第百二十二回 中山ふれあいサロン「歴史講座」

平成29年11月13日 瀧 義隆

平成29年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」に因んでメインテーマ「日本史上にみる女性像」「女性の歌と舞踊(ぶよう)」について

はじめに

日本人のみならず、外国の人々も、祝い事や行楽の宴会で酒盛が始まると、必ずと言っていいほど「歌」や「踊り」が出てくる。人間は嬉しくなると、その快感から異常に「はしゃぎ」たくなるのかもしれない。「おんな城主 直虎」が生きていた戦国時代は、日々が生命(いのち)をかける必死の緊張の連続であったことと考えられる。合戦に勝利し、その生命(いのち)を保てたことと、緊張の連続からの開放から、酒盛の後に「歌」や「踊り」が出て一時の快楽に酔っていたものであろう。そこで、このような「歌」や「踊り」は歴史上、何時頃に発生し伝承されてきたものか?今回の「歴史講座」ではこの問題を解き明かしてみたい。

1.「歌」について

まず、この項では、「歌」について述べることとしたい。

①「歌」の伝来について

日本の古(いにしえ)の人々は、何時頃から「歌」を歌い始めたものか?それを明らかに示す史料は現存していないが、『古事記』や『日本書記』の神代(かみよ)の時代をみると、「神をお祭りするときに花をもってお祭りし、鼓・笛・旗をもって歌舞してお祭りする。」
宇治谷 猛訳『日本書記 上』講談社学術文庫
2002年 25P
とあることからして、神代時代頃から歌ったり舞ったり、更には鼓や笛を奏でて囃したてていることがあったと考えられよう。そのような古来からの我国の「歌舞」に、外国からの舞楽が伝来して様々な「歌舞」の世界を発展させていったものとも思慮される。

それに関する史料をみると、
「樂舞部 一
樂舞部總載 上本邦樂舞ノ起源ハ遠ク神代ニ在リ、外国ト交通スルニ及ビテ、新羅樂、百済樂、高麗樂、唐樂、伎樂、林邑樂等傳ハレリ、凡ソ樂舞ニハ唱歌樂器ヲ主トスルモノト、舞踊ヲ主トスルモノトアリ、唱歌樂器ヲ主トスルモノハ、律呂、五音、八音、十二調子等ノ樂調ニ依リテ之ヲ奏シ、舞踊ヲ主トスルモノハ、舞譜ニ依リ、聲調ニ應ジテ之ヲ奏ス、(後略)」
『古事類苑 34 樂舞部 一』吉川弘文館
昭和四十三年 1P

「新羅樂(しらぎ)、百済(くだら)樂、高麗(こま)樂」
・・・・「三韓樂(さんかんがく)」と称されるもので、飛鳥時代から奈良時代かけて日本に伝来したもので、朝鮮系の音楽を言い、「雅楽」に影響していると考えられている。
「唐(とう)樂」・・奈良時代から平安時代にかけて日本に伝来したもので、インドやベトナムの音楽の影響を受けており、寺院の供養音楽や宮廷の儀式音楽として演奏されていた。
「伎(ぎ)樂」・・・推古天皇の頃(西暦612年頃)に、中国南部から伝えられたもので、奈良時代の大仏開眼供養【天平勝宝四年(752)】に「伎樂」が上演されている。

「林邑(りんゆう)樂」
・・・日本古代の音楽で、「林邑」とはベトナムのことであり、ベトナム(チャンパ)から伝来した音楽のことである。奈良時代に寺院の供養音楽として受け入れられ、平安時代頃には楽制改革により「唐楽」の中に組み入れられた。

「律呂(りつりょ)」
・・・中国の音律のことで、音楽のリズムに十二の律があって、それが6ずつの「律」と「呂」の二つから構成されたもの。
「舞譜(ぶふ)」・・どのように舞うかを書いた譜面か?

