江戸吉原(遊郭)について

第百七十一回 サロン中山「歴史講座」
令和七年2月10日

瀧 義隆

令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし―)」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期の江戸社会」について
今回のテーマ「江戸吉原(遊郭)」について

はじめに

昭和三十二年(1957)四月に「売春防止法」が施行(実際は猶予期間があって、翌年の昭和三十三年四月から適用)され、日本全国から売春を絶滅する為の法制度が成立した。法が制定されて東京の浅草周辺を中心に、赤線(売春宿等での売春)・青線(飲食街地域での売春)等が乱立していたものが、制定の日を限りとして日本から売春が全て姿を消してしまったか?というと、残念ながらそうはならなかったのである。制定以後も「闇の売春」は続けられ、現在でも「ソープランド」や「キャバクラ」等で売春行為は現存していると言わなければならない。
今回の「歴史講座」では、大河ドラマ「べらぼう」の舞台となっている江戸時代における売春行為を商売としていた「江戸吉原(遊郭)」の実態に目を向け、大河ドラマ「べらぼう」の背景に迫ってみたい。

1.「遊女の歴史」について

遊女が日本の歴史上に現れたのは、奈良時代の後期であり、『万葉集』を編纂した大伴家持(養老二年・西暦718年頃の生れ)の父親である大伴旅人が、太宰府を離任する際、それまで可愛がっていた女性がいた。その女性とは、宴席で接待をしたり、寝所をも一緒にする「遊行婦(うかれめ)」と称される女性であった。この女性は、「娘子(おとめ)児島(こじま)」と名乗る人で、接客婦でありながら和歌を詠むような女性で、

「凡(おお)ならば、かもかもせむを恐(かしこ)みと、振りたき袖を忍びてあるかも」娘子児島
この歌の訳は、「あなたが常の人なら、あれこれしたいのですが、謹んで振りたい袖なのに、じっと我慢をしてますよ。」

吉井厳著『萬葉集全訳 巻第六』有斐閣 昭和五十六年 122~124P

このような歌を残している。
古代においては貴人を接客する際に、地域の首(おさ)なる者が地域でも、とびっきり美人で教養のある女性を貴人に提供する習慣があった。これが日本における売春婦に関して史料に現れる最古のものとされている。

平安時代に入ると、奈良時代の「遊行婦女」を略して「遊女(ゆうじょ)」と称されるようになり、身体を売る専門の売春婦と変化するようになった。これらの女性達は「あそびめ」・「あそびもの」等と称され、平安時代の中期頃から「水干(すいかん)」や「直垂(のうし)」を着て「立烏帽子(たてえぼし)」を被り、白鞘(しらざや)の太刀を腰に差した男装の姿をして、今様(いまよう)と称する歌を歌いながら踊りを披露する「白拍子(しらびょうし)」と呼ばれる女性達もいた。この女性達もただ踊るだけではなく、酒宴の接待婦ともなり、その後に売春行為にも応じたのである。このような「白拍子」で有名なのが、鎌倉幕府を創設した源頼朝の異母弟の源義経の愛人となった「静御前(しずかごぜん)」である。また、「白拍子」の他に一般的な遊女達もいて、全国各地に散らばって売春行為を商売として歩き廻る遊女達もいたのである。
 室町時代に入ると、全国各地を廻り歩いていた遊女達が特定の場所や街に集って商売するようになり、室町幕府の取締り対象にもなり、第十二代将軍の足利義晴は、大永八年(1528)、幕府内に「傾城局(けいせいのつぼね)」という部局を設けて、遊女達から税金として年間15文(現在の1.800円程度?)を課税して徴収するようにもなった。
また、室町時代後期の戦国時代になると、合戦での兵士を相手とする娼婦も現れ、更に、合戦で敗北側になり、犠牲者となった女性達の中には、運が良ければ敵兵の妻や妾にされるが、多くの女性達は暴行された後に売り飛ばされて遊女にされてしまうのである。

戦乱の世を統一した豊臣秀吉が天下人となり、関白として政権を握ると、風紀の乱れた遊女達の行動は世情に悪影響を与えるとして、天正十三年(1585)頃、京都に「遊郭」を設置して、限られた範囲に遊女達を集めて営業を許可する事にした。これが日本における「遊郭」の始まりである。

