
第百七十四回 サロン中山「歴史講座」
令和七年5月12日 瀧 義隆
令和七年NHK大河ドラマ
「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ: 「江戸時代中期頃の江戸社会」 今回のテーマ: 「田沼意次と松平定信」
はじめに
つい先日、石破首相は新人議員を招待してパーティーを開催し、手土産代として10万円もの商品券を配ろうとした。通常の感覚としては、この行為は買収ではないのだろうか?何の報いも無しに金品を他人に与えるような人がこの世に居るとは考えにくい。どうしても、今回の行為は一般庶民の感覚からすれば、何らかの対価を求める「賄賂(ワイロ)」としか見ることができないのである。
為政者達が「賄賂」に走るのは、上記のように現在でも横行している状態であり、ましてや「賄賂」に対して罪悪感の薄い江戸時代、特に中期頃の為政者である「田沼意次(おきつぐ)」の時代には、「賄賂」の最盛期であったとも言われている。
そこで、今回の「歴史講座」では、大河ドラマの中では蔦屋重三郎と親交の厚い、この「賄賂」の悪名を持つ「田沼意次(おきつぐ)」について取り上げてみたい。
1. 「田沼父子について」
江戸幕府が大名や旗本の家譜を編修した『寛政重修諸家譜』の「田沼氏」の項の冒頭を見ると、元来「田沼氏」は新田支流とする藤原氏であり、下野国安蘇郡田沼邑を居住とする「佐野成俊」を源流とするもので、その六代後の「佐野重綱」が元仁元年(1224)に「田沼氏」を興したことに始まる。戦国時代には、上杉氏や武田氏に仕えていたが、田沼氏十二代となる「田沼吉次」が大坂の陣の時に紀州藩に仕えることとなり、その後、「吉重」「義房」と続き、更に「意行(おきゆき・もとゆき)」へと継承され、この「意行」が田沼意次の父親である。したがって、田沼意次は田沼氏として十六代目の当主となる。
田沼氏の紀州藩での身分は鉄砲足軽であったが、同じ足軽でも身分としては高い「士分」であった可能性が高い。
① 田沼意次 (おきつぐ)
- 享保四年(1719) 七月二十七日生
- 天明八年(1788) 七月二十四日死去
- 父: 田沼意行(おきゆき・もとゆき)
- 母: 田代高近(たかちか)の養女(名前不明)
田沼意次について、『寛政重修諸家譜』では、 「享保四年生る。十七年七月二十一日はじめて有徳院殿に拝謁す。」 「延亨二年九月朔日より本城に勤仕し、四年九月十五御小姓組番頭の格となり、諸事を執啓すること見ならふ。」 「宝暦元年七月十八日御側にすすみ、諸事を執啓す。」 「八年九月三日遠江國榛原郡のうちにおいて五千石を加増あり。旧領をあらためられ、遠江、相模、下総三國の内においてすべて一萬石の領地を賜り、評定所の式日にはその席につらなるべき旨、仰をかうぶる。」
『新訂 寛政重修諸家譜 第十八巻』㈱続群書類従完成会 (昭和五十六年 364P)
「十七年七月二十一日」 享保十七年(1732)の七月二十一日に初めて将軍の徳川吉宗に拝謁した。この時、吉宗は田沼意次の才能を見出している。
「一萬石の領地をたまひ」 幕臣の中で、一万石以上の領地を賜れば、大名となり、幕府の重職に就任することが可能となる。
『寛政重修諸家譜』を詳細に調べてみると、田沼意次は目まぐるしく立身出世する様子が明確に記述されている。本来、田沼氏は600石の石高であり、旗本としては中堅クラスの家柄であった。田沼意次は十四歳にして将軍の吉宗に拝謁し、吉宗没後の延亨五年(1748)には、後継者の徳川家重にも重用されて、三十歳にして「小姓組番頭」に昇進し、続いて三十三歳には「御側御用取次」に出世している。
