「無い無い尽くしの頃―終戦直後備忘録―」

「無い無い尽くしの頃―終戦直後備忘録―」

瀧  義 隆

はじめに

 毎年8月15日は、「終戦記念日」という、日本国が犯した最大の悲劇が終わった日を、国民全体が終生忘れまいとする、大事な日です。しかし、「日本が如何に愚かな事をしたか。」を反省するのは、この「終戦記念日」前後と、「広島・長崎の被爆追悼式典」の1~2週間の間でしかない一過性のものとなっている感がしないでもありません。時間の経過と共に、戦争の悲惨さが記憶として薄らいでしまって行くのも事実であろうと思われます。

何時までも遠い忌まわしい過去に引きづり廻されて、老人達が「戦争の愚かさ」を後世に伝え残そうとしても、「汚らしい年寄の繰り言」としか受け止められなくなっても、どうしょうもない事なのかもしれなません。ただ一方では、忌まわしい過去に何時も何時も縛られているばかりでは、現実が何の進歩も活気ない社会となってしまい、回顧主義に偏る薄暗い社会になってしまうであろう、とも思われます。

しかし、あえて言うならば、我々老人にとり、これからの社会を担う未来の多くの若者達に、何んとかあの日本の忌まわしい過去の記録を参考にして、より良き日本を創造する努力をして欲しいのです。若者達が「汚らしい年寄の繰り言」を聴くよりも、スマホで好きなゲームで楽しんだ方が、どんなにいいか、それは老人ながらも充分に理解しています。しかし、このような現実を充分認識しながらも、これからの日本の憂うが故に、「戦争のない国を維持してもらいたい。」、その一念から、この書を認めることとしました。

この書を認めるのは、太平洋戦争(第二次世界大戦)終了直後の、ごく平凡な貧乏人の息子であった、私の数少ない記憶の中にあるものを、ようようにして記憶の中から引っ張り出したものです。私は、言うなれば「戦中派」の一人であり、同年代の仲間の中にも、鬼籍に入ってしまった、と言う話をちらほらと聞くようになってきています。戦時中の実体験を持つ私の両親も、三人の姉兄も既に他界してしまい、戦中・戦後の苦難の生活状況を話しし、理解し合う機会もなくなってしまいました。それ故、このような形で記述として残しておく他に手段がないのです。

1、「かて飯」はとてもまずかった。

 昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカのハワイ州真珠湾を攻撃したことにより、太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入してしまいました。私が生れたのは、戦争真っただ中の昭和18年(1943)3月23日の朝で、姉が二人と兄一人の四人兄弟の末っ子として誕生しました。

私が生れる頃には、日本も多くの若者達が戦場に駆り出されていた為に、農家の重要な若い働き手が少なくなっていた為に、農業事情が極端に悪化しており、華族(終戦までこの特権階級は存在していました。)や軍人や役人等の上流階級を除く一般家庭では、米や味噌・醤油、そして、野菜等の副食品類等は満足に手に入るものではなく、どの家庭でも毎日の食べ物の確保に苦慮する極貧の状態でありました。

乳幼児である私は、母の乳を飲むことが唯一の栄養補給の手段でしたが、母は満足な食事を口にしていない状態でありましたから、乳の出が悪くなったようで、従って、私は母乳不足となり、不足分を米のとぎ汁を煮た物で補われていたようです。

こんな栄養不足の私は、頭や顔一面に吹き出物が出てしまい、それが痒くて、痒くて、赤ん坊の私は、毎日、毎日、ピー、ピー、と泣いてばかりいたようです。赤ん坊の私が頭をかき過ぎた為に、吹き出物が治癒した後も、頭に「ジャリン禿げ」が残ってしまい、私が小さい頃は「ジャリン禿げ」と言われて、よく馬鹿にされたものです。

日本は、昭和20年(1945)8月14日に「ポツダム宣言」を受諾し、翌日の8月15日に終戦を迎えました。戦後の日本の経済は大混乱となり、貨幣が暴落し、食料不足は極度になっており、それを援助したのが、敵国であったアメリカだったのです。アメリカは援助物資として、「脱脂粉乳」・「カンパン」・「砂糖」等の食料品を多量に日本に輸送して日本国民を助けたのです。しかし、一般庶民には日本の主食である「米」は全く手に入ることはありませんでしたから、「ご飯」のかわりにこのアメリカが支援してくれて、国が配給する代用食の「カンパン」を食べるいかありませんでした。

この「カンパン」ですが、現在も非常食として災害時に配られ、重宝されていますが、アメリカから配られた「カンパン」は、10㎝四方の非常に硬いもので、子供の歯では噛み砕けなかった覚えがあります。「カンパン」等はまだ良いほうで、「脱脂粉乳」や「砂糖」ではとても代用食にはならず、お腹を満たすものではありませんでした。

ほんの少しの「砂糖」ならば甘くて口に出来ても、常時、空腹を抱えいるような状態でしたから、「砂糖」ではとてもお腹を満たすものではなく、「砂糖」の配給の時は、何時も母が歎いていた記憶があります。

そんな中で、特に、子供の私が覚えているのは、代用食として配給された「コーリャン」と言われる食べ物です。これは「アメリカ・カボチャ」を乾燥させたもので、そのまま口に入れても、硬くて、硬くて、とても子供には食べられたものではありませんでした。この「コーリャン」は、水に浸して柔らかくし、他の食糧と一緒に食べるものです。しかし、水に浸した「コーリャン」は、「米」不足を補う為に、「米」がほんの少しの中に「かて飯」として入た物で、「ご飯」と言うより、ベチャ・ベチャとした「コーリャン」の入った「おかゆ」のようなものでした。それはそれは「まずい」「かて飯」でしかありません。

この食料不足の状態では、それこそ大根の葉っぱ一枚ですら、何処にも落ちていることはありません。全て「かて飯」と言って、「おかゆ」状態の「ご飯」を少しでも多くする為に、大根の葉でも薩摩芋の弦でも芋の殻でも、口に入る物は何でも「かて飯」の中に入れるのです。その大根の葉等でも手に入らなければ野原や田んぼに生えている野草(もぐさ、カンゾウ、つくし、イタドリ等、春にはあけびやタランボの芽等)を採ってきて、「かて」にして食べていました。蕨(わらび)や薇(ぜんまい)等の野草が、沢山手に出来た時には、茹でて天日干しにして、食料の少なくなる冬の為の保存食用として備えるのです。三歳か四歳だった私も、母の後ろについて行って、野草摘みをしていたようです。

日本全体が食料不足でしたから、前述したように、味噌・醤油が手に入るわけがありません。塩分をとるのは、「塩」その物しかありません。しかし、私の生れた山形県東置賜郡は、内陸で海はありませんから、「塩」を手に入れるのも困難だったようです。そこで、しかたなく、母は幼い私を引き連れて、母の実家である、茨城県日立市小木津の実家に行き、多量の「米」や「塩」、他の食糧を貰いに行っていました。母の実家は、江戸時代から続く豪農の家柄でしたから、私が小さい時に母と共に実家に行った時は、元小作人だった人達が、お盆や年末には、挨拶に来ていたものです。