豊臣氏を打倒して徳川家康が江戸に幕府を開くと、江戸の整備と拡張の為に関東近辺から多くの労働人夫達が職を求めて殺到し、更に徳川幕府に臣従した諸大名の多数の家臣達も江戸に住まわせる事になり、江戸中に男性が異常に増加してしまった。その結果、江戸の総人口の内、八割が男で、残り二割が女性という、女不足の歪(いびつ)な人口構成になってしまった。血気盛んな労働人夫達や大名の家来達にとって、快楽の捌け口がなければ、何時欲求不満が爆発して江戸幕府に不満を抱き暴動を起こしかねない。そこで、徳川家康は、豊臣秀吉の前例を参考にして元和三年(1617)
三月三日、庄司甚右衛門に遊女屋の営業を許可し、幕府公認の「遊郭」を江戸吉原に開設させる事とした。

この「遊郭」の江戸吉原開設に関する史料をみると、

「異本洞房語園 上 十種 ○燕石三所収慶長之頃迄、御城下定りたる遊女町なし、(中略)元和三年三月、甚右衛門を御評定所へ被召出、御願申上候傾城町の事御免許被遊、(中略)同年夏中者より、右場所地形普請に取懸り、同四年十一月より一同に商賣し候也、葭茅生茂りたるを刈捨、地形築立、町作りたる故、葭原といひしを祝ふて、吉の字に書替たり、(後略)」

『大日本史料 第十二編之二十六』東京大学史料編纂所 東京大学出版会 昭和四十九年 756~759P

「甚右衛門」・・・・庄司甚右衛門は、元々は相模小田原の北条氏の家臣であったが、北条氏が没落した後は浪人となって江戸に出た。

以上の史料のように、徳川家康は庄司甚右衛門に葭原(よしわら)の土地を与え、「遊郭」の開業を認めたのである。甚右衛門は「葭原」の字を縁起の良い「吉」の字に替えて「吉原」とした事が示されている。

2.「遊郭」について

この項では、江戸の「遊郭」の実態に迫ってみたい。

①「遊郭」内の人々

「遊郭」の経営者を「楼主(ろうしゅ)」と言うが、通常の神経では遊女達を働かせる事が出来ず、非情な精神の持ち主であることから、「忘八(ぼうはち)」という悪口で言われていた。この「忘八」とは、人間として持たなければならない、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の「八つの意義を忘却している人間」という意味から名付けられた、とする説である。この八つの意義とは、

  • 「仁(じん)」・・・人へのおもいやり、いつくしみ、情け深い思いやりの心のこと。
  • 「義(ぎ)」・・・・正しいこと。道理にかなったこと。人道に従っていること。
  • 「礼(れい)」・・・人の踏み行うべき道のこと。社会生活上の定まった形式・制度等を踏まえること。
  • 「智(ち)」・・・・もの事を良く知り、常にわきまえていること。
  • 「忠(ちゅう)」・・心の中にいつわりがなく、誠をつくしていること。
  • 「信(しん)」・・・うそを言わなく、偽りがないこと。
  • 「孝(こう)」・・・親に良く仕え、親を大事にしたり、精一杯努力すること。
  • 「悌(てい)」・・・年長者に従順で、父母や目上の人に良く仕えること。

このように、「遊郭」の主人は、人情を無視する非情極まりない人間でなければ務まらないのである。
更に、「遊郭」には、「遊郭」の主人の妻である「女将(おかみ)」がいて、主人に替って「遊郭」の女郎達を監視したり、「遊郭経営」の補佐をしたり、主人が亡くなった場合には、主人に替って経営者となったりもするのである。これら「遊郭」の経営者達は「遊女」達を酷使して爆利を貪り、蓄えた金を吉原の遊郭街の維持費や役人への「ワイロ」や、幕府への「上納金」として支払いもしていた。

また、「遊郭」には、「遊女上がり」の「遣り手ババアー」と称される老女がいて、新人の「遊女」の性教育や監視を仕事としていた。また、「若い者」という中年から老人にかけての男性がいて、客を呼び込んだり、「つけ馬」と言って、金を持たず「遊女」買いをした客から代金を貰う為に、客の自宅までついて行ったりもし料理等を運んだり、「遊女」達の小間使い等もしていた。この他にも、遊女達の食事、客への料理を造る奉公人等もいた。

