歌・舞踊の歴史

第百六十六回 サロン中山「歴史講座」
令和六年7月8日

瀧 義隆

令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「歌・舞踊の歴史」について

はじめに

大河ドラマ「光る君へ」で、主人公の「まひろ」は、平安の貴族の男性には、目を付けた女性の気を引く手段として、「歌」を贈る習わしであったが、自分で「歌」を造れない男は、誰かに「歌」を造って代筆してもらう他になく、その「歌造り」と代筆を「まひろ」は職業にして代金を稼いでいた、とする想定である。また、別のシーンでは、宮廷内の女房達が「舞い」を舞っているシーンも放映していたが、はたして、これらの「歌」や「舞踊」は何時頃から始まったものなのか?今回の「歴史講座」ではこれをテーマとして考究してみたい。

1.「歌道・舞踊の発祥」について

我国における「歌」や「踊り」の起源についての史料として『古事類苑』を見ると

「本邦楽舞ノ起源ハ、遠ク神代ニ在リ、外国ト交通スルニ及ビテ、新羅樂、百齋樂、高麗樂、唐樂、伎樂、林邑樂、等傳ハハレリ、凡ソ樂舞ニハ、唱歌樂器ヲ主トスルモノト、舞踊ヲ主トスルモノトアリ、(後略)」

『古事類苑 34 楽舞部』吉川弘文館 昭和四十三年 1P

「新羅(しらぎ・しんら)樂」・・・ 朝鮮半島の南東部にあった国で、西暦935年頃に内乱や飢饉の為に国力を失い、高麗に攻められて滅亡した。この地区から伝来した音楽である。
「百齋(くだら・ひゃくさい)樂」・・・ 4世紀半ば?~西暦660年頃まで朝鮮半島の西部・南西部にあった国家であり、この地区から伝わった音楽のこと。
「高麗(こうらい・こりょ)樂」・・・ 西暦918年に、王建(おうけん)という人が、高句麗(こうくり)の後継者と称して建国した国である。朝鮮半島の中西部に位置し、現在のソウルの北西部のあたりであった。この地区から伝わった音楽のこと。
「唐 (とう)樂」・・・雅楽の一種であり、奈良時代から平安時代初期にかけて、遣唐使によって我国に伝わった音楽である。
「伎 (ぎ) 樂」・・・推古天皇20年(612)頃に、中国南部から伝わった演劇のようなもので、奈良時代の大仏殿開眼供養の時に演じられたが、鎌倉時代に衰退し根絶した。
「林邑 (りんゆう) 樂」・・・奈良時代に、現在のベトナムから渡来した音楽と舞踊で、平安時代初期における楽制改革によって、音楽的に再構築されて「唐楽」に組み込まれてしまい、「林邑樂」として演奏されることとなった。

吉川英史著『日本音楽の歴史』創元社 1990年

以上のように、「起源ハ、遠ク神代ニ在リ」と示されており、日本史上では、「歌」や「踊り」の起源を「神話」の時代に遡らなければならないのである。

2.「歌の歴史」について

まず、この項では「歌」について取り上げてみたい。「歌」には二通りがあって、一つは心に感じた事を文章として書き著す「歌」で、「詩」や「和歌」・「短歌」・「長歌」等があり、もう一つは、声を出して曲に乗って「歌」を唄うものである。当「歴史講座」では、この二種類を区別する意味から、書き著す「歌」を「詩歌(しいか)」とし、唄うものを単に「歌」とする。

①「詩歌」について

この文章として書き著す「詩歌」について史料で見ると、

「古事類苑 文学部七 歌一歌ハ心ニ感ズルコトアリテ、言ニ発シテ咏嘆スルヲ云フ、即チ支那ニ所謂詩ナリ、之ヲ和歌ト云ヒ、或ハ和詩ト云フハ、特ニ支那ノ詩ニ對スル稱ナリ、歌ニ長歌アリ、短歌アリ、(後略)」

