第百三十二回 中山ふれあいサロン「歴史講座」

第百三十二回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成30年11月12日
瀧  義 隆

平成30年NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」に因んでメインテーマ「明治という新時代の創設」について
「西南戦争の原因と終焉」について

はじめに

人間は生きていく上で、様々な出来事に遭遇する。それは、自分から望むものや、思わぬことから騒動に巻き込まれてしまったり、他人の陰謀に嵌められたりもする。それが政治の世界においては、天下国家を左右する壮大な思想・構想から、政治的派閥によって複雑怪奇な人間模様を造り出すこともしばしばである。

今年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」も、最終章にさしかかっている。近代日本創生の為に粉骨砕身、その身を投げ出して努力に努力を重ねた「英傑」西郷隆盛も、自分の考えとは程遠い、思いもよらぬ方向へ追いやられ、その人生に終焉を迎えることとなったのである。

1.「西南戦争の前提要因」について

明治時代の身分制度の成立

明治二年(1869)六月に「版籍奉還(はんせきほうかん)」が実施された。「版籍」の「版」とは「版目(はんもく)」のことで、「土地」を意味し、「籍」は「戸籍」のことで、「人民」をさす言葉である。従って、「版籍奉還」とは、江戸幕府時代の全ての領主が、土地と民衆を朝廷(天皇)に還納(かんのう)したことで、明治政府の中央集権を形成する一大事であった。

この「版籍奉還」により、土地の支配権を失った領主達は、「知藩事(ちはんじ)」として地方行政官となったが、一般の武士達は、「士族」として身分と俸禄を与えられた。

「華族(かぞく)」
・・・・明治二年六月に、岩倉具視の政策によって制定された身分制度で、公家出身の者を「堂上華族(どうじょうかぞく)」、江戸時代の大名には「大名華族」、明治維新で勲功のあった者には「新華族(または勲功華族)」とし、元皇族であった者には「皇親華族」と区別した、明治維新後の貴族階級である。この華族制度は昭和二十二年(1947)まで存在したのである。「士族」・・・明治二年八月から、「一門以下平士ニ至ル迄、総テ士族ト可称事」として、一般の武士達ばかりではなく、地下家や公家に仕える「青侍(あおざむらい)」と称される家臣達も士族となった。

「卒族(そつぞく)」
・・・・家臣の中でも、「同心」や「足軽」等の比較的身分の低い者達に、明治三年(1870)に与えられた身分であるが、明治五年(1872)に廃止となり、「士族」に組み入れられた者もいたが、多くの者は「平民」に身分の格下げとなった。

「平民」・・・江戸時代の「農・工・商」等の一般庶民であり、明治五年(1872)「壬申戸籍(じんしんこせき)」によると、全人口に占める「平民」の割合は、93.41%で、3,110万6,514人であった。

「征韓論」について

日本は、『古事記』や『日本書紀』に記述されていることから、朝鮮半島は日本の支配権にあるとする考え方があり、戦国時代の織田信長も朝鮮から中国大陸への進出を空想していたようであり、これを継承した豊臣秀吉は実質、朝鮮派兵を行い、実行支配の謀略をはかったのである。

★「朝鮮」とは中国語であって、「朝」は「王朝への貢ぎ物」のこと、「鮮」は「少ない」ことを意味している。それ故、「朝鮮」とは「貢ぎ物の少ない国」を指す言葉となる。「韓国」とは、古代において「朝鮮半島」の南部に、「辰韓」・「馬韓」・「弁韓」の「三韓」の国々があったことから由来するもので、本来、「朝鮮半島」は「韓半島」と称するのが正式なものである。

明治元年(1868)、新政府は對馬藩を通じて朝鮮の李王朝に対して新政府発足の通告と、国交を望む交渉を行ったが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なって、日本の天皇に「皇王」とか「奉勅」等の語句を用いているのは朝鮮に対して失礼な事だ、ということと、異国に開国した日本は「夷狄(いてき)」の国々と交際する汚らわしい国家である事、等を理由にして、朝鮮側は国交を拒否してきた。明治三年(1870)二月に、明治政府は佐田白茅(さだはくぼう)と森山茂を朝鮮に派遣したが、朝鮮の態度は軟化せず、これに憤慨した佐田白茅は、帰国後に「征韓」の建白をした。

これ以後、明治五年、六年と数度にわたり交渉を続けたが朝鮮には排日の風潮が広まり、ここに、日本国内において「征韓論」が沸騰することとなったのである。明治六年(1873)十月当時の新聞によると、
「暴漫無禮の朝鮮伐つべし=征韓論のハシリ=

