第百五十九回 サロン中山「歴史講座」
令和六年1月8日
瀧 義隆
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「紫式部」について
はじめに
大河ドラマ「光る君へ」の原作者は、脚本家の「大石 静」氏であるが、「主人公」の名前を「まひろ」としており、『源氏物語』を創作した「紫式部」を主人公にして、平安時代の王朝貴族達の宮廷生活をストーリーとする時代小説である。この一年の「歴史講座」では、紫式部の生存していた平安時代がどのような時代であったか? メインテーマを「王朝文化の探求」と設定して考察することとしたい。
大河ドラマの「光る君へ」では、主人公の「まひろ(後の紫式部)」と藤原道長の成長段階と恋愛関係、更に二人の人生模様を描き出そうとするシナリオのようであるが、今回の「歴史講座」では、中心となるこの二人と周囲の人々達について明らかにしてみたい。
1「紫式部」について
生没年・・天禄元年(970)か、天延元年(973)の生れで、死去したのが長元四年(1031)ではないか?とする説もあるが、確証はない。
名前・・・ドラマ「光る君へ」では、「紫式部」の名前を「まひろ」としているが、学説としては、「香子(かおるこ・たかこ・こうし)とする角田文衛氏の説が有力視されている。
父・・・・藤原為時(ためとき)
母・・・・藤原為信(ためのぶ)の娘(名前は不詳)「大河ドラマ」では、名前を「ちはや」としている。
※「紫式部」についての史料として、明治時代に著作された、『廣文庫』を調べてみると、
「中古歌仙傳一二紫式部、越後守為時女、名紫式部有二説、一者作源氏物語之時所載、件紫之巻甚深作之、故得此名、一者一條院御乳母子也、而上東門院令奉給トテ、吾ガユカリノ者也。(後略)」物集高見・物集高量著『廣文庫 第十九冊』
昭和五十二年 名著普及会 23P
『中古歌仙傳(ちゅうこかせんでん)』・・・刊行年・著者不明。
「一條院(いちじょういん)」・・・一条天皇の里内裏(さとだいり)で、里内裏とは内裏の外に造営した臨時の御所のことである。
「上東門院(じょうとうもんいん)」・・・藤原道長の長女である「彰子(しょうし・あきこ)」が一条天皇の中宮となり、その「彰子」の法名である。
以上の史料によれば、「紫式部」の名前に『源氏物語』の中の「紫の巻」からこの名前が付けられた、とするもので、また、藤原道長の長女である「彰子」とは所縁(ゆかり)のある女性であることを示している。
「紫式部」の名前について調べると、平安時代の朝廷に仕える女性を「女房(にょうぼう)」と称しており、この女房達を「藤(とう)式部」と呼んでいた。「紫式部」の「紫」は、『源氏物語』の女主人公である「紫上(むらさきのうえ)」に由来し、「式部」は、父である藤原為時の官職名である「式部丞(しきぶのじょう)」に基づくものだ、とする説もある。
「紫式部」とは、最初から「紫式部」と名乗っていたものではなく、「紫式部」が死去して後に後世の人達が「紫式部」と称したものとされている。
「紫式部」は、少女時代に姉を失い、弟の「惟規(これのぶ)」と共に父に育てられ、長い未婚時代に父の蔵書を読みあさって学識を広め、更に琴も巧みに演奏していた。
長徳四年(998)に、遠縁で父の友人でもあった、藤原宣孝(のぶたか)と結婚して、娘の「賢子(かたいこ)(後の大弐三位)」を産んだが、長保三年(1001)に、藤原宣孝は急死してしまった。この年の秋頃から『源氏物語』を書き始めたのではないか?と想定されている。
寛弘二年(1005)十二月二十九日に、一条天皇の中宮である「彰子(しょうし・あきこ)(藤原道長の長女)」に召し出されて宮廷に仕えることとなった。長和二年(1013)の秋頃に、宮廷を辞したが、寛仁二年(1018)に再び「彰子」から出仕することを求められて、翌年の正月五日に「取次女房(とりつぎにょうぼう)」として仕えることとなった。これ以後の「紫式部」についての動向については全く不明であり、『源氏物語』の完成は、寛仁七年(1023)の夏頃ではないか?と考えられている。
「紫式部」については、非常に不明な点が多く、諸説が混在していて、その実像を明らかにすることは大変困難である。
『国史大辞典 第十三巻』吉川弘文館 平成四年 677P
また、「紫式部」を知る上で。『紫式部日記』があるが、これは、寛弘五年(1008)の秋頃から寛弘七年(1010)の正月迄を書いた二年間の日記であるが、内容としては中宮の日々の様子や「和泉式部」や「清少納言」に対する批判等が書いてあり、史料としての価値は得られない。この『紫式部日記』については、室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈本である『河海抄(かかいしょう)』には、『紫記』・『紫式部が日記』・『紫日記』・『紫式部仮名記』と紹介されていて、史料よりも文学的要素が高い書籍である。・・・・・・・・・・資料①参照