『古事類苑 27 文学部一』吉川弘文館b昭和四十二年 489P

「平安時代の詩歌」
「短歌」・・・五音・七音・五音・七音・七音の三十一文字で、
「みそひともじ」とも言われている。最初は、
「初句」と言い、次からは、「二句」・「三句」・
「四句」となり、最後を「結句(けっく)」と言う。短歌には、俳句のように季語を必ず入れる必要がなく、雰囲気や場面の描写を大事にするものである。
「長歌」・・ 五音・七音の二句を三回以上続けて、最後に七音で結ぶものである。『万葉集』には良く見られるが、平安時代の後期には「長歌」は廃れてしまった。
「反歌(かえしうた)」・・・この「歌」は、「長歌」の終わりに添える「歌」で、「長歌」の意とするところを反復したり、補足したり、要約する意味あいの「歌」であった。
「施頭歌(せどうか)」・・・五音・七音・七音・五音・七音・七音の六句から構成される「和歌」で、奈良時代に形成されたものである。古くは、『古事記』や『日本書紀』・『万葉集』にも作品が掲載されている。上(あげ)三句と下三句とで詠み手が違う歌が多いのも特徴である。
「仏足石歌(ぶっそくせきか)」・・・五音・七音・五音・七音・七音・七音の六句から構成される句で、奈良の薬師寺に「仏足石歌碑」に、21首の歌がこの形式で刻まれていることから、この名称がつけられた。天武天皇が亡き夫人(一説では母では?)の追善の為に造ったものとされているが、この句の作者は不明である。
「狂歌(きょうか)」・・・平安時代には「狂歌」の存在が見られ、落書(らくしょ)が発端であると考えられている。社会風刺や皮肉、滑稽な事を詠む「句」である。

「室町時代の詩歌」
 室町時代に入り、上記と共に、次のような「詩歌」が加わる。
「俳句」・・ 起原は室町時代に遡り、伊勢神宮の神職であった荒木田守武が考案したもので、俳祖と言われている。

「江戸時代の詩歌」
江戸時代になると、従来の「詩歌」に「川柳」が加わる。
「川柳」・・・江戸時代に柄井川柳と称する人が考え出したもので、最初は「狂句(きょうく)」と言われていた。「川柳」と言うようになったのは明治時代頃からである。

神野志隆光著『和歌史―万葉から現代短歌まで―』 和泉書院 1985年

②声に出して唄う「歌」について

唄う「歌」について、『古事類苑』には、

「歌ハモト専ラ口ニ唱へシヲ以テ、風調ノ佳ナルヲ貴ビシガ、後ニハ口ニ唱フルコト自ラ稀ニナリシガ、意思ノ巧妙ナルヲ主トセリ、」

『古事類苑 27 文学部一』吉川弘文館 昭和四十二年 490P 

以上のように、「風調ノ佳」と現されているように、唄う「歌」とは「自然が作り出す音楽的な響きの美しさ」を言葉に現して唄い、自分の心を巧みに表現する事を最も大事なものだ、と示しているのである。

この「歌」も、時代によって変化しており、次にその様子を見てみると、「奈良時代頃の歌」

「民謡(みんよう)」・・・そもそも、「民謡」とは、神に仕える巫子が、人間の言葉を神に伝え、神の言葉を人間に伝える時の「祝詞(のりと)」を声を高くしたり、節を付けたりした事が「民謡」の発端となった、とする説が有力で、奈良時代には成立していた、とされている。
「雅楽(ががく)」・・・本来は、中国古代に発生した音楽で、奈良時代頃に日本に伝わり、寺社や宮廷で奏でられた。(詳細は11月の講座で説明予定)
「音頭(おんど・おんどう)」・・・雅楽を奏でる時に、一番最初に音を出す相図をする人のことで、主席奏者のことである。この言葉から、何か事を始める最初の人を「音頭取り」と言うようになった。民謡の一種として、曲の主要部分を独唱し、また、掛け合いの形で唱和する事を音頭と称した。

