「武士(源氏と平家)の成立」について

第百四十五回 サロン中山「歴史講座」


令和四年7月11日
瀧 義隆

令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代
歴史講座のメインテーマ「鎌倉時代初期の動乱について」
今回のテーマ「武士(源氏と平家)の成立」について

はじめに

平安時代末までは、朝廷中心の貴族による政治体制であったが、それまで朝廷を警護したり、地方の反乱等を武力で鎮圧する武士達が直接的に領地支配するようになると、軍事力と経済力を得て勢力を拡大するようになってくる。その武力集団の中心となったのが、平氏と源氏の二集団であった。そこで、今回の「歴史講座」では、この平氏と源氏の二集団の発祥について視点をあててみたい。

1.「武士の発生」について

平安時代までの、朝廷を中心とする政治体制が崩壊し、本来、朝廷に仕える「武士」と称される人々が、実権を剥奪して日本史上に現れるようになったのは、鎌倉時代になってからである。本来、朝廷を護衛する武士集団の「源氏」と「平氏」であるが、朝廷に仕える貴族であり、高官であった、藤原通憲(ふじわらのみちのり)と藤原信頼(ふじわらののぶより)とが、権力争いを起こし、藤原通憲に平清盛が助力し、藤原信頼に源義朝が手を結び、生と死をかけて争う事件となる、平治元年(1159)の「平治の乱」が勃発した。この結果、平清盛に代表されるように、「平氏」が勝利し、清盛は源義朝を殺害し、義朝の三男の「源頼朝」を京都から伊豆に追放したのである。しかし、平清盛の死後、「平氏」は急速に衰退してしまい、遂に、「源頼朝」が「平氏」を滅亡させて、鎌倉に幕府を開いて、武士の政権を樹立したのである。

この、「武士」と言われる身分の者達がこの日本の世に現れるのは何時頃か?を調べてみると、「武士平安時代後期以降の『武(ぶ)』にかかる者の存在を言い、『武』を職能とする集団またはその構成員を指す言葉である。『武士』と言う言葉は、奈良時代の文献にも散見され、武官・武人の総称として『武士』の語が用いられるようになった。この他に『もののふ』『つわもの』等の言葉もある。」
『国史大辞典 十二巻』吉川弘文館 平成二年 127~128P

以上の説明によれば、少なくとも奈良時代には「武士」なる者の存在があって、戦いを専門とする集団が構成されていたのである。また、「武士」は「侍(さむらい)」とも言われているが、この「侍」についても調べてみると、「侍『さぶろふ』の名詞形『さぶらい』が転じたもので、主君に仕える近侍・近習を呼ぶものであった。鎌倉時代になると、『諸大夫侍』等と記され、更に身分によって『青侍』と称される者も現れる。」 『国史大辞典 六巻』吉川弘文館 昭和六十年 463~464P

このように説明されており、「武士」や「侍」等が奈良時代から日本史上に見られるようになっている。・・・・・・・資料①参照

2.「源氏と平氏の発祥」について

この項では、武士団の内でも、中世の歴史上で中心的な集団となる「源氏」と「平氏」について述べてみたい。

①「源氏の発祥」について

「源氏」という姓の発祥を調べると、「源 ミナモト上古に在りては、物部氏、中古以後にては藤原と源氏、此三つが本邦に於いて最も栄へし氏なるべし。(中略)仰も此の源氏なる姓は、嵯峨天皇の御心より生れしにて、天皇に皇子多く、一々親王家を立つる時は、人民の困しむ所とならんとの大御心より、此の氏を賜ひ、臣下となし給ふ。これ本姓の起源にして、其の後、仁明天皇・文徳天皇・清和天皇等、代々嵯峨天皇の御心を紹ぎ給ひ、皆御子を直に源氏となし給ふ。(後略)」     
太田 亮著『姓氏家系大辞典 第二巻』 角川書店 昭和38年 5854P

「桓武(かんむ)天皇」・・第五十代の天皇で、天平九年(737)に誕生し、天応元年(781)に天皇となった。光仁天皇の長男である。
「嵯峨(さが)天皇」・・・・第五十二代の天皇で、延暦五年(786)に誕生し、大同四年(809)に天皇となった。桓武天皇の次男である。「仁明(にんみょう)天皇」・・・第五十四代の天皇で、弘仁元年(810)に誕生し、天長十年(833)に天皇となった。嵯峨天皇の第二皇子である。「文徳(もんとく)天皇」・・第五十五代の天皇で、天長四年(827)に誕生し、嘉祥三年(850)に天皇となった。仁明天皇の長男である。