10・― 新聞雑誌一五七府下寄留静岡縣貫屬士族飯島氏、征朝鮮ノ論説
○王政維新ノ際、詔書ヲ朝鮮ニ下シ給ヒシ處、彼其詔ヲ奉ゼザルノミナラズ、漫言無禮ノ答書アリ。其後又数々使者ヲ以テ懇切ニ説諭セラレシガ更ニ聴容セズ、却テ恥辱ヲ我国ニ与ヘタル由、
(中略)
頃者竊ニ聞ク台湾ヲ討ツノ廟議アリト。既ニ台湾ヲ討ツノ軍費アラバ、之ヲ以テ朝鮮ヲ討ツベシ。(後略)」中山泰昌編著『新聞集成 明治編年史 第二巻』財政経済学会 昭和五十年 84P

「暴漫(ぼうまん)」・・「暴慢」の誤りか?言葉の意味としては、粗暴できままな振る舞いをすること。

「府下寄留(ふかきりゅう)」・・東京府に戸籍を有する者のこと。
「貫屬(かんぞく)」・・本籍地のこと。
「飯島氏」・・・・・・詳細不明。
「廟議(びょうぎ)」・・朝廷における議事のこと。

以上のように、明治六年(1873)十月時点で、上野景範の「強硬意見書」(前回の講座で説明済み。)の建白を受けた「征韓論」は、日本の世論として定着しつつある世情であったことが見てとれるのではなかろうか。

「秩禄(ちつろく)制度の廃止」と「士族」の反乱

明治二年(1869)六月の「版籍奉還」によって、江戸時代の各大名達は明治新政府から「華族」の身分が与えられて「知藩事」の職に任命され、その家臣達も「士族」の身分が与えられた。

「士族」には、明治新政府から「秩禄」として「俸給」が支給されることとなった。しかし、この「士族」の人口は、明治三年(1870)の時点で、約109万5.000人いて、全人口の3.64%を占めていた。同年に旧来の「同心」や「足軽」達も新しく「卒族(そつぞく)」という身分が与えられたが、明治五年(1872)にはこの「卒族」の内、世襲の者は「士族」に編入されたものの、大部分の「卒族」達は「平民」に組み入れられることとなった。

明治四年(1871)二月十四日
・・・・西郷隆盛が中心となって、徴兵制(後の近衛兵)を開始し、薩摩・長州・土佐から約8.000人の兵を採用した。

同 年 七月十四日 明治新政府は、「廃藩置県」を実施し、中央集権体制を確立し、国家財政の確保を安定化させた。
同 年 七月・・・・警察制度を実施し、薩摩藩の士族・卒族から3,000人の警官を採用し、東京に在駐させた。また、地方からも1,000人程度を採用した。

このように、「士族」や「卒族」達の新たな就業先として、軍隊や警察官に採用したものの、明治六年(1873)の「士族」の人口は、154万8,500人と増加していたから、職にありつけた者は、薩摩や長州等の特定の地区の者達に限られていて、他地域の150万人以上の「士族」・「卒族」は無職のままであった。一方、明治新政府としては、新国家形成にあたり、近代建築新設・軍事費・工業企業増進費・外人顧問費等と国費増大の一方で、国家財政が極度に逼迫し、このような「士族」達の増加に対応し得る財源がなかった。そこで、明治新政府は、明治六年(1873)~明治八年(1875)にかけて、「秩禄公債(金禄公債)」を発行して、政府から与えていた俸給を全廃してしまうこととなり、戸籍上(通常、壬申戸籍と称された。)だけの「士族」の身分が、昭和二十二年(1947)の「民法改正」まで記載され続けられることとなったのである。

全ての「士族」達は、二年の経過措置が与えられたものの、生活費の全てを突然失い、新しい近代社会に放り出されてしまい、それ故、生活に困窮することとなった「士族」達は、明治新政府に対して大きな不満を抱くこととなったのである。その不満のはけ口が、「征韓論」を唱える政治的な不満分子と結合して、明治七年(1874)頃からの、「士族の反乱」となって世情を騒がせることとなった。

明治七年(1874)二月四日
・・・・「佐賀の乱」江藤新平等が中心となった「士族」の反乱で、乱の鎮圧後に江藤新平は処刑された。この士族の「佐賀の乱」が、「征韓論」と結合した実例であり、これを、明治七年(1874)二月の新聞記事でみると、

「二・八 新聞雑誌福岡縣地方に征韓論起る本月三日午後八時福岡縣ヨリノ電報ニ曰ク、佐賀縣士族或ル寺ニ集リ、征韓論ヲ唱ヘ、日ニ勢ヒ盛ナリ、昨夜小野組ニ逼リ、手代残ラズ逃ゲ去リタリト。」
中山泰昌編著『新聞集成 明治編年史 第三巻』
財政経済学会 昭和五十年 122P