さらに、宝暦八年(1758)に一万石の大名の身分となり、明和四年(1767)に五千石が加増され、「御用人取次」となり、その二年後の明和六年(1769)に「老中格」に昇進している。まさに「うなぎ登り」の栄達を重ね、明和九年(1772)に五千石の加増を受けるとともに、遂に「老中」に就任し、稀有な立身出世を成し遂げている。
田沼意次の政策
- 株仲間の公認 株仲間の結成を公認し、その代わりに幕府に対して「冥加金」や「運上金」を上納させ、独占的営業権を導入した。
- 幕府直営の「座」の新設 「鉄座」「銅座」「朱座」「明礬(みょうばん)会所」「石炭会所」等を設置し、幕府による専売制を開始した。
- 南鐐二朱銀の鋳造 良質の銀貨で、金二朱の価値があり、東日本と西日本の貨幣価値の統一を目的とした。
- 新田開発 江戸や大坂の大商人の資本を導入し、手賀沼や印旛沼の新田開発を計画した。
- 蝦夷地調査 最上徳内等を蝦夷地に派遣し、調査を実施させた。この目的はロシアとの交易開始を目指したものだったが、実現には至らなかった。
- 長崎貿易の拡大 輸出を増大して、金や銀の流出を防ごうとした。輸出品は「煎海鼠(いりこ)」「干鮑(ほしあわび)」「鱶鰭(ふかひれ)」等で、俵に詰め込んで輸出された。
田沼意次の失脚
しかし、このような田沼意次も、将軍の徳川家治が死去し、十代将軍となった徳川家斉の代になると、老中の座まで登り詰め、約18年間幕政を主導したものの、突然罷免されることとなった。これを史料で見ると、
「七年十月二日意次在職のあひだ不正のはからひありしことを台聽に達し、ことに不束のいたりにおぼしめさる。 (中略) 御沙汰の趣もありしにより、所領駿遠三のうち二萬七千石をおさめられ、致仕して別荘に蟄居し、慎あるべきの旨厳命をかうぶる。八年七月二十四日卒す。」 『新訂 寛政重修諸家譜 第十八巻』㈱続群書類従完成会 (昭和五十六年 365~366P)
「意次在職のあひだ不正のはからひありしこと」 意次が幕閣在職中、職権を利用して「賄賂(ワイロ)」等の不正行為が長く続いたことが問題視され、徳川家斉は天明六年(1786)に田沼意次を老中の職から追放した。さらに、領地や屋敷も没収する厳罰を処した。その二年後の天明八年(1788)七月二十四日、意次は失意のうちにこの世を去った。
田沼意次が失脚した理由
- 嫡男の意知を重職の「若年寄」に登用したことが、他の重職達から反感を買った。
- 意知が佐野政言(まさこと)に殺害されたが、民衆は加害者の佐野政言を讃えており、意次・意知父子の評判が悪かった。
- 印旛沼開拓が、大洪水のために失敗した。
- 将軍の家治が死去したのは、意次が毒殺したのだというデマが広がった。
- 江戸町中で「天明の大飢饉」に対する「打ちこわし騒動」が起こり、その責任がすべて意次にあるとする世相が広まった。
- 格差社会が増大し、庶民のみならず上層階級からも意次の政策に対して反発が増大した。
- 時期将軍候補と目されていた徳川家基が急死したのは、「意次が毒殺したのだ」とする噂が広まったため。
田沼意次の失脚については、以上のような理由ではなかったか?とする説が有力である。
参考文献 藤田覚著『田沼時代―日本近世の歴史―』吉川弘文館 (2012年)
② 田沼意知(おきとも)
- 寛延二年(1749) ?月誕生
- 天明四年(1784) 四月二日死去
- 父: 田沼意次
- 母: 黒澤定紀(さだのり)の娘(名前は不明)
田沼意知は田沼意次の嫡男として生まれたとする説と、これを疑問視する説があり、明確ではない。
明和元年(1764) 一月、16歳にして将軍徳川家治に近侍することになる。これを史料で見ると、 「寛延二年生る。明和元年正月二十八日めされて浚明院殿にまみえてたてまつり、菊間廣綠に候すべきむね仰をかうぶる。時に十六歳」 『新訂 寛政重修諸家譜 第十八巻』㈱続群書類従完成会 (昭和五十六年 366P)
