
第百七十回 サロン中山「歴史講座」
令和七年1月13日
瀧 義隆
令和七年NHK大河ドラマ「べろぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)―」の時代を探る
メインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
今回のテーマ「蔦屋重三郎と“べらんめぇ”」
はじめに
今年のNHK大河ドラマは、江戸吉原の花魁(おいらん)等を紹介する現在のガイドブックを出版した蔦屋重三郎を主人公とする、脚本家の森下佳子氏が創作した時代物語である。この吉原の花魁とは、言うなれば売春婦の世界で生きている女性達なのである。決して喜んで売春婦になったのではなく、多くは人身売買で売られてきた女性が、身を売って死ぬまで働かされた実に悲惨な境遇の人達なのである。このような女性達を如何に綺麗事で表現しても、裏に隠された非劇をどのようにドラマに描こうとしても、売春婦の世界の「むごたらしさ」をドラマの材料とするのには大きな疑問があると言わざるを得ない。たとえ蔦屋重三郎の反骨精神をドラマの主題としても、公共放送のNHKが売春婦の世界を美化するような物語を「とりあげるべきものではない。」と、冒頭から指摘しておきたい。
1.「蔦屋重三郎の生涯」
誕生・・・寛延三年(1750)1月7日
生れた場所は、浅草裏の新吉原とされている。・・・・・・・・・・・資料①参照
名前・・・本名は「喜多川珂理(からまる)」である。
「蔦屋」は屋号で「蔦屋耕書堂」と言った。「重三郎」は通称であって、狂歌を造る時は、「蔦唐丸(つたからまる)」と称していた。
死去・・・寛政九年(1797)5月6日(48歳で病死)
父・・・・丸山重助(尾張の出身で職業は不明)(吉原で特殊な仕事をしていたのでは?、と考えられている。)
母・・・・広瀬津与(つよ)
「蔦屋重三郎の略歴」
宝暦七年(1757)・・・両親が離婚した為、重三郎は喜多川氏の養子となる。(以後、幼年期における重三郎についての記録は全くない。従って、妻や子供に関する史料もない。)
宝永二年(1773)・・・吉原大門の前に、書店を開業する。
宝永三年(1774)・・・「吉原細見(そうけん)」を出版・販売。「遊女評判記」を刊行する。「細見」とは、現在の「ガイドブック」である。
宝永六年(1777)・・・本屋を開店する。
天明三年(1783)・・・離婚していた両親を呼び寄せて一緒に暮らすようになる。
「丸屋小兵衛」の株を取得し、日本橋に進出する。・・・・・・・・・・・資料②参照
天明七年(1787)・・・この年から開始された松平定信の改革により、「蔦屋重三郎」は風俗を乱したとする罪により捕縛され、過料(かりょう)により、「手鎖50日」と「身上半減」の処分となった。「過料」とは、金銭で徴収される処分である。また、松平定信の改革とは、「寛政の改革」のことで、質素倹約を奨励する改革であった。
寛政六年(1794)・・・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の役者絵を出版する。
寛政九年(1797)・・・脚気(かっけ)が原因?、48歳で死去する。
鈴木俊幸著『蔦屋重三郎』若草書房 1998年
2.「“べらんめぇ”」とは?