以上のように、「源氏」という姓が日本に誕生したのは、嵯峨天皇の時代であるから、西暦の800年代頃、天皇の子供である親王達が沢山いたことから、その全てを皇族として朝廷内に残すことが出来ず、止む無く「源(みなもと)」の姓を与えて臣下とし、下級の公卿や武士の身分に落としたのである。また、「源」という字を充てたのは、皇族とその祖先、いわゆる「源(みなもと)」が同じであることを示すものであった。・・・・・・・・資料②参照②「平氏の発祥」について次に、「平」という「姓」が何時頃、世に生れたのか?を調べると、

「平 タイラ ヘイ 天下の大姓にして、源と相並ぶ。桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光考平氏の四流あれど、最も古く、且つ、後世大いに栄えたるは桓武平氏にて、實に桓武天皇の皇子・葛原・萬多・賀陽、及び仲野の四親王の後裔也。其の名称は平安京(京都市)の本訓・タイラより起こる。蓋し桓武帝、此の都を建てられしにより、其の子孫、此の氏を賜ひしならん。(後略)」
太田 亮著『姓氏家系大辞典 第二巻』 角川書店 昭和38年 3577P

「葛原(くずらわら)」・・延暦五年(786)に誕生。桓武天皇の皇子であるが、何番目の子かは判らない。兄弟・姉妹だけでも、少なくとも20人以上がいる。母は多治比真宗(たじひのまむね)である
「萬多(まんだ)」・・・・延暦七年(788)に誕生。「葛原」皇子と同じく桓武天皇の第五皇子で、母は藤原小屎(ふじわらのおくそ)である。
「賀陽(かや)」・・・・・延暦十三年(794) に誕生。桓武天皇の皇子であるが、第十番目の皇子で、母は多治比真宗である。
「仲野(なかの)」・・・・延暦十一年(792)に誕生。桓武天皇の皇子で、第十二番目の皇子である。母は藤原河子(ふじわらのかわこ)である。

以上の史料によれば、「平(たいら)」の姓名は、桓武天皇の時代であるから、西暦の700年代後半に誕生したものと考えられよう。また、何故に「平」と命名したか?を調べると、「平安京」の「平」から生じた、と伝えられている。・・・・・・・・資料③参照

3.「鎌倉殿」について

「源頼朝」が、「鎌倉殿」と称されたのは、天下の征夷大将軍となって幕府の本拠地を「鎌倉」に定めた事にある。そこで、この項では、何故に「鎌倉」を本拠地としたか?、そして、何でこの土地を「鎌倉」と言うのか?について述べてみたい。

①源頼朝が「鎌倉」を本拠地とした理由

源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた時期についても、従来における日本史の教科書では、源頼朝が征夷大将軍となった建久三年(1192)を鎌倉時代の始まりとしていたが、現在の歴史学上ではこの定説が崩れてしまい、次の諸説がある。

(1)寿永二年(1183)に、後白河法皇から源頼朝に出された、東国支配を認める宣旨(せんじ)の時である。
(2)文治元年(1185)、朝廷に対して源頼朝が全国に守護・地頭を認めさせた時である。
(3)文治五年(1190)に、源頼朝が奥州征伐をした時である。

以上のような異なる説があって、歴史研究者の中でも論争を繰返していており、確実なものは未だ定まってはいないのである。次に、源頼朝が鎌倉に入った時期についてみると、それは、治承四年(1180)の十月で、これを史料で見ると。

「治承四年十月○十五日甲午 武衛始入御鎌倉御亭此間為景義奉行所令修理也。(後略)」黒板勝美編輯『新訂増補 国史大系第二十二巻 吾妻鏡前編』 吉川弘文館 平成十二年 51P

「武衛(ぶえい)」・・・・本来は、朝廷の天皇を守護する武官(ぶかん)のことで、後に「将軍」を意味するものとなった。従って、「武衛(ぶえい)」とは、源頼朝のことである。鎌倉幕府創設時頃は、源頼朝の官職名が「右兵衛権佐(さひょうえのごんのすけ)」という官位であったことから、通称としては「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。「景義(かげよし)」・・・長江景義のことで、長江氏は、本来桓武平氏の一族ではあるが、三浦氏の縁戚であることから、源頼朝の挙兵に加わっている。

