第百六十七回 サロン中山「歴史講座」
令和六年8月12日
瀧 義隆
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「書道・絵画の歴史」について
はじめに
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、主人公の「まひろ(紫式部)」が「和歌」を誠に達筆な字で和紙に「書」を認めているが、この裏面には平安時代に急激に広まった「ひらかな」・「カタカナ」の発明が存在している。この事により、宮廷の女性達にも「ひらかな」・「カタカナ」を駆使して自らの感情を表現出来るようになり、「紫式部」や「清少納言」・「和泉式部」等の女流作家も文学史上に登場することとなった。
そこで、今回の「歴史講座」では、何時頃から「書」というものが日本史上に見えるようになったものなのか?また、紫式部の「源氏物語」を元として描かれた「源氏物語絵巻」のような「絵画」も日本史上ではどうなっているものなのか?について考察してみたい。
1.「書道の歴史」
①「書の始まり」について
この項では、「書」というものが、我国の歴史上では何時頃から見られるようになったものか?また、どのように伝承されて現在に至って来たものなのか?史料を元に見てみると、
「古事類苑 文学部四十二 書書ハ写字ノ学ナリ、古昔ハ唐制ニ倣ヒ、学校ニ博士ヲ置キテ之ヲ教授セリ、其書風ハ、夙ニ六朝以下ノ名蹟ニ模シ、推古天皇ノ比ノ物、今ニ存スルモノアリ、以テ後人ノ模範トスルニ足レリ、聖武天皇ノ頃ニハ、王義之ノ書ヲ学ブモノ多クシテ、其後ニ至リテモ仍ホ其風ヲセシカバ、支那人モ大ニ之ヲ賞美シタリ、僧空海、橘逸勢ハ入唐シテ、其法ヲ傳へ、後世嵯峨天皇ト並ベ称シテ、三筆ト為シ、純然タル支那ノ風ナリシガ、小野道風ニ至リ、漸ク彼土ノ風ト分岐シ、藤原佐理、藤原行成ニ及ビテ、益々彼風ト遠クナレリ、(後略)」
『古事類苑29 文学部 三』吉川弘文館 昭和四十三年 661P
- 「唐制(とうせい)」・・・中国の唐の時代の制度のこと。
- 「六朝(りくちょう)」・・・中国の3世紀~6世紀頃まであった、呉・東晋・宋・南斉(なんせい)・梁(りょう)・陳(ちん)の六つの王朝が存在した時代のこと。
- 「推古(すいこ)天皇」・・・第33代の天皇で、日本史上初めての女性の天皇である。西暦の593年~628年迄在位した。
- 「聖武(しょうむ)天皇」・・・第45代の天皇で、神亀元年(724)~天平勝宝元年(749)迄在位した。
- 「王義之(おおぎし)」・・・中国の東晋の政治家である。東晋は西暦317年~420年迄続いた王朝である。
- 「空海(くうかい)」・・・平安時代初期の僧で、真言宗の開祖であり、「弘法大師」と称される僧侶である。
- 「橘逸勢(たちばなのはやなり)」・・・平安時代初期の貴族で、最澄や空海と共に遣唐使として活躍した人物である。平安時代の三筆の一人である。
- 「嵯峨(さが)天皇」・・・第52代の天皇で、大同四年(809)~弘仁十四年(823)迄在位した。書を得意とした天皇で、平安時代の三筆の一人である。
- 「小野道風(おののとうふう・みちかぜ)」・・・平安時代初期から中期にかけての貴族で、朝廷の役人であり、能書家で「三跡(さんせき)」の一人である。
- 「藤原佐理(ふじわらのすけまさ・さり)」・・・平安時代中期の貴族で、摂政関白太政大臣になった人である。書に優れており、「三跡」の一人である。
- 「藤原行成(ふじわらのゆきなり・こうぜい)」・・・平安時代中期の公卿で、能書家であり漢学にも秀でた人物であった。世尊寺流書道の開祖である。