幼い私の手を引きながら、重い荷物を背負って蒸気機関車に乗り、まるまる一日がかりで山形の家まで運んでいました。それは日中だったり、真夜中の列車であったりしていました。そんな中、今でも思い出すのは、日立市からの帰り、宮城県の仙台回りの列車しかなかったものか、仙台駅に到着した時の事です。暗闇の仙台駅の前の、ほんの少しの灯りの中に、食べる物を求める沢山の人だかりがあって、多くの「闇市(やみいち)」があったのを、今でも忘れられません。

当時、「米」や「塩」は専売品であったので、私的に「米」や「塩」を購入・運搬するのは法的に禁止されていました。もし、私的に「米」や「塩」を購入・運搬している事が警察に見つかれば、どんな理由があろうとも全て没収されてしまいます。警察が没収した「米」や「塩」は全部警察官達で分け合っていたようです。本当にずるい警察官が多かったのです。また、自分で運ばれず、列車で貨物として輸送したとしても、途中で駅員や貨物の係の業者が「ねこばば」するのが、むしろ当然の事のようでした。たとえ途中で「没収」されても、「ねこばば」されても、本来は不法購入品ですから苦情が言えず、「泣き寝入り」する以外にない時代でした。

2.食料確保の為の「配給」について。

 戦後、日本国政府は、食料物資の不足から、「米」や「塩」を国家管制下において、なんとか食料不足の一般国民の生活を安定させようと苦慮していました。日本国民の主食である「米」の売買については、各家庭に「米穀通帳」を配布して、この「米穀通帳」がなければ、「米屋」も「米」を販売することは出来なかったのです。四人兄弟の末っ子である私は、良く、母に連れられて「米屋」に行って、「米穀通帳」を提出しながら、ほんの僅かな量の「米」を購入している母の姿を見ていました。家族の人数によって、一回に購入出来る「米」の量も決まっていたようで、公式に「米穀通帳」で買える量の「米」だけでは、とても家族全部の「おなか」を満腹させるようなものではありませんでした。それ故、少しでも「ご飯」の量を増やす為に、前項で示したように「かて飯」にして「おなか」を満そうとしたのです。配給された「米」ではとても不足していたので、各家々では、農家に「買い出し」に行き、何んとか農家から「米・麦」・「ジャガイモ」・「菜物」等、とにかく口に入る食糧となるものを譲ってもらうのです。金持ちの人達は、現金で「闇米」や、農家から「米」等を購入していたようですが、私の家のように貧しい家庭では、母の着物や洋服、他に交換出来るような物があれば、それを持って農家に「買い出し」に行って、僅かばかりの「米・麦」や他の食糧を物々交換して手に入れていたようです。しかし、田舎の農家の主婦達には、良い人ばかりとはかぎりません。たとえ有りあまるほどの「米や麦」、野菜があったとしても、見ず知らずの他人に、容易く物々交換してくれるものではありません。また、次から次と農家やってくる「買い出し」の主婦の持ってくる物々交換の為の着物や洋服は、農家にとっては「もう要らない」という豊満状態になっていたようです。かといって、無料で食料を譲ってやれるものでもなく、しかたなく物々交換を断っていたのかもしれません。

米の「ご飯」が食べられなかった時は、それを補う食料として、私の一番嫌いだった「スイトン」がありました。食料の豊富な現在では、「スイトン」を名物料理にしていている地方もありますが、現在の「スイトン」の中味には、豚肉や具沢山の美味しい「スイトン」となっているようです。しかし、私達が食べていた「スイトン」の中味は、良くて大根の葉っぱ、それも無ければ、野草を入れたもので、醤油や味噌も有りませんから、「塩」で味付けしたものです。当然、味付けの為の具材もありませんから、「スイトン」の状態は、ただ塩味の「ぬかぬか」とした「うどん粉の塊り」の入った汁物でしかありませんでした。米の入った「雑炊(ぞうすい)」になったのは、もう少し食料事情が良くなった頃のことです。

「ご飯」は次第に「ジャガイモ入り」や「薩摩芋入り」の「かて飯」から「麦飯」になったのは、かなり食品の流通も良くなってきてからのことで、それまでは、ほとんどの家では「雑炊」や「スイトン」で腹を満たしていたのです。私が小学校に入学し、弁当を持って登校してましたが、弁当の中には「米」が3分程度、残りの7分が「麦」の「麦飯」だったのです。「麦飯」について今でも強烈に覚えているものは、当時、大蔵大臣であったと思いますが、政治家の池田隼人と言う大臣が、昭和二十五年(1950年)12月7日の参議院予算委員会において、こともあろうに、「貧乏人は麦を喰え」と言ったのです。私がラジオで聞いたのではなく、母か父が聞いたのか、または翌日の新聞に載ったのを両親から聞かされたもか判然としませんが、この「貧乏人は麦を喰え」と言うフレーズだけは、幼い私の心をグサリと刺すもので、何時も弁当の「ご飯」が「麦飯」の我が家は「本当に貧乏なんだ。」と改めて頭に叩き込まれたような気がして、悲しい思いをしていたものです。

この一つでも判るように、日本中が、多くの貧乏人で溢れていた一方で、裏側では、一部の政治家や事業家、豪商、役人等の富裕階層の人々達が、何時も食糧不足に駆けずり回ることもなく、「白いご飯」をたらふく食べて事を立証する、池田隼人の一言だったと思うのです。戦後74年も過ぎて、後期高齢者となった今でも、この貧乏の悔しさは頭の中から消え去るものではありません。

「配給の事」でもう一つ忘れられないものとして、「かど(山形では、魚のニシンの事。)」の「配給」の事です。山形県の内陸南部に位置する米沢地方は、海からは遠い地域であり、海の魚を口にするなどとは、ほとんどありませんでした。それでなくとも戦後の食糧難の時です、海鮮食品が「配給」されるなどと言う事は、本当に至難の事だったと思います。それでも、私が、4歳か?5歳の頃だったと思いますが、当時、町内の班長をしていた我が家の庭先で、「かど」の配給が行われたのです。一家庭の一人当たり一切れ、魚半身10cmの程度だったと記憶しています。我が家は6人家族でしたので、「ニシン」が一匹、配給されました。戦後の混乱期は、鉄道事情もけっして良くありません。如何に北海道で「ニシン」が豊漁だったとしても、冷蔵の貨物列車があるわけでもなく、暑い季節、むれる貨物列車の中、長時間かけて北海道の沿岸から、山形内陸地区まで運ばれてくるのです。とても新鮮な「ニシン」であるわけがありません。私の目の裏に今でも残っているその時の「ニシン」の色は、赤色に満ちたもので、現在では、とても口に入れられるような魚の色ではありませんでした。「配給」の時も、これといって清潔なトタンやプラスチックプレ―ト等があるわけではありません。その辺にある汚い板切れの上に、町内の頭割りに当てられた数匹の「ニシン」が置いてあるのです。当時としては、海の魚が口に入るのですから、珍しくて、珍しくて、塩焼きにして食べたと思いますが、それはそれは美味しい魚でした。今思うと、不衛生極まりない、腐敗していたであろう「ニシン」でも、特に食中毒にもならず、家族全員、町内全員、無事、こんな「ニシン」を堪能していたのです。

