第百五十七回 サロン中山「歴史講座」
令和五年10月9日
瀧 義隆
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
今回のテーマ「豊臣氏の滅亡」について
はじめに
徳川家康は、「大御所」となって、名目上は隠居生活に入り、日々安楽な生活となっているように見えるが、その実は、「目の上のタンコブ」となる大きな障害物が存在していた。それは、亡き豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の存在であった。京都の朝廷の「目と鼻の先」に、かつての「天下人」が住んでいた、大天守閣を持つ「大坂城」があり、そこには秀頼とその母である「淀殿」が居住していて、西国大名の多くが「大坂城」に出入りしており、これらの者達が何時徒党を組み、朝廷を利用して「反徳川」の軍事行動を起こすか判らないのである。
徳川氏の継続的な安定政権を樹立し続ける為には、家康としては何んとしても、この「豊臣氏」という障害物を排除しておかなければならなかった。
そこで、今回の「歴史講座」では、家康がどのようにして豊臣氏を滅ぼしたか?について考察してみたい。
1.「豊臣氏の動向」について
①「淀殿(よどどの)」について
誕生・・・・永禄十二年(1569)?
死去・・・・慶長二十年(1615)五月八日
本名・・・・浅井茶々(あざいちゃちゃ)、「菊子(きくこ)」とする説もある。
浅井三姉妹の長女である。次女は「お初」(京極高次の正室)、三女が「お江(おごう)」(徳川二代将軍秀忠の正室)。三姉妹の兄の「万福丸」は、僅か十歳にして、小谷城が落城した時に、豊臣秀吉によって、逆さ磔(はりつけ)で処刑された。
父・・・・・浅井長政(あざいながまさ)
母・・・・・「お市」(織田信長の妹)三姉妹は、天正元年(1573)に、織田信長に近江国の「小谷の城」が攻められ、落城後、最初は織田信次に保護され、更に、織田信長の清洲城に移された。
「本能寺の変」で、織田信長が急死した後は、天正十年(1582)に、母の「お市」が柴田勝家と再婚して、越前国北の庄に移った為に母と共に三姉妹も「北の庄城」に住む事となったが、翌年の天正十一年(1583)四月の賎ケ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北して「北の庄城」が柴田勝家と母の「お市」と共に炎上して死去してしまった。秀吉は「北の庄城」の落城後、三姉妹を安土城に住まわせた。(一説には、織田信雄が庇護していた、とするものの、詳細は不明。)
「茶々」は、天正十六年(1588)頃に豊臣秀吉の側室となった、とされているが、明確な史料も存在しない。翌年の天正十七年(1589)五月二十七日に鶴松「棄(すて)」を出産した事から、秀吉は山城淀城を「茶々」に与え住まわせた。この事から、「茶々」は「淀殿」と称されるようになった。この鶴松は二年後の天正十九年(1591)八月五日に死去してしまうが、文禄二年(1593)に第2子となる「捨(ひろい)(後の秀頼)」を産んだ。
豊臣秀吉の死後の翌年、慶長四年(1699)一月十日に、「淀殿」と秀頼の母子は「淀城」を出て「大坂城」に入り、「淀殿」が秀頼の後見人として政治に介入するようになり、「淀殿」は「大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)」や「饗庭局(あえばのつぼね)」等を重用して豊臣政権の中核となった。慶長五年(1600)九月十五日の「関ケ原の合戦」で西軍が敗北して,実質、天下の政権が徳川家康の手に移った後も、「淀殿」と秀頼の母子は「大坂城」に居座り続けていた為に、徳川家康から大和郡山への移封を命じられたが、母子はこれを拒否し、「大坂城」を離れようとしなかった。
慶長十年(1605)五月八日、徳川家康が豊臣秀頼に対して、臣下の礼を取るように要求したが、「淀殿」と秀頼はこれを拒否した。慶長十九年(1614)十二月二日、方広寺鐘銘事件を契機として、「大坂冬の陣」が開始され、「大坂城」はたび重なる砲撃を受けて、講和を結ぶが、翌年の慶長二十年(1615)五月七日から、「大坂夏の陣」が始まり、集中砲火の中、「淀殿」と秀頼の母子は、大野治長(はるなが)等の家臣と共に自害し、豊臣氏は壊滅した。
②「豊臣秀頼」について
誕生・・・・文禄二年(1593)八月三日
死去・・・・慶長二十年(1615)五月八日