以上の史料によれば、6世紀~7世紀にかけて在位した「推古天皇」の頃には、日本に「書」なるものが存在している。そもそも、「文字」なるものが日本に伝来したのは6世紀半ば頃であり、欽明(きんめい)天皇に対して、朝鮮半島の百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から佛像や経典が贈られた事が、日本における「文字」との初対面であった。以後、聖武天皇も積極的に「書」を学問として取り入れ、更に、嵯峨天皇においては、「三筆」と称されるような「能書家」であった事を示しているのである。
②「各時代の書」について
この項では、各時代における「書」の変遷について、その概略を示すと、
- 「神話の時代の書」・・・神代(かみよ)の時代には「日文(ひふみ)」と称する文字が有った、とする説と、実用的に文字が使用されていたとする証拠もない事から、神代には文字はなかった、とする説に分れている。
- 「古代の書」・・・弥生時代には、「漢倭奴国王」の金印が伝来している事から、2~3世紀頃には日本に文字があった、と理解されているが、明確ではない。
- 「飛鳥時代の書」・・・8世紀頃の天智天皇の時代には正史に書道の記事があり、天武天皇においては、写経の大事業を行っており、・持統天皇の頃には、百済から書博士が到来している。
- 「奈良時代の書」・・・唐との交通が盛んになり、留学生や学問僧、遣唐使が多く往来する時代となり、六朝風が衰退して、中国南部の寛厚優美な書が愛されるようになる。「書」は、宮廷の官人である貴族達によって使用されていた。
- 「平安時代の書」・・・平安時代の初期に、「平仮名」と「片仮名」の出現である。誰が発明したものなのか?全く不明であるが、この文字の発明により、従来の男性主体の「漢字文化」から、貴族の女性達にも「仮名文化」が大きく広がり、紫式部や清少納言等の女性文学者を多く輩出する事となる。この時代、「日本三筆」と称される、嵯峨天皇や空海・橘逸勢等の大家が生れる。
- 「鎌倉時代の書」・・・武士の社会となると、「書」を愛でる事から離れて、実用性を重視する変革がなされ、「漢字かな交じり」が一般的となる。書道の専門的な視点からすると、「和様」と「禅様」とが並列する時代であった。
- 「室町・戦国時代の書」・・・ この時代は、戦乱の多い時代であった為に、「書」に関する意識も薄れてしまう。むしろ、平安時代から鎌倉時代にかけての「和様」の書道を好む風潮となってくる。
- 「江戸時代の書」・・・平安時代から室町時代までの「書」は、貴族や武士達の上流社会の人達のものであったが、江戸時代の開幕により安定した生活となると、「書」も一般化して、庶民にも「書」への関心が高まって、儒学者や浪人武士の教える寺子屋で「御家流」の書道を学ぶ者が広範囲に広まった。
- 「明治・大正・昭和の時代の書」・・・明治維新によって、日本の古来からの文化も大きく変容し、江戸時代の公用書体である「御家流」は廃止となり、「唐様(からよう)」が学校教育の主体となってくる。「唐様」とは、中国風の書風を指すものである。
藤原鶴来著『和漢書道史』好鵞書院 昭和三十八年
③「書道の流派」について
この項では、どのような流派によって「書」を伝承したか?を探ってみたい。
- 「世尊寺(せそんじ)流」・・・藤原行成を流祖としており、小野道風や藤原佐理の跡を受けて「上代様」の書風を完成させた流派である。藤原行成が晩年に邸内に「世尊寺」を建立たことから、子孫達が「世尊寺家」を名乗ったことにより、この流派の名前となった。
- 「法性寺(ほっしょうじ)流」・・・藤原忠通を流祖とする流派で、「世尊寺流」に工夫を加えた和様の優雅な書風を確立した鎌倉時代の代表的な流派である。