また、副食とする食べ物の「肉」や「魚」はとてもとても口に出来るものではありませんでしたから、その動物性蛋白質の不足分を補うには、各家庭でなんとかして独自に確保する以外に手段はないのです。そこで、山形県の米沢地方では、春から夏の季節には、田んぼの中に生息する「ニシ(田螺)」を捕って来て、味噌汁の具(ぐ)としたり、煮物にしたりして食べていました。秋になると、やはり田んぼに行って、稲の穂を喰い荒らす「イナゴ」を捕まえてきて、茹で上げた上で、当時貴重であった醤油で自家製の「佃煮」を造るのです。農家としては、「ニシ(田螺)」も「イナゴ」も田んぼにとっては、厄介者の一つでしたから、誰が行って「ニシ(田螺)」も「イナゴ」を捕まえても、何の文句もなく、むしろ害虫駆除をしてくれる、として喜んでいたようです。

3.「傷痍軍人(しょういぐんじん)の事。」

 日本の「終戦記念日」になると、「日本は、二度と戦争はしません。」と称して、戦争映画や写真、空襲の様子を伝える絵画・映画、原爆投下による悲惨な記録映画等、今まで、何度となくニュース映画や、テレビ放映で見せられましたが、その中に、今まで一度も見たこともなかったのが、「傷痍軍人」のことです。「傷痍軍人」とは、戦争で手足を失い、職業にも付けない身体障害者となった兵隊さんのことです。片手・片足を失った者等はまだ良い方で、私が幼い時に何度も直接見た「傷痍軍人」は、両手・両足を失った人達が、戦闘帽に白衣の着物を着た姿で、列車の床を這い廻るようにして入って来るのです。日立の母の実家への行き帰りの列車の中では、よく見かけたものです。

私が何時も見ていたものは、「傷痍軍人」は必ず二人一組で、一方が片手か片足を喪失した人で、もう一人は、両手が無いか、両足がないか、両方の目を失ったか、いずれにしても、「お国の為」だと言われて、止む無く戦場にかり出され、アメリカ軍からの砲弾を受けて、身体障害者となってしまった人達です。列車に乗り合わせた乗客達の中には、「お国の為」に闘った結果、身体障害者になってしまったこの「傷痍軍人」
に、乏しい所持金の中から、幾ばくかの「ほどこし」をするのです。

戦後間もなく、「傷痍軍人」の人達を収容する施設も出来始めましたが、収容しきれずに、あふれかえった「傷痍軍人」の中には、このように列車の中や東京の繁華街に出て「物乞い」をして、その日暮らしをしていた人も多かったようです。列車の中に入ってくる「傷痍軍人」達は、片手が使える者がハーモニカを轢いて人々に「傷痍軍人」が来ていることを知らせ歩くと共に、金銭を貰う袋を広げて「物乞い」をするのです。この時、ハーモニカで轢く歌は、昭和21年(1946)に並木路子が歌って大流行した「リンゴの歌」でした。

「♪赤いリンゴに唇よせて、黙って見ている青い空。
リンゴはなんにも言わないけれど、
リンゴの気持ちは良くわかる。
リンゴ可愛いや、可愛いやリンゴ。♪」

夏のお盆頃になると、NHKのテレビでは、必ずと言っていいほど「懐かしのメロディー」の番組があって、時々この「リンゴの歌」を歌っているのを聴きますが、私の脳裏には、「リンゴの歌」と共に「物乞い」をする「傷痍軍人」達のことが焼きついてしまっているのです。ですから、私にとって、「リンゴの歌」は懐かしいと言うりも、むしろ、「気のどく」「かわいそう」のイメージしか湧いてこないのです。

「懐かしのメロディー」の番組では、どうしても古い歌を引っ張り出して、今では老人となってしまった当時の歌手を、無理やりなのか?判らないが、車イスに乗せられて、身体もままならない状態にもかかわらず、戦中・戦後の歌を歌わせています。歌手達の若い頃の溌剌とした姿を見ていた者としては、「老いさらばえた」よれよれの歌手を見るのは、懐かしいと言うより、なんか「みすぼらしい。」としか言いようがなく、かえって、淋しさ・悲しささえ覚えるのです。

戦後、数年が経って、「傷痍軍人」の殆どが、「傷痍軍人」を収容する特別な施設に全て収容されて、国家保護を受けられるようになりましたが、恐らく、収容施設では、決まり切った生活基準があって、生活する自由が得られず、施設を脱走して、再び列車内での「物乞い」をする者もいたりしたようです。また、本来、戦争によって身体の一部を欠損したのではなく、何かの理由で身体障害者となってしまった人達の中には、「傷痍軍人」の恰好をして列車内で「物乞い」をする、「偽の傷痍軍人」もいたのだ、と母から聞かされたものです。

「物乞い」と言えば、戦争終盤に、東京等の大都会がアメリカの大空襲を受けて、両親が死亡んだり、逃げ惑う内に家族がバラバラになってしまい、子供達が孤立してしまう事が多数あった、と両親から聞かされていました。孤児となった大勢の子供達は、誰一人助けの手を伸べてくれる人もなく、また、子供達を助けてあげられる余裕のある人もない大混乱の時期でしたから、家族も失って食事も寝る場所も無くなってしまった子供達は、浮浪児となってしまったのです。この浮浪児達は、上野駅等のガードの下や野原の土管の中等で寝起きし、日中は街中を「物乞い」して歩いて、食料を確保する以外に方法がありませんでした。「物乞い」して歩ける子供はまだ良い方で、もっと幼い子供達は「物乞い」も出来ずに餓死する他になかったのです。私が母と共に、日立の母の実家に向かう列車の中では、「このまま上野まで行けば、浮浪児が大勢いて、食べる物もなく、寝る所もなく、死んでしまう子供達が沢山いるんだよ。お前はまだ食べられるだけでも、本当に良いんだよ。」このように、何時もお腹を空かして、我がままを言っていた私を黙らさせるのでした。そんな記憶からか?

「♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン、
メーメー小山羊も鳴いてます
風はそよそよ 丘の家
黄色いお窓は おいら家よ♪」

これは、昭和二十二年(1947)七月から始まった、NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌です。このラジオドラマの主人公は、親を無くした孤児達を収容する孤児園の子供達の健気に生きる様を描いた物語でした。この昭和二十二年にもなると、浮浪児達を放置しておくわけにもいかず、どうにか生活できる施設も出来てきたのでした。

また、このような浮浪児達への思いもあって、この「鐘の鳴る丘」を聴くこと以外にも、昭和四十三年(1968)三月の『文藝春秋』に発表された、野坂昭如が著した『火垂の墓』は、戦中派の一人としては、あまりにも悲しい「ア二メーション」で、涙なしではとても見ていられるものではありません。本当に「鐘の鳴る丘」も『火垂の墓』も、実に身に迫るものがあり、あまりにも悲し過ぎるのです。

4.「パンパン」は悲しい話。

 私と同年代か、それ以上の年齢の人達には、大きなトラウマが心の奥底に沈んでいるはずです。それは、「外国人の男性と日本人女性が腕を組んで歩いている姿」です。東京に行く機会等に、今では当たり前のように、「外国人の男性と日本人女性が腕を組んで歩いている」のはむしろ珍しいものでもなく、海外留学を経験してくる現在の高校生・大学生の女子達にとっては、当然の如く人間の正常な感覚として、外国人の男性とも恋愛になって、結婚となるであろう事もごく自然なものとは理解出来しています。しかし、終戦直後の日本の女性の中には、そんな恋愛感情のような甘い感覚では生きてはいけない、本人の意思とは裏腹となる、本当に悲惨な生活を余儀なくされた女性達もいたことを忘れては欲しくないのです。