父・・・・・豊臣秀吉(秀吉が57歳の時に秀頼が生れた。)
母・・・・・「お市の方」の長女の「淀殿」
秀吉は、秀頼の誕生により、関白であった、甥の豊臣秀次を高野山に追放し、後に自刃させ、更に、五大老・五奉行による秀頼政権の体制を整えた。
慶長八年(1603)七月、秀吉の生前に家康と約束をしていた、家康の孫で、徳川秀忠と「お江(淀殿の妹)」の長女の「千姫」との結婚を実現した。従って、秀頼と「千姫」とは従妹同士である。この時、秀頼が11歳で、「千姫」は7歳であった。この二人は、仲睦まじい関係であった、と伝えられているが、当然の事ながら二人共に幼い為に子供はいなかった。
慶長二十年(1615)五月の「大坂夏の陣」が開始された時は、「淀殿」と秀頼の強い要請により、「千姫」は離縁となって、江戸へと返された。この「大坂夏の陣」の時は、家康がイギリスから購入した、「ガルバリン砲」4門と、「セーカー砲」1門で「大坂城」を砲撃し続けた為に、「淀殿」と秀頼、大野治長達は、城内の「唐物倉(からものぐら)」に逃げ入ったものの、井伊直孝の鉄砲射撃を受け、射殺されたか?、または、自刃した、とされている。
※「豊臣秀頼誕生についての私的見解」
全くの私的見解であり、根拠とする史料も見つかってはいないが、豊臣秀頼は、豊臣秀吉の実子であろうか?豊臣秀吉は推定26歳の時、永禄四年(1561)八月に正室として「ねね」と結婚しているが、子供は一人も生れてはいない。
その後、確かに、天正元年(1573)九月、秀吉が38歳で長浜城主となった時に、側室の「南殿」が「石松丸」と長女の二人を産んだものの、二人ともに早世してしまっている。また、時期も母の名前も不明ながら、長女される女の子が一人いたが、これも早世してしまっている、とする説もあるが確証は得られてはいない。このように、秀吉は、生れる子供が全て早世してしまうのは、母たる者に原因があるのではなく、父たる秀吉に「性機能に欠陥があった。」としか考えられないのである。
女好きの秀吉には、約300人の側室がいたものの、この300人の側室達の誰一人として、秀吉の子供を産んでおらず、その原因は全て、秀吉の男性不妊ではなかったか?とさえ言われているのである。
ところが、秀吉が54歳の時に、突然「淀殿」が「鶴松」を産んだのである。この「鶴松」は病弱で、数えの3歳で死去してしまっている。その後、「淀殿」が再度妊娠して、文禄二年(1593)八月三日に、「捨(ひろい)」(後の秀頼)を産んだのである。秀吉は58歳になっていた。
それまで、秀吉には約300人もの側室がいたにもかかわらず、その内の誰一人として懐妊していないのに、「淀殿」のみが懐妊するのは、誠に不可思議としか思えない。平均年齢が50歳と言われる戦国時代において、秀吉は既に58歳という高齢である。また、男性不妊ではないか?とさえ疑われる体質の秀吉が、本当に子種があったであろうか?との疑問が生じるのである。となると、秀頼の実の父親は秀吉ではなく、別人であったのではないか?ならば、「誰が秀頼の本当の父親か?」。
当時、「淀殿」の側近として四六時中、「警固番(けいごばん)二番衆の隊長として大野治長が、「淀殿」の身辺にいたのである。「淀殿」としては、高齢者で、見た目も「じじいくさく、顔もお猿の」秀吉よりも、若くて生きのいい大野治長に「淀殿」の気持がいったとしても当然の事として考えられる。となると、「鶴松」も「捨」の本当の父は、・・・・・・?。
現在では、「DNA鑑定」があって、血液から親子の関係が明確になるが、「淀殿」も秀頼も、そして大野治長も焼け死んでしまっており、遺髪も汗のしみ込んだ衣類も残っていない。それ故、「DNA鑑定」は不可能なのである。・・・・・・・・・・・資料①参照
③「大坂城」について
天正十一年(1583)
羽柴(後の豊臣)秀吉が築城した城である。
第一期・・・天正十一年(1583)~十三年(1585)本丸の建設
第二期・・・天正十四年(1586)~十六年(1588)二ノ丸の建築
第三期・・・文禄三年(1594)~五年(1596)総構(三ノ丸)
第四期・・・慶長三年(1598)馬出曲輪と大名屋敷
文禄五年(1596)に明使饗応の為に本丸御殿の大改修を行った。「大坂城」が豊臣政権の中心場所と解されているが、秀吉が天正十三年(1585)七月に関白に任じられ、翌年の天正十四年(1586)には関白の政庁・居館として京都に「聚楽第」を建設して、天正十五年(1587)七月の九州征伐後はこの「聚楽第」を住居としていた。