- 「有栖川(ありすがわ)流」・・・江戸時代中期頃、霊元天皇の第17皇子であった、有栖川宮職仁(よりひと)親王が、霊元天皇から伝授された「震翰(しんかん)」に優美な書法を加えた独自の書体を考案し、流派を創設した。「震翰」とは、天皇の筆跡のことである。
- 「光悦(こうえつ)流」・・・江戸時代の元禄の頃、本阿弥光悦が築いた流派である。片岡次大夫の次男で、本阿弥家の娘婿となった人であり、寛永期の三筆と称されるような達筆家であり、陶芸を習う人もいたが、書風を習う人も多く、それ故に「光悦流」と称されるようになった。
- 「禅林墨(ぜんりんぼく)流」・・・「墨跡(ぼくせき)」は、鎌倉時代に中国から伝来してもので、禅僧が自由で人間味に富んだ書風を創りだし、日本の書道史上でも重要な位置を占める流派となった。室町時代には、茶席を飾る第一の掛軸となった。
- 「尊朝(そんちょう)流」・・・青蓮流の一派で、伏見宮邦輔(ふしみのみやくにすけ)親王の第6王子の尊朝法親王が、永禄か天正頃に創設した流派である。
藤原鶴来著『和漢書道史』好鵞書院 昭和三十八年
以上の流派の他に、現在では数多くの「会派」があり、「漢字」・「かな」等に多種多様な「流派」・「会派」が存在している。
2.「絵画の歴史」
この項では、煌びやかな平安時代を彩った、「絵画」について考察してみたい。
①「史料で見る絵画の歴史」
絵画についての史料として、『古事類苑』には、
「繪書ハ物形ヲ描写スル術ニテ、往古ノ事ハ詳ナラズ、推古天皇以来、支那韓国ノ書人、屡々帰化セシニ由リ、稍其法ヲ傳へシナルベシ、文武天皇ノ朝ニ至リ、特ニ書ノ為ニ官司ヲ置キテ之ヲ掌ラシメ、繪事漸ク進ミ、名手モ少カラズ、文徳天皇ノ時ニハ、百済河成ノ如キアリ、醍醐天皇ノ時ニハ巨勢金岡ノ如キアリ、是ヨリ後ニハ朝廷ノ繪所ノ外ニ、名社鉅刹ニモ繪所ヲ置キテ繪書ニ従事セシメ、土佐、春日、粟田口、宅磨ノ輩各自ニ家ヲ成シヽガ、書法モ国俗ニ随ヒテ漸ク変ジ、南北朝ノ比ニ至リ、宋元ノ風ヲ唱フルモノアリ、是ニ於テ和書漢書ノ別ヲ生ズ、和書ハ即チ繪所ノ風ニシテ、漢書ハ如拙雪舟等ノ禅僧ノ徒之ヲ善クシ、鉅手輩出セリ、足利氏ノ末ニ狩野元信アリ、和漢ノ法ヲ合併シテ自ラ一家ヲ立テ、子孫相継ギテ長ク徳川幕府ニ用ヰラレ、諸藩モ多ク之ニ傚ヒテ狩野流ノ人ヲ用ヰタリ、其後ニ至リ祇園南海、柳澤淇園、池野大雅等ノ輩、南宋ノ法ヲ唱へ、多ク山水ヲ写シ、又熊代繡江ノ輩、支那人沈南蘋ニ就キ、花卉ノ法ヲ受ケシヨリ漢書大ニ興リ、狩野家為ニ衰フ、(後略)」
『古事類苑29 文学部 三』吉川弘文館 昭和四十三年 787P
- 「文武(もんむ)天皇」・・・第42代の天皇で、在位は飛鳥時代の文武天皇元年(697)~慶雲四年(707)迄である。天武天皇の第一皇子として誕生した。
- 「文徳(もんとく)天皇」・・・第55代の天皇で、在位は平安時代の嘉祥三年(850)~天安二年(858)迄である。仁明天皇の第一皇子として誕生した。
- 「醍醐(だいご)天皇」・・・第60代の天皇で、在位は平安時代の寛平九年(897)~延長八年(930)迄である。宇多天皇の第一皇子である。
- 「巨勢金岡(こせのかなおか)」・・・ 平安時代前期の貴族で、貞観十四年(872)頃に、宮廷内の「神泉苑(しんせんえん)」という寺院建築を監修し、菅原道真等と親交があった人物である。
- 「名社鉅刹(めいしゃきょさつ)」・・・有名な神社と大きなお寺のこと。
- 「繪所(えどころ)」・・・平安時代に成立した天皇家の為の機関の一つで、宮廷の絵画を専門的に取り扱っていた。
- 「土佐(とさ)」・・・室町時代前期の「大和絵」の絵師である土佐行広のことで、「土佐」という「屋号」を称し、一派を興した。元は、朝廷の近衛府の将監に任じられた事から「将監行広」とも言われている。
