第百二十八回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成30年7月9日
瀧 義 隆
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設」について
「長州藩・毛利家」について
はじめに
NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」は、いよいよ薩摩藩が幕府政治の中枢を、強烈に脅かす存在として台頭していく時期に入ってきている。このような薩摩藩の動向に呼応したのが、藩の近代化を進めていた長州藩・萩藩(毛利藩)である。そこで、今回の「歴史講座」では、「長州藩・毛利家」について焦点をあて、その概略を述べてみたい。
1.「長州と毛利家」について
この項では、「長州」の沿革と「毛利家」の概略について触れてみたい。
① 「長州」について
初めに、「長州」についての史料をみると、「長門国、北南西は海、東は周防、石見に隣るなり。下関を門司関と云い、又赤間関とも云う(中略)下関を乗出しては、九州地いずかたへも乗船なり。古来より此の所要津たり。且つ両国の鎮府たるが故に、長門に探題を置いて、山陽道の往来軍用を糺すなり。(後略)」
山鹿素行著『新編 武家事紀』延宝元年(1673)序
新人物往来社 昭和四十四年 1367P
「要津(ようしん)」・・交通・商業上の重要な港のこと。
「鎮府(ちんぶ)」・・・「鎮守府(ちんじゅふ)」のことで、奈良・平安時代に、朝廷が設置した軍事機関のことである。
「探題(たんだい)」・・鎌倉時代には、九州探題・長門探題等があり、政務・訴訟の裁断・軍事等を担当し、地方行政の重要な役所であった。このように、「長州」とは「長門国」のことで、本州西南端の地域で、山陽道の防備上の要であるとともに、九州に渡る時の重要な港を有する場所であり、それ故に、古代に於いては「長門探題(ながとたんだい)」という朝廷の行政機関も設置されてあるほどの重要拠点であることを示している。
② 「毛利家」について
この項では、この長門国に定住した「毛利家」について、史料を参考にしつつ検証することとしたい。「毛利右馬頭輝元 備中守隆元が子、大江元就が嫡孫なり。(中略)秀吉治世に及んで乃ち幕下に属し、安芸、周防、長門、石見、出雲、隠岐、備後、備中、伯耆半国を領し、中納言に任ず。(中略)関ヶ原役に逆徒の勧によって大坂西丸に移り(源君が御館)、秀頼に替って軍事をつとむ。吉川蔵人広家(元春が子)輝元に替って所々の城攻めをなす。逆徒敗北の後、吉川広家かねて源君へ降するを以て、輝元罪科を許され、領国悉く没収せられ長門、周防を賜る。寛永二年卒す。七十二歳。(後略)」
山鹿素行著『新編 武家事紀』延宝元年(1673)序
新人物往来社 昭和四十四年 538P
「源君(げんくん)」・・徳川家康のこと。
「逆徒(ぎゃくと)」・・石田三成のこと。
この史料が示すように、豊臣政権下では「毛利家」の所領・石高は安芸・周防・長門等九ケ国という広大なもので、豊臣政権下での地位も「五大老」の一人として重職を担うものであった。
豊臣時代(安芸、周防、長門、石見、出雲、隠岐、備後、備中、伯耆半国を所領)
・・・・・・・・約112万石
・・・・・・・・・資料①参照
これが、関ヶ原の合戦の時に毛利輝元は石田三成に加担して、大坂城に総大将として入ったが、敗北してしまい、結果、次のような所領・石高となったのである。
徳川時代(関ヶ原の合戦後は周防、長門のみの所領となる。)
慶長十二年(1607)・・・・・・・539,286石
慶長十八年(1613)・・・・・・・369,411石
・・・・・・・・・資料②参照
このように、石高としては、豊臣時代の半分以下となってしまったのである。この石高が半減されてしまった毛利家の徳川に対する怨みが、後々、幕末から明治維新へと長州藩を討幕派に突き進める原動力でもあった、とする説を産むものでもあった。
③ 「毛利家の系譜」について
毛利家の系譜には、大江広元を初代とする説や、毛利元就を初代とする考え方があるが、ここでは大江広元を初代とする系譜の略図を示してみたい。