もし、遊女達が恋人を造って「遊郭」を逃げ出そうとしたり、苦境から逃れようとして逃亡を謀ると、吉原の出口の大門の左手には、町奉行所配下の「面番所」があり、右手には吉原自営の「四郎兵衛番所」と称する監視所があり、ここで捕えられた遊女達は「折檻部屋」なる所に閉じ込められて、殴る蹴るや、「逆さずり」等の暴行を加えられ、二度と逃亡しないようにと、極度の虐待を受けたのである。

遊女達は、吉原に来る際、既に親が娘の身売りの借金(利息がつく為に、借金はなくならない。)をしているので、一晩に何人の男と寝ようとも、高級な花魁達を除いては、遊女達に一文の銭も入らない。「遊郭」に売られた女性達は、女として「初潮」があった時から男性との性交渉をさせられ、売られた金額にもよるが、10年以上、年季奉公として年中無休・無給料で働かされる。その為に、病気や栄養失調等で10年の年季奉公が終わる前に殆どの遊女達は命を落としてしまうのである。

蔦屋重三郎は、『吉原細見』なる「ガイドブック」を造って、「吉原に客を呼び込もうと努力した。」と言っていたが、とんでもない事である。「ガイドブック」が売れる事によって、蔦屋重三郎は、本の販売により高収入を手にし、また、楼主達も客が多い事により莫大な金を得る事も出来たであろうが、遊女達にとっては、客が多ければ多いほど大勢の男達の相手をしなければならず、肉体を酷使したあげく、相手の判らない子を妊娠してしまうリスクが増大するばかりであった。『吉原細見』は決して「吉原の遊女達を良くするものではない。」と断言しなければならない。

②「遊女」達の生活

「遊女」達の一日について調べてみると、
午前10時頃・・起床・朝食兼昼食・入浴・部屋の掃除・化粧等をする。
午後1時頃~・・ 昼見世(ひるみせ)が始まり、客を誘い込む。多くは「ひやかし」といって、遊女達の顔を見て廻る男が多かった。
午後4時頃・・・昼食のような夕食ような食事をとる。(食事の内容は、朝も夕も、古米を焚いたご飯と、味噌汁に漬物で、しかたなく、客が食べ残した料理を口に入れる事もある。)
午後7時頃~・・本格的に客を誘い入れて男の相手をする。客が帰れば、次の客をまた誘い入れて、一晩に何人もの男の相手をするのである。
午前3時頃~・・泊まりがけできた客を送り出して、遊女達は就寝する。

江戸時代の避妊方法は全く幼稚なもので、それが故に遊女達が一日に何人もの男を相手に性交渉をする内に、どうしても相手の判らない子供を妊娠してしまう事がしばしばであった。身籠ってしまった遊女は、どうにかして中絶しなければならないが、子供を中絶する方法も未熟な時代であり、また、医者を呼ぶ金も無い遊女達である。子供を中絶するには自分自身でやるしか方法がなく、女性の性器に棒を突っ込んでお腹の中の「あかんぼう」を突っ突き殺すのである。当然、自分の胎内器官に大きな傷がつき、大出血となって出血多量の為に遊女自身が死んでしまうか、体内の傷が元となって化膿して死んでしまうのが常であった。この他にも、性交渉の結果、「梅毒」等の性病にかかってしまって頭が狂ったり、顔面が腐ったり、栄養失調から結核になる者、他の病で患い死んでしまう者も多かった。このような遊女達は、好きこのんで遊女になってのではない。貧しい家に生まれたが為に吉原に売られ、無理やり売春をさせられて、殆どの遊女が病気となって平均年齢22歳(長くても30歳程度)ぐらいで病死してしまうのである。故に、「吉原遊郭」とは、欲望を満たそうとする男達にとっては、金さえ有れば、この上ない極楽の場所であるが、「遊郭」の遊女達にとっては、「生き地獄」そのものなのである。
               ・・・・・・・・・・資料①参照
死んだ遊女達は、吉原の近くにあった「浄閑寺(別名「投げ込み寺」)に、犬や猫の死体のように放り捨てられたのである。このように、過酷な生活をせざるを得なかった遊女達の人口は、江戸時代の初期については明確ではないが、蔦屋重三郎の生きていた中期頃には、約2.000~3.000人程度、後期頃には7,000人程度いたのではないか?と想定されている。