「平安時代頃の歌」
平安時代になると、次のような「歌」の種類が加わってくる。

「神楽歌(かぐらうた)」・・・日本の神道において、神事の時に雅楽と共に唄われるものである。
「催馬楽(さいばら)」・・・古代歌謡であり、各地の風俗歌に外来の楽器による伴奏を加えたもの、と伝わっている。曲目として伝わっているものは、多数残っている。
「今様(いまよう)」・・・現在の流行歌のようなもので、歌詞は七音・五音を四回繰り返す歌であるが、メロディーがどんなものであったかは、全く不明である。
「東歌(あずまうた)」・・・日本の辺境の地であった東国(現在の関東地区から東北地方を意味する地方)の歌謡のことである。
「大歌(おおうた)」・・・奈良時代から続いている宮中の節会(せちえ)で歌われる歌で、日本古来の独特な歌である。

「鎌倉時代頃の歌」
平家を打倒した源氏が鎌倉に幕府を開くと、次のようなものが流行してくる。
「平曲(へいきょく)」・・・盲目の法師が、琵琶を奏でながら「平家物語」を節(ふし)を付けて語るもの。
「物尽くし」・・・同じ種類の物を列挙し、曲を付けて唄うもの。
具体的にどのような曲であったか?は不明であ
る。

「室町時代頃の歌」
室町時代には、次のものが流行してくる。
「隆達(りゅうたつ)節歌謡」・・・「室町小歌」とも称される唄で、軽ろやかな音を楽しむ遊びの類であったのでは、と考えられている。

「江戸時代頃の歌」
徳川氏によって天下が平定されて、安定世相となると、「歌」の文化も多様化してくる。
「端唄(はうた)」・・・江戸時代の中頃に発生した「はやり唄」の一種で、季節の風物や男女の心の機微を表現する歌である。
「江戸小唄」・・・もともとは、「端唄」が変化して生れた「俗謡(ぞくよう)」の一つである。
「度々逸(どどいつ)」・・・天保十三年(1842)に、「三味線禁止令」が発布された為に、三味線の伴奏を抜きにした「度々逸」が出来上がった。自然を詠みつつ、社会風刺も加わっている歌である。
「大津絵節(おおつえぶし)」・・・江戸時代の後期頃から流行した「歌」で、三味線を伴奏にして寄席や座興として唄われていた。
「長唄(ながうた)」・・・江戸時代に歌舞伎の音楽として用いられたもので、浄瑠璃や謡曲等の要素が取り入れられている。
「謡曲(ようきょく)」・・・起原は不明であるが、江戸時代以前からあったものと推定されており、原点は「能」であると考えられている。
「上方歌(かみがたうた)」・・・「地歌(じうた)」とも称されていたもので、京都や大阪を中心に歌われていた。
「唐人歌(とうじんうた)」・・・ 江戸時代から明治にかけて流行した歌で、中国風の音律であった。
「明清楽(みんせいがく)」・・・中国から伝来した民謡や俗曲のようなもので、江戸中期頃には衰退してしまった。「明楽(みんがく)」・「清楽(しんがく)」とも称されていた。
「甚句(じんく)」・・・江戸時代の後期に造られた歌謡の一つで、七音・七音・七音・五音が一つの区切りとなっている。「相撲甚句」が有名になっている。
「清元(きよもと)」・・・江戸時代の後期頃に、浄瑠璃の清元延寿太夫が発案した節まわしで、庶民にも流行した。

吉川英史著『日本音楽文化史』創元社 1989年

以上の「歌」の他に、地方に伝わる「子守歌」等があるが、その起原については全く不明である。
声を出して唄う「歌」は、時代と共に受け継がれたり、変化しつつ、新しい「歌」が造られたりして時代が過ぎ、現在の「演歌・艶歌」・「童揺」や「歌謡曲」等、多種多様な「歌」へと進展してきたのである。