天正十九年(1591)十二月に関白を退いた後は、京都の南の「伏見城」において政務にあたった。「大坂城」は諸大名の年賀の挨拶を受ける時に使用していた。秀吉が存命の頃は、その所領は220万石であったが、秀吉の死後は、摂津・河内・泉の65万7千400石に減封された。・・・・・・・・・・・資料②参照
2.「大坂冬の陣」について
この項では、徳川家康が「大坂城」に居続ける「淀殿」と秀頼の母子をどのようにして排除したか?について考察してみたい。
①大坂冬の陣」までの豊臣氏の動向について
「大坂城」に居座り続ける「淀殿」と秀頼の母子を、徳川方はどのように見ていたのか?を史料で見ると、
「庚子の乱に石田三成等その名をかりて反逆せし事なれば、その時秀頼をも誅せられ、永く天下の禍根をたちさらせ給ひなむ事を衆臣いさめ奉りしかども、秀頼いまだ幼稚なれば何の反心かあらん。かつは太閤の■好もすてがたしとて、寛仁の御沙汰にして、秀頼母子の命を助け給ふのみならず、そのまゝ大坂の城におかれ、河内・摂津を領せしめられ、今は御孫姫君にさへあわせ給へば、秀頼もあつく御恩を仰ぎ奉るべかりしかど、(後略)」 『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』
吉川弘文館 平成十年 130P
「庚子(かのえね)の乱」・・・・・慶長五年(1600)九月十五日の「関ケ原の合戦」の事で、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊等の西軍と徳川家康中心の東軍との戦いで、僅か一日のみの合戦であり、あっけなく西軍は敗退した。
「衆臣(しゅうしん)」・・・大勢の家臣達の事。
「禍根(かこん)」・・・・・わざわいのおこるおおもと・原因の事。
「反心(はんしん)」・・・・謀叛を起こそうとする心の事。背こうとする心の事。
「寛仁(かんじん)」・・・・寛大で慈悲の心がある事。心がひろく情け深い事。
「御孫姫君」・・・・・・・「千(せん)」の事で、家康の次男である徳川秀忠と「お市の方」の娘である三女の「お江」との間に出来た姫である。
以上の史料に見られるように、徳川家康は「大坂城」にいる「淀殿」と秀頼の母子を、本来なら「関ケ原の合戦」直後に処刑してしまうべきところを助命したばかりか、孫の「千姫」を嫁がせ優遇しているにもかかわらず、「淀殿」と秀頼の母子は以前として徳川家康への臣従を拒否し続けたばかりではなく、反徳川への意思を露わにするようになった。
この状況を史料では、
『慶長十九年甲寅之年、秀頼諸国之牢人を抱え、分銅を崩して、竹を割りてそれへ鋳流して、竹流しと名付て、牢人共にとりくれて、十万余扶持せらると家康聞召て、「其儀ならバ、秀頼之御袋を江戸へ下給へ」仰遣されけれ共、「思ひ寄ラズ」と御返事有けれバ、「其儀におひてハ、国をも進べキに、大坂をあけて国入し給へ」と仰ラレけれ共、「其儀も思ひ寄ラズ」とて、いよいよ諸牢人を抱えて、普請をして、鉄砲をみがき矢之根をみがくと聞召て、(後略)」
大久保彦左衛門忠教著『三河物語』編訳者 百瀬明治 徳間書店 1992年 260P
「分銅(ふんどう)」・・・幕府や地方の有力大名達が、有事の時の備えとして金塊を小分けにして鋳直しして貯蔵していたもの。
「秀頼之御袋」・・・・・「淀殿」の事。
「牢人(ろうにん)」・・・郷土をはなれて他国を流浪する武士達の事。奉禄を失ってしまった武士達。
この史料では、「大坂城」の中に多くの牢人(浪人)達を引きいれて、ますます反徳川への行動へと突っ走り始めている様子が明確となっている。
秀頼は幼少であることから、「世情がどうであろうか?」とか「時勢がどのようか?」等、判ろうはずもないが、「淀殿」としては、かつて、秀吉が生存していた時分には、「大坂城」の大広間において、上段の間に秀吉が着座して、その側に「淀殿」がいて、平伏する家康を見下ろしていた事であろう。また、「淀殿」と言えば、織田信長の姪子であり、血筋としては家康の上をいく家柄である。それ故、「淀殿」には相当の「プライド」があり、家康の言いなりになって「大坂城」を出て他国に移ったり、江戸に出て家康の人質になる事などは、とうてい許されるものではなかった事までも、この史料からは見てとれよう。
