信長に仕える

第百八十二回 サロン中山「歴史講座」
令和八年3月9日

瀧 義隆

令和八年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の予備知識
メインテーマ「天下を取った」について
今回のテーマ「信長に仕える」

はじめに

前回の「歴史講座」で述べたように、豊臣秀吉は、食べることもままならず、着る物もなくて「蓆(むしろ)」を身につけ、寝る場所もないまま、遠州や三河近辺を流浪して歩き廻り、苦難の生活をしていたものと考えられる。この「流浪の生活」で秀吉は「人が生きて行く術(すべ)」を身につけたのではなかろうか?。それが財産となって、次のステップへ進んでいったものと考えられる。
そこで、今回の「歴史講座」では、秀吉の立身出世の足がかりとなった前段階について考察してみたい。

1.「戦国期の武士社会」について

日本史上、「戦国時代」と区分したのは誰なのか?を探ってみると、特定の人物が勝手に、そして一度に決めたものできなく、明治時代になって国民全体に「日本の歴史を教える。」ことが重要視されることとなり、子供達にも覚え易いように政治の中心地や場所を特定する方法により、時代の流れを判り易いように、と考え区分したのである。

①「戦国時代」とは?

「室町時代」は、暦応元年(1338)8月11日に、鎌倉幕府の有力御家人であった足利尊氏が、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられて幕府を開設したことに初ったのである。特に、足利幕府の三代目の将軍となった足利義満が、京都の室町小路に邸宅を構えて、そこを政庁としたことから「室町殿」と称されるようになり、これが元となって足利氏が統治した時期を「室町時代」と言うようになったのである。

この「室町時代」の中期頃にあたる応仁元年(1467)に、土佐・讃岐・丹波・摂津等の領地を支配していた、大大名の細川勝元と細川政元が、但馬・備後・安芸・伊賀・播磨等を支配していた大大名の山名宗全と大内政弘とが、足利幕府の家督相続や守護大名達の家督相続問題と絡み合い、更に、八代将軍の後継者争い、また、畠山氏・斯波氏両家の家督争い等が複雑に絡み合って抗争となった。これが「応仁の乱」である。

この争いが全国に広がり、守護代が守護大名を打ち滅ぼす等の「下剋上(げこくじょう)」が日本中に広がり、これを鎮圧出来なかった足利幕府の権威は失墜してしまい、日本全国が戦乱の世となり、「戦国時代」に突入したのである。
呉座勇一著『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱―』角川選書 2016年

②「庶民から武士になった人々」

「戦国時代」の全国混乱の時代に、庶民から武士になった者もいて、人一倍の才智と生命を懸け、自らの立身出世を夢見て武力のみならず、ずば抜けた才能を発揮して武士の地位を獲得する者も出て来たのが「戦国時代」でもあった。その最高の例が豊臣秀吉・秀長兄弟であるが、それ以外にも多くの者達が武士になっている。

次に、その例を示すと、

宮部継潤(けいじゅん)・・・土肥真舜(まさたか)の子供で、比叡山に登って僧侶となり荒法師ではなかったか?、と考えられている。その後、浅井長政に仕えて武士となった。
杉原家次・・・尾張国の生れで、行商人であったが、秀吉を頼って武士となった。秀吉の正室である寧々の親戚筋である。
春日虎綱(とらつな)・・・甲斐国の百姓であった春日大隅の子であり、武田信玄の側近となった人物である。
斎藤道三・・・11歳で京都の妙覚寺で僧侶となったが、還俗して奈良屋又兵衛の婿となった後、美濃国で油売りをしていたが、武芸達者であったことから、長井氏を乗っ取り美濃の国守となった。
藤堂高虎・・・近江国犬山郡の土豪の子であったが、剛丹な性格で、浅井氏に仕えることとなり武士となった。
小西行長・・・備前国の豪商であった阿部善定の手代であった源六の養子となり、宇喜多直家に見いだされて武士となった。
松長久秀・・・摂津国か山城国か、阿波国の生れとされ土豪か商人の子供ではなかったか?と考えられている。
大久保長安・・・能芸人の大蔵信安の次男である。甲斐武田氏に仕えていたが、武田氏滅亡後に徳川氏に仕えた。

以上のような人物もいるが、これらの他に、武士になることを夢見る百姓達が、様々な合戦に加わって軍功を挙げて報償を得て、特別の働きがあれば百姓から武士に昇格する機会を窺っていたものと考えられる。一方、功績もなく野っ原で討死してしまえば、「犬死に」となり「単なる死に損」でしかなく、露草となってこの世を去ってしまった者も大勢いたものと思慮される。
平山優著『戦国大名と国衆』角川選書 平成三十年