「聲調(せいちょう)」
・・・ふしまわし、音節の構成要素である高低昇降のアクセントのこと。

以上の史料によれば、飛鳥・奈良時代頃には、盛んに、各種の音楽が、単に中国や朝鮮半島ばかではなく、インドやベトナム等からも伝来して我国の舞楽に大きな影響を与えていたことが明確にみてとれるのではなかろうか。

②古来の「歌」について

次に、古来の「歌」としてどのようなものがあったものか、その具体的なものを列記してみると、
(イ)「神楽歌(かぐらうた)」
奈良時代以前に発祥した「神事歌謡(しんじかよう)」で、神楽舞に伴い歌われており、平安時代の中期頃に完成したと考えられている。この「神楽歌」が、平安時代になって貴族の間で盛んに歌われた声楽曲である。また、「神楽歌」は、男性が歌うものを「大歌(おおうた)」と称したのに対し、この男性の歌に合唱するような形で発祥した女性の歌を「小歌(こうた)」と言われるようになった。この「小歌」は室町時代から江戸時代初期にかけて流行しものであるが、江戸時代の「小唄(こうた)」とは相違するものである。

(ロ)「雅楽(ががく)」
古代、中国で発生した儀式音楽で、歌や舞を伴う器楽合奏曲で、奈良時代に我国に伝来したものである。我国に何時頃、誰が「雅楽」をもたらしたか?について、平成29年10月19日『讀賣新聞』朝刊に、「遣唐使物語 中 壮麗な調べ雅楽の源717年に唐に渡った真備は、音楽にも関心を寄せたのでだろう。音楽書や調律器具を持ち帰った成果は、平安時代に今の形となった雅楽の源流になったといえる。」とあり、養老元年(717)に遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が、中国から音楽書や調律器具を持ち帰って、それが我国の「雅楽」の源流となった、と断言している。

(ハ)「今様(いまよう)」
平安時代から鎌倉時代にかけて流行した歌謡で、『紫式部日記』の中に、「今様」の記事が見られのが初見となっている。後朱雀天皇の頃には、宮中の公式の御遊に用いられるようになった。後に、この「今様」が遊女達に伝わって、民間芸能として下層階級にも流行し、「今様」の形態は江戸時代の国学者にも影響を与えるものとなった。現在にも伝わる「今様」としては、『越天楽(えてんらく)』があり、この『越天楽』が、『黒田節(くろだぶし)』に影響を与えるものとなっている。

(ニ)「宴曲(えんきょく)」
鎌倉時代中期頃から末期にかけて鎌倉地方で流行した歌謡の一つで、以後、室町時代にも武士社会に歌われたものである。曲節は主としてリズムカルなもので、時々無拍子の部分があるような、全体が変化に富む歌謡であった。

(ホ)「民謡(みんよう)」
「民謡」が何時頃から歌われるようになったか?等に関する史料は全くなく、民衆の労働や儀式等の集団の中に伝承されてきたものである。「民謡」は、別名を「俚謡(りよう)」・「俗謡(ぞくうた)」・「田舎唄(いなかうた)」等と称されていた。「民謡」の種類としては、「遊び歌」・「祝い歌」・「仕事歌」・「酒盛り歌」・「盆踊り歌」等がある。

(ヘ)童謡(わらべうた)」
「民謡」と同じように、その発生の時期は全く不明で、古くから主として子供や母親等に伝わってきたものであろう。種類としては、「遊び歌」・「絵描き歌」・「手鞠(てまり) 歌」・「子守(こもり)歌」・「数え歌」等がある。

2.「舞(まい)」について

「舞」とは、日本古来の「神楽(かぐら)」に、アジア大陸から伝来してきた様々な旋回運動が加味して形成されたもので、「伝統芸能」として「能楽」のような専門的技能を要する芸術が誕生し、世襲的に伝承されてきたものである。そこで、「舞」についての史料をみると、
「樂舞部 二十二

舞ハマヒト云フ、音樂ノ節奏、又ハ歌謡ノ調子ニ合ハセテ、両手ヲ主トシテ凡テ身體ヲ動シ、種々ノ容態ヲ為シ、演舞スルヲ云フ、舞ニハ國風ノ舞アリ、外國傳来ノ舞アリ、近世ニ至リテ俗樂ノ舞アリ、名目ニ久米舞、楯節舞、田舞、倭舞、吉志舞、獅子舞、延年舞、男舞、女舞等ノ類アリ、(後略)」
『古事類苑 35 樂舞部 二』吉川弘文館
昭和四十三年 421P