慶長十九年(1614)の十一月頃から始まった「大坂冬の陣」は、豊臣氏に加わる大名は一人もおらず、全てが全国に散らばっていた「お家再興」を目指す牢人達であり、その中には、「長宗我部盛親」・「毛利勝永」・「後藤又兵衛」・「仙石秀範」・「真田幸村(信繁)」等がいた。しかし、これら10万人もの牢人達も、しょせんは「烏合の衆」であり、裏切り者も多発し、また、「大坂城」の本丸に大砲の玉が撃ち込まれ、「淀殿」の目の前で侍女の一人が即死したのを見て、「大坂方」は敗戦を覚悟し、徳川方に講和を申し入れ、
- 「大坂城」の外堀を埋め立てる。
- 「大坂城」の「二ノ丸」・「三ノ丸」の撤去。
- 「豊臣氏」の領地の保証。
- 豊臣秀頼・「淀殿」の身体の保証。
- 牢人達の罪の免除。
以上を条件として、講和が成立した。
3.「大坂夏の陣」について
講和が成立して、豊臣方も徳川方も安定したかにみえたが、豊臣方は以前として「大坂城」内に留っていて、本来、講和の時に「大坂城」の武装解除も要求されていたが、豊臣方がこれを無視した事から、徳川方は「牢人達を解雇する事。」「豊臣氏が他の国に移る事。」を最後通告として要求したが、豊臣方はこれを拒否した為、徳川方の15万の軍勢が「大坂城」を再度取り囲み、慶長二十年(1615)の四月頃から戦闘が開始された。
徳川方は、真田幸村(信繁)の率いる「真田隊」を壊滅状態して、「大坂城」内に突撃し、豊臣方は最後の時を迎えた。
その状況を史料で確認すると、
『然る間、秀頼ハ、天守に火かヽりて千畳敷も焼けれバ、山里曲へ御袋・女房達引連れ御入有処に、井伊掃部を仰付ラレけれバ、大野修理罷出て、「御乗物を二三挺給候へ。罷出べキと申サレ候う」由申けれバ、「御袋計乗物にて出給へ。其外ハ馬・徒歩にても出給へ」と申サレけれバ、何かと云て出かねさせ給へバ、其儘、鉄砲を打込みけれバ、叶わじとや思ひ給ひけるや、火をかけて焼死に給ふ。御供にハ大野修理・真野蔵人・速水甲斐守、是ハ秀頼之供をして腹を切て焼死する事、類なし。」
大久保彦左衛門忠教著『三河物語』編訳者 百瀬明治 徳間書店 1992年 266P
「井伊掃部(かもん)」・・井伊直政の子供の井伊直孝の事。「掃部」は律令制時代の官職名の一つであり、宮中行事の設営や後片付けをする部署である。
「山里曲(やまざとくるわ)」・・・・「大坂城」の天守閣の北側に建っていた。
「大野修理(しゅり)」・・ 大野治長のことで、「修理」は律令制時代の官職名の一つで、本来は、
「をさめつくるつかさ」と称していた。
「御袋(おふくろ)」・・・・ここで言う「御袋」とは、秀頼の母である「淀殿」である。
「徒歩(かち)」・・・・・・「自分の足で歩いて」の意味である。
「真野蔵人(まのくらんど)」・・・・・・真野助宗のことで、馬廻組頭をしていた。秀吉の時代から豊臣氏に仕えていた。
「速水甲斐守」・・・・・ 速水守久のことで、元は浅井氏に仕えていたが、浅井氏滅亡後は豊臣氏に仕えた。
この史料によれば、秀頼・「淀殿」の母子の最後の場所が「山里曲」となっているが、家康の側近であった以心崇伝が著した『本光国師日記』を出典とする説では、秀頼・「淀殿」の母子の最後の場所は「唐物倉」となっていて、正確な場所は不明である。
いづれにしても、たとえ、秀頼・「淀殿」の母子が家康に降伏しても助命される事は皆無であったろうし、自害して果てる以外に方法もなったであろう、と推察出来よう。
まとめ
尾張国中村(現在の愛知県名古屋市中村区)に生れたとされる、名もなき貧農に生れた豊臣秀吉が、徳川家康に先んじて「天下人」となってしまい、家康としては想像もしなかった結果となり、秀吉に臣従させられ、家康にとっては屈辱の時期であった、と考えられる。
大河ドラマ「どうする家康」では、家康は「戦のない、安寧な世」を創出する事を理想としているように描いているが、今回の「歴史講座」で見られるように、家康は常に必ずしも「恩情」のある人物ではなかった、と考えられ、戦国を生きて、徳川家の存続の為には、かなり冷酷な部分もあった人物ではなかったか?と想定出来よう。
参考資料
参考文献
- 山路愛山著『豊臣秀吉 上・下』岩波書店 1996年
- 小和田哲男著『戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯』 角川学芸出版 2010年
- 曽根勇二著『大坂の陣と豊臣秀頼』吉川弘文館 2013年
次回予告
令和五年11月13日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
次回のテーマ「晩年の家康」について
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