③「廓言葉」と「揚げ代(あげだい)」について

廓(くるわ)で生活する遊女達でも、上級の遊女は「花魁(おいらん)」と呼ばれ、特にその中でも「何々太夫」等と称される遊女達は、「廓言葉」と言われる独特の言葉を使って客の相手をしていた。この「廓言葉」は、「里言葉」とか「色里言葉」・「花魁言葉」・「ありんす言葉」等と言われる言葉であった。この「廓言葉」の一部を紹介すると、
「~でありんす」・・・・・「~でございます。」
「~ざんす」・・・・・・・「~ですよ」
「主(ぬし)さん」・・・・・「あなたさん」・「おまえさん」
「わちき・わっち・あちき」・・・・・「わたし」
「~してくりゃれ」・・・・「~して下さい。」
「ぎょしなさんせ」・・・・「寝てくださいませ。」

以上のような言葉を使っていた。このような言葉を使う理由は、地方から売られてきた女達が、地方の訛りの強い言葉で話しても、男客達には理解出来ない言葉であったり、訛りの強い言葉で話されると、男客達には色気を失う言葉としか聞こえず、女性と寝ようという気持ちも無くなってしまうのである。そこで、誰が考えたかは全く不明ではあるが、上記のような「廓言葉」が日常的に使用されるようになったのである。次に、「遊女」を買う料金について調べてみると、「遊女」を買う料金のことを「揚げ代(あげだい)」と言う。この「揚げ代」の語源は、「遊郭」で遊女と遊ぶ前段階として、「引手茶屋(ひきでぢゃや)」と称する所の二階に上がって宴会を開き、そこにお目当ての高級花魁が「花魁道中」と称される行列をつくって、やって来るのである。この「二階上がっての宴会代」が「二階に揚る為の代金」から、簡略化して「揚げ代」となり、遊女を買う料金(売春代)を意味する言葉となったのである。

この「揚げ代」にもランクがあって
「大見世(おおみせ)」・・・・2分(約5万円)~1両(約10万円)
「中見世(なかみせ)」・・・・3分(約7万5千円)
「小見世(こみせ)」・・・・2朱(約1万2千円)~2分(約5万円)
「切見世(きりみせ)」・・・・100文(約2千円)~2朱(約1万2千円)

※江戸時代の貨幣を現在の金額に換算する場合、金の含有料によって、多きく相違する。上記の値段は、江戸初期頃のものである。
高木まどか著『吉原遊郭 遊女と客の人間模様』 新潮新書 2024年

以上のような料金を払って、遊女との一時の快楽を求めたのである。なお、男の一年間の収入は、約3両(約30万程度)。日当は、1日150~200文(3,000円~4,000円程度?)