2.「秀吉、松下加兵衛之綱(かへいゆきつな)に仕える」

秀吉は、織田信長に仕える以前、今川家の家臣であった松下加兵衛に仕えており、その事の記述を史料で見ると、

「冬凍春温を経て二十歳の比、遠江國の住人、松下加兵衛尉と云し人につかへしが、(後略)」

新訂増補『史籍集覧 23 武家部 戦記編十一』
小瀬甫庵著『太閤記 巻一』臨海書店 昭和四十二年 18~19P

「冬凍春温(とうとうしゅんおん)」・・・「冬は凍てつくほど寒く、春は暖かくなる。」という意味で、自然の四季の移ろいと寒暖の差の激しいことを示す言葉である。

上記の史料では、秀吉が松下加兵衛に仕えたのは、二十歳頃としている。

次に、『太閤素生記』では、

「一其比遠江濱松ノ城守ハ飯尾備前ト云テ今川家ノ幕下ノ者ナリ又近所久能ト云所アリ松下加兵衛ト云者小城ノ主ナリ是モ今川家ノ幕下ナリ(中略)初ハ加兵衛草履取ナト一所ニ置ク後ハ引上ケ加兵衛手元本ニテ使ニ彼是一ツトシテ加兵衛カ心ニ不叶ト云事ナシ後ハ加兵衛納戸ノ取入取出シヲ申シ付ル(後略)」

史籍集覧 第13冊 武家部 戦記編
土屋知貞著『太閤素生記』臨海書店 昭和四十二年 482P

「飯尾備前(いのおびぜん)」・・・「備前」とあるが、これは誤りで、正しくは「豊前」であり、浜松の引間城(曳馬城)の城主であった飯尾連龍(つらたつ)のことである。

この史料にみられるように、秀吉が松下加兵衛に仕えた年齢は不明ながら、初めは「草履取り」をしていたが、加兵衛に気に入られて、「納戸ノ取入取出」の役目を任されるように、松下加兵衛から信頼を得るようになっている。「納戸ノ取入取出」とは、主君の身の回りの世話や、衣服・調度品・金銀の管理等の重要な役割のことである。

このように、秀吉は加兵衛から絶大な信頼を得たものの、次に続く文面を見ると、

「先ヨリ居タル小姓共是ヲ子タミ香芥カ失レハ猿カ盗ミタルラント云小刀失レハ猿カ取タルト云印籠巾著鼻紙ナト失レハ猿ヲ疑フ加兵衛慈悲成ル者ニテ遠國行衛モ不知者故如此無實ヲ云懸ルト不便ニ思ヒ其品々ヲ云聞セ本國ヘ帰レト云テ永楽三十疋ヲ与ヘ暇ヲクルヽ是ヲ路銀トシテ猿清洲ニ至猿公ニ出中一年有テ十八歳ノ時也(後略)」

史籍集覧 第13冊 武家部 戦記編
土屋知貞著『太閤素生記』臨海書店 昭和四十二年 483P

「香芥(こうかい・こうけつ)」・・・香木等を入れる容器や袋であり、当時としては大変高価な物であった。
「印籠(いんろう)」・・・常備薬や印鑑等を入れる、小型の携帯容器である。3~5段に分離していて、漆塗に蒔絵が施されていた。
「巾著(きんちゃく)」・・・布や革などで袋を造り、上部を紐で縛るようになっている。身の回りの小物を入れておく、現在のポ-チのようなものである。
「永楽三十疋」・・・永楽銭で300枚のことで、現在の価値では数万円程度となる。

このように、松下加兵衛からすれば「目配り・気配り」が出来て、使い勝手の良い秀吉も、他の廻りの者達から「妬たみ」の対象となり、なんやかやと難癖を加えられるようになったことから、旅の費用として「永楽三十疋」与えて清洲に帰している。後日、秀吉はこの時の松下加兵衛の「恩」に報いている。

以上のように『太閤素生記』では、秀吉が十七・十八歳頃に松下加兵衛に仕えた、としてあって、『太閤記』の二十歳の頃とは相違している。

ところが、『豊鑑』では、

「二十八計の年、只ひとり遠江の國までさそらへ行て、松下氏石見守とかやにつかへてしばらくありしが、思定ざるにや、又もとの里にかへりぬ。(後略)」

竹中重門著『豊鑑』群書類従 第二十一輯 合戦部
塙保己一編 続群書類従完成会 昭和三十四年 517P

この『豊鑑』では、秀吉が松下加兵衛に仕えたのは、「二十八計の年」と書いてあって、『太閤素生記』や『太閤記』とも相異しているのである。このように、三者三様であるが為、現時点ではどれが正確な記述なのか?全く判別不可能としか言いようがないのである。