大河ドラマのタイトルとなっている「べろぼう」とは、本来、「江戸っ子」がつかっていた「“べらんめぇ”」言葉の一つである。
そこで、この項では、「江戸っ子」が日常遣っていた「“べらんめぇ”」言葉とは何か?について明らかにしてみたい。
そもそも、「江戸っ子」とはどのような人を指すものなのか?を調べると、単に江戸に住んでいれば、誰でも「江戸っ子」なのか?というと、そうではない。本来、「江戸っ子」とは、日本橋周辺の「大店(おおだな)」の商人や、日本橋魚河岸や新川の大旦那(おおだんな)、また、蔵前の「札差(ふださし)」等の人々が、地方出身者の江戸流入に対して、「将軍様のお膝元」の住人のプライドを固持する意味から、「おいらは、江戸育ちでー」を強調する美的意識をもって、「江戸っ子」と主張していたのである。それが、江戸時代中期から後期にかけて、一般庶民である、大工や鳶職・棒手振り商人までもが、自称「江戸っ子」を吹聴するようになったのである。
「江戸っ子」をひけらかすには、法律で決まっているものでも全くないものの、そこには、漠然とではあるが、一つのルールのようなものが存在していた。
「江戸っ子」と言われるには、田舎から江戸に「ぽっ」と出て来た者を「江戸っ子」とは言われない。初代となる人物が、田舎から江戸に来ても、それは単なる「江戸の住人」でしかない。それでは初代の生んだ、息子や娘はどうであろうか?、二代目の息子や娘達も、単なる「江戸の住人」としか見られない。それでは、三代目となる孫達はどうであろうか?ここで初めて「江戸っ子」と称しても許されるのである。但し、この「江戸っ子」の認定は、役所や役人達が認めるようなものではなく、近所隣りの住民達や周囲の者達が、この人は間違いなく「江戸っ子」だ、と認めてくれなければ「江戸っ子」ではないのである。
元々のルール的なものとしては、
★水道橋の水を産湯にしていたこと。
★宵越しの金は持たず、金ばなれが良いこと。
★乳母日傘で育った高級町人であること。
★江戸の中心部で生まれた、生え抜きの人であること。
本来は、このような条件を備えている、日本橋近辺に在住する
厳密には、高級商人である「旦那衆」にのみ自称を許された「江戸っ子」なのであったが、江戸時代の中期・後期頃になると、一般庶民である、大工や鳶職・棒手振り商人までもが「江戸っ子」を自称して「空えばり」をしていたのである。ただ、一般庶民達が「江戸っ子」を自称するには、高級商人である「旦那衆」の「江戸っ子」とは相違する、自称の為の別のルールがあった。
そのルールとは、どのようなものか?それは、とにかく、他人か
ら見て「江戸っ子」とは「粋(いき)」で「いなせ」で、「きっぷが
良い」人でなければならないのである。次に、この「粋(いき)」
と「いなせ」と「きっぷ」について調べてみると、
★「粋」とは?
「さっぱりとした気立てで、“あかぬけ”がしており、色気のただよう人、また、人情の機微にも通じている人」のこと。
★「いなせ」とは?
「俠気(きょうき)があって、身のこなしが粋であること。」
★「きっぷ」とは?
本来は、「気風(きふう)が良い」がなまって「きっぷが良い」と変化したもので、物事にも執着することなく、性格が「さっぱり」としていること。
このような「粋」・「いなせ」・「きっぷ」の三つの条件を備えつつ、下町育ち等の生まれた場所の条件をも満たしていなければならないのである。更に、親子孫と三代にわたり江戸に在住している者である事を前提として、住民達や周囲の者達が認めてくれた時に初めて「こちとら、江戸っ子よー」と自称することが許されるのである。また、「こちとら、生粋(きっすい)の江戸っ子でー」と「江戸っ子」をひけらかす者もいる。「生粋」とは、「混じりけの全くない。」という意味で、「江戸っ子」として、おじいさんが既に「江戸っ子」であって、次の代の父親、そして自分と三代以上続く者が言える「江戸っ子」のことなのである。
また、この「粋」と「いなせ」・「きっぷが良い」を兼ね備えた「生粋の江戸っ子」達が日常つかう言葉に、「べらんめー」というものがある。はたして、この「べらんめー」とは何なのであろうか?本来は「べらぼうめ」という言葉が元になっていて、意味としては、「常識的ではない。」という事を強く言っているのである。それでは、「べらぼうー」とは、どんな言葉なのか?というと、