②「夫」の「藤原宣孝(のぶたか)」
生没年・・?~長保三年(1001)四月二十五日
父・・・・藤原為輔(ためすけ)曽祖父が藤原定方(さだかた)(醍醐天皇の外叔父であり、右大臣になっている。歌人としても有名であった。)
母・・・ 藤原守義の娘(名前不明)
妻・・・ 下総守藤原顕猷(あきみち)の娘(名前不明)
(子供)藤原隆光(たかみつ)
讃岐守平季明(すけあき)の娘(名前不明)
中納言藤原朝成(ともなり)の娘(名前不明)
(子供)藤原隆佐(たかすけ)
紫式部(子供)賢子(かたいこ)
母親不明(特定不可)の子
藤原頼宣(よりのぶ)
藤原明懐(あきちか)
藤原儀明(よしあき)
藤原道雅(みちまさ)の妻となった娘(名前不明)
※藤原宣孝の地位
中宮大進(ちゅうぐうたいしん・ちゅうぐうたいじょう)・・・・皇后の事務取扱、庶務係
右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)・・・・宮廷の護衛をする衛士達の長官である督(かみ)の次の役職である。
左衛門尉(さえもんのじょう)・・・・左衛門の判官(はんがん)で、統括責任者である。
蔵人(くらうど)・・天皇の側にいて、天皇の日常生活の手助けや事務、宮中の儀式等も担当した。
太宰少弐(だざいのしょうに)・・・・太宰府の次官であり、判官を補佐する役職である。太宰府は九州の9ケ国と壱岐・對馬を統括する役所であるが、判官や少弐等は現地の太宰府に行くことはなかった。
藤原宣孝は、以上のような役職を歴任した人物である。
長徳四年(998)の末頃か、翌年の長保元年(999)の初め頃に紫式部と結婚したと考えられており、娘の「賢子(かたいこ)」が誕生している。しかし、藤原宣孝は、長保三年(1001)
四月二十五日に急死してしまった。『日本史広辞典』山川出版社 1997年 1871P
③娘の「賢子(かたいこ)」
生没年・・・長保元年(999)頃?~承暦元年(1077)頃?
父・・・・・藤原宣孝(のぶたか)
母・・・・・「紫式部」
3歳頃に父の藤原宣孝と死別してしまい、18・19歳頃に「上東門院彰子」に仕えることとなり、祖父の藤原為時の官職名に因み、「越後の弁(べん)」と称されるようになった。この「弁」とは、「雑用係」や「庶務係」と同様の意味である。
一時、藤原定頼(さだより)に愛されたが、やがて藤原兼隆(かねたか)と結婚し、女の子(後に源良宗の妻となる)を産むが、離別しており、万寿二年(1025)、親仁(ちかひと)親王(後の後冷泉天皇)の誕生により乳母として仕えるようになった。
長暦元年(1037)に高階成章(たかしななりあき)と再婚し、二人の子供をもうけている。この後、歌人として活躍するようになり、天喜二年(1054)には従三位(じゅさんみ)に昇叙し、「大弐三位(だいにのさんみ)」と称されるようになった。承暦元年(1077)頃に死去したのでは?と考えられている。『国史大辞典 第八巻』吉川弘文館 昭和六十二年 823P
2.「光る君へ」の登場人物
大河ドラマの「光る君へ」では、多くの人物が登場するが、その多くは「藤原」姓で、「藤原氏」の全盛期であった。此の項では、大河ドラマに出てくる中心的な人物について見ることとしたい。
①「藤原道長」
生没年・・・康保三年(966)~万寿四年(1028)
父・・・・・藤原兼家
母・・・・・藤原時子
藤原兼家の四男か?五男か?明確ではない。(妾腹の子の生れが明確でない為)永延元年(987)に道長も従三位に叙され、翌年の永延二年(987)正月には権中納言に昇進した。
道長は、源雅信(まさのぶ)の娘である「倫子(みちこ)」と結婚したが、更に、源高明(たかあき)の娘の「明子(あきこ)」とも結婚をしている。
この後、道長は、兄の子供である藤原伊周(これちか)と対立するようになり、長徳二年(996)の正月に、伊周が女性関係が原因とする事件を起こしてしまい、伊周が政治上から失脚してしまった。この年の七月、道長は左大臣に昇進し、宮中における朝臣達の第一人者となった。道長は、長徳四年(998)に大病に陥るが快復し、政務に復帰した。
長保元年(999)十一月、道長は長女の「彰子(あきこ)」を一条天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)させた。