大江広元(おおえひろもと)→毛利季光(もうりすえみつ)→経光(つねみつ)→時親(ときちか)→元春(もとはる)→広房(ひろふさ)→光房(みつふさ)→煕元(ひろもと)→豊元(とよもと)→弘元(ひろもと)→元就(もとなり)→隆元(たかもと)→輝元(てるもと)→秀就(ひでなり)→綱広(つなひろ)→吉就(よしなり)→吉広(よしひろ)→吉元(よしもと)→宗広(むねひろ)→重就(しげひろ)→治親(はるちか)→斉房(なりふさ)→斉煕(なりひろ)→斉元(なりもと)→斉広(なりひろ)→敬親(たかちか)→元徳(もとのり)・定広(さだひろ)→元昭(もとあき)→元道(もとみち)→元敬(もとたか)→元栄(もとひで)(第三十二代)
●大江広元・・・久安四年(1148)~嘉禄元年(1225)六月十日
平安末期から鎌倉時代初期までの人で、源頼朝に従属し、鎌倉幕府の重要な役職を歴任している。
●毛利季光・・・建仁二年(1202)~宝治元年(1247)六月五日
鎌倉幕府三代将軍の源実朝に仕えた人で、季光が父の遺領である、相模国毛利庄(現在の厚木市)を相続したことから、「大江」姓を「毛利」と改めた。
●毛利元就・・・明応六年(1497)三月十四日~元亀二年(1571)
六月十四日
大栄三年(1523)に、嫡流の毛利幸松丸が、九歳で急死してしまったことから、重臣達の推奨により毛利家の家督を継承し、数々の合戦を経て、毛利家を戦国時代でも有数の大大名に伸し上げた人物である。
●毛利元栄・・ 現在の当主で、山口県防府市に在住している。
以上のように、「毛利家」は、累々と現在まで継承されている家柄である。
2.「長州藩の奇兵隊と英傑達」について
①「幕末の長州藩」について
本来、攘夷派であった長州藩は、文久三年(1863)五月に、下関海峡でアメリカ・フランス・オランダの艦船を砲撃して攘夷を決行したが、翌年の六月にアメリカ・フランスの報復を受け、下関砲台を破壊されてしまい、これにより、長州藩は以前以上に防衛に力を入れるようになった。文久三年八月から元治元年八月にかけて、「禁門の変」・「四国連合艦隊下関砲撃」・「第一次幕長戦争」等と、たてつづけに事件が勃発し、藩の政治も保守派の「俗論派」と「急進派」に二分して混乱したが、慶應元年(1865)の正月に「急進派」が藩政の実権を握り、以後、軍制改革を進めながら、慶應二年(1866)五月に薩摩藩との同盟である「薩長同盟」を結んで、倒幕の中心を担うこととなったのである。
②「長州藩の英傑達」について
日本の近代化国家に推し進める強大な政治的パワーには、長州藩にも多くの有能な人材がいたことも重要なポイントでもある。そこで、この項では、長州藩の英傑達のそのごく一部に目を向けてみたい。
●吉田松陰(よしだしょういん)
・・・・文政十三年(1830)八月四日~安政六年(1859)十月二十七日
杉百合之助の次男で、叔父で兵学者の吉田大助の養子となる。嘉永三年(1850)に江戸に出て、佐久間象山・安積良齋に師事して洋式兵学を学んだ。安政四年(1857)に叔父が開いていた「松下村塾」を継承し、多くの子弟を教育して、幕末の激動期の原動力となる人物を輩出した。
●高杉晋作(たかすぎしんさく)
・・・天保十年(1839)八月二十日~慶應三年(1867)
四月十四日
幼い頃から文武両道に秀でて、安政四年(1857)には吉田松陰の「松下村塾」の門弟となり、松下村塾の四天王とも称されるような人物であった。翌年には江戸に上り、幕府の「昌平坂学問所」でも学んでいる。
藩政の大混乱の中にあって、「俗論派」の中心となって「奇兵隊」を組織する等、長州藩の倒幕の軍事行動を推進していったが、志半ばにして肺結核により、慶應三年に死去した。
●木戸孝允(たかよし・こういん)
別名、桂 小五郎(かつらこごろう)
・・・天保四年(1833)八月十一日~明治十年(1877)
五月二十六日
藩医の長男として誕生し、幼い時には「和田」姓で、八歳の時には「桂」姓となり、幕末には「新堀松輔」、「広戸孝助」を名乗ったりしていて、三十六歳以後に「木戸孝允」と改名した。
嘉永二年(1849)に「松下村塾」に入門し、文武に頭角を現し、嘉永五年(1852)には江戸に出て剣術修行をしている。長州藩に戻ってから、文久二年(1863)頃から藩政の中枢を担うようになり、大胆な藩政改革を実行したり、藩内の大混乱の後に、慶應二年(1866)の「薩長同盟」以後は薩摩藩と共に倒幕に邁進した。明治新政府となってからは、参与・参議・文部卿等の重職を歴任して活躍したが、明治十年に入り持病が悪化し、満四十三歳にしてこの世を去った。