★江戸時代に見世物で人気のあった「便乱坊(可坊)」という人の名前から生じた、とする説
★ご飯をつぶして、「そふい」と称する粘着力の強い「のり」を造るときに使う「箆(へら)・棒」のことで、「ごくつぶし」の「へら棒」のような人であるから、何の役にもたたず、ただただご飯を食べる事しか出来ない、現代で言う「ひきこもり」の人間を指す「へらぼう」が元となっている。しかし、「へらぼうー」では語気に力がないので、「へ」に濁りの点々「゛」が付いて「べらぼー」と変化したものである、という説もある。
本来は、「何言ってやんでぇーべらぼうめー」と「江戸っ子」らしく「啖呵(たんか)」をきるのが本筋なのである。「生粋の江戸っ子」は「短気」を元としている為に、長々と「何言ってやんでぇーべらぼうめー」と言ってはいられない。長々と喋っていたら「明日になってしまう。」と言うのが「江戸っ子」なのである。それ故、「何言ってやんでぇーべらぼうめー」も、最初の「何言っ」を省略して「てやんでぇーべらぼうめー」となり、更に省略して「べらぼうめー」だけとなったのである。
次に、「江戸っ子」がきる「啖呵(たんか)」について調べると、「啖呵」の「啖」とは、風邪などで喉を悪くした時に、どうしても「啖」が喉にからまって呼吸も困難になったり、気持ちが悪くなったりする。その時に「えへん」といって「啖」を切ることがある。「啖呵」の「呵」の意味は、嫌な物を切って「胸がすーっとする」状態を意味する言葉である。従って、「啖呵」とは、「いやな物を切り捨てて胸をすーっとさせる」状態になる事なのである。それで、日々「江戸っ子」は、「べらんめえー」言葉で「啖呵」をきって、「粋」で「いなせ」で「きっぷが良い」ことを固持していたのである。
以上のことから、この大河ドラマのタイトル「べろぼう」とは、代々「江戸っ子」である「蔦屋重三郎」の時代の権力者に対する反骨精神を「べらぼうめー」という言葉で現し、それをドラマのタイトルとしたのではないか?と思慮される。
横田 貢著『べらんめぇ言葉を探る』芦書房 1992年
3.大河ドラマ「べろぼう」の配役
主な登場人物名と「俳優」
①「町人」
「蔦屋重三郎」・・ドラマの主人公で、本の出版と販売を行(横浜流星)う人物で、時の権力者に反抗する熱血漢。以下、「蔦重」と表示する。
「喜多川歌麿」・・・鳥山石燕に師事し、絵師の大家となる人物。(染谷将太)
「鱗形屋孫兵衛」・・深川の地本問屋の主人で、「蔦重」に本屋(片岡愛之助) 商売の基礎を指導した人物。
「駿河屋」・・・・・「蔦重」の育ての親となる人物である。(高橋克実)
「次郎兵衛」・・・・「駿河屋」の実子で、「蔦重」の義理の兄と(中村 蒼)なり、「蔦重」は次郎兵衛の営む茶屋の軒先を借りて貸本屋をしていた。
「松葉屋」・・・・・老舗妓楼「松葉屋」の主人であり、吉原の(正名僕蔵)顔役である。「扇屋」・・・・・・吉原の顔役で、俳句や和歌・絵等の教養も(山路和弘)あり、遊女達にも指導していた。
「大文字屋」・・・・伊勢出身の人物であり、遊女にはカボチャ(伊藤淳史) ばかりを食べさせる“ドケチ”な人物であった。
「半次郎」・・・・・「つるべ蕎麦屋」の主人で、「蔦重」や近所(六平直政) の子供達を見守っている人物。
②「武士」(支配者・権力者)
一橋治済(はるさだ)・・第八代将軍・徳川吉宗の後継者であ(生田斗真)る。
徳川家治(いえはる)・・第九代将軍徳川家重の長男で、第十(眞島秀和)代の将軍となる。
徳川家基(いえもと)(奥 智哉)・・・第十一代将軍として期待されていたが鷹狩りに出かけた時に、突然、体調不良となり、謎の死を遂げてしまう。
田沼意次(おきつぐ)(渡辺 謙)・・・600石の旗本から、徳川家重の寵愛によって、遠江相良藩五万七千石の大名となり、幕府の老中まで昇進するものの、失脚してしまう。
田沼意知(おきとも)(宮澤氷魚)・・・・田沼意次の長男で、若くして若年寄に昇進したが、恨みをかって刺し殺されてしまう。
③ドラマに登場する女達等(実在の人物か?どうか?も不明)