- 「春日(かすが)」・・・延徳二年(1490)に、「土佐派」から独立した春日広周(ひろかね)のことで、室町時代中期頃の絵師である。
- 「粟田口(あわたぐち)」・・・粟田口隆光(たかみつ)の事で、本名は「土佐」である。鎌倉後期の南北朝時代から室町時代前期迄活躍した絵師である。
- 「宅磨(たくま)」・・・宅磨派については諸説があって明確ではないが、平安仏画の宅磨為遠が流祖ではないか?と考えられている。
- 「南北朝(なんぽくちょう)」・・・鎌倉時代後期に、皇位継承の騒乱が生じ、光明天皇が京都で朝廷を立たので「北朝」と言われ、後醍醐天皇が奈良の吉野で朝廷を置いたとした為、これを「南朝」と称され、南北朝の時代となった。建武三年(1336)~明徳三年(1392)迄の混乱期の時代である。
- 「宋元(そうげん)ノ風」・・・中国の「宋の時代」と続いての「元」の時代の中国風潮の絵画のこと。
- 「雪舟(せっしゅう)」・・・室町時代に活躍した、禅僧で水墨画家である。遣明(けんみん)使として中国風の画法から日本独自の水墨画風を確立した人物である。
- 「鉅手(きょしゅ)」・・・偉大な名人・名手のこと。
- 「足利氏ノ末」・・・足利幕府時代の末期のことで、室町時代の後期のことである。
- 「狩野元信(もとのぶ)」・・・室町時代の絵師で、狩野派の祖である狩野正信の長男?次男?。京都の出身で、漢の画法に大和絵の技法をも加えた独自の画風を生みだした。
- 「祇園南海(ぎおんなんかい)」・・・江戸時代中期の人で、儒学者・漢詩人等であると共に文人画を得意とし、日本文人画の祖と称されている。
- 「柳澤淇園(ぎえん)」・・・江戸時代中期の人で、柳澤藩の武士でありながら文人画を良く書き、日本文人画の先駆者とも言われている。
- 「池野大雅(たいが)」・・・江戸後期の人で、京都の町人である。文人趣味の扇絵を多く書いた人である。指頭画と称される画法で、筆ではなく、人の指を用いて描いた。
- 「熊代繡江(しゅうこう)」・・・江戸時代中期の人で、沈南蘋の技法を習得し、南宋画による花鳥画を描いていた。
- 「沈南蘋(ちんなんぴん)」・・・享保十六年(1731)頃に来日し、写実的な花鳥画の技法を伝えた人である。
- 「花卉(かき)」・・・観賞の為に栽培する植物・花物等のこと。
日本における絵画は、以上の史料に示されている通り、まだ日本が古墳時代であった頃の「推古天皇」の時代から中国や韓国から影響を受けつつ、平安時代初期には巨勢金岡のような絵画の名人も現れ、更に、室町時代に入ると、「雪舟」のような秀才も出現し、また、室町時代後期には「狩野派」の祖となる狩野元信等の優れた絵師が出現している。江戸時代に入っても、中国絵画に影響されつつ多くの絵画の名手が出ている。また、江戸時代において、特筆すべき絵画として「浮世絵」があり、絵師にも多くの名人が生れ、後にはこの「浮世絵」の手法が西洋画壇にも影響を与えるような存在ともなるのである。
この「浮世絵」の流行の根源には「版画」技法の革新的な進歩があったからである。「版画」は、飛鳥時代頃に中国から伝来した技法を奈良・平安・室町と受け継がれたが、江戸時代になると、「版画」制作の工程が分業化し、原画を書く絵師がいて、その原画を色別分割して版木に彫り込む「彫師」がおり、その何枚にも彫られた版木に色毎に色を刷り込む「刷師」がおり、一枚の紙を色毎に刷って「浮世絵」を色彩豊かな物に完成させていたのである。
②「各時代の絵画」について
この項では、日本の各時代に見られた絵画にいて列記してみたい。
- 「旧石器時代の絵画」・・・旧石器時代の2万4千年前頃の日本には、石偶なる物に女性像と考えられるものが刻みこまれている。