「浚明院殿(しゅんみょういんでん)」 ……徳川家治の戒名である。
意知が33歳の時に、将軍からの下賜品を伝達する役目の「奏者番(そうじゃばん)」 に登用され、その二年後の天明三年(1783)には、老中に次ぐ幕閣でも要職となる「若年寄」 に就任した。このような特別待遇は、父である田沼意次の特別な取り計らいがあったことは明確であり、それ故に他の幕臣達から反感を買ったと容易に想像される。また、父の権威を笠に着て、意知が他の若い幕臣達に横柄な態度を取っていたものと考えられる。
その根拠として、次の史料を見ると、 「四年三月二十四日同僚とともに退出のとき中間において佐野善左衛門政言俄に白刃をふるひ、意知に傷く。意知腰刀をもって支へむとするといへども、あたわず。つゐに桔梗間の傍に遁る。其隙に松平對馬守忠郷等政言を捕ふといへども、意知が創深手なるにより、御納戸口より乗輿をゆるされて居邸にかへる。二十九日職を辞すといへども、ゆるされず。こころながく保養を加ふべきむね仰下さる。四月二日手創癒ずして卒す。」 『新訂 寛政重修諸家譜 第十八巻』㈱続群書類従完成会 (昭和五十六年 366P)
「佐野善左衛門」 ……徳川氏譜代の家臣であり、下野国都賀郡に500石を領する旗本の家柄である。
天明四年(1784) 三月二十四日、江戸城の「中ノ間」から桔梗の間に向かう廊下で、「大番士」を務める旗本の佐野善左衛門 に斬りつけられた。初太刀で肩口を、さらに手と腹部、更に下腹部も斬りつけられ、重傷を負い、四月二日に出血多量により死去した。
この事件に対して、江戸の庶民達は、殺された田沼意知に同情するどころか、加害者である佐野善左衛門を「世直し大明神」 と称してもてはやした。このことは、三月十六日放映の「べらぼう」 の解説で 「田沼意次は、江戸の民衆から慕われていて、多くの庶民達と親しく会話をしていた。」 と説明されていたが、田沼意次が庶民と親しくするのは、「賄賂」を持って意次に近づこうとする利害関係の深い商人達との関係であり、賄賂を贈ることのできない一般庶民達にとっては、裕福な大商人等を大事にする田沼意次に対して「苦々しい」思いを抱いていたことが、佐野善左衛門を「世直し大明神」ともてはやしたことで証明されている。
したがって、三月十六日のNHKの田沼意次に対する見解とは、大きく異なると言わざるを得ない。
この田沼意知の死後、田沼意次の権威は急激に失墜 し、二年後の天明六年(1786)、意次は死去 した。また、意知の子供達が次々と早死にしてしまい、結果として田沼家は後継者を失い、御家断絶 となった。
後日、田沼家の親族の一部が田沼家再興を図る ものの、御家が再興されても、かつての田沼家のような勢力にはならなかった。
参考文献: 大石 学 編著『図説 江戸幕府』㈱戎光出版 (2025年 96~99P)
2. 「松平定信」について
第十一代将軍となった徳川家斉は、賄賂政治で評判の良くない田沼意次を、将軍就任と同時に追放し、それに代わって御三卿家の内の田安家の出身である松平定信を老中として迎えた。田沼意次が中堅の旗本クラスであったのに対して、松平定信はエリート中のエリート出身で、頭脳明晰な人物であったと伝えられている。
この項では、よく田沼意次と対比される松平定信について述べてみたい。
- 宝暦八年(1758) 十二月二十七日誕生
- 文政十二年(1829) 五月十三日死去
- 父: 田安宗武(徳川吉宗の子)の第七男
- 母: 側室(山村氏の娘、名前は不明)
幼名は「賢丸(まさまる)」。幼少期に病弱であったが、才能が優れていることで評判であった。17歳の時に、陸奥白河藩第二代藩主の松平定邦の養子となる。この状況を史料で見ると、
