徳川家康の外交

第百五十一回 サロン中山「歴史講座」
令和五年7月10日

瀧 義隆

令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
今回のテーマ「徳川家康の外交」とは

はじめに

徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉との関係に、苦労の連続の中、「耐えに耐えたうえ」で、ようようにして「天下人」となったが、「天下」を手に入れる事は、その視野を国の内にだけ向けていられるわけではない。日本は周囲を海に囲まれた細長い列島である。周辺には中国や蒙古(現在のモンゴル)・朝鮮・露西亜国等の大国があって、機会を窺っては日本の征服を企てるかもしれない状態にある。また、17世紀初めの西洋では、ポルトガルやオランダだけではなく、イギリス等も東洋への進出を謀り、植民地拡大を目的とした航海貿易を盛んに企んでいる時期でもあった。

このような世界の動向に、徳川家康はどのように海外への視野を広げていこうとしたか?今回の「歴史講座」では、この点に目を向けてみたい。

1.「江戸時代初期の交易」について

徳川家康が「征夷大将軍」に補任された、慶長八年(1603)の翌年、慶長九年(1604)の八月廿六日の項に、家康の海外交易と外交文書についての記述がみられるので、それを示すと、

「安南へ御書をつかはされ、先に方物捧げしをもて一文字の御刀、鎌倉廣次の御脇差をつかはさる。又末次平蔵に安南渡海の御朱印、角倉了以光好に東京渡海の御朱印、田邊屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印、與右衛門に太泥國渡海の御朱印、平戸助大夫に順化渡海の御朱印、林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 118P

「安南(あんなん)」・・・・現在のベトナム北部・中部地区。
「方物(ほうぶつ)」・・・・産物、土産品の事。
「一文字の御刀」・・・・・豪壮な太刀姿と華やかな刃文に特徴のある太刀。
「鎌倉廣次(かまくらひろつぐ)」・・・・室町後期の相模国の鎌倉に住む刀鍛冶で、「廣次」の銘を使っていた。
「末次平蔵(すえつぐへいぞう)」・・・・江戸時代初期の貿易商人であること以外は詳細不明の人物である。
「角倉了以光好(すみのくらりょういみつよし)」・・・・本名は吉田で、江戸時代初期における京都の豪商で、朱印船による貿易も営んでいた。
「東京(トンキン)」・・・・・ヨーロッパ人が呼ぶ、ベトナム北部のこと。
「田邊屋又右衛門(たなべやまたうえもん)」・・・・泉州堺の豪商で、銀や硫黄等を輸出して、東南アジアから薬品の原料を輸入していた。
「呂宋(るそん)」・・・・・・現在のフィリピンである。
「與右衛門(ようえもん)」・・池田與右衛門の事で、『元和航海記』を著す、ポルトガル人相手の貿易も行っていた。
「太泥國(パタニ)」・・・・・パッターニ―・スルタ―ン国の事で、マレー半島にあった国で1902年に滅亡した。
「順化(ふえ)」・・・・・・・ベトナムの中部にある都市の「フエ」の事。
「平戸助大夫(ひらどすけだゆう)」・・・肥前国平戸の豪商か?
「西洋渡海」・・・・・・・当時の西洋とは、マカオ・ベトナム・フィリピン等が中心である。
「林三官(りんさんかん)」・・・マカオ・ベトナム・フィリピン等を相手とする中国人の貿易商。

以上の史料に見られるように、江戸時代初期における日本の貿易相手国は、中国はもとより、東南アジアの内、マカオ・ベトナム・フィリピン等が中心であり、遠方の国としては、ポルトガルやオランダも来航していたのである。この時期に日本に輸入した物品は、鉄砲・火薬・時計・ガラス・砂糖・中国製の生糸・絹織物等で、日本から輸出していたのは、銀・硫黄・鮫の皮・刀等であった。

また、「朱印船」とは、この時期に貿易国であった国々に対して、当該の「船」は海賊船ではなく、日本の幕府が公認している商売の船であることを証明する書状を携えている船の事である。なお、戦国時代から江戸時代初期にかけては、「八幡船(ばはんせん)」と称する海賊船が横行しており、このような海賊船と明確に区別して、幕府が公認している船であることを証明する「朱印」という公文書であったのである。