「♪星の流れに身を占って、どこを塒(ねぐら)の今日の宿
荒(すさ)ぶ心でいるのじゃないが、泣いて涙も枯れ果てた、。
こんな女に誰がした。♪」

これは、昭和二十二年(1947)10月に、菊池章子がテイチクレコードが発売した、そのものズバリ、「星の流れに」と言う歌謡曲です。この歌には、戦後のある女性達の悲しい事情がありました。

昭和二十年(1945)に戦争が終わると同時に、日本にはアメリカから進駐軍がやって来ました。この進駐軍は、日本が敗戦で政治も経済も大混乱となり、全国民(一部の上流階級は除き)が路頭に迷っていて、明日の「ご飯」をどうして手に入れようか?とする状態でした。東京等の大都市には、日本の警察機構も混乱状態であった為に、市中を警備するのは、進駐軍の「MP(military police、憲兵)でした。

アメリカから来た進駐軍の兵士達は、暇があれば東京の街中に出て、夜な夜な酒を飲んだり、飲めば女性達と遊びたくなり、性欲を発散したくなるものでしょう。そこで、この兵士達を相手とする「売春婦」が大勢生れたのです。この外人相手の「売春婦」を侮蔑して、「パンパン」と言っていました。何で「パンパン」と言ったのか?その語源は何なのか?全く判りませんが、とにかく「パンパン」と言っていたのです。

このような「パンパン」達を取り締まっていたのが、進駐軍の「MP」でしたが、家族や自分の明日を生き抜く為には、進駐軍の「MP」の取締りを掻い潜って、進駐軍の兵士達を相手に身体を売らなければならなかったのです。

東京や大阪等の大都会を中心に、アメリカは大空襲を行った為に、都会での職業は男女共にあるものではありません。ただ、戦争で多くの男達が亡くなっていたことから、戦後復興の大きな担い手として、だんだんと男子の働き手が求められるようになってきます。しかし、終戦直後の大都会には女性を必要とする仕事はあまりありませんでした。空襲で家族離散となったりした女性達、家族を養う為の女性達、正常な仕事に就けなかった女性達、「明日のご飯」を確保する為に、自分の身体を売る、「売春婦」しかその手立てはなかったのです。夜の街かどで、暗闇の中に立って、身を犠牲にした女性達が厚化粧して、僅かな金銭を得る為に、兵士達を相手に「売春」しなければならなかったのです。本当に、悲しい・みじめ、としか言いようがない事態なのです。

大混乱の日本国ですから、衛生状態が良いわけがありません。兵士達を相手に「売春」をした結果、悪い病気に伝染したり、相手の判らない子供を妊娠したり、その結末は悲惨なものでありました。しかし、その中にも、アメリカの兵士の中には、「売春婦」と知りつつも、気に入って昼日中、その「売春婦」を連れ歩く者も少なくありませんでした。幸運な「売春婦」は、アメリカの兵士と結婚して、アメリカ本土に連れて行かれる者も結構いたと聞いています。

いづれにしろ、生きる為にアメリカの兵士に身体を売らなければ生きてはいけない、この「売春婦」・「パンパン」達が、アメリカの兵士の腕に縋って歩く姿が、日本人として、もっとも情けない、「どうしても生きる為なんだ」と判っていながらも、「売春婦」・「パンパン」を蔑む事であったのも事実です。それが今日でも我々年代の心の底にあるトラウマなのです。ですから、年号も令和という新時代となった現在、国際化・多様化・雑多な人種混在、となった日本を頭で充分理解しつつも、どうしても、戦中派の者としては、「外国人の男性と日本人女性が腕を組んで歩いている姿」は、許される事でもないし、とにかく目にしたくない光景なのです。

5.「尋ね人の放送番組」とは?

 太平洋戦争(第二次世界大戦)の開戦を全国民に知らせたのも、昭和十六年(1941)十二月八日、午前七時のNHKラジオから、アメリカとの交戦状態に入った事を告げる「臨時ニュ―ス」でした。この時から、戦争中には、戦況を告げる「臨時ニュ―ス」が時々あったようで、特に終戦間際の敗戦近くには、国中がピリピリと様々なニュ―スに神経質になっていた、と思います。その結果、昭和天皇は、昭和二十年(1945)八月十五日正午、「玉音放送」を行い、日本の降状を全国民に知らされました。

戦後、何も無い一般国民の娯楽の一つが、NHKラジオ【民間放送の開始は昭和二十六年(1951)からである。】を聴く事でしたから、毎夜毎夜、家族中がラジオの放送に耳をそばだてて聴いていたものです。そのような時、チャンムが鳴った後に、

「臨時ニュ―スを申し上げます。臨時ニュ―スを申し上げます。」

と、アナウンサ―の緊迫した声で言った後、「臨時ニュ―ス」が放送されていました。

幼い私には、内容は全く判りませんでしたが、家族みんなが何事かと緊張して耳を傾けてように思います。これも、家族全員、国民全員が、戦争中の極度の緊張による、一種のトラウマではなかったか?と考えられます。

戦後も間もない頃、幼い私にとっても、楽しみの一つは、NHKのラジオを聴く事でした。番組としては歌や浪曲・落語等の娯楽物の外に、「尋ね人の時間」という番組がしばらく放送されていた記憶があります。私が何故こんな「尋ね人の時間」を聴いていたのか、自分でもよく判らないのですが、民放のラジオ番組もなかった時期でしたから、特に聴くべき番組もなかったし、子供ながらに仕方なく聴いていたものと思われます。

この「尋ね人の時間」と言う番組は、行方不明となった自分の親や子供を捜したりする為の「捜し人」をする番組です。その捜す理由には、中国大陸に家族で住んでいたものの、戦争の激化によって日本人が迫害されるようになってきたことから、中国には住んでいられなくなり、日本に命からがら逃亡する途中で、家族がばらばらになってしまった人々達や、また、終戦になって戦地からなんとか逃げ帰った兵士、さらに、兵士が、2~3年間の抑留生活を終えて引き揚げてきたものの、待っているはずの家族が離散して行方不明となっているような人達、大都会での空襲等で、逃げ惑う内に家族がばらばらになってしまい、親も子供も行方不明となってしまった人達等でした。それが、生きる暮らしがほんの少し出来るようになった時、様々な人々達が「尋ね人の時間」の番組に、葉書や手紙に「捜し人」の不明になる以前の情報を書いて、NHK宛てに出す事によって「捜し人」を見つけ出そうとする番組なのです。

この時期の町役場の行政機能も、若い健全な青年達は、全て兵役で駆り出されて、その多くが戦死してしまったり、外地に抑留されてしまっていましたから、町役場の事務員も老年者ばかり残されていたのだと思います。老年の町役場事務員達では、新しい民主国家建築の為の事務処理が順調に進展しているわけがありません。都会でばらばらになった家族が、一人一人それぞれに、何にも判らない土地に逃げ暮らしていても、町役場に届け出る生活の余裕もなく、行政もそれを把握する余裕もありませんでした。従って、町内の道路の土管の中、防空壕の洞窟の中、バラック建てのボロ家の中に、誰が住んでいるものか?等、誰も把握出来ていなかったのです。