3.「舞踊の歴史」について

この項では、「歌」と共に楽しまれる「舞い」や「踊り」について、その歴史を調べてみたい。
この「舞踊」についても、「1」の項で示したとおり、その歴史的な起原は神代の時代にあって、女神の「天鈿女命」が、「天の岩戸」の前で「裸踊り」をした事に始るのである。
一般的に、「舞踊」を単一語として使用しているが、厳密に言うと、「舞い」と「踊り」とは明確に区別されるものである。
「舞い」・・・ すり足などで舞台を回ることを基礎とする。
「踊り」・・・ リズムに乗って手足を躍動させること。
『広辞苑 第二版』岩波書店 昭和四十五年 2061P

次に、「舞い」と「踊り」について、それぞれを「舞踊史」に関する専門書を調べてみると、全国には数多くの「舞い」・「踊り」と称するものがあり、また、名前のみで既に消滅したものや、伝承されているもの等、多類多様のものがある為、この講座ではそのごく一部を列記してみることとしたい。

①「舞い」について

「舞い」の民間芸能としての種類について、調べてみると、『廣文庫』には、次のように記載されている。
「吉志(きし)舞」・「殊(たつつ)舞」・「久世(くせ)舞」・「田(た)舞」・「片(かた)舞」・「求子(もとめご)舞」・「鳥子名(となご)舞」・「楯節(たたふしの)舞」・「五節(ごせち)舞」・「延年(えんねん)舞」・「倭(やまと)舞」・「駿河(するが)舞」・「筑紫(つくし)舞」・「螳螂(とうろう)舞」・「大黒(だいこく)舞」・「馴子(なれこ)舞」・「陵王(りょうおう)舞」・「剣(けん)の舞」

物集高見・物集高量著『廣文庫 第十八冊』 昭和五十二年 531~535P

以上のように、18種類の「舞い」があり、そのほとんどが神前に奉納する舞楽であるが、残念ながらその具体的な「舞い」の実体を窺う事は不可能となっている。一部、秋田地方に存在する「大黒(だいこく)舞」や、岩手県の「剣(けん)の舞」等が現存している。

次に、各時代毎の「舞い」について見ると、
「平安時代頃の舞」
「五節舞(ごせちのまい)」・・・新嘗祭(にいなめさい)」の時に、公卿の娘達3人と、殿上人の娘2人、合計5人で演じる「舞」である。平安中期頃になると、中級貴族の娘達が舞うようになった。
「青海波(せいがいは)」・・・雅楽の舞いで、寄せる波と引く波の有り様を優美に舞う。
「安摩(あま)」・・・絹を貼った厚紙で作った面を被り、陰陽師が舞っていた。
「ささらの舞い」・・・現在でも全国各地で継承されている無病息災・五穀豊穣を祈願する舞いである。

「鎌倉時代頃の舞」
「白拍子(しらびょうし)の舞」・・・源義経の愛妾である静御前が舞った「舞い」で、男装した遊女等が、今様や朗詠を唄いながら舞う。

「室町時代頃の舞」
「曲舞(くせまい)」・・・鎌倉時代後期頃から室町時代にかけて流行した「舞い」で、「久世舞」とか「九世舞」とも表記されている。「謡曲」として現在に一部伝承されている。
「幸若舞(こうわかまい)」・・・能や歌舞伎の原型とされているもので、福岡県のみやま市に現存している「舞」である。織田信長も好んで「幸若舞」を舞い、有名な「敦盛」を得意としていた。

「江戸時代頃の舞」
「童舞(どうぶ・わらわまい)」・・・雅楽の一部で、元服前の子供が舞うもので、白塗りの厚化粧で舞ったり、薄化粧で舞う場合もあった。
「伶人舞(れいじんまい)」・・・雅楽の一部で、平安時代から継承されている
「舞」の一つで、「伶人」とは雅楽を奏でる人をいう。
「地唄舞(じうたまい)」・・・「上方舞(かみがたまい)」とも称されるもので、江戸時代後期に考案された「舞」である。女性の憂いや哀しみや艶(つや)等を表現する「舞」である。
石福恒雄著『舞踊の歴史』紀伊国屋書店 1974年