更に、何故「朱印」と言うのかを調べると、「命令」や「承認」を目的とした公文書に「朱肉(しゅにく)」を使って押印したからである。現在においても、日本の各地の神社仏閣で「御朱印帳」があって、神様や仏様の分身を現す文言と朱肉による印章印影が押印されているのも、「朱印状」の類である。

2.「外交顧問と家康」

「関ケ原の合戦」の直後の慶長五年(1600)四月十九日に、オランダの船である「リーフデ号」が、豊後国(現在の大分県臼杵市佐志生)に漂着した。「リーフデ号」は、オランダを出航して南極に近いマゼラン海峡を通り東洋へと向かい、出船してから1年10ケ月かけて日本に漂着したのである。「リーフデ号」は3本マストで18の大砲を構え、乗務員100人(漂着した時は23人)の帆船である。・・・・・・・・・・資料①参照

これを史料として『古事類苑』を調べてみると、

「通航一覧 二百五十二 諳厄利亜長崎御用書物曰、慶長五庚子年、泉洲堺の浦に不見馴大船壹艘著岸す、遂吟味之處、為商賣始而咬?吧よりヲランダ人エケレス人相渡申候に付、早速江戸江致注進江府江可致廻船由被仰付依之出帆す、海中過半乗出し、遭難風相州浦川に打寄せ、就破船乗組人陸より江戸江被召御詮議之上、彼者共申上候は、日本渡海之義蒙御赦免度為訴訟始而来朝候、於御赦免は、年々致渡海商賣仕度由奉願、乗船無之故、八九年も其内御扶持方等拝領被仰付、阿蘭陀之頭人ヤンヤウスエケレス之頭人アンシと申者、逗留之内、折節御城江御召、異国之儀共、御尋に付、段々申上、就夫ヤンヤウス儀は首尾能相務、右両人之者共江屋敷等拝領被仰付、致作事令住居、於江戸ヤンヤウス居候所をヤヨソガシ、アンジ居候所をアンジ町と申候、(後略)」

『古事類苑 26 外交部 十七』 吉川弘文館 昭和四十四年 1176~1177P

「通航一覧」・・・・・・江戸幕府が記録した外交史料集であり、嘉永三年(1850)から六年かけて編纂された。
「諳厄利亜(あんげりあ・あんげるあ)」・・・・・日本の中世の頃に、学者が用いた用語のことで、「イギリス」のこと。
「庚子年(かのえね)」・・慶長五年、西暦1600年のこと。
「吟味(ぎんみ)」・・・・取り調べること。
「咬?吧(ヨーロッパ?)」・・・・現在のヨーロッパの漢字表記は、「欧羅巴」であるが、江戸初期頃にはまだ統一した表記が定まってはいない。
「エケレス」・・・・・イギリスのことである。
「注進(ちゅうしん)」・・・・・事変を急いで報告すること。
「相州浦川(そうしゅううらかわ)」・・・・・現在の神奈川県横浜市金沢区「浦川」近辺。 
「詮議(せんぎ)」・・・ 評議して事をはっきりさせること。
「赦免(しゃめん)」・・・罪を許すこと。
「扶持(ふち)」・・・・・武士の給与のこと。
「頭人(とうにん)」・・・一つの集団の代表者、統率する人のこと。
「ヤンヤウス」・・・・オランダ人のヤン・ヨーステンのこと。
「アンシ」・・・・・・イギリス人のウイリアム・アダムスのこと。

この時代、日本には、ルソン島のマニラを経由して来訪した西洋人を「紅毛人(こうもんじん)・南蛮人(なんばんじん)」と称しており、オランダ人やスペイン人やポルトガル人等がキリスト教の日本普及の為に遠洋航海の危険を冒しながらも来日していたのである。

※ジャガイモについて慶長三年(1598)に、オランダ人(名前は不明)がジャガタラ(現在のジャカルタ)から日本に芋を持ちこんだ。これを「ジャガタラ芋」と称していたが、変化して「ジャガ芋」と名前が定着した。

当時、オランダはイギリスから独立したばかりで、「東インド会社」を設立して、他国と競うようにしてアジアに侵出を試みていた。因みに、「リーフデ号」の「リーフデ」とは「愛」を意味するものである。この「リーフデ号」には、オランダ人の航海士である「ヤン・ヨーステン(日本語名は耶揚子)」と、水先案内人のイギリス人である「ウイリアム・アダムス(日本語名は三浦按針)」等、23人が乗船していた。