●伊藤博文(いとうひろぶみ)
・・・天保十二年(1841)九月二日~明治四十二年(1909)十月二十六日
農家である林家の長男として生れ林利助と名乗っていた。十二歳頃に水井武兵衛の養子となったが、水井武兵衛が伊藤弥右衛門の養子となったことから、伊藤直右衛門と改名した。安政四年(1857)二月頃に「松下村塾」に入門し、安政六年(1859)十月頃には桂小五郎の従者となって江戸に出ている。文久三年(1863)五月、井上馨(いのうえかおる)等とイギリスに留学しており、藩の混乱時に帰国して通訳としての役目等で活躍した。明治維新後に「伊藤博文」と改名し、政府の重職を歴任した後、明治十八年(1885)十二月に日本の初代内閣総理大臣に就任した。明治四十二年(1909)十月、満州・朝鮮問題の解決の為に訪れていた、ハルピン駅で暗殺されてしまった。
●山縣有朋(やまがたありとも)
・・・天保九年(1838)四月二十二日~大正十一年(1922)二月一日
長州藩の足軽よりも身分の低い、「蔵元中間」と称される家柄の山縣三郎有稔の長男(次男とする説もある。)として誕生した。「松下村塾」の門弟であったかどうか?についても色々な説があって、明確なものがない。文久三年(1863)二月に、高杉晋作が創設した奇兵隊に入隊した頃から頭角を現し、藩内や国内の大混乱の中で顕著な活躍を示した。
明治新政府にあっては、陸軍卿・地方行政官等の重職を歴任し、明治二十三年(1889)十二月には第三代の内閣総理大臣、明治三十一年(1898)十一月にも第九代目の内閣総理大臣となっている。人物的には生来の女好きであったらしいが、財産や金銭については執着心がなく、死去した時には財産らしい財産はなかった、と伝えられている。
④ 「幕末長州藩の軍備」について
安政五年(1858)に、萩藩政務役筆頭の周布(すふ)政之助は、軍制改革・財政改革・産業貿易振興を断行している。軍制改革としては、西洋学所の設置・西洋型船の購入・洋式ゲーベル銃の購入を行ったのである。また、文久三年(1863)六月に、下関防衛役にあった高杉晋作は、藩防衛の「有志の者」として藩内の下級武士・陪臣(家臣のそのまた家臣のこと。)・足軽・小者・村役人・豪農の子弟等を集めて、新軍隊を編成したのである。
その編成の新軍隊の人数をみると、
奇兵隊(隊長 山内梅三郎)・・・・375人(後に400人)
御楯隊(隊長 太田市之助)・・・・150人(後に230人)
鴻域隊(隊長 森 清 隆)・・・・100人(後に150人)
遊撃隊(隊長 石川小五郎)・・・・250人(後に330人)
南園隊(隊長 佐々木男也)・・・・150人(後に200人)
萩野隊(隊長 森永吉十郎)・・・・ 50人(後に80人)
■懲隊(隊長 赤川敬三)・・・・・125人(後に175人)
第二奇兵隊(隊長 白井小助)・・・100人(後に125人)
八幡隊(隊長 堀 真五郎)・・・・150人(後に200人)
集義隊(隊長 桜井慎平)・・・・・ 50人(後に120人)
この新軍隊は、慶應三年(1867)二月に再編成されて、「奇兵隊」・「整武隊」・「遊撃隊」・「振武隊」・「健武隊」・「鋭武隊」の五大隊と統合されている。
まとめ
今回の「歴史講座」で示したように、幕末から明治維新、明治新政府では、長州藩は薩摩藩に並ぶように多くの英傑を産み、数々の人的犠牲を生じながらも日本の中枢となって、欧米に並ぶような近代国家を創生したのである。しかし、この日本の急激な政治改革には、後に明治新政府に重大な矛盾を生じさせることとなり、その結果、西郷隆盛を窮地に追い込むことともなったのである。
参考文献
田中 彰著『長州藩と明治維新』吉川弘文館 1998年
古川 薫著『幕末長州藩の攘夷戦争』中央公論社 1996年
早乙女貢著『日本をダメにした明治維新の偉人たち』 山手書房 1978年
長野 暹著『西南諸藩と廃藩置県』九州大学出版会 1997年
野口武彦著『長州戦争』中央公論社 2006年
次回予告
平成30年8月13日(月)午前9時30分~
平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設について」
「土佐藩・山内家」について
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