「宝暦八年生る。幼稚の時しばしば大奥にめされ、あるひは数日滞留し恩惠をかぅぶる。安永三年三月十五日定邦が養子となり、其女を室とす。(後略)」 『新訂 寛政重修諸家譜 第一巻』㈱続群書類従完成会 (昭和五十五年 303P)
以上の史料によれば、「幼稚の時しばしば大奥にめされ、あるひは数日滞留し恩惠をかぅぶる。」とあるように、幼いころから将軍しか出入りできない江戸城の大奥に入ることを許されていたことがわかる。天才肌の子供であったと考えられる。
安永三年(1774) 三月十五日、陸奥白河藩第二代藩主である松平定邦の養子となった。定邦の指示により、松平定信も田沼意次に賄賂を贈り、白河松平の家格の上昇を働きかけたが、実現はせず、実現したのは田沼意次の失脚後である。
天明七年(1787) 六月、徳川御三卿(田安家・一橋家・清水家)の支持を受けて老中首座に就任し、幕府の政策方針を田沼意次の重商主義から「重農主義」に改めた。さらに、次のような政策を実行した。
松平定信の政策
- 幕府の財政整理(大奥の抑制)
- 米価等の物価値下げ
- 奢侈品等の製造販売禁止
- 御家人の借財棄損(旗本等の借金を棒引きにする手段)
- 酒造の制限(飲酒によって労働意欲を失い、また、トラブルの元となるため)
- 備蓄米及び江戸の町会所の設置
- 妓楼の新設や混浴の禁止(性風俗の乱れを防止するため)
- 出版物への干渉(幕府への不評・不満の市中への流布を未然に防ぐため)
- 諸藩留守居役の取締り(社交事例的な意味から、各藩の江戸留守居役たちが吉原などで豪遊していた)
- 旗本の文武奨励士風振興(無役の旗本たちの風紀の乱れが激化し、町民たちとのトラブルもあった)
- 医学館の官営化(本来、私塾であった躋寿館を公的な組織に組み入れ、医学の向上を図った)
- 昌平坂学問所の設立(異学の禁止) (寛政異学の禁と称されるもので、流行していた古文辞学や古学を風俗を乱す学問として禁止した。)
松平定信の著書
- 『宇下(うげ)人言』……松平定信の自叙伝
- 『白河家訓』……陸奥国白河藩の家訓を記したもの
- 『白川政語』……生い立ちや、学芸・交友関係・当時の政治・社会状況などを記したもの
- 『政事録』……「寛政の改革」で実行した政策内容を記録したもの
- 『国本論』……道理をもって世を治め、民を安心させることを説いた論文
- 『物価論』……質素倹約を基本とする政治方針を示し、物価調整などを図る考え方を論じたもの
- 『花月草紙』……政界引退後の悠々自適な生活の中、過去60年の体験を花や月になぞらえて書いた随筆本
以上の著書を含め、松平定信には138部の著書がある。また、寛政十一年(1799)に堀田正敦(まさあつ)を責任者とする『寛政重修諸家譜』・『徳川実紀』等の編纂事業継続にも力点を置いている。
賄賂(ワイロ)について
田沼意次・意知父子の代名詞は「賄賂政治」であり、江戸幕府の256年の歴史の中でも、代表的な汚点の一つとなっている。
この項では、この歴史上の「賄賂」について理解を深めるため、日本史上、史料として記されている「賄賂」について考察してみたい。
賄賂の歴史
古墳時代には次のような記述が見られる。
「磐井の反乱」 「二十一年夏六月三日、近江の毛野臣(けなのおみ)が兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅(みなみかな)・己呑(とくことん)を回復し、任那に合わせるようにした。この時筑紫国造磐井が、ひそかに反乱を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを怖れて、隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた。」 (『日本書記(上) 全現代語訳』宇治谷猛著、講談社、2002年 358~359P)