3.「遊女の種類」

一般に「遊女」というと、吉原の遊郭で働く女性のみを想像するが、日本史上における「遊女」の種類を調べてみると、以下のような種類が見られる。

  • 「遊行婦女・浮かれ女(うかれめ)」・・・・・奈良時代の旅芸人が、各地を放浪しながら芸を披露すると共に売春もしており、「うかれ踊る女」から生じた言葉である。
  • 「遊女」・・・・・本来は、中国の『詩経』という本に、「漢に遊女あり、求むべからず。」とあり、川の「女神」か「川で遊ぶ女」を指す言葉が語源となっている。
  • 「女郎(じょろう)」・・・・ 古代には、若い女性を親しむ意味から出た言葉であったが、室町時代になって、「めろうの腐ったような」と女をののしって言う言葉へと変化し、売春婦のような女性を意味する言葉となった。
  • 「娼妓(しょうぎ)」・「娼婦(しょうふ)」・「妓女(ぎじょ)」・「芸娼」
  • 「娼女(しょうじょ)」・・・・ 本来、「娼(しょう)」とは美しい女性のことを指す言葉で、「妓(ぎ)」は踊ったり歌ったりして客を接待する女性を意味したが、売春するようになって性風俗の女性を指す言葉となった。
  • 「傾城(けいせい)」・・・・ 中国の古事から生じた言葉で、城の主が遊女の色香に溺れ、領国の政治を怠った為に敵から城を攻められてしまう結果となってしまい、「遊女によって城を傾けてしまった。」という古事に習った言葉である。
  • 「売女(ばいた)」・・・・ 字が示しているように、「女が春を売る。」故に生じた言葉である。
  • 「白拍子(しらびょうし)」・・・・「1」の項で示したように、鎌倉時代の踊子の一種で、売春もしていた。
  • 「傀儡女(くぐつめ)」・・・・ 「傀儡」とは「操り人形」の事で、平安時代に「操り人形」を見せて全国を回り歩いた女性達が、「操り人形」だけでなく売春もしていたことから「傀儡女」と言われる売春婦が生じた。
  • 「遊君(ゆうくん)」・「辻君(つじぎみ)」・・・・「君」とは、本来、尊敬の言葉であるが、この「遊君」の場合は、「目下の者」とか「侮蔑」する意味での「君」である。「辻君」は本来、川に舟を浮かべて売春をしていた女達が室町時代に入り街中の辻等に立って客を誘うようになったことから「立君(たちぎみ)」とか「辻君」と言われるようになった。
  • 「船まんじゅう」・・・・・船の中に客を引き入れて相手をするもので、「まんじゅう」はお菓子ではなく、女性器を意味している。
  • 「夜鷹(よたか)」・・・・「鷹」は夜間に横行する鳥であることから、夜になると往来に出歩く商売女達を意味する言葉となった。
  • 「飯盛り女」・・ 江戸では、四宿といわれる宿場や、街道の宿場があって、宿場の宿で本来は客にご飯を盛りつけするだけの女性達であったが、酒を提供したりしている内に身体も売るようになった。
  • 「比久尼(びくに)」・・・・ 鎌倉・室町時代には、全国を物乞いしながら回り歩く「尼」達がいて、その「尼」達が身体も売り歩くようになり、江戸時代に入って江戸に定住し、尼僧の姿をして売春を専門とするようになった。
  • 「比久尼」の売春は、江戸時代の元禄の頃に盛んとなり、忠臣蔵の大石内蔵助も「比久尼」買いをしている。
  • 「湯女(ゆな)」・・お風呂の起源は奈良時代に遡るが、大衆を相手とする公衆浴場は江戸時代になって大流行し、その風呂の中で最初は背中を流すだけの手伝いをする女性達が、身体も売るようになった。
  • 「矢取女」・「矢拾女」・「矢場女」・「矢場居女」・・オモチャのような弓を、的に当てさせて遊ばせる遊戯場のような店であるが、世話をする女達は売春もしていた。
  • 「地獄(じごく)」・・女の自宅に男を引きづり込んで、売春をする女達のこと。・・・・・・・参考資料②参照

以上のような「遊女」の他に、大坂などでは「惣嫁(そうか)」とか、「白湯文字(しろゆもじ)等、また、沖縄では「尾類(じゅり)」等と称する女性がおり、日本の各地方には、独特の呼び方をする多様な「遊女」達がいたのである。
佐伯順子著『遊女の文化史 中央新書 853』 中央公論社 1988年

※「遊郭」や「遊女」の生活の実態を伝える史料としては、遊女が残した日記や、値段表・裁判記録等が東北大学に残っている。また、明治五年(1872)に「芸娼解放令」が発令されたものの、効果がなく、以前として「遊郭」や「遊女」は存続した。「売春」は、文明国の恥であるとして、その後も度々「娼妓廃止」が論議されたものの、昭和三十二年(1957)の「売春防止法」施行まで、吉原には「遊郭」や「遊女」が現存していたのである。それ故、「遊郭」や「遊女」の生活習慣が江戸時代のまま継承されていた事から、比較的明確に「遊郭」や「遊女」の実生活を明らかにする研究論文が多いものと考えられる。

まとめ

大河ドラマ「べらぼう」の中では、吉原遊郭の遊女達を、東州斎写楽や喜多川歌麿等の「浮世絵」に、その姿絵を描かす事によって、吉原遊郭の遊女達に明るい生活を生みだし、「浮世絵」という世界に誇れる絵画を創り出した、と得意げに説明を加えていたが、遊郭の実態は、地獄のような暮らしぶりであり、それを直視することなく、美化する事はどうしても許せるものではない。蔦屋重三郎についても、出版界では有名人なのかもしれないが、売春という苦しい境遇の中にいる遊女達をどのように誤魔化し扱っても、NHKの大河ドラマの題材とする事には、どうしても賛同し得るものではない。

参考資料

参考文献

次回予告

令和七年3月10日(月)午前9時30分~
令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし―)」の時代を探る。
歴史講座のメインテーマ「江戸時代中期の江戸社会」について
次回のテーマ「江戸の出版業・浮世絵と喜多川歌麿」について

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