※「女御」とは、高い身分の女官で、中宮(ちゅうぐう)の次に位して、天皇の寝所に侍していた。(天皇の夜のお相手)「入内」とは、「中宮」・「皇后」となるべき人が内裏(だいり)に入ることである。「内裏」とは、禁中(きんちゅう)・
禁裏(きんり)・御所(ごしょ)等と言い、天皇のお住まいの場所である。「中宮」は「皇后」の別称である。
長保二年(1000)二月に、「彰子」を皇后にして、その翌年には「敦成(あつひら)親王を、更に次の年には「敦良(あつなが)親王」を続けて出産した。
長和元年(1012)二月に、三条天皇に、次女の「妍子(きよこ)」を入内させて、「妍子」が「禎子(ていし)内親王」を出産したことから、道長と三条天皇との関係が悪化してしまった。
長和四年(1016)の正月に、三条天皇が眼病を患い、譲位して後一条天皇が即位し、道長は摂政に昇進した。
寛仁二年(1017)正月、後一条天皇の元服の加冠の大役を務めたことにより、「太政大臣」に就任した。同年の三月には、11歳となった後一条天皇に、道長の三女の「威子(たけこ)」を女御とし、十月には「威子」を後一条天皇の中宮とした。
道長は、同年の十月十六日に開いた、「威子」の「立后の日」の祝宴の際
「この世をば、わが世とぞ思ふ望月(もちづき)の、虧(かけ)たることもなしと思へば。」(この世は自分のためにあるようだ。満月のように何も足りないものはない。)以上のような、自信満々の歌を詠んだのである。寛仁三年(1018)三月、道長は剃髪して出家し、半年後には東大寺で受戒(じゅかい)し、法名を「行観(ぎょうかん)」(後に行覚)と名乗った。道長は、万寿四年(1028)十二月四日に死去するが、死ぬ数日前から背中に腫れ物ができて苦しんでいることから、「ガン」か、持病の「糖尿病」が原因となる感染症によって死去した、と考えられている。
山中 祐著『人物叢書 藤原道長』吉川弘文館 2008年 倉本一宏著『藤原道長の権力と欲望―紫式部の時代―』 文春新書 2023年・・・・・・・・・資料②参照
②「その他の登場人物」
「花山(かざん)天皇」・・・・第65代の天皇で、冷泉天皇の第一皇子である。荘園の整備や
「破銭(はせん)法」・「沽売(こばい)法」を制定した。
「藤原惟規(のぶのり)」・・・紫式部の兄か?弟か?詳細不明。
「藤原兼家(かねいえ)」・・・藤原道長の父 摂関家の嫡流で、太政大臣や関白に昇進している。
「藤原寧子(やすこ)」・・・・藤原兼家の妾 歌人として有名で、「中古三十六仙」に選ばれている。
「藤原道隆(みちたか)」・・・藤原道長の一番上の兄 摂政・関白に昇進している
「藤原道綱(みちつな)」・・・藤原道長の異母兄 歌人として有名で、藤原妍子が皇太后となると、妍子に仕えた。
「藤原道兼(みちかね)」・・・藤原道長の二番目の兄 内大臣から右大臣、関白へと昇進した人物である。
「藤原詮子(あきこ)」・・・・藤原道長の姉で、後に一条天皇の母となる。
「藤原貴子(たかこ)」・・・・藤原道隆の妻
「藤原定子(さだこ)」・・・・藤原道隆の長女
「藤原彰子(あきこ)」・・・・藤原道長の長女
「藤原伊周(これちか)」・・・藤原道隆の嫡男 叔父の道長と政権を争うが、失脚する。
「藤原隆家(たかいえ)」・・・藤原道隆の次男で、兄の伊周が没して後に道長と対立する。
「源 倫子(みちこ)」・・・・藤原道長の正妻
「源 明子(あきこ)」・・・・藤原道長のもう一人の妻
「源 雅信(まさのぶ)」・・・源倫子の父
「藤原穆子(むつこ)」・・・・源倫子の母
まとめ
「紫式部」については、未だに本名も明確にされていない人物で、記録としてあるのは、自筆とされる『紫式部日記』があるものの、
ほんの二年間の記録であって、読んでみても「紫式部」の日常を知り得るものでもなく、むしろ宮廷内の出来事を記しているだけであり、「紫式部」の行動について述べられてはいない。
従って、今年のNHK大河ドラマは、脚本家の「大石 静」氏が想像する平安時代の「王朝文化」を描いているものだ、と理解しつつ、煌びやかな王朝絵巻を楽しみたい。
参考資料
【藤原道長系譜・紫式部系譜】
参考文献
- 『人物叢書 紫式部』日本歴史学会編 吉川弘文館 1996年
- 清水好子著『岩波新書 紫式部』岩波書店 1973年
- 山本淳子著『研究叢書476 紫式部日記と王朝貴族社会』和泉書院 2016年
- 角田文衛著『紫式部の世界』角川書店 昭和四十一年
次回予告
令和六年2月12日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「王朝文化の探求」
次回のテーマ「平安時代の幕開け」
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