家康は、当時、豊臣政権内において、五大老の一人として中心的な位置を占めていて、漂着した「ヤン・ヨーステン」と「ウイリアム・アダムス」を大坂城に呼び出して謁見し、その後、江戸に呼び出して家康の「外交顧問」にした。

この二人についてみると、

①「ヤン・ヨーステン(耶揚子)」

正式な名前は、「ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステン」
誕生・・・・西暦1556年?(正確には判らない。)
死去・・・・西暦1623年(溺死)
生誕地・・・オランダ・デルフト
※船大工に弟子入りして造船術を学び、1598年6月24日に「ホープ号」の航海士としてオランダのロッテルダムを出航し、慶長五年(1600)四月十九日に「リーフデ号」で「ウイリアム・アダムス」と共に豊後国に漂着した。
家康に謁見後、気に入られて「通訳士」として仕える事となり、外交上の問題に助言を求められたり、家康の側近として航海術や幾何学・数学等を教授した。
家康に信頼されて、内堀沿に屋敷を賜り慶長七年(1607)には日本人の娘と結婚し、二人の子供にも恵まれている。元和九年(1623)?月?日、朱印船での貿易の為に、貨物捕給船の「リチャード・ダフィールド号」の船長となり、バダヴィア(現在のジャカルタ)から日本に向かう途中で、インドシナ付近で座礁し、溺死してしまった。
なお、イングランドでは、1588年に海軍に入隊しており、また、既にメアリー・ハントと結婚をしていて、娘のデリヴァレンスと、息子のジョンの二人の子供がいた。

『国史大辞典 第十四巻』吉川弘文館 平成五年 244P

②「ウイリアム・アダムス(三浦按針)」

誕生・・・・西暦1564年9月24日
死去・・・・西暦1620年4月24日(長崎平戸で死去)(横須賀塚山公園に埋葬されている。)
生誕地・・・イギリス・ジリンガム
※12歳で造船場に弟子入りして造船術・航海術・天文学を学び34歳で「ヤン・ヨーステン」と共に東洋(日本)に向けて出帆し、南極に近いマゼラン海峡を通り、1年10ケ月後に豊後国(現在の大分県臼杵市佐志生)に漂着した。漂着後、「ヤン・ヨーステン」と共に大坂城に連れ出されて家康に謁見し、その後に江戸城に召し出されて、家康自身に数学や地理学等を教授した。また、家康の家臣達相手に、砲術や航海術・天文学を教えたりし、慶長九年(1604)には120トンの洋式帆船を造ったりもしている。
ウイリアム・アダムスはプロテスタントであったので、カトリック系のポルトガル人と対立していて、家康にはカトリック教の信仰を禁止するように進言したりしていた。また、アジア貿易に力をいれており、長崎の平戸を中心にしてシャムのアユタヤや、中国のコーチン等に遠征して朱印船貿易を行っていたが、家康の死後、二代将軍の秀忠には優遇されることもなく、元和六年(1620)四月二十四日、失意の内に平戸で死去した。
なお、ウイリアム・アダムスもイギリスで結婚をしており、妻のマリ―とジョセフとスザンナの二人の子供もいた。

『国史大辞典 第一巻』吉川弘文館  昭和五十四年 233~234P ・・・・・・・・・資料②参照

3.「家康が直接会った西洋人」

①「織田信長と豊臣秀吉の場合」

織田信長は、ポルトガル人の宣教師の入国を許し、国内での布教と教会の建設等も許可し、西洋の先進的知識を導入し、いち早く「地球儀」を手に入れたり、黒人を家臣に加え、「弥助(やすけ)」と名乗らせており、「本能寺の変」の時にも「弥助」も同道していたが、明智軍に捕縛されたものの、許されて追放され、以後、不明となっている。・・・・・・・・・・・資料③参照

この織田信長と黒人の「弥助」の出会いについて、『信長公記』を見ると、天正九年(1581)二月の項に、

「二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢廿六、七と見えたり。惣の身の黒き事牛のごとく、彼男健やかに器量なり。余かも強力十の人に勝たり。伴天連召列れ参り、御礼申上ぐ。誠に御威光を以て、古今承り及ばざる三国の名物、か様に希有の物共細々拝見有難き御事なり。(後略)」

