比企一族の滅亡

第百四十四回 サロン中山「歴史講座」
令和四年5月9日

瀧 義隆

令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代
 メインテーマ「鎌倉時代初期の動乱」について
 今回のテーマ「比企一族の滅亡」について

はじめに

 今年のNHK大河ドラマは、脚本家の三谷幸喜氏が創作する「鎌倉殿の13人」である。この13人とは、鎌倉幕府を創設した、源頼朝に仕える「御家人」の13人のことで、この「御家人」13人の中に埼玉県比企郡に深く関わる「比企能員(ひきよしかず)」がいるのである。ただ、「比企氏」については、史料的に非常に少なく、史実を明らかにすることは全く困難な状態となっている。

この講座では、「比企氏」が何故に歴史上から抹殺されてしまったのか?、また、何故に明確に示す系譜等の史料が存在しないのか?、その原因は何んなのかについて述べてみたい。

1.「比企能員と比企氏の系譜」について

①「比企能員」について

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物の1人として、「比企能員」がいるが、残念ながらこの人物についての記録は殆ど存在しておらず、現在知られているのは次に示すようなものである。

  • 生誕・・・・・不明
  • 没年・・・・・建仁三年(1203)九月二日(殺害された日)
  • 父母・・・・・不明(母は比企尼の妹とする説がある。)
  • 妻・・・・・・渋河兼忠の娘(名前は不明)
  • 子供・・・・・余一兵衛尉・宗員・時員・五郎・能本・河原田次郎・若狭局(名前は不明)・讃岐局(名前は不明)・笠原親景室(名前は不明)・中山為重室(名前は不明)・糟屋有季室(名前は不明)

※資料①参照

叔母の「比企尼」が、源頼朝の乳母であったことから、流人となっていた頼朝を支え続け、その縁から「比企能員」は頼朝の子である頼家の乳母父に選ばれた。また、「能員」の妻も頼家の乳母となっている。

「比企能員」は、元暦元年(1184)5月の源義高の残党討伐に出陣し、同年8月の平氏追討に従軍、文治5年(1189)の奥州合戦には北陸道大将軍、建久元年(1190)の大河兼任の乱でも東山道大将軍等に任命されており、源頼朝に重く信頼されていて、建久九年(1199)に頼家の妾となっていた、「能員」の娘の「若狭局」が「一幡」を産むと、その乳母父となって権勢を我がものとするようになる。このことが、「比企氏」滅亡の直接的な原因となった。

「比企能員」が「比企尼」の猶子(ゆうし)となったのは、「比企尼」と夫の「比企掃部允」の子供である、「比企朝宗」が死去した後のことであるが、その時期は全く不明である。

出雲 隆編『鎌倉武家事典』 青蛙房 昭和47年 157~163P

②「比企氏の系譜」について

次に、「比企氏の系譜」について見ることとしたい。『寛政重修諸家譜』を調べると、

比企 寛永系図に家傳を引いていはく、比企判官義員、頼朝将軍及び頼家につかへ、武蔵国比企入間高麗の三郡を領し、建仁三年九月二日、北条時政が為に誅せらる。このときいまだ胎内にありし子を彼地にかくす。しかるに比企の岩殿観音堂の別当養育して子とす。建保六年甘児十七歳にして上洛し、順徳院につかへたてまつる。そのヽち越後国にいたりて十四代なり。しかれどもそのあひだ数世譜系を失ふ。このゆへにしるすことあたはず。」

新訂 寛政重修諸家譜 第17』群書類従完成会 昭和五十六年 241~243P

  • 「義員(よしかず)」・・・・比企能員のこと。
  • 「岩殿観音堂(いわどのかんのん)」・・・・・寺伝によれば、養老二年(718)に創建され、比企氏が深く帰依ており、源頼朝も観音堂を庇護し、北条政子の守り本尊でもあった。
  • 「別当(べっとう)」・・・・寺院の寺務を統括する人のこと。
  • 「建保六年」・・・・・・西暦1218年のことで、この時一七歳であるから、承久五年か、建暦元年に誕生した子供である。
  • 「順徳院(じゅんとくいん)」・・・・・・第84代天皇で、承元四年(1210)十一月~承久三年(1221)五月ので在位した天皇である。