★「松下加兵衛」について
天文六年(1537)生れ
慶長三年(1598)2月30日死去
父は兵法者・槍術の達人である松下長則である。
母は不明
妻は松下連昌の娘(名前は不明)

★今川義元に仕えていた時は、遠江国頭陀寺(ずだじ)(現在の浜松市中央区)城の城主であった。今川氏が滅亡した後は、徳川家康に仕えたが、天正三年(1575)の長篠の戦いには秀吉の前備(まえぞなえ)として活躍した。天正十一年(1583)の賤ケ岳の戦い後に丹波国・河内国・伊勢など3,000石の所領を与えられた。更に、天正十五年(1587)三月に秀吉が九州に遠征した後にも3,000石を加増され、合計6,000石となった。天正十八年(1590)の小田原征伐後は、秀吉から遠江久能(現在の袋井市久能)で16,000石の所領が与えられた。

『戦国人名辞典』吉川弘文館 2006年 905P

以上のように、秀吉は松下加兵衛に仕えた時に受けた恩義に報いて、最終的には16,000石所領の大名に取り立てている。

3.「信長に仕える」

秀吉は、天文二十年(1551)頃に松下加兵衛の元を離れた後、織田信長に仕える天文二十三年(1554)頃迄(信長に仕えたのは永禄元年頃とする説もある。)の4年間は、再度、美濃・遠江・三河等を流浪していたものと考えられるが、それらに関して記述した史料は全くみつかっていない。ただ、後日における「墨俣一夜城築城」における秀吉の活躍振りを思慮にいれると、この四年間の流浪の時期は、「美濃川並衆(かわなみしゅう)」の中で生活していたのでは?、と考えられる。(この美濃川並衆については、次回の講座で明らかにしてみたい。)

この項では、秀吉が織田信長に仕えることとなった史実に迫ってみたい。

①「織田信長」について

天文三年(1534)五月十二日?二十八日
天正十年(1582)六月二日(49歳で死去)
父・・・織田信秀
母・・・土田御前(名前は不明)

★織田信長に関する一級史料である、太田牛一が著した『信長公記』には、信長が誕生した場所等についての詳細は記載されてはおらず、那古野(なごや)城か?古渡(ふるわたり)城か?勝幡(しょうばた)城(現在の愛西勝幡町)か?三つの説があり、明確にはなっていない。
★織田信長についての詳細は、以後、秀吉の立身出世の過程に従いつつ、その都度明らかにしてみたい。

織田信長の人物評価についてと、秀吉が信長に直訴した様子を史料の中で見ると、

「『太閤記』信長公ハ武勇の道、昼夜を分ず嗜み、權謀を事とし、信を守、其氣象愚にして非愚、大きにつよき振舞のみ有、又そしる方も有けれと、實は賢く寛廣なる人なり。其上利をすヽめ、百姓を虐なとする小人をは、事ノ外にくみ給へり。(中略)やかて刀わきさし衣服に至る迄調へ、木下藤吉郎と名乗て、直訴の用意をそせられける。其頃信長公は清洲に御在城ありけるに、永禄元年九月朔日に直訴せられけるは(後略)」

新訂増補『史籍集覧 23 武家部 戦記編十一』
小瀬甫庵著『太閤記 巻一』 臨海書店 昭和四十二年19P

「權謀(けんぼう)」・・その時々の状況に応じて、相手を巧みにあざむいたり、自分に有利になるように画策したりすること。
「象愚(しょうぐ)」・・愚かなふりをしている。愚か者に見える。
「寛廣(かんこう)」・・おだやかで、心の広いことを意味する。

このように、『太閤記』では、織田信長という人物は、平常の立ち振る舞いは「愚か者」と称している人もいるが、実は、心の広い穏やかな人であり、百姓を虐める人を事の外嫌っていた、と褒めそやしている。
また、秀吉は刀や衣服を調えた上で、「木下藤吉郎」と名乗った上で、「永禄元年(1558)の9月1日に清洲城に行って直訴した。」としているが、これは現実的には絶対にあり得ないことであろうと考えられる。それは、何が起こるか判らない物騒な戦国時代に、百姓の身分の者が城内に一人行っても、信長の警備の武士達が対面を許すはずもなく、不審の者は城内に入る前に「斬り殺されて」しまうのが当然の時代である。従って、この『太閤記』で示す秀吉の信長への直訴の様子には疑問を持たざるをえない。

