし、方々流牢の身と成、遠三尾濃四箇國の間を經廻すと云共、始終春秋を一所にくらす事なかりしハ、(後略)」

新訂増補『史籍集覧 23 武家部 戦記編十一』小瀬甫庵著『太閤記 巻一』臨川書店 昭和四十二年 18P

「奴婢(ぬひ)」・・人間としての権利も認められないような身分の低い人のこと。
「流牢(りゅうろう)」・・本来は、処刑としての「流罪(るざい)」を意味するが、本文では諸国を巡り歩く身分不明の者のこと。
「遠三尾濃」・・遠州・三河・尾張・美濃の四カ国のこと。・・・・・・・・・・資料①参照
「經廻(けいかい)」・・・めぐり歩くこと。滞在すること。生きて日々を送ること。
「始終春秋(しじゅうしんじゅう)」・・「一年中」・「年がら年中」の意味である。

このように、『太閤記』では「十歳の比より」とあって、『太閤素生記』の「十六歳」とは大きく相違している。

更に、『豊鑑』では、

「豊鑑 巻一 長濱眞砂 あやしの民の子なれば、父母のなもたれかはしらむ、一族などもしかりなり。二八計の年、只ひとり遠江の國までさそらへ行て、(後略)」

竹中重門著『豊鑑』群書類従 第二十輯 合戦部 塙保己一編 続群書類従完成会 昭和三十四年 517P

『豊鑑』に示している秀吉の出自については、貧しい家の生れであることは、他の史料と同じながら、父母の名前も兄弟一族も明確ではなく、秀吉が家を出たのは「二八計の年」とあって、前記の史料とは全く別物となっている。

以上のように、史料を比較しても、秀吉の少年期における「流浪生活の始まりが何歳頃からか?」を特定することは不可能である。

2.「他の史料に見る秀吉の流浪」について

1の項で見る「秀吉の流浪期」とは別に、ルイス・フロイスの書いた記録や、徳川家康側の「秀吉の流浪期」についても目を向けてみたい。

ルイス・フロイスの著した『日本史』には、

「彼は美濃の国の出で、貧しい百姓の伜として生れた。若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。彼は今なお、その当時のことを秘密におくことができないで、極貧の際には古い蓆以外に身を掩うものとてなかったと述懐しているほどある。だが勇敢で策略に長けていた。(後略)」

完訳 フロイス日本史4 豊臣秀吉扁Ⅰ「秀吉の天下統一と高山右近の追放」著者 ルイス・フロイス 訳者 松田毅一・川崎桃太 中央公論新社 2000年 203~204P

この史料では、秀吉は「山で薪を刈り」とあるように、山で薪を拾い集めてそれを町中で売り歩き、その銭を基にして生きて、更に「古い蓆(むしろ)以外に身を掩うものとてなかった」といった、着る物とてもない、本当に極貧の中で青春を過ごしていたことが見てとれる。

また、別の史料として、秀吉の同時代の徳川家康側では、「秀吉の流浪期」をどのように見ていたか?を見ると、

「秀吉今官位人臣を極め。兵威四海を席捲するといへども。もと松下なにがしが草履とりて跟隨せし奴僕とは誰かしらざらむ。やうやう織田殿に見立てられ。武士の交り得たる身なれば。天下の諸侯陽に畏服するが如としいへども心より帰順する者なし。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一扁』吉川弘文館 平成十年 55P

「兵威(へいい)」・・・軍隊の力、軍事力のこと。
「四海(しかい)」・・・国内全体を意味する。
「席捲(せっけん)」・・圧倒的に勢い良く支配し、人気を集めていること。
「跟隨(こんずい)」・・人や主人にお供すること。
「奴僕(ぬぼく・どぼく)」・・・・召使いの男性や下男のこと。
「畏服(いふく)」・・・心から敬服し服従すること。
「帰順(きじゅん)」・・抵抗や反抗をやめて、相手に従い服従すること。

