第百三十六回 中山ふれあいサロン

第百三十六回 中山ふれあいサロン「歴史講座」
平成31年4月8日
瀧  義 隆

平成31年NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」に因んで歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツについて」
今回のテーマ「弓道(射術)の歴史―(アーチェリー)」について

はじめに

日本もヨーロッパ諸国においても、古代における人類の基本的な生活維持には、確実な食糧確保として、狩猟が中心となっており、その狩猟の道具として、先ずは「刀」であったり「槍」でもあるが、もう一つの道具として「弓」がある。「弓」については、日本では「弓」と称しているものの、英語では「a bow」である。これが、中世においては単なる狩猟の道具から武器へと発展して、日本では「射術」、ヨーロッパ諸国では「archery」と言われる武術にと変化するようになった。更に、近代以後になると、これが体力増進の為の競技種目へと進展し、オリンピック競技の一つとなったのである。そこで、今回の「歴史講座」では、この日本の「弓道」とヨーロッパ諸国の「アーチェリー」について取り上げてみたい。

1.「日本の射術」について

「弓道(射術)」についての歴史を振り返ると、奈良・平安時代における朝廷では、「射術」または「弓術」とも称していて、鎌倉時代及び室町時代に武士社会における武術の中心的存在としてその隆盛をみたが、戦国時代の後期頃に鉄砲が合戦の主力武器となってくると、「射術(弓術)」は極端に衰退してしまったのである。明治維新においても、旧来の武術は時代遅れとみられていたが、明治二十八年(1895)に「大日本武徳会」が結成され、各種の武術が復興され、大正八年(1919)に「射術(弓術)」も「弓道」と改称されて普及されるようになったのである。

「弓道(射術)」について

「弓道(射術)」についての史料を調べてみると、「武技部 二 射術射術ニハ、(中略)其淵源ハ遠ク太古ニ在リテ、素戔鳴尊ノ父母ノ神ニ逐ハレテ、高天原ニ昇リマセル時、天照大神ノ、背ニ千箭ノ靫ヲ負ヒ、臂ニ稜威ノ高鞆ヲ著ケテ詰問シ給ヒシハ、射術ノ創見ト為スベシ、(後略)」
『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館 昭和四十四年 97P
「太古(たいこ)」・・・・大昔、神話の時代のことである。
「素戔鳴尊(すさのうのみこと)」・・・伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)お二人の神様の子供で、天照大神の弟である。猛々しい神様とされている。
「千箭(ちのり)」・・・ 多くの弓矢が入っていること。
「靫(うつぼ)」・・・・ 弓矢を入れる為の用具のこと。
「臂(ひじ)」・・・・・ 肘のこと。
「稜威(りょうい)」・・ 勢いの激しいこと。威力が強いこと。
「高鞆(たかとも)」・・ 弓を引く時に使う道具の一つで、矢を放った際の衝撃を防ぐ為のものである。
古代から中世における武士達にとって、一大戦力・武器でもあった弓矢の威力も、天文十二年(1543)に「火縄銃」が伝来し、たちまち日本全国の武士集団に鉄砲が流布し、江戸中期にかけて「砲術」が更に進展すると、「弓道(射術)」が急激に衰退してしまうのである。この事を示す史料をみると、
「徳川幕府ニ於テモ、大ニ射術ノ進歩ヲ謀リテ武士ヲシテ弓馬ヲ練習セシメ、或ハ大的上覧ト称シテ、将軍親ラ臨ミテ其藝ヲ観ル、特ニ吉宗以来、大ニ心ヲ用ヰシカド、砲術ノ傳来セシヨリ、射術ハ次第ニ衰微シ、遂ニ幕府ノ武術中ヨリ、射術ノ演習ヲ廃除スルニ至レリ、(後略)」
『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館 昭和四十四年 98P
「吉宗(よしむね)」・・・・徳川幕府第八代将軍の徳川吉宗のことで、
「享保の改革」により、幕府政治の大規模な改革を断行したことでも有名である。
以上にみられるように、弓による武器は、江戸時代、八代将軍の徳川吉宗の享保年間頃以降に幕府の武術からも消えてしまったのである。