しかし、現時点においては、源頼朝が「鎌倉」を本拠地とした理由を示す明確な史料はない。多くの参考文献を読んでみると、鎌倉時代を述べる研究著書に共通して見られるのが、次の「三つの条件が揃っていたからである。」とするものである。

(a)平家によって京都から追放された、多くの「源氏」の一族達が関東の地域に散在していて、この「源氏」一族達の精神的拠り所として、「鎌倉」の「八幡宮」があって、「いざ」という時に、「鎌倉」は「源氏」一族にとって集合しやすい場所であった。
(b)「鎌倉」という地形が、天然の要塞(ようさい)であった。三方が山に囲まれていて、「鎌倉」に入る道が狭くて入りにくく、また、前が海岸であったことから、非常に防衛し易い地形であった。
(c)清和源氏の一族である、「足利」・「武田」・「新田」等の関東の武士達にとって、「源氏」の祖先である八幡太郎義家(源義家)を祀った鎌倉の「八幡宮」は、神聖な場所であり、特別な地域としての位置付けがあった。

以上のように、「山の高い場所から敵を見渡すことが出来る。」
・「敵を待ち伏せしたり、敵の弓矢を防ぐのに適している。」
・「敵に不利な道が造り易い。」等の様々な利点から、源頼朝の「御家人」達が源頼朝に「鎌倉」を「源氏」の本拠地とすることを勧めたものと考えられている。

②「鎌倉」という土地の名前の由来について

次に、この「鎌倉」という土地の名称はどこからきているのかを調べてみると、様々な説があって、その内でも有力な説を次に示すと、

(a)「鎌倉」の「鎌(かま)」とは、「えぐったような土地」のことを言い、「倉(くら)」とは、「谷を意味する古い言葉」であり、これが「鎌倉」となったとする説。
(b) 神武天皇の東国征伐の時に、「屍(しかばね)」が「蔵(くら)」のようになっていたのを「しかばねぐら」と言っていたものが、なまって「かまくら」という言葉に変化したのだとする説。
(c) アイヌ語の「カマクラン」という「山を越して行く」という意味の言葉が変化したものだ、という説。
(d) 神奈川県の中央部に、「高座郡(こうざぐん)」という地名があり、この「高座」を「たかくら」とよんだことから、「高倉」・「高麗(こま)」となり、「高麗座(こまくら)」と変化して、更に、「かまくら」となった、とする説。

以上の他にも4つの説が存在している。また、史料的には、和銅五年(712)に成立している『古事記』に、「鎌倉之別(かまくらのわけ)」と書いてあり、更に、綾瀬市の宮久保遺跡から出土した天平五年(733)銘の木簡(もっかん)に、「鎌倉郡(かまくらごおり)鎌倉里(かまくらのさと)」と墨で書いてあるのが発見されていることから、8世紀初頭には、「鎌倉」の地名が使われていた、と考えられている。竹内理三編『角川日本地理大辞典』 角川書店 265~269P

まとめ

三谷幸喜氏による、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」であるが、どうしても気になってしかたない部分がある。それは、役者の台詞の中に、「・・・かもね?。」「まじでー」等という若者言葉・現代用語を使用していることにある。

主演俳優の小栗旬が、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の事前宣伝番組で、「びっくりするような現代的な台詞が時々ある。」と言っていたが、若者の「大河ドラマ離れ」を防ぐ為に、時々現代的な表現を駆使する事で、若者にも人気が出るように作風を変化させているのであろうと思われる。しかし、歴史を専門に学んでいる者としては、どうしても感心出来るものではない。「大河ドラマ」は「ドラマであるから何をやっても良い。」というものではない。「大河ドラマ」であるが故にきっちりとした時代考証には、歴史学者である坂井考一氏・木下竜馬氏の二人が登用され、風俗考証には佐多芳彦氏が担当している。何の為の時代考証・風俗考証なのであろうか?。

参考文献

資料

資料1から3
河内源氏七代系図(源頼信~源頼朝)
伊勢平氏七代系図(桓武平氏系)

次回予告

令和四年9月12日(月)午前9時30分~
令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代
歴史講座のメインテーマ「鎌倉時代初期の動乱について」
次回のテーマ「北条時政と北条義時と鎌倉殿の13人」について

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