「小野組」・・・ 初代の小野善助は、江戸時代中期に創業した商人で、木綿・砂鉄・紅花・酒造・為替等を取り扱う総合商社のようなもので、明治六年(1873)四月頃には全国に28支店を持つ、明治時代の大商社である。

「手代(てだい)」
・・・商店で、主人から全権委任を受けている範囲内で、営業上の代理権を行使出来る使用人であり、番頭と丁稚の中間に位置する。
この新聞記事の資料によれば、政府に不満を抱く佐賀縣の「士族」達が「征韓論」を唱えて蜂起していることがみてとれる。明治九年(1876)十月二十四日
・・・熊本縣の「神風連(旧武士達の新興宗教)の乱」
同 年 十月二十七日
・・・福岡縣の「秋月の乱」
・・・山口縣の「萩の乱」

以上のような「士族」による反乱が頻発するようになったのであった。江戸幕府の支配下においては、武士達は領主(殿様)の下にあって、貧しいながらも安穏とした生活を営んでいた。日常的にも城勤めをする武士には仕事もあり、それなりの技能も有していたであろうが、家臣の多くは特にやるべき事もなく、「武士」と言う「プライド」に縋って日々を過ごしていた。それが、明治新政府になって、「士族」という身分だけが残って、生活維持の実質収入が突然消滅してしまったのである。このような仕打ちを受けるとは、「士族」の誰しもが想像だにしなかったことであろう、と考えられる。「士族」の中には、「平民」となって、商売をする者や学者になる者、医師になる者、神主になる者等様々であったが、悲劇にも一家離散する者や娘を売り飛ばす者等があって、「士族」にとっては、厳しい生活をせざるを得ない時代の到来となったのである。

2.「西南戦争の終焉」について

西郷隆盛の政界「下野(げや)」までについて

★「下野」とは、政治の世界を辞任して一般人となること。
明治四年(1871)六月二十五日
・・・・参議に任命され、木戸孝允との協力内閣を樹立する。
同 年十一月十二日
・・・・ 岩倉具視の「遣欧使節団」が出発する。
メンバーは、岩倉具視(右大臣)、山口尚芳(外務少輔)、木戸孝允(参議)、伊藤博文(工部大輔)、大久保利通(大蔵卿)
使節(各省の専門官)46名、隋員(参事官・書記官等)18名、留学生43名、の総勢112名であった。
・・・・・・・・資料①参照
明治六年(1873)五月二十六日
・・・・大久保利通、欧米視察から帰国する。
同 年 八月十七日
・・・・明治政府は、西郷隆盛の朝鮮派遣を決定する。
同 年 九月十三日
・・・・岩倉具視・木戸孝允達が欧米視察から帰国する。
同 年 九月十五日
・・・・朝鮮派遣の件を再審議し、西郷隆盛の朝鮮派遣を決定した。
・・・・・資料②参照

★「征韓論派」の意見
板垣退助は、「居留民保護を口実に朝鮮へ派兵し、武力をもって修交条約締結をすべきである。」という強硬な意見を展開していた。これに対して、西郷隆盛は、「朝鮮へ派兵することには反対、責任ある全権大使(遣韓大使論)を派遣すべきである。それには、自分自身、単独で朝鮮に赴く」と主張した。
同 年 九月十八日
・・・・三条実美の急病の為、急遽、太政大臣代理となった岩倉具視は、「征韓論」に反対していた大久保利通の意見を取り入れて、西郷隆盛の朝鮮派遣を天皇に上奏しなかった。
この結果、征韓論について、西郷隆盛と大久保利通との意見の対立が決定的となり、この機を受けて、征韓論派である西郷隆盛と板垣退助・江藤新平等は、政界から下野(げや)することとなった。