「節奏(せっそう)」
・・・・音楽的なリズム・拍子のこと。

「國風(こくふう)ノ舞」
・・・・一つの国や地方の伝統となっている、独特の舞を舞うこと。

「俗樂(ぞくがく)ノ舞」
・・・・日本の伝統的な世俗音楽にのって舞うこと。雅楽や能楽が日本古来の「正楽」とするのに対して、それ以外に伝わってきた音楽を「俗樂」と言い、その音楽に従って舞うこと。

「久米(くめ)舞」
・・・古代における舞いで、神武天皇が征討した時に久米部(くめべ)と称する人が歌った「久米歌」に「舞」をつけたもの。中世から近世へと伝承され、明治以降の「大嘗祭」・「紀元節」等の時に舞われ、現代では四人の舞人が剣を抜いて舞うことが行われている。

「楯節(たたふし)舞」
・・・大嘗祭の時に、代々の安倍氏が歌踊したもので、闕腋(けってき)と称される「打掛」を着て甲冑をつけて、盾(たて)と■(げき)を持って舞うまものである。

「田(た)舞」・・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈念して行われた、古代儀式の舞踊の一つで、民間の田仕事の歌と舞が宮廷に入って儀式化したものと考えられている。

「倭(やまと)舞」
・・・雅楽の一つで、「即位の大礼」や「鎮魂祭」等の時に、「大和歌(やまとうた)」に合わせて舞うもので、拝礼の作法を舞踊化したものである。

「吉志(きし)舞」
・・・・宮廷に仕えた安倍氏が当主となって監督し、
「楯節舞」と同じように大嘗祭の時に、主として武官の服装で踊られた舞楽である。現在堺市の七道浜の住人が傘を被って踊るもの等にその名残が見られると言われている。「獅子(しし)舞」

・・・インドや中国の遊牧民族がライオンを霊獣・神として崇めて舞い踊ったものが日本に伝来したと考えられており、室町時代に伊勢国(現在の三重県)で飢饉(ききん)や疫病を追い払う為に、正月に舞ったのが始めとされている。

「延年(えんねん)舞」
・・・鎌倉・室町時代に流行した舞いの一つで、寺院で行われる「法会」の後に、僧侶や稚児達が行った宴遊の時の歌舞である。

「男(おとこ)舞」
・・・武士に流行した舞の一つで、笛や大鼓・小鼓
等の囃しに合わせて舞うもので、テンポの速い壮快なもので、烏帽子に派手な小袖の片肌を脱ぎ、肩に御弊(ごへい)を差して舞うものである。

「女(おんな)舞」
・・・奈良・平安時代の朝廷内の「内教坊(ないきょうぼう)」の妓女(ぎじょ)が舞ったものである。後に「曲舞(くせまい)」・「幸若舞(こうわかまい)」・「田楽(でんがく)」・「猿楽(さるがく)」等で行われた、女性による「舞」も「女舞」と称するようになった。この史料にみられるように、「舞」は「雅楽」のように非常に堅苦しいものが、中国や朝鮮半島の影響を受けつつ、貴族階級で好まれ、年中行事中心の「歌舞」となって形成され、それが更に発展して「久米舞」、「楯節舞」、「田舞」等々の「舞」へと進展していったことを明確に知ることが出来る。

3.「踊(おどり)」について

とりあえず、この講座では、「舞」と「踊」を区別して扱っているので、この項では「踊」について述べてみたい。

① 「踊」とは?

まず、「踊」についての史料をみると、
「踊
踊ハ又躍ノ字ヲ用ヰテ、ヲドリト云フ、踊ハ舞ヨリ分レタル踏舞ニシテ、俗曲ノ音樂歌謡ノ調子ニ合セテ之ヲ為スモノナリ、(後略)」
『古事類苑 35 樂舞部 二』吉川弘文館
昭和四十三年 472P

「踏舞(とうぶ)」
・・・足で拍子をとって「舞」を舞うもの。足で拍子をとることを「スル」と称している。

「俗曲(ぞっきょく)」
・・・雅楽が高級階級のものとすれば、「俗曲」は一般的な歌舞のことで、近世に入り「筝曲」や「三味線」等を指して言う場合もあった。明確な区分もない座興や寄席等で歌われる音曲を指すように変化していった。「踊」とは、「舞」が特殊階級の芸能であったのに対して、「踊」は一般大衆から自然発生した郷土・民族芸能であって、現在にも継承されている「舞踊」である。明治時代以前は、「舞」と「踊」は明確に区分されていたが、明治維新以後に西洋から「ダンス」が流入されてことにより、「舞」も「踊」も混在してしまうこととなった。