前記の『寛政重修諸家譜』に、「北条時政が為に誅せらる。」とあるように、比企氏の一族は、鎌倉幕府への謀叛の疑いを受けて、北条時政によって一族ことごとく斬り殺されてしまったのである。これは、鎌倉幕府の権力を北条時政が独占しょうとする陰謀であり、対立していた比企能員を一族全てと共に、この世から抹殺してしまおうとする残酷極まりないものであった。また、「胎内にありし子を彼地にかくす。」と示されているものの、「彼地」とは岩殿観音を指すものなのか?この子が、比企能員の正室である「渋河兼忠の娘」が産んだものなのか?も不明であり、それが「比企能本(よしもと)」なのか?、また、その子だけが何故生き残って「順徳院に仕えた」のか?、その実態は何なのか?も全く判っていないのである。

更に、その子供なのか?はたまた、その子孫なのか「越後にいたいりて、十四代なり」とあるものの、比企氏が十四代も継承され続けられている事を証明する史料もないのが現実である。一説では、越後に逃れた比企氏の一部は、「比企」を名乗る事が出来ないので、「木村の姓を名乗っていたのだ」とするものもあるが、これを確実に証明する史料も何もないのである。

2.「比企の乱」について

この項では、比企能員が「乱」を起こした「きっかけ」と、その「結末」について、史料に従って明らかにしてみたい。

①「比企の乱」のきっかけ

比企能員は、建仁三年(1203)八月二十七日に、北条時政は二代将軍の源頼家が病気で重態となった時、次のような命令を下した為に「北条氏打倒の謀叛を企てた」とされている。これを鎌倉中期に成立し、著者不明の「通史(つうし)」とされている一級史料の『吾妻鏡』で確認すると、「廿七日 壬戌 将軍家の御不例、縡危急の間、御譲補の沙汰あり。関西三十八ケ国の地頭職をもって、舎弟千幡君に譲りたてまつらる。関東二十八ケ国の地頭ならびに惣守護職をもって、御長子一幡君に充てらる。ここに家督の御外祖比企判官能員、ひそかに舎弟に譲補する事を憤怨し、外戚の權威を募り、獨歩の志を插むの間、叛逆を企て、千幡君ならびにかの外家巳下を謀りたてまつらんと擬すと云々。」

永原慶二監修・貴志正造訳注『新版 吾妻鏡 第三巻』 新人物往来社 2011年 80P

  • 「御不例(ごふれい)」・・・貴族等の病気のこと。
  • 「縡危急(ことききゅう)」・・・呼吸が止まりかけていて、大変危険な状態のこと。
  • 「御譲補(ごじょうほ)」・・職をしりぞいて、他の者にゆずること。
  • 「沙汰(さた)」・・・・・・物事を処理すること。物事の善悪・是非を論じ定めること。
  • 「地頭職(じとうしき)」・・朝廷の許しを得て、御家人に各地の荘園や公領等に置いた役職。
  • 「千幡君(せんまんぎみ)」・・・・・・源頼朝と北条政子との間に出来た子供で、二代将軍の源頼家の弟であり、後に三代将軍となる源実朝のこと。
  • 「惣守護職(そうしゅごしょく)」・・・・・鎌倉幕府の軍事指揮官であり、各地に配置した地頭を監督する総責任者のこと。
  • 「御長子(ごちょうし)」・・・・嫡子・長男を意味する。
  • 「一幡君(いちまんぎみ)」・・・・源頼家と比企能員の娘の若狭局との間に出来た子供。
  • 「御外祖(おんがいそ)」・・・・母方の祖父、母の父を指す。
  • 「判官(はんがん・ほうがん)」・・・本来は、律令制度で定められた職種で、公事や文書の管理をする役職であった。
  • 「憤怨(ふんえん)」・・ 腹をたてて怨みに思うこと。
  • 「獨歩の志を插む(どっぽのしをさしはさむ)」・・・自分勝手な意思を貫こうとすること。
  • 「外家(がいけ)」・・・・嫁の家、嫁の実家のこと。
  • 「擬(ぎ)す」・・・・・・何かをしょうとすること。

以上の史料に見られるように、比企能員は北条親子の源頼家、没後の遺領配分を一方的に決めようとした事に反発したのである。

また、「比企の乱」について、『国史大辞典』では、「頼家が危篤となり、家督を日本国総守護職と関東二十八ケ国の地頭職を一幡(頼家の嫡子)に、関西三十八ケ国の地頭職を千幡(後の実朝)に譲るという措置がとられた。この事に一幡の祖父になる比企能員が猛反発し、北条時政と北条義時達を討ち果たそうとした乱である。」