この大河ドラマ「べろぼう」に出てくる女性の多くは、江戸吉原の遊郭の女郎達で、現在の言葉で言えば体を売って生活する「売春婦」達が主となっている。江戸の「売春婦」達は、自ら好きで「売春婦」になったのではなく、多くは地方の百姓の娘達で、それも「水飲み百姓」と侮蔑される極貧農家、小作農家の娘達なのである。高額となる年貢が納められず、止む無く「女衒(ぜげん)」と称する仲介屋を通じて遊女屋に娘を売り、現金を手にして何とか年貢を納めるのである。売られた娘達は、多くの場合、一生を吉原の中で生活し、身体をボロボロにし、平均年齢が僅か22歳ぐらいで性病の為に病死しており、非常に悲惨な短い人生をおくらざるを得なかったのである。
★主人公を支える女性達
「てい」・・・(橋本 愛)主人公の蔦屋重三郎の妻
「りつ」・・(安達祐実)吉原を取り仕切る女郎屋「大黒屋」の女将で、蔦屋重三郎の後見役でもあった。
「ふじ」・・(飯島直子)駿河屋の女将で、「蔦重」の義理の母親である。
「しげ」・・(山村紅葉)誰袖のお目付け役で、蔦屋重三郎に恋する「誰袖」を邪魔する。
「いね」・・(水野美紀)老舗女郎屋の女将。
「高岳(たかおか)」・・(冨永 愛)江戸城大奥の最高権力者である。
★登場する「花魁(おいらん)」達
「花の井(五代目瀬川)」・・・(小芝風花)主人公の蔦屋重三郎の幼なじみ。
「誰袖(たがそで)」・・(福原 遥)主人公の蔦屋重三郎に恋する花魁(おいらん)等
「松の井」・・・・・・(久保田紗友)吉原で花魁道中をするような、吉原でトップとなる花魁である。
「朝顔」・・・・・・・(愛希れいか)花の井に絵本を読み聞かせした女郎で、体を壊して下級女郎屋の女郎になってしまう。
「うつせみ」・・・・・(小野花梨)花魁としては中堅格のレベルの女性である。
「志津山」・・・・・・(東野絢香)勝気な性格の花魁として演出されている。
「ちどり」・・・・・・(中島瑠菜)「河岸見世(かしみせ)」と称されるランクの低い
女郎屋の女性。
江戸時代の一般の女性達についての史料は全く存在せず、ましてや売春を専門とする女性達を記録したものについては、「蔦重」等が発行した吉原の遊女達を紹介する『吉原細見』のようなガイドブックには、「源氏名」と遊郭の場所、遊女を買う値段が書いてあるだけで、遊女達の出身地・素姓等についての史料は皆無なのである。・・・・・・・・・資料③参照
まとめ
同じ人間としてこの世に生まれてきても、生まれてきた家が貧しいか?豊かな家であるか?によって、生まれてきた子供の人生は大きく相違する。農家でも豪農もあれば、極貧の百姓もいる。豪農の家の子供は苦労の無い人生となるかもしれないが、貧乏百姓の子は男の子でも女の子でも常に貧しい生活に耐えなければならない。男の子は労働力としてなんとかなるが、女の子の多くは悲しい人生となる事も稀ではなかった。このような状況は、江戸時代の事ばかりではない。それ以前もその後も、人身売買は存在していて、「むごたらしい人生」を送る女性達が多数いたのである。「悲しい限り」としか言いようがない人生なのである。
我々年代の人々にも、第二次大戦終了後の女性の中には、現在は死語となっている「パンパン」と称される売春婦がいた事を覚えている人も多いとと思われる。このような悲惨な女性を生みだすような世界になっては絶対にいけないのである。
参考資料


参考文献
- 鈴木俊幸著『蔦屋重三郎』若草書房 1998年(Amazon)
- 松木 寛著『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社 1988年(Amazon)
- 倉本初夫著『探訪 蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人れんが書房新社 1997年(Amazon)
- 横田 貢著『べらんめぇ言葉を探る(Amazon)』芦書房 1992年(Amazon)
- 横田 貢著『べらんめぇ お江戸ことばとその風土(Amazon)』芦書房 1996年(Amazon)
次回予告
令和七年2月10日(月)午前9時30分~
令和七年NHK大河ドラマ「べろぼう」の時代を探る
メインテーマ「江戸時代中期頃の江戸社会」について
次回のテーマ「江戸吉原(遊郭)」について
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