- 「縄文時代の絵画」・・・紀元前1万4,000年頃には、日常的に使用していたであろう土器に「縄(なわ)目」の模様が着けられていた。
- 「弥生式時代の絵画」・・・青銅器による銅鐸(どうたく)には、鹿や猪の絵姿を模様として見ることが出来る。また、土器には直線的な絵が刻みこまれている。
- 「古墳時代の絵画」・・・7世紀頃~8世紀頃に造られたとされる「高松塚古墳」や「キトラ古墳」の壁画に見られるように、優雅な天女の絵が見られるようになる。
- 「飛鳥時代の絵画」・・・中国が唐の時代であり、その絵画が日本に流入し、仏教絵画の需要も増加し始めてくる。
- 「奈良時代の絵画」・・・奈良時代の絵画の特徴は、以前のものよりも人間性に富み、衣類等の描き方がよりリアルなものとなり、体形にも「ふくよかさ」が見られるようになった。
- 「平安時代の絵画」・・・平安時代の前期には、仏教絵画が主流であったが、後期頃になると「絵巻物」が隆盛となり、紙や絹に絵を描きストーリー性のある表現をするようになってくる。
- 「鎌倉時代の絵画」・・・武士の社会になると、武士好みの現実的で写実的な絵画へと変化が見られるようになる。また、日本に「禅」が伝えられると共に、「水墨画」・「山水画」も伝来した。
- 「室町時代の絵画」・・・足利氏による開幕により、従来よりも、はなやかな絵画が好まれるようになり、「やまと絵」がより洗練されて、技術的にも革新的な発展が見られるようになる。
- 「江戸時代の絵画」・・・室町時代から続く「狩野派」と称される絵師集団が現れ、幕府御用達となって江戸絵画の主流となる。建築物の障壁画を中心にして、伊藤若冲・円山応挙・俵屋宗達・尾形光琳・中村芳中等の名手が続出する時代であった。
江戸時代の絵を代表するものとして、①の項で示した「浮世絵」があり、その「浮世絵」の特殊なものとして、「枕絵(春画)」がある。これは、所謂エロの世界ではあり、「枕絵(春画)」を歴史的にその根源を探ると、中国から医学書が流入した平安時代初期にある。これらの絵は、貴族達には特別な絵として愛用されていた、と考えられている。室町から江戸時代に入ると、花嫁の性教育の一つとして珍重されていた。
「明治以降の絵画」・・・従来の「日本画」と称されるものも継続されつつ、欧米からの「油絵(洋画)」が流入し、明治二十年(1887)には「東京美術学校」も設立されたり、また、「日本画創造運動」等もあって、近代日本画が急激に進歩し、岡倉天心・横山大観・下村観山等の秀筆が誕生した。以後、更に欧米の影響を受けながら日本の絵画が発展してきた。
まとめ
NHK大河ドラマ「光る君へ」のタイトル文字と、主人公である「まひろ(紫式部)」役の吉高百里子さんに書道指導をしているのは、根本知(ねもとさとし)氏であり、この先生は、大東文化大の卒業生であり、現在は立正大学で文学部の特任講師をしている人である。「書」に対しては全くの素人目にではあるものの、根本氏の「書体」の流れには、優美な感覚があるように感じられ、見事に平安時代の「優雅さ」を「書」の中に表現していると思慮される。
参考文献
- 春名好重著『平安時代書道史』思文閣出版 1993年(Amazon)
- 名児那明著『日本書道史 決定版』芸術新聞社監修 2009年(Amazon)
- 泉 武夫著『古代中世絵絹集成 基底材の美術史』中央公論美術出版 2022年(Amazon)
- 関 衛著『大日本絵画史』厚生閣 1934年(Amazon)
次回予告
令和六年9月9日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
次回のテーマ「平安時代の娯楽」について
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