これも誰から聞いたものかわ全く判りませんが、戦地から苦しい抑留生活を終えて引き揚げてきて、実家に戻ってきた兵士の中には、実家では兵士が他国の捕虜となって抑留されていた事も知らされていなかったので、すっかり戦死してしまったものと諦められて、兵士の妻が、その弟や兄と再婚してしまったり、勝手に他の男と再婚してしまった等と言う話もよく聞くものでした。これも戦後の悲劇の一つです。
「尋ね人の時間」では、私が良く記憶として残っているのは、
「何時頃、満州○○地区に住んでいた、誰々さん、○○さんが○○で連絡をまっています。」
「何年、何月頃、○○からの引き揚げ船で帰ってきた○○さん、○○さんが○○に住んでおられます。」
等というような放送内容が次々と続き、30分間程あったような気がします。

昭和二十一年(1946)1月に始まった、このような「尋ね人の時間」も、昭和三十二年(1957)の3月31日をもって終了になりました。何んでだか判りませんが、14歳となっていた私が、この最終日となった「尋ね人の時間」を聴いていました。この最終日の私の思い出としては、「ああ、この番組も終わったのか。」という、何となく単調に、そしてクールに聴いていたように思います。

当時のラジオは、真空管(現在では発売されていないのでは?)のラジオで、4球スーパーだの、5球スーパーだの、と言って、ラジオの中の真空管の本数により、その性能の差がありました。当然、4球スーパーよりも5球スーパーの方が断然音質は良くなります。私の家には、4球スーパーのラジオしかなかったと思います。時々放送の音質が悪くなり、聴こえなくなったりもしました。その時には、ラジオの箱をトントンと叩くと、何故か聴こえるようになったりもしました。何度叩いても聴こえないようになった時には、近所にラジオの修理を得意とする人がいて、何時もその人を頼りとしていました。しかし、ラジオを叩き過ぎて、真空管をも壊してしまった時には、大変な事になってしまいます。何故なら、終戦直後の事ですから、この真空管を手に入れる事は出来るものではなかったからです。修理を得意とする人が、真空管を手に入れるまで、ラジオを聴く事が出来なくなっていました。我が家のラジオが5球スーパーにグレードアップしたのは、小学生の高学年になってからだと思います。

6,「芋あめ」は不味いが、「カルメ焼き」は美味しかったなー。

 戦後の混乱期を生きている子供達は、満足な食糧が全く無い状態であったから、一般的な家庭の子供がお菓子を手にする等と言うことは、殆ど有り得なかった事です。

私の家では、病弱(痔病)の為に兵役に就かなかった父は、終戦直後に勤務先の工場が火災で焼失してしまった事から失業してしまい、町内の呉服店から反物を仕入れて、それを背負い、近県を歩き廻っては売り歩く事で幾ばくかの収入を得ていたものです。一度家を出ると、二ケ月や三ケ月、帰ってこなかったが、帰ってきた時には、子供の私にはどれほどの収入があったものなのか?そんな事は全く判りませんでしたが、ほんの少しの収入の中からであろう、私達子供の為に「芋あめ」を買ってきてくれたものです。

当時、子供達が甘い物を口にするのは、近くの山へ行って、自生の「スグリ」・「桑の実」・「グミ」、また、名前もよく知らない甘酸っぱい木の実を、幼友達と奪い合って食べていたものでした。子供ながらにも、自分のお腹を満たすには、自分で捜し出すしか方法もなく、友達には少しでも奪い合いに勝って、人一倍口に入れる以外になかったのです。その時期に口に入れたものの中には、「ツツジの花」があり、五月頃に咲き乱れるピンクや赤の花弁を摘んでは口に入れたものです。今からすれば、「ツツジの花」がそんなに美味しいものであったか?とすると、味はほんの少し甘味はあるものの、シャリシャリとした、「花」であった、としか覚えがありません。

こんな時期での父がやっと手に入れて来た「芋あめ」です、「不味い」わけがないのですが、また、「不味い」などと言ったら、それこそ神様の罰があたる頃でしたから、けっして「不味い」などとは言えるものでもないのです。この「芋あめ」の味は、ほんのりと甘味はあるものの、どことなく「こげ臭い」もので、また、何となく「苦み」あったような覚えがあります。

この「芋あめ」の製造方法は、「薩摩芋」を蒸したものを、更に鍋等で根気よくトロトロと煮つめる物で、それ故に完成までには非常に時間を要したものらしく、時間をかけて煮つめる為に、どことなくコゲ臭く、「薩摩芋」の「アク」が残っているものか?どことなく「苦み」があったのです。こんな「芋あめ」でも、めったに手に入るものでもなかったのですから、「芋あめ」を食べたことは、近所の友達にも内緒にしていた覚えがあります。

時期が過ぎて、私が5・6歳頃になった時でもあろうか?ほんの少しづつ世の中が安定しだして、物資も流通し始めた頃と思われる頃、砂糖の種類の中でも、「ザラメ」が手に入るようになった頃、父が「カルメ焼き」の道具と、重曹(炭酸水素ナトリ―ム)、そして、ほんの少しの「ザラメ」を買ってきてくれて、囲炉裏で「カルメ焼き」を造ってくれたのでした。シャモジの形をした「カルメ焼き」用の容器の中で、プチプチと「ザラメ」が泡立ってきた時に、少しの重曹を入れると、プ―トと丸く膨らんで、「カルメ焼き」が出来上がるのです。この「カルメ焼き」の「甘いこと、甘いこと、」本当に美味しい「カルメ焼き」だったと思います。しかし、こんな贅沢は、貧乏暮らしの我が家では、めったにあるものではありません。年に一・二回だったような気がします。この「カルメ焼き」は、現在でも、花見や縁日の夜店等を見て回ると、「カルメ焼き」をビニールの袋に入れて売っているのを時々目にすることがありますが、しかし、戦中派の私には、苦しい時代を思い起こさせる「カルメ焼き」を、わざわざ買って食べよう、とは思いません。

7,「B29がやって来る。」

 終戦間際には、東京や大阪、軍事工場のある都市、軍港等がアメリカ軍の空襲目標となって、軍事防衛力の低下した日本本土を連日にわたって空爆し続けました。私の育った山形県の米沢地区には、これといった軍事施設もなかった為、アメリカ空軍の標的にはならなかったようです。しかし、隣の県の宮城県仙台市・釜石市周辺には、軍事工場や軍港があったものか、激しい空爆を受けたのでした。太平洋上の軍艦から発進したアメリカの戦闘機「B29」は、仙台市上空から無数の爆弾(焼夷弾)を投下して、仙台市内等を焼け野原にし、無数の庶民を爆死させた後、旋回して太平洋上の母艦に帰えるのです。旋回している帰艦する「B29」の中には、何台かが、奥羽山脈の高い山峰を越えて、山形県の米沢地区にも飛来することがあったのです。「B29」は、既に仙台市等で爆撃をした後であるし、米沢地区には標的となる物もないにもかかわらず、米沢地区には、「B29」の飛来を知らせる「空襲警報」のサイレンが何度も何度も鳴った、と両親から教えられたものです。

当時、各家庭には、庭や畑の中に「防空壕」が掘られていました。その家族達や「防空壕」を掘る余分な土地の無い近所の人々も、同じ「防空壕」に逃げ込むのです。私も何度か、母の背中に背負われながら、父が畑に掘った我が家(社宅)の「防空壕」に逃げ込んだ、と母から聞かされていました。