以上の文面は、秀吉が天下統一を果たしてはいるが、もともとは「草履とりて跟隨せし奴僕」と表現していて、身分の低い「召使い」であった、と軽蔑するような表現をして秀吉の流浪期を文面に残している。三河の名門の家柄で、エリート教育を受けて育った徳川家康側からすれば、
「秀吉はやうやう織田殿に見立てられ。武士の交り得たる身なれば。」
と表現し、秀吉の流浪時代の並々ならぬ苦難と努力の後に、ようやく「草履とり」として信長に認められるような身分となったことを、「揶揄(やゆ)」するような言い方をしている。また、天下人となった秀吉に対し、諸国の大名達も「心より帰順する者なし。」と言い放ち、「敬服されるような人物でない。」と言い捨てているのである。

3.「秀長の誕生」について

豊臣秀長の誕生について、最新の著書である、和田裕弘著の『豊臣秀長』を読んでみても、その冒頭に、

「秀吉・秀長の一族の系図はたくさん伝わっているが、秀長以前の部分については信憑性が極端に低く、謎の出自である。(後略)」

和田裕弘著の『豊臣秀長―「天下人の賢弟」の実像―』中央公論新社 2025年 3P

以上のように述べていて、秀長の誕生についても、天文九年(1540)説や天文十七年(1548)説も存在することを紹介しており、明確な史料もない為に、断定出来るものが全くないことをも明示している。

秀長が誕生してから織田家の家臣となるまでの21か?22年間、秀長は尾張国愛知郡中村で、母の仲(なか)や父の竹(筑)阿弥、姉の智(とも)や妹の旭(朝日)と共に、貧しい農家の生活を過ごしていたものと想像はされるが、あくまでも想像の範囲でしかない。

また、秀長の生れを天文九年(1540)とする説に従えば、兄の秀吉の勧めによって信長に仕えるようになったのは、永禄四年(1561)のこととすると、秀長が21か?22歳の時に織田家の家臣の一人となったものと考えられるが、確証を得る史料は全く存在しない。
『国史大辞典』第十一巻 吉川弘文館 平成二年 535P

史料上に「秀長・小一郎」の名前を確認出来るのは、『信長公記』の中の天正二年(1574)が初見となっている。それを見ると、

「巻 七 天正二年 甲戌
(一) 正月朔日
(中略)
佐久間右衛門、柴田修理亮、稲葉伊豫守、同京助、蜂屋兵庫頭、松之木渡り一揆相支へ候を、■と川を乗渡し、馬上より数多切捨て候。
信長公は中筋はやを口、御先陣、木下小一郎、浅井新八、丹羽五郎左衛門、氏家左京助、伊賀伊賀守、(後略)」

奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』角川書店 平成十四年 171~172P

「佐久間右衛門」・・織田家の筆頭家老の家柄であり、尾張佐久間氏の当主である。
「柴田修理亮」・・・柴田勝家のことで、織田家の宿老である。元々は、尾張の土豪の家柄と考えられている。
「稲葉伊豫守」・・・稲葉一鉄のことで、織田家の家臣ではあるが、元々は美濃国の曽根の城主である。
「同京助」・・・・・稲葉京亮のことで、稲葉一鉄の嫡男である。
「蜂屋兵庫頭」・・・蜂屋頼隆のことで、元々は、美濃国加茂郡蜂屋村出身の土豪の家柄である。

以上のように、織田信長が天正二年(1574)七月に、長島一向一揆に攻め込んだ時に、「木下小一郎」の名前が史料上に見えるだけで、合戦でどのように戦い、どのような功績を立てたのかも記載されていない。

このように、天文九年(1540)生れとする説によれば、史料上の天正二年(1574)までの34年間については、「木下小一郎」がどのように生きていたのか?何も判ってはいないのである。

後年の秀長についての史料によれば、「生真面目・実直」な性格であった、と伝わっているところから想像するに、史料的に不明な期間である信長に仕えるまでの22年間、「生真面目・実直」に百姓に従事し、信長に仕えて後も、兄の秀吉と共に「生真面目・実直」に奉公をしていたものと考えられる。しかし、これも確証のない、想像以外のなにものでもない。

次に、『太閤素生記』で秀長について確認すると、

「太閤素生記 太閤素生之事 (中略)
一、織田備後守家ニ
(中略)
其後男子一人女子一人秀吉ト種替リノ子ヲ持ツ兄男子秀利幼名小竹後羽柴美濃守後大和大納言是也女子ハ 大権現宮ヘ被嫁参州岡崎へ御輿入ル三年過御死去右之段世間ニ不知(後略)」

