第百五十二回 サロン中山「歴史講座」
令和五年4月10日
瀧 義隆
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
メインテーマ「徳川家康の人間模様を考察する。」について
今回のテーマ「豊臣秀吉時代と家康」について
はじめに
織田信長の急死によって、次の「天下人」を狙う武将として明智光秀が主導権を握ったかに見えたが、それもつかの間、織田家の後継者争いとも兼ねあって、世情の混乱を巧みに利用し、徳川家康のライバルとして出現したのが、織田信長の一武将にすぎなかった、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。
今回の「歴史講座」では、急激に勢力を拡大し、遂に、「天下人」となった、羽柴秀吉と徳川家康との関係について焦点をあててみたい。
1.「織田家の衰退と豊臣秀吉」について
①「織田家の衰退」
羽柴秀吉は、天正十年(1582)六月二日の「本能寺の変」の時は、備中の高松城(現在の岡山市北区)で毛利氏と対峙していた。織田信長の死去の報を受けてからの羽柴秀吉の行動は速く、急遽、毛利氏との講和を結ぶやいなや、明智光秀を打倒すべく、「中国大返し(備中大返しとも言う)」を行い、僅か10日間で全軍二万の兵と共に京都の付近まで取って返した。途中で信長の次男である織田信雄(のぶかつ)と合流したり、他の織田方の武将をも糾合し、京都の山崎で明智軍に立ち向かい、天正十年(1582)六月十三日に両軍が激戦となったが、二日間あまりで明智軍は壊滅状態となり、明智光秀は坂本城(現在の滋賀県大津市下坂本)に逃げ帰る途中の小栗栖(おぐるす)(現在の京都市伏見区東部)で、土民の落武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命した。
この「山崎の合戦」は、羽柴秀吉の絶妙な手腕が見られ、織田信長の「弔い合戦」には、どうしてもその名目として、信長の血を引く者を「飾り」として必要であり、その為に織田信雄を利用したのである。この後、羽柴秀吉は強引に「清洲会議」で信長の織田家の後継者を、信長の長男の織田信忠(のぶただ)の子供である三法師(さんぼうし)と決定させたりして、織田家の重臣であった柴田勝家と対立するようになり、信長の三男の織田信孝(のぶたか)と柴田勝家とが結んで打倒羽柴秀吉を露わにした。羽柴秀吉は、「賎ケ岳の戦い」で、柴田勝家と織田信孝とを打ち負かして自害させ、羽柴秀吉の勢力を絶大なものとした。この秀吉の台頭に対立しようとして、織田信雄は徳川家康を頼りとし、家康は逆に織田信雄を利用して秀吉を打倒しようとした。これによって、羽柴秀吉と徳川家康は、「天下取り」の対決へと進展していくのである。・・・・・・・・・・・・・資料①参照
※信長の孫の「三法師」は、後に9歳で元服した際、「織田三郎秀信(ひでのぶ)と名乗り、岐阜13万石の大名になっているが、最終的には「関ヶ原の合戦」で石田三成に味方したことから、合戦の後に追放処分となり、出家して高野山に入ったものの、高野山も追放されて自害した、いう説がある。
以上のように、織田信長の長男の織田信忠は「本能寺の変」の時に信長とは別の場所の「妙覚寺」に宿泊していて、ここで明智軍と戦ったが討死してしまった。次男の織田信忠も三男の織田信雄も、そして、孫の織田秀信もみな自害させられたり、追放されたりして、織田家の直系は衰退していくのである。
②「豊臣秀吉」について
誕生・・・天文六年(1537)二月六日(天文五年生とする説もある。)とされているが、正確かどうかも判らない。
没年・・・慶長三年(1598)八月十八日
父・・・・不明(木下弥右衛門・竹阿弥・昌吉等の説がある。)
母・・・・なか
※尾張国中村の木下弥右衛門の子であるとする説があるが、確証はなく、幼名を「日吉丸」と称していた、とするものの、これも信用出来るものではない。