「磐井(いわい)の乱」 ……筑紫の国の豪族で、名前は筑紫君磐井(つくしのきみいわい)。現在の福岡県八女市近辺を支配していた。
「毛野臣」 ……古墳時代の豪族の一人で、近江毛野(おうみのけな)という人物。
「任那(みまな)」 ……朝鮮半島の南部に存在した小国群の名称。日本書紀では、伽那国全土を意味していた。4世紀~5世紀頃まで存在した国。
「新羅(しんら)」 ……4世紀頃に朝鮮半島を初めて統一した王朝。
「南加羅」 ……新羅国の南端に位置する地域。
この史料によれば、第26代の継体天皇 の21年(527) に、筑紫国造磐井が新羅 から賄賂を受け取って、大和朝廷の軍隊に対し進軍の妨害を謀った という事実が記されている。これが、日本史上の「賄賂」の最古の記録とされている。
各時代の賄賂の状況
- 奈良時代の賄賂 官職を求める者が「成功(じょうごう)」と称する「任料(にんりょう)」を納めることで官職を得る仕組みが存在。しかし、これが悪用され、賄賂の原因ともなった。
- 平安時代の賄賂 国司が藤原氏などの高級貴族に金塊や高級化粧品、特産物等を贈り、その見返りとして高官に登用されることが慣習化した。
- 鎌倉時代の賄賂 高い官職を得るためや、訴訟で有利な判決を引き出すために、金品(礼銭・一献料・酒肴料)を贈ることが一般的になった。これにより鎌倉幕府の腐敗が進んだ。
- 室町時代の賄賂 朝廷や守護大名、それに仕える役人に「礼物(れいもつ)」を贈り、官職を得るためだけでなく、後継者の認定や課役免除などの便宜を図ってもらう目的で使用された。
- 江戸時代の賄賂 賄賂は公然と認められ、冠婚葬祭や盆暮れの挨拶代わりに金品を贈る習慣もあった。高級武士たちは賄賂に罪悪感を抱かず、これが幕府政治の腐敗を招いた。
奈良本辰也・邦光史郎・高野 澄共著 『賄賂の歴史・陰の日本史』廣済堂文庫 1989年
このように「賄賂」についして、比較的鷹揚な江戸の庶民達も、田沼意次の「賄賂」に対しては「苦々しい」と思っていたとすれば、庶民には田沼意次の「賄賂」は前代未聞の悪事に見えるほど酷いものであったのではないか?と考えなければならない。
まとめ
作家の童門冬二氏は、著書『江戸のワイロ』の中で、田沼意次の「賄賂」に対する感覚について、 「賄賂を悪事とは思っていない。」と述べている。さらに、 「賄賂は正当なもの。そして、それに報いるために請託を受けるのも当たり前だ。」 と主張する人物であったと記している。
以上のように、「賄賂」に対して無感覚であった田沼意次も、天明六年に長年の悪業を理由として厳罰を受けたが、同様に重職を務めた大名達にも厳正な処罰を与える江戸時代の法体制とはどのようなものであったのか。
来月の「歴史講座」でその詳細を明らかにしたい。
参考資料
参考文献
- 秦 新二著 『田沼意次―百年早い開国計画 海外文書から浮上する新事実―』 文藝春秋企画出版部 (2022年)
- 藤田 覚著 『田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし―』 ミネルヴァ書房 (2007年)
- 村上 元三著 『田沼意次』 毎日新聞社 (1997年)
- 藤田 覚著 『松平定信―政治改革に挑んだ老中―』 中央公論社 (1993年)
- 板倉 宏著 『賄賂の話』 中公新書 (1986年)
- 奈良本辰也・邦光史郎・高野澄共著 『賄賂の歴史・陰の日本史』 廣済堂文庫 (1989年)
次回予告
令和七年 6月9日(月) 午前9時30分~ 令和七年 NHK大河ドラマ 「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る。
次回のテーマ: 「江戸の治安維持と刑罰」について
コメントを残す