終戦時、日本には、日常的に飛行出来るような満足な飛行機はなかったものか、戦後、私が目撃していた飛行機は、アメリカのものであり、幼い私達子供は、アメリカの飛行機の機種も判らずにいたので、飛来する飛行機は全て「B29」でと思っていました。それ故、幼い子供達は、飛行機を見ると、全て「B29だー」、「B29だー」と言って、はしゃぎ回っていたものです。

飛行機に纏わるもう一つの話として、日本は産油国ではないので、本来、豊富な石油がありませんでした。国産の石油は、秋田県から新潟県にかけてのごく一部の地区で、ほんの少量産出するだけであり、それ故、殆どを輸入に頼っていて、これは戦後74年も経った現在でもあまり変わってはいません。

戦時中には軍艦を動かすにも、戦闘機を飛ばすにも、その原動力は「重油・ガソリン」等の石油であります。しかし、東洋で孤立した日本には、石油を輸出してくれる産油国は一つもないのです。軍部の無謀な戦略から、途方もない軍艦を多数造船したものの、ろくに戦闘もせずに、アメリカの戦艦や飛行機の「エジキ」となって、太平洋に沈んでいったのです。このような海の藻屑となってしまった戦艦等を製造するにも、鉱物資源に乏しい日本ですから、物資不足となり、軍部が命令したのは、各家庭、各施設(神社・仏閣)にある、金属類を必要最小限を除いて、全て「供出」と言って全国からかき集め、それによって何とか戦艦や飛行機等の戦闘器具の製造をしていたのです。また、「重油・ガソリン」等の石油不足を補う為に、誰が考えだしたものか?「松の根っこ」を掘り出して、松の根に含む油分を抽出することで、石油不足を何とかしょうとしていたようです。この油を「松根油(しょうこんゆ)」と称していたようで、本当にこんな油で飛行機や戦艦が動いたのか?その真実は全く判らないが、私の母は、「ピーピーとよく泣いてばかりいるお前を背負いながら、しょっちゅう、松の根を掘り出す為の人足にかりだされたものだ。」と、思い出話として何度も言っていたものです。

8.「DDT消毒」は全身真っ白。

 日本の終戦直後は、超先進国のアメリカ人の目からすれば、住んでいる家屋も小さく、着ている着物も身体も、ただ「汚い」のではなく、最も不潔な「こ汚い」国民に見えたものと思われます。大人も子供もその頭には、誰しもが「しらみ」がわいていて、また、着ている着物・洋服には「のみ」が集っていて、身体のあちらこちらと喰いつく為に、全身が「痒くて、痒くて」たまらなかったのです。

上流社会に属する人々の生活はどうであったか?知るよしもないので、その人達を除く多くの一般庶民の老若男女、誰しもが何時も身体が「痒くて」、何時も、何処でも「ポリポリ」と頭を掻いたり、背中を掻いたり、大変なものでありました。通常使用している布団は、天日干しして「のみ」を駆除することが出来ても、着物・洋服を洗濯する洗剤は何処にもありません。もし、あったとしても、とても高価なもので、一般庶民が購入出来るものではなかったようです。母が、日々、「のみ」だらけの着物・洋服を洗濯盥(せんたくだらい)に浸して、洗濯板で「ゴシゴシ」と水洗いをする以外に方法はなかったのです。私は、母の背中におんぶされていたので、きっと母の背中越しに、毎日毎日、この様子を見ていた事だと思います。

この頭の「しらみ」や、着物・洋服の「のみ」を退治するには、父か母に手で取ってもらう以外に方法はありません。兄や私のような男の子は、坊主頭でしたから、「しらみ」を取るにも、取り易かったと思いますが、二人の姉のような女の子達は、髪の形が「オカッパ頭」と言われる、髪の毛が少し長いヘァ―スタイルでしたから、髪の中に潜む「しらみ」を捜して退治するのは、本当に大変だったようです。また、着物・洋服の「のみ」を退治するには、火鉢の火の上に、着物・洋服を少しづつ広げて行き、火の熱さに耐えかねて、縫い目からはい出てくる「のみ」を家族中で見つけ出し、一匹づつ指で抓み出しては、親指と人指指(ひとさしゆび)の腹でこすり丸めて飛び跳ねない状態にした上で、火鉢の火の中に「のみ」を投げ入れて駆除するのです。

これは、家族全部の、着物や洋服ですから、非常に根気の要る作業と言えるでしょう。たとえ、家中の「のみ」・「しらみ」を駆除したとしても、次の日に姉や兄が学校に登校して、「のみ」・「しらみ」の付着した友達と接触すれば、その何日か後には、元のもくあみ、また家族全員が「のみ」・「しらみ」に悩まされるのです。

終戦直後では、日本の電力事情も良くありません。原子力発電はもちろんありませんし、経済力に乏しかった日本に、火力発電の原動力となる、「石炭」を豊富に産出する人力(抑留によって男子労働者が不足していた。)がなく、また、水力発電所も少なかったことから、日本全国の夜間電力を安定的に確保出来てはいませんでした。従って、電力供給量よりも消費量がオーバーすれば、当然、前触れもなく突然停電してしまいます。火鉢の火にかざして「のみ」・「しらみ」を捜していても、突然真っ暗闇になってしまい、「のみ」・「しらみ」駆除が出来なくなる事もしばしばでした。この火鉢の火による「のみ」・「しらみ」退治の光景は、この年齢になっても、はっきりと記憶に残っているのです。

おそらく、日本の国民の殆どが「のみ」・「しらみ」たかりであったことから、進駐軍として日本の国家統制にあたったアメリカは、この不衛生な民族達を清潔にしなければ駐留するアメリカ人達にも、この「のみ」・「しらみ」が伝染してしまう、とでも思ったものか?日本の全国民(一部上流社会の実情は不明。)を消毒しようと考えたようです。その消毒の方法は、日本の全国民に「DDT」と称する消毒剤を頭部から腹から背中から、真っ白なこの「DDT」を降りかけたのです。男子はみんな坊主頭でしたから、白い消毒粉を降りかけられても、パラパラと払い落せばそんなに目立ちませんが、女の子達は大変で、頭中を白い消毒粉だらけにして下校していたものです。父や母達も、同じ時期に町役場の保健所に集められて、子供と同じように「DDT」の消毒を受けていたものと思います。そうでないと、この日本から徹底的に「のみ」・「しらみ」を駆除する事が不可能でしたから、父や母達も当然の如く全身「真っ白けっけ」となって、この「DDT」消毒を受けていたものでしょう。

時期は不明であすが、地区に回覧板が廻って、何時何日、町内全家庭総出でする「衛生の日」と言うものがありました。これは、各家庭の家具や畳を屋外に出して天日干しにし、特に畳は「はたき」等の棒で、左右二人に分かれてパタパタと叩き、畳に付着した「のみ」・「しらみ」等の害虫を叩き落とし、また、家中の隅々まで事前に配布されていた「DDT」を、床下から床上の板敷部分に全て撒き散らし、それから家具や畳を元に戻すのです。それ故、「衛生の日」は一日がかりで、親も子供も大変だったものでした。