※木下藤吉郎と名乗って、今川氏の家臣であった松下之綱に仕えた、とする説もあるが、正確性に欠けている。
※豊臣秀吉の生い立ち等を記載している『太閤素性記』・『天正記』・『太閤記』等は、創作部分が多いとされて、記述事項に信憑性がない、とされている。天文二十三年(1554)頃?・・織田信長の奉公人(草履取り等の小者)となる。後に清洲城「普請奉行」更に、「台所奉行」等を務め、頭角を現していく。
永禄四年(1561)・・・・・・杉原定利の娘の「ねね」と結婚する。(秀吉25歳)・・・・・・・・・資料②参照
永禄九年(1566)・・・・・・信長の命令で、美濃(現在の岐阜県南部)侵攻の為に、墨俣城(現在の岐阜県大垣市)を築く。(秀吉30歳)
永禄十三年(1570)・・・・・「金ケ崎の退口」で、殿(しんがり)を務め、信長から功績を認められる。(秀吉34歳)
元亀三年(1572)・・・・・・「木下」から「羽柴(はしば)」に改名する。(秀吉36歳)
※名前の「藤吉郎」から「秀吉」に改名した時期は全く不明である。
天正三年(1575)・・・・・・「長篠の合戦」に従軍する。(秀吉39歳)
天正五年(1577)・・・・・・信貴山城(現在の奈良県生駒郡)の戦いで功績をあげる。(秀吉41歳)
天正九年(1581)・・・・・・鳥取城の攻略で、兵糧攻めを行い、落城させた。(秀吉45歳)
天正十年(1582)・・・・・・秀吉が高松城(現在の岡山市北区)を攻略の最中、明智光秀が謀叛を起こし、織田信長を討った為、秀吉は中国地区から急転して、「山崎の合戦」で光秀を滅ぼした。(秀吉46歳)
天正十一年(1583)・・・・・「賎ケ岳の合戦」で織田家の重臣だった柴田勝家を滅ぼし、大坂城を築く。(秀吉47歳)
天正十二年(1584)・・・・・「小牧・長久手」の戦いで、家康と対峙する。(秀吉48歳)
天正十三年(1585)・・・・・秀吉は名目上、近衛前久の猶子となって、「関白」の地位を得る。(秀吉49歳)
天正十四年(1586)・・・・・正親町天皇から「豊臣」の姓を賜り、「太政大臣」に就任した。・・・・・・・・・資料③参照(秀吉50歳)
天正十九年(1591)・・・・・奥州(現在の東北地方北西部)を平定し、全国制覇を成し遂げる。(秀吉55歳)
文禄二年(1593)・・・・・・・豊臣秀頼(ひでより)が誕生する。(秀吉57歳)
慶長三年(1598)・・・・・・病気により、死去。(秀吉62歳)
2.「秀吉と対決する家康」
①「小牧・長久手の戦い」について
この「小牧・長久手の戦い」は、織田信長の次男である織田信雄(のぶかつ)が、徳川家康に助けを求めて羽柴秀吉を滅ぼそうとした戦いである。その対戦の状況を史料でみると、
「天正十二年甲申之年、関白殿、御本所に腹を切らせ給ハんと成レける間、(中略)早関白殿、十万余騎引連れて、宇留間を越えて犬山へ押出て、小牧山を取らんとし給ふ処に、家康早くかけ付けさせ給ひて小牧山へ上らせ給へバ、関白殿も手を失ひ給ひて、小口・楽田に諸勢ハ陣取て、一丈計に高土手を築きて、其内に陣取なり。小牧山に柵をさへ付させ給ハずして、かけはなちに陣取らせ給ふ。土手の際までかけ付かけ付して、十万余之人数に面を出させ給ハず。」
大久保彦左衛門忠教著『三河物語』編訳者 百瀬明治 徳間書店 1,992年 221~222P
「天正十二年甲申(きのえねさる)之年」・・・・西暦1584年のことで、この年の三月~十一月にかけて秀吉の軍と家康の軍が対峙(本格的な合戦はなかった)した戦いである。
「御本所(ごほんじょ)」・・織田信雄のことで、信雄が伊勢国の北畠具房の猶子となっていたことから、御本所と呼ばれるようになった、とされている。
「宇留間(うるま)」・・・・現在の岐阜県各務原近辺
「小牧山(こまきやま)」・・現在の愛知県小牧市にある標高86mの山。