「弓道(射術)の流派と流祖」について

次に、日本の「弓道(射術)の流派と流祖」について調べてみると、
「玄孫小笠原長清ニ至リテ、新ニ射法ヲ定メ、七世ノ貞宗ニ至リテ、更ニ之ヲ増補シ、子孫相継ギ、弓馬ノ術ヲ以テ幕府ノ師範トナリ、後ニ又日置、吉田、逸見、武田等ノ諸流派ヲ出セリ、(後略)」
『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館 昭和四十四年 97~98P
「小笠原長清」・・・鎌倉時代に小笠原長清が起こした射術の流派で、小笠原貞宗・小笠原常興によって大成されたとする流派で、室町時代に射術諸流派の中心的な存在となった。
「日置(へき)」・・・室町時代に、日置弾正政次(正次?)が確立した射術の流派であるとされているが、明確な事は不明である。
「吉田」・・・・・ 室町時代末期に、吉田重賢(しげかた)が起こした射術の流派である
「逸見(へんみ)」・・武田氏の一流で、平安時代末期の逸見清光(源清光)が流祖と伝えられている射術の流派である。
「武田」・・・・・・安芸武田・若狭武田に伝わる流派で、安土桃山時代に細川藤孝に伝授されたことから、「細川流」とも称される流派で、熊本藩で保護されていた。
『古事類苑』に記載されている以上の流派の他に、他の参考文献を精査してみると、以下のような流派が存在していたことが確認出来る。
「大和(やまと)流」・・・・ 江戸時代初期に森山香山喜忠が確立した射術の流派である。
「本多流」・・・・ 明治時代に入って、日置流尾州竹林派から分かれて、本多利実が起こした流派である。

「射術の種類」について

次に、「射術」にはどのような種類があったかを史料でみると、
「射術ニハ、歩射、騎射ノ二種アリ、歩射ハカチユミトモ、カチダチトモ云ヒ、騎射ハウマユミト云フ、射禮、賭弓、弓場始等ニハ、歩射ヲ用ヰ、流鏑馬、犬追物、牛追物、笠懸、小笠懸等ニハ、騎射ヲ用ヰタリ、(後略)」
『古事類苑 44 武技部』吉川弘文館 昭和四十四年 97P
「歩射(かちゆみ・かちだち)」・・・・ 徒歩で弓を射ること。
「騎射(うまゆみ)」・・・・ 馬上で行う弓矢の競技のことで、端午の節会(せちえ)に行う、近衛の武官の流鏑馬や笠懸等を意味する総称である。・・・・・・・・・・資料1参照
この騎射の種類には次のような武家の競技があった。
「流鏑馬(やぶさめ)」・・・・ 騎射の一種で、疾走する馬に乗って走りながら鏑矢(かぶらや)で的(まと)を射る。
「犬追物(いぬおうもの)」・・・・鎌倉時代から始まったとされる武家の騎射の一種で、馬場の円の中に犬を追い込んで、四方から犬を射ぬく競技である。一度の訓練で、150匹の犬が弓で殺されていた。
「牛追物(うしおうもの)」・・・・平安時代の末期頃から始まったと伝えられる武家の騎射の一種で、馬場に牛を追い込んで馬上から弓で牛を射ぬく競技である。
「笠懸(かさがけ)」・・・・弓の的として、遠くに設置した「笠」を疾走する馬上から射ぬく競技である。的が多種であることから、流鏑馬よりも難易度が高かった、と伝わっている。群馬県新田郡笠懸は、源頼朝がこの地で笠懸を行ったことに由来するとされている。
「小笠懸(こさががけ)」・・・・笠懸よりも、的が小さく、また、的までの距離も短かった。・・・・・・・・・・資料2参照
前述したように、これらの弓道(射術)も、鉄砲によって、ほんの一部の流派を除いては衰退してしまったのである。現在の「弓道」においては、現存する特定の流派に所属するよりも、昭和二十八年(1953)に刊行された『弓道教本 第一巻』を指標として「射法八節」の大綱を基本として鍛練している人も多くなっているようである。

2.「アーチェリー(洋弓)」について

日本の「弓(和弓)」とヨーロッパの「アーチェリー(洋弓)」との相違について

日本の「弓(和弓)」とヨーロッパのアーチェリー(洋弓)との大きな違いをみると、
★日本の「弓(和弓)」
技法の相違・・・弦に弓矢をつがえて引く時に、耳の後ろまで引いてくる。
弓の長さ・・・・七尺(2.12m)、七尺三寸(2.21m)、七尺五寸(2.27m)
矢の長さ・・・・本来は、自分の腕の長さより10~15㎝長い物を最適とする。また、竹製であったが、現在はジュラルミン製で95~110㎝、カーボン製が95~105㎝となっている。
的の大きさ・・・直径が36㎝。
的までの距離・・近的競技が28m、遠的競技が60~90m
★ヨーロッパの「アーチェリー(洋弓)」
技法の相違・・・弓矢を引くのは顎(あご)までである。
弓の長さ・・・・子供用46インチ(116.8㎝)~62インチ(157.5㎝)、大人用64インチ(162㎝)~68インチ(172㎝)、
矢の長さ・・・・アルミニューム製で、羽根はプラスチック製となっている。長さは25.75インチ(65.4㎝)~27インチ(68.6㎝)
的の大きさ・・・直径が80㎝
的までの距離・・男子競技が30~90m、女子競技が30~70mである。・・・・・・・・・・資料3参照
★日本の弓と、ヨーロッパのアーチェリーとの共通点は、第一期が石器時代から古代までの狩猟時代であったこと、また、第二期が中世を中心として、武器の時代であったこと、更に、近代以降の第三期がスポーツの時代となったことである。