9,「三角ペース、一間ベース」で遊ぶ。

無い無い尽くしの終戦直後です、子供達の遊べるような遊園地もなく、プラスチックやビニール製品の玩具も全く無い時代です。戦時中には、金具で出来た遊び道具も強制的に供出させられていましたから、手元に残っているものとしては、姉や兄の使い古した木製の「積み木」や「達磨落とし」程度だったように思います。山形県の米沢地区は、盆地の為に夏は暑く、冬は2m以上の積雪となる豪雪地区です。一夜にして1m以上の雪が積っていて、雪の重みで屋根の雪降ろしをしないと、雪の重みで家の中の引き戸も開かなくなってしまいます。それと、屋根から雪を降ろした後に、きちっと家の周りの全ての雪を川や空地に捨ててしまわないと、家自体が雪に埋もれてしまいます。雪が降った翌朝は、どの家でも屋根の雪降ろしをするので、近所の川や空地はすぐに雪で満杯となってしまいます。しかたなく、家の周囲の雪を踏み固めますが、その結果、平家の家の軒先よりも踏み固めた雪が高くなり、通常往来する道に出るにも、玄関から階段をつけて登り上がらなければ、学校にも買い物にも出られなくなってしまうのです。それはそれは、雪国で生活するのは、大変な重労働が必要なのです。

そんな雪も、3月の末頃から4月の初め頃になってようやく溶け出して、地面が現れだすと、子供達にとっては喜びの季節の到来となります。子供達は、それまで家の中に閉じ籠められていたので、子供なりのストレスが溜まっていて、それがいっぺんに開放されるのですから、春の訪れは待ちに待ったものでした。

女の子は、「お手玉(袋の中身は小石が入っていた。)・「アヤトリ」・「縄跳び」・「ゴム跳び」等、男の子は、走りまわったり、棒きれを持って「チャンバラゴッコ」をしたり、男女混ざって「石蹴り」や「缶蹴り」をしたりして遊んでいました。男の子の遊びの「ビー玉」や「ぺンコ(東京ではメンコ)」等が流行するのは、世の中が少し安定してきて、物流が良くなってきた頃であったと思います。

そんな中で、同年代の男の子が集まると、良く「三角ペース」や、「一間ベース」をしたものです。集まったのが4・5人の場合は、道路に棒きれで1辺が2m程度の長さの三角形を書き、頂点がホームペースとなり、残りは、1塁と2塁のみ、ピッチャーがいて、キャッチャーはなし、柔らかいゴムボールをピッチャーの投げる球が良ければ、バッターはこれを拳(こぶし)で打つし、悪い球の時はバッター自身が手で受けてピッチャーに返すといったル―ルです。ですから、バッターは打者とキャッチャーの二役をするのです。但し、打者がキャッチャーでもあるわけですから、キャッチャーフライによる捕球のアウトはありません。チームによる対抗戦ではないので、何アウトとかのカウントではなく、打者がアウトなれば打者を交代して守備につき、ピッチャーを交代したり野手になったり、アウト毎に色々と交代して遊ぶもので、何アウトも得点も何も関係ありません。子供達はボールを「投げて、打って、走って」を楽しんでいたのです。

また、集まった子供達が7・8人の場合には、道端に1辺が2m程度の長さの正四角形を書き、「ベース」も書いて、小規模のダイヤモンドを造ります。これが「一間ベース」と言うものです。人数が多い時は、キャッチャーを置きますが、たいていは、「三角ペース」と同じく打者とキャッチャーの二役をするのです。打った球を捕った者が、打者よりも早くコーナーのベースを踏めばアウト、フライを捕球すればアウト等、野球のルールと同じもので遊んでいました。審判がいるわけでもなし、目上の者がアウトと言えばアウト、セーフと言えばセーフなのです。同じ年の者の場合、このアウト、セーフで揉めると喧嘩になってしまい、そうしたら、直ぐこの遊びは中止となり、仲直りするまではこの遊びは暫くなくなってしまったものです。

私は、野球は下手くそでしたが、この「三角ペース、一間ベース」をするのが大好きでした。これが現在のプロ野球観戦や、母校の大学野球応援をする基礎となっているのかもしれません。

10,「幻燈(げんとう)会とナトコ映画会(学校巡回映画)」は楽しかった。“だけど”

 まず、「幻燈」とはそもそも何なんだ?と言うことになりますが、「幻燈」とはスライド写真のことで、ある物語を手描きの絵にしたものをスライド写真にし、それに付随する物語の文章があって、スライド機械を操作しながら、集まった子供達に話し聴かせるのです。今現在でも記憶に残っているのは、宮澤賢治作の『風の又三郎』で、「ドウドド、ドドー」という風の音が、如何にも冬の強い北風を現しており、あの寒い山形県米沢地方にもピッタリな物語であった、と思います。

私の父は、何でか知らないが、町内の人達から、「子供会」の会長に祀り上げられていた為か?よく父が中心となって子供の為の「幻燈会」を行っていました。この「幻燈会」は、特に町の集会所もなかった頃ですから、隣が天理教の教会の家で、比較的広い部屋があった事から、「幻燈会」の夕方には、町内の子供達が天理教の教会の家に大勢集まって来て、色々な「幻燈」を楽しんでいました。各家庭には、まだテレビもない時代で、夜に子供達が遊ぶような物等、どこにもありません。年に2・3回程度だったと思いますが、この「幻燈会」は子供達に評判も良く、自分の親を褒めるようで何ですが、父の「幻燈」の話を読むのも、かなり上手だった事から、「幻燈会」の評判を良くしていたのかもしれません。

私が小学校の1年生になった頃からだったでしょうか?年に2・3回程度ぐらい、「ナトコ映画会(学校巡回映画)」が開かれ、学校の体育館に1~3年、4~6年までと2分割されて、映画観賞をする事がありました。私が通っていた小学校は、全校生徒で1.000人以上の子供達で溢れていましたから、狭い体育館に一度には入り切れず、前後2回に分けて映写が行われました。スクリ―ン等という贅沢品が無い頃のことでしたので、正面に白い大きな布が張られ、周囲の窓には暗幕を引いて、映写が開始されます。

「ナトコ映画」の「ナトコ」とは、当時の映画会社の名前であった、と思います。

映画の最初は、小学校の1年生にとっては、何が何だかさっぱり判らない「ニュース映画」から始められましたが、何の「ニュース映画」だったか、全く記憶に残っていません。また、映写された映画が何であったか?すっかり忘れてしまいました。ただ、長時間、狭い体育館に一度に500人以上が、密閉した状態で詰め込まれていましたから、幼い私達は、酸欠状態となり、映写の度にひどい頭痛になって気持ち悪くなる者が多く出て、私自身も、しばしば保健室に連れて行かれた記憶だけが鮮明に残っています。

子供達が喜んでいたものとして、「紙芝居」があります。私が5・6歳になった頃でしょうか、「紙芝居」屋が拍子木を鳴らして、子供達に「紙芝居」屋が来た事を触れて廻ります。この「紙芝居」屋はボランティアではなく、「紙芝居」を始める前に、子供達の一人一人に、確か5円か?10円(現在の100円かその程度か?)ではなかったか?と思われますが、水飴を売るのです。集まった子供達が水飴を買った事を確かめた後に「紙芝居」を始めていました。お金の無い子供は水飴を買う事が出来ませんから、遠くの方から楽しく「紙芝居」を見ている子供達を見ている他はありませんでした。水飴を買えない子供にとっては、「紙芝居」を見られないのですから、それはそれは惨めなものなのです。当然、水飴を買って「紙芝居」を見ていた子供達からは、「紙芝居」を見られなかった子供を「貧乏人」として、いじめる事もありました。私の家は、その「貧乏人」の一人でしたから、子供だった私もそれを自覚していて、たとえ5円や10円でも「紙芝居」を見る為に親に「お小遣い」を強請る事は一度もしませんでした。私も子供ながらに、親に気を遣っていたようです。我ながら、当時の自分を思うと、「けなげ」ものだった、と思い起こすのです。