また、『太閤素生記』を見ると、

「其比信長小人ニガンマク一若ト云テ小人頭二人アリ(中略)夫ヨリ一若ヲ頼ミ信長御草履取ニ出ル。(後略)」

史籍集覧 第13冊 武家部 戦記編 土屋知貞著『太閤素生記』臨海書店 昭和四十二年 484P

「小人頭(こびとがしら)」・・・武将の身辺警護や雑務を担当する下級武士で、通常は「御小人(おこびと)」と言われ、奉公人を統率する役職でもある。

このように、『太閤素生記』では、「ガンマク」という人と、「一若(いちわか)」と称する二人の下級武士の紹介で信長の「草履取りになった。」と示しているが、この真偽については全く不明である。

次に、『豊鑑』にはどのように書いてあるか?を見ると、

「豊鑑巻一 長濱眞砂 羽柴筑前守秀吉(中略)信長川逍遥して帰り給ふ道の邊ちかくゐて、宮仕の望あんなると高く宣給へば、我につかへんや、いかさま思ふ所ありなんとゆるし給へば、(後略)」

竹中重門著『豊鑑』群書類従 第二十一輯 合戦部
塙 保己一編 続群書類従完成会 昭和三十四年 517P

「川逍遥」

この史料によれば、信長が鷹狩りをしての帰り道に、声高に「宮仕えをしたい。」旨を申し出たところ、清洲城にお供することが許されて、秀吉は「草履取り」として仕えるようになった、と記述されている。

以上を整理すると、

『太閤記』・・・・清洲城内で正装した上で信長に直訴している。
『太閤素生記』・・「ガンマク」・「一若(いちわか)」の紹介で秀吉は草履取りとなった。
『豊鑑』・・・・・信長の鷹狩りの帰り道、道端から秀吉が直接訴えでている。

このように、秀吉が織田信長に仕えるようになったその時期や場所、「きっかけ」等についても諸説があって、「これだ。」と断定し得る史料は見つからないのが実情である。

②「戦国時代の家臣団の構成」について

戦国時代における武士社会は、主君(大将)と家臣(御家人等)との個人的な契約関係にあって、「御恩(ごおん)」として主君が家臣に先祖伝来の土地の所有権(本領安堵)を認めたり、新たに土地を「新恩給与(しんおんきゅうよ)」として与えたりしていた。

これに対して家臣達は、「奉公(ほうこう)」として主君に対し、軍役(ぐんえき)として合戦に向かい、生命を懸けて戦うのである。また、平時においては、「番役(ばんやく)」等の役目を果たしていた。

その家臣団の組織はどのようなものであったか?について、その一例を示すと、

「家臣代の組織」
総大将・・戦国大名・譜代大名
陣代・・・総大将の代理
家老・・・宿老(しゅくろう)・一番家老・筆頭家老・家老主座
奉行・・・城代(家老を兼ねる者もある。)・譜代家老(代々の重臣の家)

「中級家臣」
侍大将・・長柄(ながえ)大将・鉄砲大将・弓大将・騎馬大将・足軽大将・手先大将・旗大将・使番・戦目付

「下級家臣」
組頭・・・馬衆組頭・足軽組頭・徒(かち)組頭・小者頭同心・卒(そつ)・足軽・雑兵・馬衆
小者・・・荷物運び・草履取り・炊事・掃除

★小者達は、足軽よりも下級の者として区別され、厳密には侍の身分でなく、主人の使い走りや用事の伝達等もしていた。

以上のように、戦国時代の家臣団の構成を見ると、秀吉が織田信長に仕えたのは、「下級家臣」の中でも最も低い身分の「小者」であるが、これが後に「天下人」まで登り詰めるのである。

西ケ谷恭弘著『戦国の風景―暮らしと合戦―』 東京堂出版 2015年

まとめ

 「偉人(いじん)」と称される人は、凡人とは大きく違う別格のオーラを持っているものと思われる。それは、努力に努力を重ねた上で身につけるものではなく、生れてから成育していくうち、自然に備わっていくものなのかもしれない。反面、苦労に苦労を重ねても何ら報われることもなく人生の終焉を迎える人が多いのも事実である。
 現在の政界に於いても、「働いて・働いて・働いて」をモットーとする女性首相も誕生している。これも秀吉のように生れ持ったオーラを内在している人物なのかもしれない。

参考文献

鷹狩りの様子
鷹狩りの様子

参考文献

次回予告

令和八年4月13日(月)午前9時30分~
令和八年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の時代考証。
歴史講座のメインテーマ「天下を取った」について
次回のテーマ「秀吉の墨俣城の築城と秀長の仕官」について

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