西郷隆盛の最後について

明治六年(1873)九月二十三日
・・・・西郷隆盛は、陸軍大将兼参議・近衛都督(ととく)を辞任することを上奏した。
同 年 九月二十四日
・・・・ 明治天皇は、岩倉具視の上奏を入れて、朝鮮派遣使を無期延期(征韓論派の敗北
と決定した。
同 年 十一月十日
・・・・西郷隆盛が鹿児島に帰着する。
★この時期の鹿児島縣内には、無職となった血気盛んな若者・壮年者がのさばり歩き、風紀上・治安上も非常に良くなかった。しかしこれは、鹿児島縣下のみならず、無職の「士族」達が全国的にも溢れかえっていたのである。そこで西郷隆盛は、鹿児島縣令(後の県知事)の大山綱良と協力して、不満に満ち溢れる若者達の教育の場所として「私学塾」を設置することに奔走する。
明治七年(1874)六月頃
・・・・「私学塾」を設立する。
銃隊学校・・・篠原国幹が監督
砲隊学校・・・村田新八が監督
幼年学校・・・村田新八が監督を兼務
明治八年(1875)四月頃
・・・・吉野開墾社・・永山休二・平野正介等が監督本来、西郷隆盛が設置した「私学塾」は、軍事訓練や外国事情等を学ぶ教育の場であったはずが、むしろ、政府に対して不満を募らせる場所となってしまい、明治新政府打倒の方向へと暴走する事態となってしまった。このような暴走を抑え込もうと西郷隆盛も努力するものの、抑えきれず、結果、薩摩軍(西郷軍とも称す。)の総大将となり、政府軍と戦闘に入ることとなった。
明治十年(1877)二月十五日
・・・・西郷隆盛が鹿児島で挙兵し、西南戦争が始まる。
薩摩軍の兵数は約24,000人、戦費が約70万円(現在の約100億円程度?)。政府軍の兵数は約54,000人で、戦費が4、157万円であった。本来、政府側であるべき鹿児島縣令の大山綱良は、政府からの経費を薩摩軍に提供していた為、西南戦争後に処刑された。この時期の新聞記事をみてみると、
「九州に別政府樹立二・二八 東京日日西郷隆盛は川尻まで出張したり。熊本士族にて二百人ばかり賊に應ずるものある由。また賊は予て仁政を唱へ、九州にて別に政府を建るなど猥に云ひ觸らす由、兵事新聞に見えたり。」
中山泰昌編著『新聞集成 明治編年史 第三巻』
財政経済学会 昭和五十年 154P
「川尻(かわしり)」・・・熊本縣南部の緑川右岸の地区である。現在は、JR鹿児島本線川尻がある。
「仁政(じんせい)」・・恵み深い、思いやりのある政治のこと。
「兵事新聞」・・・・ 「内外兵事新聞」のことか?(詳細不明)この新聞記事に見られるように、薩摩軍の下で新政府の樹立の構想もあったことがみてとれよう。
同 年 三月二十七日
・・・・西郷隆盛の挙兵を待っていた、元福岡藩士の武部小四郎・越智四郎達の福岡党と称される者達500名が決起する。
同 年 三月二十日
・・・・政府軍が田原坂(熊本市と玉名市とを結ぶ坂道)を占領し、薩摩軍は矢部浜町を通って、人吉城(現在の熊本県人吉市)に退去する。これ以後、薩摩軍は各地で苦戦を強いられ、六月一日頃には、この人吉城も政府軍に奪われ、飯野へ退却する。九月一日に薩摩軍は鹿児島の城山を中心にした布陣となる。
同 年 九月二十四日
・・・・西郷隆盛は、鹿児島の城山で自刃し、西南戦争は終焉を迎えたのである。
政界から辞任して、明治六年(1873)の十月に鹿児島に帰郷した西郷隆盛には、喧噪極まりない政治から解放されて、のびのびとした郷里での生活を望んでいたに違いない。それが、社会に放り出された「士族」と若者の不満の落とし所として、西郷隆盛が「良かれ」と思って設置した「私学塾」が「反政府運動」の方向へと変貌し、考えもしなかった明治新政府打倒の軍事行動へと進展し、やむなく挙兵してその首謀者に祀り上げられてしまったことは、西郷隆盛の本望とするところでは決してなかったのであろうと考えられる。

なお、「竹馬の友」であり、下級武士出身ながら苦楽を共にして天下の政治を左右するまでに立身出世した大久保利通も、明治十一年(1878)の五月十四日、東京の麹町紀尾井坂で暗殺されてしまうのである。西郷隆盛の死後、わずか半年後のことであった。

まとめ

西郷隆盛は、稀代の英傑であったことは誰しもが認めるところではあるが、政治の世界の「ドロドロさ」に呑み込れ、政争の中から抜け出すものの、それによって、逆に政治的不満分子に担ぎ出されて命を失う結果となってしまった。これも明治という近代日本国家を形成する上での大きな犠牲でもあったのかもしれない。

参考資料

第百三十二回 中山ふれあいサロン「歴史講座」の資料

第百三十二回 中山ふれあいサロン「歴史講座」の資料

参考文献

次回予告

平成31年1月14日(月)午前9時30分~
平成31年NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」に因んで
歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツ」について
次回のテーマ「いだてん―オリンピックの歴史」について

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