11,「薪(まき)拾い」はつらかったな。

 戦前も戦争中も、そして終戦になっても、料理や暖房、自分の家の風呂を沸かすのも、その燃料となるのは「薪」しかありませんでした。山形の地域で各家庭にプロパンガスが普及したのは、私が大学生となった、昭和四十年代の初頭の頃で、それまでは、殆どの家庭では「薪」を燃料としていました。

「薪」も買ってくるのではなく、近隣の山に入り、焚き付けとなる「杉の枯葉」や「枯れた松の葉」と共に、枯れ枝を沢山拾ってくるのです。最初に、竈(かまど)口に「杉の枯葉」や「枯れた松の葉」を入れて、マッチ(現在では、あまりマッチも見なくなりました。)で火を付け、その上に細い枯れ枝、次にもう少し太い枯れ枝を入れて火力を増し、その火力によって炊事や風呂、火鉢の火を熾(おこ)します。

姉や兄が小学校に行った後、私は母に連れられて、近隣の山に「薪拾い」に行きますが、この山も個人所有の山には入れません。個人所有の山の物は全てその山の所有者の物ですから、たとえ「薪」一本でも拾って持ち帰ったら、それは「ドロボー」になってしまいます。ですから、母の行く山は国有や、市町村が所有している山に限るのですが、実際には個人所有か?公有地なのか?その境界が明確ではなかったようで、母は「薪」のありそうな山を見つけては入っていたようです。

母が山の傾斜が急な所をよじ登りながら「薪」を拾い集めて行った時、幼い私は低地の窪みで、母の帰りを待つ以外に何もする事はありません。「薪拾い」はどこの家でもしていましたから、拾い集めるにもなかなか「薪」は落ちてはいなかったと思います。帰ってこない母を一人で待っているのは、私には本当に心細かった思い出でしかありません。母は集めてきた「薪」を、低地の窪みで30㎝程度の束にまるめ、それを3束ぐらいになるまで拾い集めるのです。私にも、細い枯れ木の束を造って背負わせ、また、枯れ木の無い時には、杉の葉等の軽い物を拾い集めては背負わせられたものでした。何てことはない、チビッコ「二宮金次郎」のようなものですが、現在の若者達には、この「二宮金次郎」と言っても、誰も知らないのかもしれません。

山形の米沢地区は、冬は底冷えのする寒冷地です。越冬するには、暖房の為の燃料が相当の量を必要とします。従って、季節が秋になると、連日のように山に連れて行かれて、「薪拾い」の手伝いをするのでが、それでも一冬を過ごすのに「薪」が不足するような時には、小学生だった姉や兄も駆り出されて、「薪拾い」をしなければなりませんでした。

激寒の時期に「薪」が少なくなってきた時には、多量の「薪」を燃す必要がある風呂を焚くことは出来ません。入浴するには、歩いて片道20分程度の「銭湯」に行かなければなりません。比較的近い片道15分程度の「銭湯」もありましたが、そこは子供の私の目から見ても、浴槽の中に浮遊物があって、非常に不衛生なものでした。それで、少し遠くになりますが、片道20分程度の「銭湯」に行くのです。浴槽で身体を温めても、片道20分となると、「銭湯」から家に着く頃には、すっかり身体も冷えきっていました。「銭湯」からの帰り道、濡れた「手ぬぐい(現在はあまり見かけなくなりましたが。)」をグルグルと振り回しながら帰ると、家に着くまでには、「手ぬぐい」はツララのようにカチンカチンに凍ってしまうほどでした。

「結び」として

人間は感情の動物です。人間が感情を持っている以上、感情の縺れから人間間の争いとなってしまいます。身近には、兄弟喧嘩、親子喧嘩、友人・クラス仲間同士の喧嘩、夫婦喧嘩等、喧嘩が嵩じて殺人事件にまで発展する事も良く聞きます。更に、人間と言う動物は、争い事を好み、スポーツ社会でも、「競わせる」ことから、何でも競争となり、そこには必ず敗者と勝者が生じ、スポーツマンシップはあくまでも綺麗事、敗者には「屈辱」が残り、勝者に対する「打倒精神」や悪い「敵愾心」が生じてきます。反面、この心理がなければ、自己の競技への向上心も高まってこず、どのスポーツも衰退してしまいます。人間ほど難しい感情を持つ動物はいないのではなかろうか。

政治の世界においても、選挙戦と言って、「戦う」ものであり、敗者となった政党は、打倒与党を目論見、政争を繰り返します。その政党も、自由闊達な同じ思想の集団であるはずなのに、思想の相違が生れて分裂を起こしたり、政界の争い事も絶えません。

これがもっと大きく、国一つを単位とすると、そこには、「人種差別」・「宗教差別」・「生活文化の差別」・「民族差別」等、複雑怪奇な問題も絡みあって、シリアのようなに政府軍と反政府軍との内戦、アフリカのロヒンギヤや、アフガ二スタンのアルカイダ等の宗教絡みの内戦、イスラエルとパレスチナ、インドとパキスタンの地域問題絡みの対立、挙げればきりがありません。

更に、アメリカ、ロシア、中国等の諸大国の核爆弾の保有確大と開発、後進国であるはずの北朝鮮ですら核保有国となってしまっています。何時、核爆弾による第三次世界大戦になるのか、それは恐ろしいものです。国同士の問題も、ほんの些細な感情の縺れから、大きな外交問題に発展し、戦争へと拡大してしまうのではないでしょうか。

以上の観点に立つと、私は、決してこの世から、戦争は無くならない、と断言せざるを得ないのです。人は、「話せば判る」とも言いますが、その「話せば判らない」から喧嘩にもなり、民族同士の争いになったり、内戦にも発展しているからです。

これから、世界は、地球サイズ等の小さな範疇ではなく、アメリカでは宇宙軍の創設をも企てている現状です。世の中は、益々複雑化し、戦争勃発の危険極まりない中で生きて行く事を余儀なくされる事となるでしょう。戦中派の一人として、日本だけではなく、世界全体がどうなってしまうのか?ただただ憂慮する以外に、これと言った方策もなさそうな気がします。

ここに、「無い無い尽くしの頃―終戦直後備忘録―」と題して、私の戦後における「無い無い尽くし」の経験の一部を記載してみましたが、これが後世に役立つ事は絶対に無いと思いつつも、これから日本の社会を背負って行く若者の、ほんの極々一部の人でも良いので、是非読んでいただき、どこかに記憶として残してもらえれば、こんな嬉しいことはありません。

※こちら、管理人がお世話になっております。滝さんから頂いた原稿となります。改行、および、せっかくなので、YOUTUBEでの動画の挿入のみを行いました。その他の編集は特にしておりません。感想がございましたら、お気軽にコメント欄からお願い致します。

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