史籍集覧 第13冊 武家部 戦記編 土屋知貞著『太閤素生記』臨川書店 昭和四十二年 480P

「秀利(ひでとし)」・・・注釈を見ると、「秀長」のことであり、誤字か?間違い?によるものである、と考えられる。
「織田備後守家」・・「おだびんごのかみけ」と読み、織田信長の父である織田信秀や、祖父の織田信定が自称として名乗った官職名である。織田家は、ルーツを辿ると、越前(現在の福井県東部)織田荘の神官である。
「大権現宮」・・・・徳川家康のことで、家康には正室がいなかったことから、秀吉は妹の「朝日・旭姫」を、嫁ぎ先から無理やり離婚させて、家康の元に嫁がせ、秀吉の義理の弟に仕立てたのである。

この史料では、秀長は秀吉と父親が異なる事が明記されており、秀長の幼名を「小竹(こちく)」と称していたこと、そして、その下の女の子は、文面からして、「岡崎の家康に嫁いだ。」と記されている事から、秀吉の異父の子である「旭(あさひ)姫」のことと、嫁いでから三年後には死去してしまったことも推察出来る史料である。

また、現在の歴史学者の中には、「秀吉と秀長は同じ父親ではなかったか?」とする人もいるが、また、大河ドラマ「豊臣兄弟」での設定も、「秀吉と秀長は同じ父親」とする前提となっているものの、上記のように、『太閤素生記』に「種替リノ子」と明記されていることを重視すれば、「秀吉と秀長は違う父親」であった、と見るのが正しいのではなかろうか。ただ、『太閤記』にも『豊鑑』にも、秀長や他の姉妹の誕生については全く触れられてはいない点にも注視しなければならない。

4.「戦国時代の世相」について

織田信長や豊臣秀吉が生れた天正期は、日本が西洋文明によって大きく変革を求められる時代でもあった、と言えよう。そこで、次に、その要因を列記してみると、

南蛮(なんばん)貿易・・「南蛮」とは、当初はタイやフィリピンのことであったが、後にポルトガルやイスパニア(現在のスペインのこと。)等を指すもので、美術品や工芸品等の物資が輸入されるようになった。

キリスト教の伝来・・天文十八年(1549)八月十五日に、スペイン人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教の布教活動を行う。ザビエルは、宗教活動のみならず、西洋から望遠鏡・メガネ・時計・火薬・香料等をもたらし、日本と西洋との交流にも尽力した。

「茶の湯」の発展・・千利休によって、「佗(わ)び茶」が好まれるようになり、独特の美意識が確立されて武将達にも好まれるようになり、「茶の湯」が「政治的な交流の場」として重要な役割を果たすようになった。特に、豊臣秀吉は、「黄金(おうごん)の茶室」を造らせて重要人物の接待の道具の一つとして「茶の湯」を利用した。

安土桃山文化・・・・織田信長や豊臣秀吉によって、安土城や伏見城のような豪壮な城郭や寺院等が建設されて、豪華絢爛たる文化が好まれるようになった。

鉄砲の伝来・・・・・天文十二年(1543)に、ポルトガル人が種子島に伝来した鉄砲は、その威力の凄さによって、またたく間に日本中の武士団に伝わり、従来の合戦方法を画期的に大変革させた武器となった。織田信長はこの近代的武器を積極的に活用し、「天下取り」を狙うが、挫折してしまった。

まとめ

 男の子の8.9歳頃~17.18歳頃までの思春期は、反抗期の真っただ中で、親に対してや、学校の先生に対してだったり、世間への反発だったり、多感であって、まかり間違えば悪への道へと走ってしまうような、大変危険な時期でもある。

 秀吉のように家庭環境が複雑で、且つ、貧困であれば、また、秀吉の性格が強いものであれば、家を飛び出して自分の居場所を捜し求める子供であったであろうことは、充分に推測出来るのではなかろうか。秀吉なりに苦難の連続の中に、多くの物を身近に学びとり、その結果、「世渡り上手」・「人たらし」等の処世術を身につけ、結果、 大成する人物となったのではなかろうか?、と考えられよう。

参考資料

秀吉の流浪した地域
秀吉の流浪した地域

参考文献

次回予告

 令和八年3月9日(月)午前9時30分~
令和八年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の予備知識
 歴史講座のメインテーマ「天下を取った」について
 次回のテーマ「信長に仕える」について

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