徳川家康は、織田信雄の頼みに応えて「小牧・長久手」に出陣したのであるが、その織田信雄が羽柴秀吉の口車に乗ってしまい、徳川家康に相談することもなく、勝手に秀吉と和睦してしまった為、家康の出陣の意味が全くなくなってしまい、家康のメンツが「丸つぶれ」となってしまった。これが家康の屈辱の第一段となってしまった。
②「石川数正の出奔」について
家康にとっての、屈辱の第二段は、家康の若年の時から信頼をおいていた徳川家臣団の内でも、外交を得意としていた重臣の中でも最も重臣であった、石川数正(大河ドラマでは、松重 豊が演じている。)が、家康を裏切って、天正十三年(1585)十一月十三日、羽柴秀吉の誘いに乗って、浜松を出奔(しゅっぽん)してしまい、秀吉に十万石(信濃松本城)の大名として迎えられた。
この事件を史料で見ると、
「當家の旧臣石川数正は十萬石を餌として味方に引付たり。」
『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 54P
石川数正が、家康を裏切る事になった原因としては、大坂と浜松との間を交渉の為に往来する内に、羽柴秀吉の意向を強く主張する石川数正に対して、徳川の家臣達が不信を抱くようになり、石川数正が浜松に居ずらくなった事が大きな要因であった、とされている。この事件は、徳川家康にとって、衝撃的な事であったが、この事件後、徳川家の「兵法(合戦における戦法等)」が豊臣側に全て知られてしまったので、この機会を利用して徳川氏の「兵法」の大改革を行うこととなった。
③「朝日(旭とする説もある。)」との婚姻
家康にとっての、屈辱の第三段目は、秀吉の妹を継室に押し付けられた事である。
家康が正室であった「築山殿」を、織田信長の命令に従って、天正七年(1579)八月二十九日に殺害してしまったので、それ以後、家康には正室が不在となっていた。この事に目を付けた秀吉は、天正十四年(1586)に佐治日向守の妻であった妹の「朝日姫」を無理やり離婚させて、家康の継室として四月十四日に嫁がせ、家康を妹婿にして、臣従させようとした。この時、家康が45歳で「朝日姫」は44歳であった。
家康はこれでも上洛しなかった為、同年の十月十八日、秀吉は次の手段として母の「大政所(おおまんどころ)」の「なか」を「朝日姫」の見舞いを理由に浜松に送りこんだのである。
これ以後、遂に家康は秀吉と和議を結び、同年の十月二十七日に秀吉と謁見した家康は、秀吉の臣下となることを表明したのである。従って、「朝日姫」とのこの結婚は、あくまでも政略的なものであって、実質的な夫婦ではなく、後日、「朝日姫」は母の「大政所」の病気見舞いで大阪に上洛したまま浜松には帰らず、その後、病気となって、天正十八年(1590)一月十四日に47歳で死去してしまった。
④「関東移封と家康」
天正十八年(1590)七月十三日、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ケ国で150万石を返上させられて、相模国・伊豆国・武蔵国・下総国・上野国・上総国の一部で、おおよそ240万石(250万石とする説もある。)となった。
この豊臣秀吉による家康への「関東移封」の目的を示す史料がない為に、その意図するところは不明であるが、『徳川實紀』には、
「北條が領せし八州の國々悉く 君の御領に定めらる。(秀吉今 度北條を攻亡し、その所領ことごとく、 君に進らせられし 事は、快活大度の挙動に似たりといへども、其實は 當家年 頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五國を奪ふ詐謀なる事疑なし。(後略)」
「北條(ほうじょう)」・・・後北條とも称され、小田原城主の北條氏政・氏直父子が豊臣秀吉に立ち向かったものの、敗北し氏政は自害し、氏直は出家する。
「快活大度(かいかつおうど)」・・・心が広くて、度量が大きいこと。
「年頃(としごろ)」・・・・長年、久しくの意味である。