「ヨーロッパのアーチェリー(洋弓)の歴史」について

ヨーロッパのアーチェリーの起源を探ると、旧石器時代(約2万年前頃)に、狩猟用として原始的な弓矢を使用していた事が明確となっている。これが進展して、人間が集落を守ったり、他民族からの攻撃を撃退する為の武器として発達していった、と考えられる。その弓矢の命中率を高めたり、より遠くに矢を的中させる技術の向上をはかるようになって、ヨーロッパの中世頃には弓矢の技が一種の競技的存在へと変化していったのではなかろうか。ヨーロッパにおいて、現在のような競技としてのアーチェリーになったのは、16世紀頃に、イギリスのヘンリー8世が、「アーチェリーコンテスト」を開催したことに始まる、と伝えられている。

アーチェリーがオリンピックの競技となったのは、1900年に、パリで開催された第二回近代オリンピック大会で正式種目となったことに始まるが、1920年のアントワ―プでの第七回近代オリンピック大会には正式種目からはずされている。1931年に「国際アーチェリー連盟」が発足し、1972年のミュンヘンにおける第二十回近代オリンピック大会からアーチェリーがオリンピックの競技種目として復活し、現在に至っている。

「日本へのアーチェリー導入の歴史」

日本に「アーチェリー(洋弓)」が導入されたのは、菅 重義(すがしげよし・元讀賣新聞ニューヨーク記者)が昭和十四年(1936)に持ち込んだものとされている。その後、日本において「アーチェリー」はなかなか普及せず、第二次世界大戦の影響もあって、これといった進展もみられないままであった。戦後の昭和二十二年(1947)に、菅 重義等の再度の努力により、「日本洋弓会」が設立され、更に、昭和三十一年(1956)に「日本アーチェリー協会」に改称、組織変更がなされたものの、対外的に認証を受けるまでにはなっていなかった。

昭和四十一年(1966)になって、愛知揆一(東京都出身、政治家で後に内閣官房長官や法務大臣等歴任)が会長に就任し、ようやく日本のスポーツ団体の一つとして認定されるようになったのである。
日本のアーチェリー選手がオリンピックに参加したのは、昭和四十七年(1972)、ミュンヘンでの第二十回オリンピック大会から参加が認められており、現在の「全日本アーチェリー連盟」の会長には安倍晋三内閣総理大臣が就任している。

今回の資料

第百三十六回 中山ふれあいサロン「歴史講座」1
第百三十六回 中山ふれあいサロン「歴史講座」2
第百三十六回 中山ふれあいサロン「歴史講座」3

まとめ

五月から新元号の「令和」の時代が始まる。時代の終わりは淋しいものではあるが、新時代の幕開けは、「何か良い事があるかもしれない。」という儚い期待を抱かせるものがある。
大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」は、例年にない視聴率の低下となっており、追い打ちとして今回の出演俳優の不祥事件である。我々視聴者が、大河ドラマに求めているものは、「胸をわくわく」させるようなものであることと、ほんの少しの「いやしの時間」を求めているのではなかろうか。そのような観点からすると、今年の大河ドラマが、今後どのように流れて行くのか?我々の期待を裏切らないか?等、前途多難のような気がしてならない。

参考文献

・今村嘉雄・他編『日本武道大系 第7巻』同朋舎出版
・横山健堂著『日本武道史』島津書房 平成三年
・オイゲン・ヘリゲル述『日本の弓術』岩波書店
・日本オリンピック委員会監修『オリンピック事典』 ㈱プレス ギムナスチカ 1981年

次回予告

令和元年6月10日(月)午前9時30分~
令和元年(平成31年)NHK大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺―」に因んで歴史講座のメインテーマ「日本古来のスポーツについて」
次回のテーマ「空手の歴史―拳闘(ボクシング)」について

※5月は、「健康診断」の為、「歴史講座」は休みです。

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