② 「踊」の歴史

次に、「踊の歴史」についての概略をみると、
(イ) 古代(神代)の「踊」
天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天岩屋(あまのいわや)に隠れた時、大神を岩屋から誘い出す為に、天鈿女命・天宇受売命(あめのうずめのみこと)が半裸になって踊って多くの神々を笑わせ、その騒ぎに誘われた大神が岩屋を出ることとなった。
・・・・・・・・・・資料①参照

(ロ) 中世の「踊」
「白拍子(しらびょうし)」は、平安時代末期頃から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一つで、「白拍子」は「遊女(あそびめ)」とも言われ、立烏帽子(たてえぼし)に水干(すいかん)に太刀を差した男姿で「今様」を歌いながら舞っていた。
・・・・・・・・・・資料②参照

「念仏踊(ねんぶつおどり)」は、平安時代に空也上人が始めて、鎌倉時代に一遍上人が広めたと言われているもので、念仏を唱えながら踊る伝統芸能である。長野県下伊那郡阿南町の「和合念仏踊」や香川県綾部郡綾川町の「滝宮念仏踊」、京都の「六斎念仏踊」等が現在にも伝承されている。

・・・・・・・・・・資料③参照
「万歳(まんざい)」は、現在の寄席で行われている「漫才」と相違していて、相方が鼓を打って囃したり、相互に歌ったりのやり取りをして、その歌にのって踊ったりしていた。
現在の「漫才」は、そのやり取りの部分が独立して相互の会話を面白可笑しくしたものである。第二次世界大戦後もしばらく「三河万歳」や「尾張万歳」も存在したが、現在ではその後継者もなく衰退してしまっている。
・・・・・・・・・・資料④参照

(ハ) 戦国時代の「踊」
室町時代に「風流踊」が流行し、鉦(かね)や太鼓、笛等の楽器演奏や小歌に合わせ、様々な衣装を着た人々が群舞する踊であった。出雲大社の巫女であった「阿国(おくに)」と称する女性が、社殿の修理費を集める為に、京都に出て踊ったのが「歌舞伎踊(かぶきおどり)」と言われるもので、塗り笠に紅の腰蓑(こしみの)をまとい、掛鉦(かけがね)を首にかけ、笛や鼓の拍子に合わせて踊った。これが発展して、後に「歌舞伎」となったのである。
・・・・・・・・・・資料⑤参照

(ニ) 江戸時代頃の「踊」
「小町踊」は、江戸時代の初期から中期にかけて、京都等を中心に踊られた風流踊の一つで、美しく着飾った子供達が、太鼓で拍子をとって踊ったもので、別名を「七夕踊」とも言った。
・・・・・・・・・・資料⑥参照

平安時代に発祥したとされる「念仏踊」がもっと大衆化して死者を供養する為に、盂蘭盆会の行事の一つとして流行し、江戸時代初期に隆盛をみたのが「盆踊」である。しかし、この時代の「盆踊」は未婚の男女の出会いの場であったばかりでなく、性の開放エネルギーともなっていたので、しばしば風紀取り締まりの対象となった。

以上のように何時の時代でも、上は朝廷の貴族階級から賎しくは一般庶民も、「歌い」・「舞い」・「踊って」、現実から一時逃避して快楽の世界を求めていたのである。様々なⅠT機器が開発されて、昔には考えられないような通信機器時代に生きている我々にも、テレビやラジヲの美しい「歌」や「踊」の放映は、夢のような一時(いっとき)を与えてくれているのではなかろうか。

まとめ

今年の「歴史講座」は、平成29年NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」に因んで、メインテーマを「日本史上にみる女性像」と設定して、様々に女性に関する事項を考究してみたが、長い歴史の中の「女性像」にはとても迫りきれるものではなく、「女性像」のごくごく一部でしかなかったと思われる。
これからも更に「歴史講座」を充実したものにすべく、もっともっと努力していきたいと考えています。

資料

参考文献
次回予告

平成30年1月15日(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設について」「西郷隆盛の生い立ちと略歴」について

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