「詐謀(さぼう)」・・・・・相手をだます謀りごとの事。この史料に見られるのは、徳川方からすれば、この「関東移封」を命じたその根底には、豊臣秀吉の「心の広さ」を表面的に見せているようにとれるが、実際は、「駿遠三甲信の五國」の領民と徳川家康との信頼感を打ち砕く為の「謀略」であると見抜いている史料である。
従って、この「関東移封」も、徳川家康にとっては幼い時から住み慣れていた土地を奪われ、全く知らない他国に移封されるというのは、屈辱の第四段目ではなかったか、と考えられよう。
⑤「豊臣秀吉の家臣となった家康」
豊臣秀吉の最晩年期には、徳川家康は、「五大老・五奉行制」の一員として豊臣政権を支えていた。豊臣秀吉は、豊臣政権の安定を図る為に、慶長三年(1598)の夏頃に「五大老・五奉行制」を制定した。
「五大老」とは、
徳川家康(とくがわいえやす)・・・関東八州等、240万石
毛利輝元(もうりてるもと)・・・・安芸等八ケ国、112万石
前田利家(まえだとしいえ)・・・・北陸能登等、83万石
宇喜多秀家(うきたひでいえ)・・・山陽・備中等、57万石
上杉景勝(うえすぎかげかつ)・・・奥羽・会津等、120万石
「五奉行」とは、
浅野長政(あさのながまさ)・・・・甲斐国、22万石
石田三成(いしだみつなり)・・・・近江佐和山、19万石
前田玄以(まえだげんい)・・・・・丹波亀山、5万石
増田長盛(ましたながもり)・・・・大和郡山、22万石
長束正家(なつかまさいえ)・・・・近江水口、5万石
※豊臣秀吉の所領石高は、家康よりも少ない、220万石であったが、豊臣家の財政を支えたのは、全国の主要鉱山であり、特に、石見銀山の毛利氏との共同支配により、莫大な金銀を得ていた。
以上のように、豊臣政権の安定を図る為に、大名の内でも豊臣家に対抗しそうな大大名をむしろ政権の中枢に配置して、世継となる豊臣秀頼の為に、確固たる政治体制を構築しようとしたのである。しかし、現実は、豊臣秀吉が考えるような良い方向へ進展することはなかったのである。
また、徳川家康にとって、たとえ「大老」とは言え、秀吉の臣下であることには何の変りもない。所謂、秀吉の「家来」の一人なのである。駿河国の国主の徳川家の「御曹司」である家康が、氏素性も全く判らない、戦国時代においては、身分の低い「農民」の出身者たる豊臣秀吉に平服するのである。これほど家康のプライドを傷つけるものはなかったのではなかろうか。
従って、この「大老」就任も、家康にとっては、屈辱の第五段目ではなかったか、とも考えられる。
まとめ
人が生きて行く上で、何が起こるか全く予想もつかないが、正に、「本能寺の変」以後における徳川家康の環境は、思いもよらぬ方向へと転換せざるを得なかったのではなかろうか。織田信長の急死を受けて、次の「天下」を掴もうとしていた矢先、羽柴秀吉の急激な胎頭によって、「あれよ、あれよ」と言ってる間に「天下取りレース」の大きなライバルとなって徳川家康に立ち向かってきて、それも、武力によるものでもなく、「こそくな知力」によって、「天下」を横取りされてしまったのである。おそらく、徳川家康にとっては、「トンビに油揚を浚われた。」感ではなかっただろうか?。
参考資料
参考文献
- 小和田哲男著『戦争の日本 秀吉の天下統一戦争』 吉川弘文館 2006年
- 山路愛山著『岩波文庫 豊臣秀吉 上』岩波書店 1996年
- 山路愛山著『岩波文庫 豊臣秀吉 下』岩波書店 1996年
- 秋山俊著『信長 秀吉 家康』広済堂出版 1997年
次回予告
令和五年5月8日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
メインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
次回のテーマ「豊臣氏衰退と家康の台頭」について
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