②「踊り」について

有史以前の原始時代における「踊り」については、全く不明であるが、史料として見る事の出来るものとしては、

「平安時代頃の踊り」
菅原道真が、仁和二年(886)~仁和六年(889)迄の四年間、讃岐守として現地に赴いた時、地域の住民達が日本古来のものとする「雨乞(あまごい)の踊りをした、とする記述がある。平安時代の中期には、「空也上人(くうやしょうにん)」が、一般庶民に信仰を広める為に始めた、とする「念仏踊り」を始めたのだ、とする説もあり、これが「盆踊り」の原型だ、とする考えもある。

「鎌倉時代の踊り」
「鎌倉踊り」と称する「踊り」が生れ、これは、源氏が平家を滅ぼした時に、戦勝を祝って「踊った」ものだとする説と、都落ちした武士達が京の「踊り」を伝えものだ、とする説があり、また、鎌倉幕府を偲んで、村人達が踊ったものが「鎌倉踊り」だ、とする説があって、その真実は不明である。

「室町時代頃の踊り」
「風流踊り」が流行するが、これは、「鉦(かね)」・「太鼓(たいこ)」・「笛」等で囃し、器楽演奏や「小歌」に合わせて様々な衣装を着た人々が踊っていた。戦国時代に入り、織田信長もこの「風流踊り」を踊っていた。

「江戸時代頃の踊り」
出雲の「お国」という女性が、「かぶき踊り」と称する「歌」や「踊り」や「寸劇(すんげき)」を演じ、この一種のショーのような芸能が、京や江戸で流行するようになった。江戸市中では、「傾き者(かぶきもの)」と称される者達が、奇抜な格好や常識はずれの行動をする者も現れた。

「明治時代以後の踊り」
江戸時代までの「盆踊り」は、性風俗的に大変乱れたものへと変化し、父親の不明な子供が生れたり、不倫が元となって夫婦間の離婚問題も多発する傾向にあった為、明治新政府は明治七年(1873)に「盆踊り禁止令」を発布し、全国的に一時「盆踊り」は衰退する事となったものもある。ただし、全国各地には、その土地特有の伝統的な「踊り」が存在し、岐阜県郡上八幡の「郡上踊り」や、徳島県の「阿波踊り」、富山県八尾市の「おわら風の盆」をはじめとして多数の「踊り」が継承されているものもあり、その種類が有りすぎる為、省略する。

明治期に西洋文化が流入し、その一例として「社交ダンス」が導入されて「鹿鳴館(ろくめいかん)時代」を迎えた。しかし、これも上流社会を中心に「不倫問題」が多発する事となった為、洋式ダンスは敬遠されるようになった。
以後、大正・昭和・平成・令和と世相も変容しつつ、第二次世界大戦中の洋式文化廃除運動を経た後、終戦になると欧米のマンボ・チャチャチャ・ホークソング・ジャズ・ブルース等、多種多様の歌や「踊り」が、溢れるように入って来て、今日に至っているのである。

石福恒雄著『舞踊の歴史』紀伊国屋書店 1974年

以上のように、我国における「舞踊」も、その時々の世相を反映しながら、様々な変化(進化?)をしつつ、人々の心を癒すものとして現在に至っているのである。

まとめ

「歌」や「踊り」を見たり聞いたりする事は、庶民である我々一般人にとって、日常の様々な悩み事や病気等の不安を一時的に忘れさせてくれる「なくてはならない」娯楽の一つである。残念ながら現在の演歌界には、これと言ったヒット曲がこの数年見る事が出来ていない。昭和時代を彩った、星野哲郎や船村徹等の偉大な作詞家や作曲家達は、遠い昔の人となってしまっている。繰り返して残念としか言いようがない。

参考文献

  • 藤田福夫・安部正路編「和歌の歴史」桜楓社 1972年
  • 石福恒雄著「舞踊の歴史」紀伊国屋書店 1974年(Amazon)

次回予告

令和六年8月12日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「王朝文化の探求」
次回のテーマ「書道・絵画の歴史」について

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