太田牛一著『信長公記』奥野高広・岩沢愿彦 校注 角川書店 平成十四年 339p

「きりしたん国」・・・・・キリスト教の普及している国のことで、日本から見た西洋諸国を指す。
「伴天連(ばてれん)」・・・・キリスト教徒や外国人の事で、ポルトガル人等の宣教師を指す。ここに示す伴天連は、イエズス会宣教師であるヴァリニーノのこと。

「希有(けう)」・・・・・・・めったにない、めずらしい事。この史料に見られるように、織田信長はポルトガル人等の宣教師とその一行を積極的に受け入れており、特に「黒人」は当時としては特に珍しいものであったようで、織田信長の側近の家臣にまでしている。

これに対して、豊臣秀吉は、ポルトガル人の宣教師と対面しているが、「ポルトガル人は日本人を連れ去って奴隷にしてしまう。」との恐れから天正十五年(1587)六月二十四日、筑前国箱崎(現在の福岡市東区)において、「伴天連(バテレン)追放令(追放の理由については諸説があり、複雑になっているので省略する。)」を発布して日本からポルトガル人の宣教師を追い出したのである。

※「伴天連(バテレン)」とは、ポルトガル語の「神父」を意味する「padre」で、英語の「father」と同じで「父親」を意味する印欧祖語に由来する言葉である。・・・・・・・・・・資料④参照

②「家康が直接会った西洋人」

徳川家康は、織田信長の居城である「安土城」には何度となく行き来をしている事から、黒人の「弥助」はもとより、伴天連の宣教師達等、多くの「西洋人」を見ていたろうし、豊臣政権下においても、幾度となく「西洋人」と会う機会も多かったものと考えられる。

従って、家康としては、この二人の対外国人観を学びとり、それを徳川政権に生かしたのではなかろうか?その結果として、家康は多くの外国人と対面を行っている。次に、その実態を列記すると、

●「ロドリゴ・デ・ピぺロ」・・・・・スペイン人
慶長十四年(1609)?月?日、フリップ3世の命令により、マニラからアカプリコに向けての航海中に漂流し、上総国岩和田村(現在の千葉県夷隅郡御宿町)に漂着した。
●「セバスティアン・ビスカイノ」・・スペイン人
慶長十六年(1611)六月二十二日に、「ロドリゴ総督」救助への答礼として来日し、家康や秀忠に謁見した。
●「ジョン・セーリス」・・・・・・・イギリス・ロンドンの人
慶長十八年(1613)?月?日、日英貿易交渉の為に来日した。ウイリアム・アダムスの助力を得て、家康から「朱印状」をもらった。
●「ヘンドリック・ブラウエル」・・・オランダ人
慶長十八年(1613)~慶長十九年(1614)まで、平戸のオランダ商館長をしており、オランダ領東インド総督でもあったが、本来は、オランダの冒険家である。
●「レオナルド・キャンプス」・・・・オランダ人
元和元年(1616)オランダ商館長として来日する。以上のように、外国からの交易要求に対して、徳川家康は織田信長や豊臣秀吉の外交政策を充分に参考にしつつ、日本国の統治者(代表権者)として、外交顧問の「ヤン・ヨーステン(耶揚子)」や、「ウイリアム・アダムス(三浦按針)」等の意見を参考にしつ積極的に外交交渉に携わったものと考えられよう。

なお、徳川幕府が「鎖国体制」を決定するのは、徳川家康の死後の寛永十六年(1639)の事であり、長崎の「出島」のみを外国との交易の窓口とし、オランダ国のみを対象として開港したのである。

まとめ

天文十二年(1543)、種子島に中国の船が漂着して、この船に乗っていたポルトガル人が「火縄式鉄砲」を日本に伝来してから、この文明の利器の威力に着眼した織田信長は、積極的に対外交易を盛んに認め、更に、豊臣秀吉も宗教上の問題を別として、やはり対外交易を認めている。この二人の「天下人」を見本とした徳川家康も外交顧問を採用して、信長にも秀吉にもない新しい対外政策を構築しようとしたのではなかろうか、と考えられよう。

参考資料

資料1から資料3
資料4:信長時代の伴天連来日図

参考文献

次回予告

令和五年9月18日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
次回のテーマ「大御所政治の始まり」について

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