国史大辞典 第十一巻』吉川弘文館 平成二年 857P

このように、比企能員は、孫の「一幡」の為に、鎌倉幕府の実権を握る北条氏と対立したのである。
※資料②参照

②「比企の乱」の結末

比企能員が起こそうとした「乱」は、どのような結果を産んだのか?について『吾妻鏡』を見ると、
「遠州仰せ合せられて云はく、近年能員威を振ひ、諸人を蔑如するの條、世の知るところなり。あまつさへ将軍の病疫の今、惘然の期を窺ひ、掠めて将命と稱し、逆謀を企てんと欲するの由、たしかに告を聞く。この上は、まづこれを征すべきか」

永原慶二監修・貴志正造訳注『新版 吾妻鏡 第三巻』 人物往来社 2011年 81~82P

  • 「遠州(えんしゅう)」・・当時、北条時政は遠江守(とうとうみのかみ)の官位にあったことから、「遠州」と称される。
  • 「威(い)を振(ふる)ひ」・・・権威を振りかざすこと。
  • 「蔑如(べつじょ)」・・・さげすむ。みさげること。
  • 「惘然(ぼうぜん)」・・・意識がはっきりしない状態のこと。
  • 「掠(かす)めて」・・・・盗みとってしまうこと。
  • 「将命(しょうめい)」・・将軍の命令。
  • 「逆謀(ぎゃくぼう)」・・わるだくみ。そこで次に、北条時政は比企能員に対して何をしたかというと、「遠州、工藤五郎をもって使いとなし、能員が許に仰せ遣はされて云はく、宿願によって、佛像供養の儀あり。御来臨ありて聽聞せらるべきか。かつはまた、次をもって雑事を談ずべしてへれば、早く豫參すべきの由を申す。」

永原慶二監修・貴志正造訳注『新版 吾妻鏡 第三巻』 新人物往来社 2011年 82P

  • 「工藤五郎」・・・・・・・・北条家の家臣。
  • 「聽聞(ちょうもん)」・・・・法話等を聞くこと。
  • 「豫參(よさん)」・・・・・・「お出で下さい。」の意味。このように、薬師如来の佛像が出来上がってきたので、その供養をするから北条時政の家に来るように誘いをかけたのである。その誘いに乗ってしまった比企能員は、「惣門を入りて廊の沓脱に昇り、妻戸を通りて北面に參らんと擬す。時に蓮景・忠常等、造合の脇戸の砌に立ち向ひ、廷尉の左右の手を取りて、山本の竹中に引き伏せ、誅戮踵を廻らさず。遠州出居に出でてこれを見たまふと云々。(中略)重忠、壮力の郎従を入れ替へて、これを責めに攻む。親景等かの武威に敵せず、火を放ちて、おのおの若君の御前において自殺す。若君も同じくこの殃を免れたまはず。」

永原慶二監修・貴志正造訳注『新版 吾妻鏡 第三巻』 新人物往来社 2011年 83P

  • 「惣門(そうもん)」・・・外構えの第一の門のこと。
  • 「妻戸(つまど)」・・・・・家のはしにある両開き戸のこと。
  • 「擬(ぎ)す」・・・・・・何かをしようとすること。
  • 「蓮景(とうかげ)」・・・ 天野遠景のことで、「遠」を「蓮」に改名した。源頼朝や頼家に仕えた。
  • 「忠常(ただつね)」・・・仁田忠常のことで、源頼朝や頼家に仕えた人である。
  • 「殃(わざわい)」・・・・災難のこと。

上記の史料に見られるように、比企能員は無防備のまま北条の家に向かい、そこでだまし討ちに合って殺されてしまったのである。北条父子は、比企氏の反逆を防ぐ事から、比企氏一族、老若男女、ところかまわず、全てこの世から消し去ろうとしたのであった。

まとめ

NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」に登場する、北条時政・義時父子は、非常におっとりとした好人物のような性格設定となっているが、今回の「歴史講座」で示したように、比企一族を徹底的に殺戮するような、非情な人間達であったことがお判り得たのでは、と考える。

参考資料

参考文献

次回予告

令和四年6月13日(月)午前9時30分~
メインテーマ「鎌倉時代初期の動乱」について
次回のテーマ「武士(平氏と源氏)の成立」について

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